堀 和平(ほり わへい)
[洋画界の先駆者]
明治時代初期、いち早く洋画に興味を持ち、独学で油絵を学び、
岡山県洋画界の先駆者ともいわれた人物が堀和平である。
彼の存在は、岡山県下の美術教育に尽力した総社出身の吉富朝次郎(よしとみ あさじろう)、
同じく総社出身で昭和初期の日本洋画界において大きな役割を果たした
満谷国四郎(みつたに くにしろう)にも多大な影響を与えたと思われる。
52歳で急逝した彼の功績は後に評価され、彼の代表作「母子像」は、
明治初期の日本洋画の佳作として東京国立近代美術館にも展示された。
1841年(天保12年)1月25日、両替商、回船問屋、酒類の販売などを営む
豪商「堀家」の四男として、総社に生まれる。
名は堀和平安郷(やすさと)。
明治の始め頃、家業の「志保屋(しほや)」を相続し、主に反物を商った。
その後、いろいろな分野に商いを広げ、大阪に問屋「志保藤(しほとう)商店」を開く。
「志保藤商店」を中心に神戸に度々行き来するうち、油絵に接する機会を得たようである。
それまで杏邨(きょうそん)の名で水彩画を描いていた和平であったが、
油絵に強く心をひかれた彼は、当時、高価で手に入れにくかったにも拘らず、
油絵の具や筆などの画材を買い求め、自宅裏の長屋門の二階をアトリエとして
本格的に油絵を描き始める。
その頃、まだ幼少であった吉富朝次郎、同じく幼少で親戚筋にあたる満谷国四郎は、
それぞれ和平のアトリエ幾度となく通い、大きな影響を受けたと思われる。
和平の初期の作品と考えられる「天神像」には洋画の表現に近づこうとした
彼の苦心がうかがえる。
また、和平の代表作ともいえる「母子像」(倉敷市立美術館蔵)は、
二人の女性がそれぞれ赤子と猫を抱く姿を描いた秀作である。
51歳になった和平は、新規事業を起こすため、総社を離れ、神戸に移る。
九州の石炭を神戸に運び、外国に輸出する事業を手がけるが、
神戸に出た翌年の1892年(明治25年)、病により急逝する。
享年51歳。
追記
〔堀家について〕
堀家は和平の何代も前から、総社宮の神職として仕え、江戸時代後期には
「志保屋(塩屋)」という屋号で酒等の売買、両替商、回船問屋を営む豪商だった。
また、備中松山藩の御用商人にとり立てられ、商人でありながら、名字帯刀を許された。
〔和平の長兄和助安道について〕
「志保屋」の長男として生まれた和助安道(1829~1875)は、
明治維新の時に総社宮の神職に選ばれ、代々続いた家業を和平にゆずる。
幼年から学問を好んだ安道は、「吉備国史補」「総社記」など多くの本を書き残し、
総社宮の県社昇格にも尽力した。
またそれまで学校が無かった総社に、明治5年、成章校(せいしょうこう 総社小学校の前身)の
開設を県に願い出た中心人物でもあった。
和平は、この業績をたたえ、安道の死後、彼を祀る香屋(かや)神社と顕彰碑を
総社宮参道に建てた。
安道の墓所は、岡山県立総社高等学校西側にある。
※以上「堀和平」パンフレット(堀家住宅の利用を考える会製作)より転載
(時実)
[洋画界の先駆者]
明治時代初期、いち早く洋画に興味を持ち、独学で油絵を学び、
岡山県洋画界の先駆者ともいわれた人物が堀和平である。
彼の存在は、岡山県下の美術教育に尽力した総社出身の吉富朝次郎(よしとみ あさじろう)、
同じく総社出身で昭和初期の日本洋画界において大きな役割を果たした
満谷国四郎(みつたに くにしろう)にも多大な影響を与えたと思われる。
52歳で急逝した彼の功績は後に評価され、彼の代表作「母子像」は、
明治初期の日本洋画の佳作として東京国立近代美術館にも展示された。
1841年(天保12年)1月25日、両替商、回船問屋、酒類の販売などを営む
豪商「堀家」の四男として、総社に生まれる。
名は堀和平安郷(やすさと)。
明治の始め頃、家業の「志保屋(しほや)」を相続し、主に反物を商った。
その後、いろいろな分野に商いを広げ、大阪に問屋「志保藤(しほとう)商店」を開く。
「志保藤商店」を中心に神戸に度々行き来するうち、油絵に接する機会を得たようである。
それまで杏邨(きょうそん)の名で水彩画を描いていた和平であったが、
油絵に強く心をひかれた彼は、当時、高価で手に入れにくかったにも拘らず、
油絵の具や筆などの画材を買い求め、自宅裏の長屋門の二階をアトリエとして
本格的に油絵を描き始める。
その頃、まだ幼少であった吉富朝次郎、同じく幼少で親戚筋にあたる満谷国四郎は、
それぞれ和平のアトリエ幾度となく通い、大きな影響を受けたと思われる。
和平の初期の作品と考えられる「天神像」には洋画の表現に近づこうとした
彼の苦心がうかがえる。
また、和平の代表作ともいえる「母子像」(倉敷市立美術館蔵)は、
二人の女性がそれぞれ赤子と猫を抱く姿を描いた秀作である。
51歳になった和平は、新規事業を起こすため、総社を離れ、神戸に移る。
九州の石炭を神戸に運び、外国に輸出する事業を手がけるが、
神戸に出た翌年の1892年(明治25年)、病により急逝する。
享年51歳。
追記
〔堀家について〕
堀家は和平の何代も前から、総社宮の神職として仕え、江戸時代後期には
「志保屋(塩屋)」という屋号で酒等の売買、両替商、回船問屋を営む豪商だった。
また、備中松山藩の御用商人にとり立てられ、商人でありながら、名字帯刀を許された。
〔和平の長兄和助安道について〕
「志保屋」の長男として生まれた和助安道(1829~1875)は、
明治維新の時に総社宮の神職に選ばれ、代々続いた家業を和平にゆずる。
幼年から学問を好んだ安道は、「吉備国史補」「総社記」など多くの本を書き残し、
総社宮の県社昇格にも尽力した。
またそれまで学校が無かった総社に、明治5年、成章校(せいしょうこう 総社小学校の前身)の
開設を県に願い出た中心人物でもあった。
和平は、この業績をたたえ、安道の死後、彼を祀る香屋(かや)神社と顕彰碑を
総社宮参道に建てた。
安道の墓所は、岡山県立総社高等学校西側にある。
※以上「堀和平」パンフレット(堀家住宅の利用を考える会製作)より転載
(時実)