horibonpapaのブログ

主に奈良の写真を撮り歩いております。

阪神・淡路大震災20年

2015-01-17 05:45:00 | 日記

​​1995年1月17日5:46(平成7年)

淡路島北部を震源とします

M7.3の大地震がありました。

茶色文字には全てリンクを貼り付けています。

阪神・淡路大震災​です。

記憶も薄れつつありますが、

今年で震災20年になり、

マスコミ報道も増えています。


まずは、震災でお亡くなりになりました

多くの方々のご冥福をお祈りいたします。


この大震災を教訓として

次世代に語り継ぐために・・・

少し大げさですが、

私の記憶が残ってるうちに

記録を残そうと、

個人的にまとめてみました。


地震の正式名称は、

地震当日気象庁から発表のありました、

1995年(平成7年)

兵庫県南部地震​​

になります。

阪神・淡路大震災の名称は、

同年2月14日政府が

災害の規模が大きく復旧に

統一的な名前が必要ということで

閣議で口頭了解されました。


地震概要

発生日:1995年1月17日

発生時刻:5時46分52秒

震央:兵庫県北淡町

震源の深さ:16km

規模:マグニチュード(M)7.3

最大震度:震度7

  神戸市。芦屋市、西宮市、宝塚市、

  北淡町、一ノ宮町、津名町

地震の種類:直下型地震

  逆断層、横ずれ断層型

被害概要

死者:6,434人

行方不明者:3人

負傷者:43,792人

被害総額:約10兆円

全壊家屋:104,906棟

半壊家屋:144,274棟

一部損壊家屋:390,506棟


当日の、自分の記憶をたどりたいと思います。

地震当日、発生時刻には2階のベッドで

まだ眠っていました。

同じ部屋には嫁と、息子二人が2段ベッドで

寝ていました。

地震発生直後に飛び起きましたが、

激しい揺れがしばらく続いたので、

家が壊れないかと、心配になったほどでした。

今思えば、奈良は震度4だったので

震源地に近いところでの震度7は

想像がつきません。

直ぐにテレビをつけてどこが震源かと

ニュースを見ますと、神戸とのこと。

確か地震直後は、

震度7の発表は無かったと思います。

震度5強か6じゃなかったかな。

強い地震だったとは思いましたが・・・

これほどまでとは。。。

当日の神戸市の日の出時刻は

7:05でした。

地震当時は、まだ暗い時間帯です。

テレビを見ると、各地で電車が止まっていました。

私が通勤に使う近鉄大阪線も同じく止まっていました。

しばらくして電車が動き出したとテレビで流れたので、

家を出て、駅に着きますと、

既にホームは多くの人が待っていました。


でもすぐに電車は来ません。

しばらくするとすると、最初の電車が到着しますが

超満員で、乗れませんでした。

2本目の電車にやっと乗ることが出来ましたが、

もちろんこの電車も満員でした。

大阪にある会社に入ると、

出社している人間は、

半分弱でしたかねえ。

当時はスマホはもちろんありませんし、

携帯電話も持っていなかった時なので、

情報はテレビが頼りです。

会社のPCも、まだインターネットに

つながっていませんでした。

応接室に有ったテレビにみんな集まり

仕事どころではありませんでした。


そのニュースでは・・・

夜が明けて、報道各社のヘリが飛び、

現地の映像が流れてきました。

そこで信じられない映像が・・・

阪神高速の高架が横倒し。

空爆を受けた街のように、

黒い煙の筋が何本も立ち上がっていました。

これは、多くの方が目にした映像と

思います。

正に信じられない光景が映し出されていたのです。

でも・・・現実でした。


会社の神戸工場の社員の

安否確認が手間取ったようです。

当日には全員の安否確認が出来ませんでした。

現在は、セコムのサービスに入っており、

震度5以上の地震の際、

携帯にメールが届き安否確認の返信するようになりました。


私は、現在奈良に住んでいますが、

生まれは兵庫県(阪神間)で

結婚までは兵庫県に住んでおり、

学生時代は神戸に通学しておりました。

その関係もあり、親戚、友人は

阪神間に多くおりました。


幸いにも、親戚友人で負傷や死亡された者は

いませんでした。

神戸に義兄、友人2人、芦屋に伯父さん

西宮親戚1人、川西に私の父母、全員無事でした。


その中でも震度7だったと思われる

神戸市灘区に住んでいる

学生時代の友人がいました。

震災後しばらく(3,4日かな)は連絡が取れなかったです。

やっと電話で無事が確認できましたが、

3階建ての家は亀裂が走り、

近くの空き地にテント生活してるとのこと。


震災当初は、神戸まで電車が通っておらず、

阪急神戸線が唯一西宮北口まで運転開始しました。

その週末、山歩き用のリュックに

援助物資約20kg詰め込んで友人のところへ向いました。

中身は、カセットガスボンベ、レトルト食品等、

それに当日嫁がおにぎり握って、おかずも添えて

お弁当です。

インターネットもつないでいない時だったので、

友人のテントまでの距離も詳しくは分かりませんでしたが、

取りあえず国道2号線に出て、西へ西へ。

今調べると、片道12kmほどでした。


道中、国道2号線は波打ち、段差があったりと

歩きにくかったです。

それに・・・なんと倒壊家屋が多いことか。

木造家屋のほとんどは倒壊していました。

それが、歩道まで崩れていました。

木造2階建ての家屋のほとんどは、

1階部分が、潰れその上に2階が乗っかっている

状態が多かったです。

1階で家屋の下敷きになり

亡くなられた方も多かったことでしょう。

鉄筋コンクリートのビルでも傾いているものも・・・

そんな惨状を目にしながら友人宅へ急ぎます。


一応地図を持っていましたので、友人の家の近くで

やっとテントを見つけました。

今のようにスマホがあれば、簡単なのですが。

友人はいたって元気でした。

会った瞬間、お互いに抱き合って無事を喜びました。

その後は、友人の嫁とも抱き合って。

その時はお互い自然に出たんですよ。

今は出来ませんが・・・(笑)


当時は1月下旬で寒い時期だけに、

テント暮らしは厳しいものがあります。


お弁当は喜ばれました。

ただ、食料の配給はそこそこあったようですが、

おにぎりやパンが主なので、

暖かいものが食べたいようでしたね。


それと、友人の実家も直ぐ近くにあったのですが、

ある区画1画にぽつんと友人の実家の

鉄筋3階建ての家が・・・

周りの家は、全て焼失していました。

家が木造でなかったことと、

近所の井戸から消火水をバケツリーレーで

近所の方に協力してもらい

窓から少し火が入った程度で、

抑えることが出来たと。

当時、消火栓の水が出ず、

消防車も来ないので

焼けなかったのは奇跡的でした。


また、友人から地震当時の事を聞きましたが、

寝室の大きいテレビが、

2mほど吹っ飛んでいたそうです。

直撃していたら・・・

家の中は、もうむちゃくちゃだったようです。


友人は、地元の消防団に入っており、

地震直後、近所の崩れた家々を回って、

救助に当たられたそうです。

友人の家はまだ新しい為か亀裂が入った程度で

済みましたが、

周りの家で倒壊している家が多かったです。

7割程度が倒壊していたでしょうか。

その中には・・・

崩れた家から人の声はする、

しかし、火の手が迫って・・・

もう声が出ません。

そんな修羅場でも、

出来る限り手を尽くされたそうですが。


友人宅からの帰りは、国道2号線が歩きにくかったので

国道43号線を歩きました。

道路はましでしたが・・・

そこで目に焼き付く光景を見てしまいました。

そう、テレビで放映されたそのものの光景が

目に飛び込みました。

阪神高速の高架が横倒しになったところ。

高架が崩れて、バスが半分高架から、

はみ出した状態で止まっている・・・

何とか、歩いて家に帰りましたが。


帰りの電車で、大阪に出てしまうと、

光景はガラッと変わり、

震災など何もなかったような日常があります。

ほんの20km程離れた所ですが・・・

家に帰ると想像以上に疲れた記憶があります。


また帰った後、しばらくは寝てるときでも

地鳴りが聞こえ目が覚めるのです。

余震で揺れる前に。

   ・

   ・

   ・

   ・

それから、もう20年になるのですねえ。

廃墟と化した神戸の街も

一見復興したように見えます。

しかし、家族や友人を亡くされた方も

たくさんおられます。

心の傷は一生消えません。

また家を再建された方で

ローン、場合によっては二重ローンの支払いで

苦労されている方も多いと聞きます。

見た目程には本当の復興は進んでいないのです。



参考資料

内閣府公表の歴史災害に関する教訓のページ

阪神・淡路大震災の概要より抜粋

この時は、日本のほとんど​が揺れたのですね。

鹿児島~新潟

阪神淡路大震災震度.jpg

阪神淡路大震災被害状況.jpg


下記は全て、内閣府の防災情報のページです。

阪神・淡路大震災の概要


内閣府 阪神・淡路大震災

総括・検証 調査シート​


阪神・淡路大震災教訓情報資料集


阪神・淡路大震災以降の主な地震​

2000年10月06日 鳥取県西部地震​ M7.3

2001年05月24日 芸予地震 M6.7

2003年05月26日 宮城県沖地震 M7.1

2003年07月26日 宮城県北部地震 M6.4

2003年09月26日 十勝沖地震 M8.0

2004年10月23日 新潟県中越地震 M6.8

2005年03月20日 福岡県西方沖地震 M7.0

2007年03月25日 能登半島地震 M6.9

2007年07月16日 新潟県中越沖地震 M6.8

2008年06月14日 岩手・宮城内陸地震 M7.2

2011年03月11日 東日本大震災 M9.0


記憶に新しい、東日本大震災は

まだ多くの方が避難生活を送られています。

神戸以上の大きな被害に、原発事故も重なり

復興の道のりは長いことと思います。

交流のあるブロガーさんで東北の方もおられます。

当時の事を思い出すと、辛いかも分かりませんね。

申し訳ありません。


この記事を読んで下さっている方も、

今後もし大地震があったら・・・


年に1度は見直しましょう。

地震対策、緊急携行品、避難場所の把握

非常食、家族との連絡方法等々


東南海大地震等

大地震の予想されていますが、

明日来るかも分かりません。

おきないことを願いますが・・・


追記

最後に幾つかの曲をお送りします。

まずはこの曲は元々、阪神・淡路大震災をきっかけに作られた歌ですが、

『神戸』を『ふるさと』に歌い替えられ、東日本大震災で被災されました

地方の方々を始め全国、世界へと​​​歌い継がれています。


復興のシンボル曲『しあわせ運べるように』

~神戸から東日本、日本各地、世界へ~

 

美し都(うましみやこ) 平松愛理

神戸復興「がんばろや! WE LOVE KOBE」

キャンペーンソング

チャリティーシングルとして発売されたため、

印税は神戸復興のチャリティー基金となる(現在廃盤)​

 


1995年三都物語

阪神大震災の後、観光客減少の為

JR西日本が賀来千香­子の

三都物語のTVCMで神戸編が登場!

 

​​



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34 コメント

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Unknown (真珠彩)
2015-01-17 07:45:06
おはようございます。

震災でお亡くなりになりました多くの方々のご冥福をお祈りいたします。

私も大阪で震度4~5でした。
その時はマンションの1階で暮らしてましたが・・・
ゴオゴオ・・・と地鳴りと共に縦揺れでドンドンと下から突き上げる揺れが・・
その時は、凄い地震っと思いました、余震も多々ありましたね。
会社に行くと電話が鳴りっぱなしで・・直ぐ来て欲しい・・・ってあっちこっちから電話が・・・
準備をして車で行くも・・・渋滞で動きませんでした。
それから復興許可書の通行書を頂いたのですが・・少しマシな程度でしたね。
神戸方面に行くとマンションの1階が無く成ってる?潰れて2階が地面にのってたり、傾いてたりで・・
ぞっーっとしまいた。
私も1階で住んでたので、、、
貴重な思いでです。

それと・・私の誕生日が明日なのですが・・・この時ばかりは、誕生日を忘れてました・・・家族皆!!!
一回損をしてます。オフ会で宜しく。(笑)
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こんにちは (一年生)
2015-01-17 11:07:40
山口県では地震に気づかずテレビのニュースで知りました、最初は被害もあまり大したことないような

感じでしたが、続報が入って来るたび被害が大きくなっていったように思います。

震災直後の現場を直に見られたんですね~

もう20年になるんですね、東日本大震災があり阪神・淡路大震災の事少し忘れてたような気がします。

こうやって見ると数年に1回は大きな地震がありますね。

1つの出来事で見ると地震になりますが、長い目で見ていくと大陸(プレート)移動になります。

20年間でまだあまり移動していないとこはどこなんだろう?

何れまた大きな地震が起こることは避けられないですが、いつどこで起こるかそれが問題だ?
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Unknown (もみじまんじゅう)
2015-01-17 11:37:47
もう20年になるんですね。まずは震災で亡くなられた方々のご冥福を祈ります。広島の方はほとんど揺れも無く、ニュースで少しづつ被害が拡大し、昼のニュースでは大変なことになったと思ったことが思い出されます。
勤務していた会社の営業の方が大阪出張しており、会社にしばらく帰れそうにないという連絡があったそうです。
何年後か忘れましたが、家族で淡路島の震災記念館(断層がそのまま保存されているところです)(?)にいって、震災のすごさを目の当たりにしました。日本は地震大国と言われています。いつどこでおこるかわかりません。日頃からの地震に対する準備が重要になります。少しはやっているんですが、まだまだ十分ではないと思っております。
返信する
Unknown (horibonpapa)
2015-01-17 11:42:21
真珠彩さん

こんにちは。

揺れは大きかったですね。
マンションの1階でも揺れたでしょう。
家は木造2階建ての2階だけに、揺れが大きかったような・・…
安い家だったので、崩れないかと、心配でした。(笑)

仕事関係での呼び出しが多かったのですね。
車の渋滞は酷かったですね。
そう言えば、通行許可証がありました。
偽造も多かったらしいですが・・・

マンションで、1階や地下が駐車場の所は、その部分が弱くて
押し潰されたところが、多かったです。
中間の階が潰れたところもありましたが。

お誕生日は、明日でしたか。
1回損をされた?
大阪オフ会で?
ケーキ?
メガパフェがあったかな?(笑)
返信する
こんにちは。 (ヴェル24)
2015-01-17 11:42:49
記事のタイトルがほぼかぶりました。失礼しました。
八尾より奈良の方が揺れが凄かったのですネ。堺でも結構揺れて家具が倒れたとか聞きました。
震災の現地は想像以上に疲れた事は確かです。救援物資を持って行ったり仕事で何回か
三ノ宮へ行きその後、徒歩で大阪へ帰るなどしましたが、翌日は起き上れないほどの疲れを
覚えたものでした。
今日のYahooのトップページを見て愕然としました。高架が崩れてバスが高架から半分出て
落ちそうになっている写真を掲載していました。どういう積りで掲載しているのか解りませんが
自分もこの風景を実地で見てしまったことも有り、怒りと悲しみとが噴上げて来ました。
うまく表現出来ませんがこの光景を見たくない人もたくさんいらっしゃると思います。それなのに
無条件に表示するなんて無神経にも程が有る!Yahoo何様!?ふざけるな!!!

返信する
こんにちは、古太郎です。 (たんちゃん)
2015-01-17 11:44:03
阪神淡路大震災…、衝撃を受けた出来事でした。
ご友人のところへ、いち早く行かれたとのこと。
お弁当や救援物資を手にし、抱き合ったことは、ご友人も一生忘れられないでしょうね。
古太郎の友人は大阪にいましたが、電話で話しただけでした…(^^;
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Unknown (horibonpapa)
2015-01-17 12:17:54
一年生さん

こんにちは。

山口の震度では気付かないこともあるでしょうね。
被害の状況は最初は大したことなさそうでしたよね。
刻々とニュースが入って、えらいこっちゃと。
阪神高速の横倒しの映像は衝撃的でした。
しばらく信じられませんでした。

地震後間もなくの惨状を見てしまい、涙が止まりませんでした。
しばらくは、余震がある度にあの光景が
フラッシュバックしていました。
なんと心の弱いことか。(^_^;)

早くも20年なんですよね。
だんだん記憶も薄れ・・・
日本は本当に地震大国です。
いつどこで地震にあうか分かりませんが。

大陸プレートが動こうと、歪みが溜まって放出する訳なので、
いずれは地震が起きますね。
徐々にエネルギー放出してくれればいいのですが。
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Unknown (SAI-TRD)
2015-01-17 13:44:59
こんにちは。
阪神の震災は、私はTVの中での出来事!?
TV中継で現実かどうか判っていない感じでした。
被災された方には申し訳有りません。

阪神地震の後に、マンションや戸建てを含め耐震基準が整備強化されたり、教訓は生かされていますよね。
次に起きたときに教訓が生かされるようにしていきたいですね。
個人的には、何も対策できてません。(゚o゚;


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こんばんは! (赤彩)
2015-01-17 17:36:15
もう20年経つのですね。
悲しいかな 時が経つと どうしても当時の
状況が薄くなりますね。

こうして 当時の様子を詳細にアップされる事で
風化を防ぎ 同じ様な事態が起きても 最小限に
被害を留めることが 亡くなられた方への
最大の御供養になるとおもいます。
でも 自然災害は 実際に経験しないと
実感出来ないのも事実ですね。
返信する
Unknown (horibonpapa)
2015-01-17 19:04:15
もみじまんじゅうさん

こんばんは。

20年、早いですねえ。
振り返ってみると、あっという間だったような・・・
最初のニュースではこれほどの被害は想像できませんでした。
現地からの生の様子が直ぐに伝わって来ませんでしたね。
夜が明けてからのヘリからの映像でビックリでした。

神戸で東西の交通が寸断されましたね。
復旧までしばらく時間がかかりましたから出張者の方は大変だったでしょう。

淡路島の北淡町の震災記念館行かれたのですね。
私も行きましたが、あの野島断層の段差を見て凄いと思いました。
自然の前では人間なんてちっぽけなものです。
少しでも災害に備える準備、物資もそうですが心構など出来る範囲での備えは必要ですね。
年に1回は思い起こして、気持ちを引き締めなければ・・・自戒を込めて。
返信する