佐渡島の和太鼓集団〔鼓童〕と歌舞伎役者〔坂東玉三郎〕が共演しての舞台「アマテラス」をテレビで観た。
愚生は、常々〔鼓童〕の演奏を広義のジャズと解釈してきた。
小4で初めて〔鼓童〕のライブに行ったとき、それぞれのプレイヤーたちが各々ソリストとして独立し、共演はしつつも自由奔放に個々のリズム世界を追求し、またそれらを互いに共鳴させあうという、インプロヴィゼイションの素晴らしさを肌で感じたからである。
その〔鼓童〕の新たなる一歩に対し、ジャズ・ファンたる愚生が観賞ルポをしたためたとしても、さほど不都合はあるまい……。
1.アイディア最高! なぜ今までやらなかった!?
「アマテラス」は、言わずと知れた日本の神話である。
弟スサノオノミコトの乱暴に失望した太陽神アマテラスオオミカミが天岩戸に隠れたため、世界は暗黒に支配される。そこで神々は天岩戸の前で舞えや歌えの大宴会を催し、気になったアマテラスが自分から天岩戸を開いて出てくるよう仕向け、ついには光を世界に取り戻す。
考えて見れば、これほど玉三郎と鼓童にぴったりな演目があるだろうか!?
女形の大スター坂東玉三郎ほど、アマテラスオオミカミのこうごうしい美しさに相応しい役者もいまい。
また天岩戸の前でドンチャカ騒ぎを繰り広げるやおよろずの神々とは、まさに鼓童そのものではないか。
鼓童と玉三郎が組み始めたのは、すでに3年前。
当初は演出家として、あくまで裏から舞台を支えた玉三郎であった。
彼は鼓童の潜在的な魅力をさらに引き出す演出の数々を大成功させた。
そして引き続き今回は、演出だけでなく自らも舞台に立ち、鼓童と「共演」することになったわけだ。
まさに、両者の得意技を生かすに相応しい演目。
両者が組んだのを見た3年前にこのアイディアを思いつかなかった愚生の愚が、悔やまれてならない。
さて、稽古のようすを取材したVTRの中で、玉三郎は鼓童のメンバーに対し次のように呼びかけていた。
「神様になろうとして緊張する人がいるかもしれないけれど、神様にならなくていい」
役を演じきることをなりわいとする歌舞伎役者の言としては、逆説的ではある。
が、いざ舞台を観てみて、愚生はストンと腑に落ちた。
闇に閉ざされた世界で、最初に鉦(かね)を鳴らしながら踊り始めるのは、3人の若い男性プレーヤーたち。
そのコミカルな動きに、なぜか我々観客は顔のほころびを禁じえない。
光の失われた暗黒の世界にあって、なんとも明るい希望に満ちたパフォーマンス。
やがてそこに一人、また一人と鼓童のプレイヤーが集い、様々な楽器を駆使して緩急自在のアドリブ・バトルを展開する。
そうして次第に大きくなっていく音楽と踊りの輪は、まさに“いつもの鼓童”そのもの。気取らず飾らず、いつもライブで聴かせてくれる、あの熱く狂おしい和太鼓ハリケーンなのである。
その姿は、確かに神様でもなんでもない。
生身の人間であり、生身の鼓童だ。
しかし、どうだろう。
この、徹底して人間らしい姿こそが、実は日本の神々なのではないだろうか。
森羅万象に宿り、それぞれに個性も感情も持つ太古の神々。
きっと彼らは、こんな鼓童みたいな人たち(神様に「人たち」というのもおかしいが)だったのではないだろうか?
大いなる逆説に満ちた、大いなるハマリ役。
やはりこの演目、彼らにぴったりであったようだ。
2.両立! 自由な演奏とストーリー性
鼓童は楽団である。
だから彼らのお芝居なぞ観たくない。
玉三郎は役者である。
だから玉三郎が和太鼓を叩く姿に興味はわかない。
一体彼らは、ライブをやるのか芝居をやるのか?
……などという愚生の心配は、幕開けと同時に見事に吹き飛んだ。
先にも書いたが、鼓童のメンバーたちは決して無理に役を演じたりなどしなかった。いつもと違う衣装(玉三郎がデザインに関わった、古代の文様をあしらったもの)は着ているものの、いつものように思い切りノリノリで太鼓を叩きまくっただけだ。
一方玉三郎も、もちろん楽器を演奏したりはしなかった。
実はさまざまな楽器をこなす多才な人らしいが、そこはそれ、あくまでアマテラスという光の象徴を演じ切ることに徹した。
にも関わらず、両者のプレイには完璧な整合性が保たれ、一体感をみじんも失わなかったではないか!
成功の秘訣は何であろう?
秘訣その1:玉三郎の出番が少なかったこと!
これは大きい。冒頭でのスサノオとのやりとりと最後の再臨シーンのみの出演で、中盤はすべて鼓童の演奏が占めた。このことで、ストーリー性がコンサート性を邪魔することを見事に防止。
秘訣その2:楽器の選び方が物語にマッチしていたこと!
スサノオの大暴れシーンは、大太鼓の乱れ打ち。また天岩戸が開く光復活シーンでは、巨大なドラをゴーン! と鳴らした。このドラの、非常に大きくて丸いこと、照明を反射して神々しい金色に輝くことなどが、いかにも太陽の復活を象徴せずにはいなかった。
秘訣その3:台詞がなかったこと!
これもウマい手法だ。玉三郎はじめ、すべてのプレイヤーには演技としての台詞が一切なく、ストーリーを追う上では無言劇として表現された。下手に説明的な台詞などを入れてしまったら、音楽を大いに邪魔してしまったであろう。
秘訣その4:演「奏」中の鼓童に、演「技」が皆無だったこと!
これは先に述べた通り! 最も重要な秘訣だ。
気高い神など演じようとは一切せず、むしろ感情をむき出しにして激しくドラミングを繰り広げまくる鼓童の熱い姿にこそ、百の演技なんかよりずっと太古の神々らしい豊かな感情・個性が込められてしまったのだ。自由気ままに演奏することが楽しくてたまらない、という歓喜の渦を巻き起こしてこそ、天岩戸の大宴会。これこそ演技と演奏を両立させた最重要要素というほかない。
彼らの感情むき出しの自由な演奏の中で、最も心に残った部分について書く。
VTRの中で、プレイヤーひとり一人に「玉三郎についてどう思うか」を聞いて回ったインタビューのシーンがあった。このとき一人の若い女性プレイヤーが、「ええ、好きですよ」と一言で答えた。やや間をおいて後、まるで自分の発言を取り繕うかのように「みんな好きなんじゃないですか」とか、「こんな風にしてくれて、とても感謝しています」などと一生懸命に説明を加える彼女。しかし、しゃべればしゃべるほど吐露した感情の波が次々とあふれ出したか、思わず彼女は泣き出してしまったのだ。下衆のカングリで大変失礼だが、やはり、この女性は玉三郎に恋しているのではないか、と愚生には思える。あるいはそれは、ジャズ・プレイヤーが演奏中の共演者に対して抱く、期間限定の音楽上の恋かも知れぬ。が、いずれにせよ「ええ、好きですよ」と最初に思い切って吐露してしまった感情こそが彼女の偽らざる本音であるように感じられてならない。
その、彼女の演奏である。
神々のドンチャカ騒ぎがピークに達する頃、この女性による和太鼓のアドリブ・ソロが始まる。ああ、その素朴で狂おしいこと。純粋で力強く、シャープでしなやか、凛としてはるか前方をしっかりと見据えるギラギラした視線に、愚生は爽快な鳥肌を生んだ。汗をびっしょりとかき、双眸は少しうるみ、口元にはかすかな笑みさえ浮かべ、自らを燃やし尽くすかのように乱れ打つ2本のバチ。玉三郎への叶わぬ思いを、狂おしい情熱を、演奏に託すことで満足しようというのか。その潔いドラミングに涙を誘われたのは、愚生だけではないはずだ。かっこいい、かっこいいぞ、あんた。
これだ。
この、情熱をほとばしらせる泥臭いほど人間的な表現こそが、自然界に生きる精霊たちのありようなのに違いない。
愚生は、常々〔鼓童〕の演奏を広義のジャズと解釈してきた。
小4で初めて〔鼓童〕のライブに行ったとき、それぞれのプレイヤーたちが各々ソリストとして独立し、共演はしつつも自由奔放に個々のリズム世界を追求し、またそれらを互いに共鳴させあうという、インプロヴィゼイションの素晴らしさを肌で感じたからである。
その〔鼓童〕の新たなる一歩に対し、ジャズ・ファンたる愚生が観賞ルポをしたためたとしても、さほど不都合はあるまい……。
1.アイディア最高! なぜ今までやらなかった!?
「アマテラス」は、言わずと知れた日本の神話である。
弟スサノオノミコトの乱暴に失望した太陽神アマテラスオオミカミが天岩戸に隠れたため、世界は暗黒に支配される。そこで神々は天岩戸の前で舞えや歌えの大宴会を催し、気になったアマテラスが自分から天岩戸を開いて出てくるよう仕向け、ついには光を世界に取り戻す。
考えて見れば、これほど玉三郎と鼓童にぴったりな演目があるだろうか!?
女形の大スター坂東玉三郎ほど、アマテラスオオミカミのこうごうしい美しさに相応しい役者もいまい。
また天岩戸の前でドンチャカ騒ぎを繰り広げるやおよろずの神々とは、まさに鼓童そのものではないか。
鼓童と玉三郎が組み始めたのは、すでに3年前。
当初は演出家として、あくまで裏から舞台を支えた玉三郎であった。
彼は鼓童の潜在的な魅力をさらに引き出す演出の数々を大成功させた。
そして引き続き今回は、演出だけでなく自らも舞台に立ち、鼓童と「共演」することになったわけだ。
まさに、両者の得意技を生かすに相応しい演目。
両者が組んだのを見た3年前にこのアイディアを思いつかなかった愚生の愚が、悔やまれてならない。
さて、稽古のようすを取材したVTRの中で、玉三郎は鼓童のメンバーに対し次のように呼びかけていた。
「神様になろうとして緊張する人がいるかもしれないけれど、神様にならなくていい」
役を演じきることをなりわいとする歌舞伎役者の言としては、逆説的ではある。
が、いざ舞台を観てみて、愚生はストンと腑に落ちた。
闇に閉ざされた世界で、最初に鉦(かね)を鳴らしながら踊り始めるのは、3人の若い男性プレーヤーたち。
そのコミカルな動きに、なぜか我々観客は顔のほころびを禁じえない。
光の失われた暗黒の世界にあって、なんとも明るい希望に満ちたパフォーマンス。
やがてそこに一人、また一人と鼓童のプレイヤーが集い、様々な楽器を駆使して緩急自在のアドリブ・バトルを展開する。
そうして次第に大きくなっていく音楽と踊りの輪は、まさに“いつもの鼓童”そのもの。気取らず飾らず、いつもライブで聴かせてくれる、あの熱く狂おしい和太鼓ハリケーンなのである。
その姿は、確かに神様でもなんでもない。
生身の人間であり、生身の鼓童だ。
しかし、どうだろう。
この、徹底して人間らしい姿こそが、実は日本の神々なのではないだろうか。
森羅万象に宿り、それぞれに個性も感情も持つ太古の神々。
きっと彼らは、こんな鼓童みたいな人たち(神様に「人たち」というのもおかしいが)だったのではないだろうか?
大いなる逆説に満ちた、大いなるハマリ役。
やはりこの演目、彼らにぴったりであったようだ。
2.両立! 自由な演奏とストーリー性
鼓童は楽団である。
だから彼らのお芝居なぞ観たくない。
玉三郎は役者である。
だから玉三郎が和太鼓を叩く姿に興味はわかない。
一体彼らは、ライブをやるのか芝居をやるのか?
……などという愚生の心配は、幕開けと同時に見事に吹き飛んだ。
先にも書いたが、鼓童のメンバーたちは決して無理に役を演じたりなどしなかった。いつもと違う衣装(玉三郎がデザインに関わった、古代の文様をあしらったもの)は着ているものの、いつものように思い切りノリノリで太鼓を叩きまくっただけだ。
一方玉三郎も、もちろん楽器を演奏したりはしなかった。
実はさまざまな楽器をこなす多才な人らしいが、そこはそれ、あくまでアマテラスという光の象徴を演じ切ることに徹した。
にも関わらず、両者のプレイには完璧な整合性が保たれ、一体感をみじんも失わなかったではないか!
成功の秘訣は何であろう?
秘訣その1:玉三郎の出番が少なかったこと!
これは大きい。冒頭でのスサノオとのやりとりと最後の再臨シーンのみの出演で、中盤はすべて鼓童の演奏が占めた。このことで、ストーリー性がコンサート性を邪魔することを見事に防止。
秘訣その2:楽器の選び方が物語にマッチしていたこと!
スサノオの大暴れシーンは、大太鼓の乱れ打ち。また天岩戸が開く光復活シーンでは、巨大なドラをゴーン! と鳴らした。このドラの、非常に大きくて丸いこと、照明を反射して神々しい金色に輝くことなどが、いかにも太陽の復活を象徴せずにはいなかった。
秘訣その3:台詞がなかったこと!
これもウマい手法だ。玉三郎はじめ、すべてのプレイヤーには演技としての台詞が一切なく、ストーリーを追う上では無言劇として表現された。下手に説明的な台詞などを入れてしまったら、音楽を大いに邪魔してしまったであろう。
秘訣その4:演「奏」中の鼓童に、演「技」が皆無だったこと!
これは先に述べた通り! 最も重要な秘訣だ。
気高い神など演じようとは一切せず、むしろ感情をむき出しにして激しくドラミングを繰り広げまくる鼓童の熱い姿にこそ、百の演技なんかよりずっと太古の神々らしい豊かな感情・個性が込められてしまったのだ。自由気ままに演奏することが楽しくてたまらない、という歓喜の渦を巻き起こしてこそ、天岩戸の大宴会。これこそ演技と演奏を両立させた最重要要素というほかない。
彼らの感情むき出しの自由な演奏の中で、最も心に残った部分について書く。
VTRの中で、プレイヤーひとり一人に「玉三郎についてどう思うか」を聞いて回ったインタビューのシーンがあった。このとき一人の若い女性プレイヤーが、「ええ、好きですよ」と一言で答えた。やや間をおいて後、まるで自分の発言を取り繕うかのように「みんな好きなんじゃないですか」とか、「こんな風にしてくれて、とても感謝しています」などと一生懸命に説明を加える彼女。しかし、しゃべればしゃべるほど吐露した感情の波が次々とあふれ出したか、思わず彼女は泣き出してしまったのだ。下衆のカングリで大変失礼だが、やはり、この女性は玉三郎に恋しているのではないか、と愚生には思える。あるいはそれは、ジャズ・プレイヤーが演奏中の共演者に対して抱く、期間限定の音楽上の恋かも知れぬ。が、いずれにせよ「ええ、好きですよ」と最初に思い切って吐露してしまった感情こそが彼女の偽らざる本音であるように感じられてならない。
その、彼女の演奏である。
神々のドンチャカ騒ぎがピークに達する頃、この女性による和太鼓のアドリブ・ソロが始まる。ああ、その素朴で狂おしいこと。純粋で力強く、シャープでしなやか、凛としてはるか前方をしっかりと見据えるギラギラした視線に、愚生は爽快な鳥肌を生んだ。汗をびっしょりとかき、双眸は少しうるみ、口元にはかすかな笑みさえ浮かべ、自らを燃やし尽くすかのように乱れ打つ2本のバチ。玉三郎への叶わぬ思いを、狂おしい情熱を、演奏に託すことで満足しようというのか。その潔いドラミングに涙を誘われたのは、愚生だけではないはずだ。かっこいい、かっこいいぞ、あんた。
これだ。
この、情熱をほとばしらせる泥臭いほど人間的な表現こそが、自然界に生きる精霊たちのありようなのに違いない。