あともう少しだけ

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「なぜ勉強するのか」を考える

2014-06-23 23:00:42 | コラム
目から情報を得るのが得意なタイプと、耳から情報を得るのが得意なタイプ。人はこれらのどちらかに分類されると聞いた。これが正しいとすれば、子供の頃人と話すよりも本を読む時間の方がよっぽど長かった私は前者となるのだろう。身に覚えはある。そもそも私は人から口頭で何かを説明してもらうのが激しく苦手だ。嫌がらせかといぶかしむほど訳わからん説明を受けていると、「多少分厚くてもいいからマニュアル寄越せ」と人によってはゆとり世代丸出しに聞こえる事を言いたくなる。紙で書かれた情報の方が落ち着いて頭の中に入るのだ。同じ説明を受けても隣の人は理解できている様だ。私の頭が特別悪いのだとは決して思いたくないので、この説を積極的に支持する事にした。
記憶をアウトプットする時も同様で、私は想起する際は目を使う。具体的には、頭の中を閲覧する様に、目を右上から左上へごろごろ移動させる。そうすると何もしない時よりもスムーズに物事が思い出せるし、落ち着いて言葉が出てくる。これはもともと職場の人がやっていた癖で、私もマネをする様にしてみたのだ。恐らくだが、目が大きい人ほどこの傾向にある。普段目から仕入れる情報量が多い分、自然と記憶を引き出す方法も目を利用したものが得手となっていると予測する。同じ頭の中にある情報でも、どの器官から得たものなのかによって異なる特徴があるのではなかろうか。その仮定の下で考えるに、耳から情報を得る方が得意な人はどうやってアウトプットするのが効率的なのか。どうなのだろう。声を出しながら考えてみるとか。別にこの話題に限った話ではないけれど、「記憶の呼び起こし方」についてはもう少し教育現場で言及してもいい内容だと思うのだ。極端な話、勉強の紙の上の情報とか計算の反復練習など、いっそのこと勉強する楽しさとかすらも重要度としては低い。あくまで私個人の考えなので、暴論なのは目をつむっていただきたい。もっと実践的な内容を盛り込んでもいい、とか書いていくうちに教育論の話になってきた。別にそんな方向に持っていくつもりは無いのだが。しかし毒食らわば皿まで。触れたついでに勉強をする意味について持論を展開しておこう。いつ誰に「勉強って何の為にやるの?」と聞かれてもしっかり答えられる様に、頭を整理する意味で。ここから先は子供に話す様な文体にします。その方が説明しやすいので。
まず大前提として、勉強は役に立ちます。これから何故そうなのかを説明します。人は好奇心の生き物で、誰にも心に「興味の木」とでも言うものがあります。生きていく中で、楽しい、面白い、これは何か、どうしてそうなるのか、そうした考えのもと、木はすくすくと伸びていきます。幼児を見てみるとわかりますが、あの子たちは好奇心の塊ですね。見たものに何でも反応します。人の子供に限った話ではありません。動物もそうです。犬とか猫の子供を飼っている人はよく見る光景だと思いますが、おもちゃやら虫やら小動物、いろんなものを追っかけまわしますね。ああする事で狩りの仕方を覚えていくんです。つまり興味から得た情報を駆使して大人になっていく。「興味の木」はファンタジーでも何でもない、生きる為の機能なのです。しかし、人の子供達は成長するに従い、知性が備わってきます。そうすると「何故勉強するのか」という疑問が生まれてきます。知性は好奇心の友であると同時に敵でもあります。ある対象について「これは私にとって得にならない事だ」と知性が判断してしまえば、それへの興味は無くなってしまいます。そうして、「興味」の木もその部分の成長を止めてしまうでしょう。そして自分の役に立つ事だけに興味のアンテナが立っていく。木はいびつな成長をしていきます。
そうした貴方が将来大人になって、効率よく社会に役立つ技能、知識のみを習得したとしましょう。それで貴方は当面は満足に生活する事ができる。しかし、何を仕事にするにしても、人と関わらなければいけません。そして他人に揉まれる中で浮かび上がってくるのは、「無知な自分」です。社会に生きる上で、無知である事は不利であり、そして恥をかく要因にもなってしまいます。「わからない自分を直さなければならない」という必要性はいずれ、「もっといろんな事を知りたい」という欲求にかわります。その段階に至った時、いびつな形をしていた興味の木は一気に各方向へ成長を始めます。自然は「いびつ」を嫌うからです。しかし、幾多に伸びた枝の先には、それぞれ鍵のかかった扉があります。鍵を開けるための鍵、それが勉強で得る基礎知識です。それを勉強するための技術、持久力、好奇心。それらは子供の頃が一番鍛えやすいものです。だから子供のうちに勉強しよう、そしてどうせ勉強するなら、どんな夢を持ってもいい様に幅広い知識を覚えておこう、という話になる訳です。
大体、人は死ぬまで学び続ける事になります。そうしなければこの世の中を渡り歩く事はできないから。情報を得る事で変化していかなければ、人は衰退してしまうから。好きだろうが嫌いだろうが勉強しなければいけないのなら、勉強を好きになった方がいい。そして自分の好きな内容だけ勉強する事はできず、面倒だったり、興味の無い分野でも無理やり学ばなければいけません。好きこそものの上手なれとは言うものの、逆を言えば下手なままでは好きになるのは難しい。勉強の技術を学べば、その楽しさがわかります。楽しくなればずっと続けてられるので、持久力がつきます。学生時代にこの段階までたどり着いてしまえば、一生の財産になります。今の学習指導要領がこれを満たすものになっているかどうかは甚だ疑問に思いますけど。まぁ、積み込み教育でも、浅いけど広い情報を得れば未知の分野を学ぶ事に抵抗が無くなる利点がありますが。
さて、この文章は新聞でも論文でもなく、根拠なんて考えずに予想と直観だけで自分の意見を推し進めても構わないものだ。しかし日常の経験と仕入れた情報から「多分そうだろう」と仮定し「何故そうなるのだろう」と突き詰め肉付けをしていく作業は楽しい。例え第三者から見て全く意味の無いものに見えたとしても。だからこの思いつきの文章も、ひとまず残してみよう。

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