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青春回顧録 その6

2005-11-29 12:39:22 | 雑感
・・・その5からの続き!


1989年3月。大学の卒業式にも出席せず、僕は香港を満喫し、帰国した。

当然のことながら、ログハウス現場は着々と進んでいた。
帰ってすぐ、入山した。

すでに棟が上がっていた。
とんでもなく高い天井だった。
素晴らしい空間が生まれていた。

僕が作業に戻って約1ヶ月後。
そして、ついについに!
ログハウス完成!

   
嬉しかった!とんでもなく興奮した!

毎晩が宴会だった。
ビールや食材を買い込み、バーベキューや鍋料理をつくる。
谷から流れてくる湧き水でつくった水割りが、死ぬほど美味しかった!
薪ストーブに火をくべると、春なのに室内が夏のように暖かくなった!
騒音を気にせず、夜通し歌った!

作業はしたくないけど完成したら呼んでね!っていう人も多かったから
いっぱいご招待した。
みんな来て初めて、そのスケールの大きさに驚いていた。
もっと小さなホッタテ小屋をイメージして入山してくるから!

よし!決意表明だ!
建物の完成写真をハガキ印刷し、音楽で身をたてる決意表明を書いて、
お世話になった方々、親類縁者、友人達に宛てて郵送しまくりました!

Kを中心に、今後の計画を練り始めました。

Kはまず、ギター1本でライブをしたい、と言う。

女性達に捧げた膨大な曲数の中から、自分でも気に入った曲をピックアップし、
Kが自分で詩をつけた。

まずお世話になった大学の多目的ホールを借りて、歌った。
校内で宣伝し、友達や後輩が見に来てくれた。
ログハウスのメンバーが舞台裏を手伝ってくれた。
嬉しかった。

ライブの手ごたえを感じ、バンドスタイルにしたいと思った。
メンバーを募り、スタジオで練習しはじめた。
僕は音楽事務所の代表という肩書きで名刺をつくり、どこに行くにもスーツで通した。
下宿に看板を出し、事務所にした。

しかし生活はできないので、夜は当然アルバイト。
僕は深夜のガードマン、祇園のスナック、中華レストランの厨房(香港人のコックさんの広東語がナマで聞けた!)など
色々やった。

ライブハウスのオーディションに応募するがダメ!全く通らない。
曲を録音したカセットを配り歩いた。
反応が無い。あせる。イラつく。

そんなある日、自主映画制作で関西の大学を手分けして廻った時の
懐かしい資料が出てきた。

「そうだ、学園祭!」

カセットを、関西の全ての女子大・女子短大の実行委員会宛に送った。
反応があった。
「プロを呼ぶには予算がない、でもライブがしたい、どうしよう」
こんな悩みにピッタリはまり、多くの大学でライブをさせてもらった。

そうこうしていると、音楽好きで愉快なメンバー達と出逢う機会も増え、バンドメンバーとして仲間が集まってきた。
大所帯になってきた。

今思えば無謀の一言だが、プロも使う「京都会館 第2ホール」という大きな会場を
借りて、コンサートをした。
その時の経験は何ものにも替え難い。
苦難とトラブルの連続だったが、
アマチュアがあんなホールをお客様で一杯にしたことは、誇りだ。

チケットさえ売れば出演できるライブハウスも増えてきた。
バンドブームがやってきた!
しかし1年目、2年目は固定ファンも増えず、身内や友達に無理やりチケットを買わせていた。
Kのライブは、さすが演出家と女優の子供だけあって、難解な芝居と歌をミックスさせていた。
オリジナル曲オンリーだったが、オドロオドロシイ曲も多かった。
好みがハッキリ分かれるバンドだった。
好きなヒトには大好評、嫌いなヒトは2度とライブには来てくれない。

3年目、ライブハウスで対バンしたプロのギタリストが
「面白い音楽やってるな~!今度セッションしようよ」と声を掛けてくれた。
何度か音を出しているうち、「このバンドに加入させてくれよ」と言ってくれた!

毎日楽しかった。
しかし、いつも金がなく、彼女(今の妻)にご飯をおごらせるサイテーの男だった。

厳格だが理解してくれた僕の父は、「おもろいやろなぁ、毎日。でもいいかげんにしとけよ」と経済面での負担を理由に、
真人間になることをいつも願っていた。

プロの加入で自信がつき、バンド自体に力がついてきた。
そこで、奇をてらった難解な曲ではなく、キャッチーで明るい曲を録音し、コンテストに送りまくった。
ライブはあいかわらず難解で、万人受けしなかった。

キャッチーな曲は、驚くほどの確率で、コンテストの予選を通過し始めた。

あっさりと決勝まで進み、沢山のコンテストで入賞し、テレビにも頻繁に出演しはじめた。バンドブームのおかげで、テレビ中継のあるコンテストが多かった。

その頃、どのコンテストでも一緒だったのが「シ○乱Q」。
いろ~~んなバンドと出会ったが、彼らとは揃って賞を貰ったコンテストが多かったので、印象はとても強かった。
それに控え室も一緒、受賞後の打ち上げも、偶然だがいつも同じ店をチョイスしていた。
彼らが東京行きのキッカケをつくった、大阪厚生年金大ホールでのコンテストにも
僕らのバンドは出ていた。しかし僕らは無冠だった。

その頃のKと僕には、距離があった。
溝もあった。
高校3年から、7年以上、ずっと一緒だった。
お互い顔を見れば、何を考えているかすぐ分かった。

しかし彼は、音楽を突き詰める余り、世俗との交渉を嫌がり始めた。
世俗の最前線でチケットを売る立場の僕とは、よく対立した。

僕「もっと売れる曲をかけよ!」
K「売れる曲って何だ!そもそも売れるってどんな意味があんだ!」

面白くない口論が続き、バンドメンバーも入れ替わりが激しくなってきた。
Kの横暴さを訴えるメンバーも出てきた。

とにかく食える会社にしないと・・・。
僕の両親もあきれ顔を通り越し、険悪なムード・・・。
彼女も「ぷー太郎では、いつまでたっても両親に紹介できない」と言い出す。
そりゃそ~だ。

焦りばっかりの毎日だった。
そんなある日、決定的な事件が起きる・・・!

・・・・ついに最終章!7に続く!

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