熊野信仰の中心である熊野三山に続く道、熊野古道は2004年7月世界遺産登録されました。豊かな自然に恵まれ古代より神々の住む神聖な地とされた熊野古道には、森林は勿論数百年前に造られた石畳の道などが往時のまま美しい姿で残っています。 多くの人が祈りを込めて歩いた参詣道の中から、今回は主要ルートともいえる京都、大阪から田辺を結ぶ、山中え分け入って行く「中辺路」コースで発心門王子から熊野本宮大社まで約7kmウオーキングしました。 地元ガイドの説明を聞きながらの歩きで、800年前に輿あるいは徒歩での参拝を40数回もされた上皇がおられたなど、小石混じる山道をウオーキング靴でなく登山靴がよかった失敗したなど考え4時間を要しました。 昨年9月の台風で大きな災害を受けた熊野本宮大社をはじめ参詣道、山林は整備されすっかり元通りになって堪能しました。 ハイキングコースは25コースあり最長18kmで次回は長距離を春景色で歩いてみたい。
呉市が平成24年3月末で廃止した交通局で(交通事業は広島電鉄が継承)金庫室に保管していたバスカード・回数券が帳簿より1億8千万円分少なかった事が8月29日分ったと発表、不足分の多くは誤記載などとし4千万円分は書類がなく不明と説明がつかない状態になっている。 一般の市民感覚では有り得ない話であり現金に等しい金券が年1回の定期監査でも発見できないとは、何を監査していたのか重ねて驚きである。 このような状態では事業現場はもとより、市行政も税金の無駄はおろか垂れ流し状態であり猛省し原因を徹底的に追及して当事者に損害賠償を請求するはもとより、管理監督者にもそれ相当の責任を課すべきで決してうやむやにしてはならない。経過、結末はオープンに乞う
旧広島市民球場跡地の活用策を考える市の跡地委員会は8月24日、跡地にふさわしい機能を3つに絞り中間とりまとめをした。「文化・芸術」「緑地広場」「スポーツ複合型」の三つの機能を掘り下げ検討すると述べているが、関係当事者は県債、約1兆5千億円、広島市債、約1兆円を背負っての孫子に負担をさせない事に徹して真剣に議論していたら結論は時間をかけずに決定できると思うが各利益代表に翻弄されているようで足元を見失って欲しくないものだ。 私的には必然的にハコ物施設は排除され当面は全遊休地を緑地公園(災害時の避難にも利用)にしてイベント、催事等必要時に架設施設で利用すべきであり、将来の次世代において必要不可欠の利用施設が発生したとき改めて考えることにすべきである。 当面のもう一つで廃港になる西飛行場も民間サイドで活用するなら県、市から賃貸して活用すれば良い話である。 団体、業界、経済界は我田引水であり県、市は一切負担してはならない、なまじJ1でサンフレッチエが上位にいるからいって新たなサッカー場を交通不便なので造るなどもってのほかである。 いまの広島にはスポーツ、文化、芸術活動において何不自由なく整っておりこれ以上はエゴである。 県、市の首長をはじめ担当者はハコ物が一部利用者がよろこぶ施設であること、大半の市民が恩恵を受けず負担のみ強いられる現象になることを肝に命じるべきである。
1945年8月6日(昭和20年)午前8時15分広島市の上空で初の原子爆弾が一般市民に向けて投下された、これは明らかに国際法に違反しており、あとで如何なる理由で取り繕っても厳然たる事実である。 被爆67年原爆の日を迎える今日に至っても原爆後遺症で健康に不安な毎日を送られている被爆者の心情は察してあり余るものがある。 毎年迎える原爆の日新しい賓客を招くことが、原爆禁止運動が国際的に実を挙げている一つのバロメーターである評価としてそれなりに意味があるので否定するものではないが今年は少し違和感を覚える。 被爆関係者の個人的な招へいと伝えているが、今回は原爆投下を承認した当時のアメリカ大統領トルーマンの孫、クリフトン.トルーマン.ダニエル(55歳)と 広島、長崎えの原爆投下機に乗っていた唯一の米兵の孫、アリー.ビーザー(24歳)を被爆の実態を伝える会などに出てもらって一方的に話を聞いてもらったようであるが私的には、当事者でない親族しかも孫が自主的に来広するならまだしも、わざわざ出向いて来てくださいと懇請する行動そのものが理解できない。 学校の歴史教科書で原爆投下が正当化された教育を受けた者から、祖父の決断は誤りであったと思う_との言質が得られないのは火をみるより明らかだ。単なる聞き役、聞き上手に終わって仕舞うのがオチである、手の込んだお祭り催日に思えてならない。 いまひとつ広島の被爆団体が原爆直後にふった黒い雨が実際には広範囲に降ったのでその地域も被爆者として認めるよう声たからかにアルバルーンを挙げているが、我が良ければ他はどうでもよいのか東日本大震災による未曾有の災害がれき処理(政府は放射能低レベルで問題なし)を一番に手を挙げて支援を行政に進言してもおかしくないのに受け入れ反対を表明している。被爆者援護には3000億円の税金が使われているが、被爆者が戦争で唯一の一般市民の犠牲者ではないと心すべきだある。(私的ながら妹を49歳で原爆敗血症で失う)
江戸時代の風情を色濃く残す鞆町は古代、万葉よりの景勝地で大友旅人など万葉集にも詠まれた風光明美な処として世に知られている、 又
歴史的にも京都の八坂神社の本社である沼名前神社は平安時代の法典「延喜式」にも式内社に記されており、その沼名前神社にある能舞台は豊臣秀吉の遺愛の物で京都伏見城にあったものを、時の福山藩主の水野(譜代)が譲り受け移設した。 中世には北朝南朝との合戦になった地、戦国時代には室町幕府15代将軍足利義昭が鞆に下向して鞆幕府を開いた地、 近世には朝鮮通信史の寄港地にも度々指定され鞆の浦の景色が
賞賛された地。 幕末の慶応3年(1867年)の坂本竜馬いろは丸沈没事件の舞台となり、竜馬が一時身を隠していた町屋も現存、もっとも
圧巻なのは江戸時代の港湾施設である「常夜灯」「雁木」「波止場」「焚場」「船番所」の5施設がすべて揃っているは全国で鞆港のみである
また港沖あいでくりひろげられる鯛網は370余年の伝統を伝えており漁法が珍しく皆の目を楽しませている。 そんな歴史ある鞆の町に
30年前地元住民からモータリゼーションを迎え車が増え道路が狭いことから不便を感じ(昭29年まで福山駅から軽便電車有り)た人が人口
減少の要因にもなっているとして市に働きかけ市の提案として1983年(昭58年)、県が鞆港を埋め立て橋を架ける港湾計画を策定、これに反対する住民が1992年山側トンネル案を提言、県は埋め立て面積縮小を1995年3月、2000年2月に提案、2004年9月新市長
が架橋推進を表明、2007年4月住民が地裁に県の埋め立て免許差し止め訴訟、2008年6月県が国に埋め立て認可申請、2009年1月
国土交通相が埋め立ては「国民の同意が必要」と発言、2009年10月広島地裁は原告の景観利益(国民の財産)を認め県に免許差し止めを命令あり県はすぐ控訴、2009年11月に新知事が就任、2010年5月推進、反対両派が話し合う協議会が初会合、2012年1月住民協議会が19回目に及んだ、2月には県知事と福山市長が上記経過を踏まえて会談。 6月22日架橋計画を撤回方針が県から発表され25日に
福山市長にトンネル変更伝達会談を_伝達だけなら会う必要はないと反発した。 6月25日にトップ会談で山側トンネルは景観が維持でき且つ交通の利便性や安全性確保と景観保全が両立できるとの県の案を市長は受け入れたが権限は県にあり泣いて我慢するしかなく、腹立たしい、と今後の鞆住民えの説明会など一切は協力しない_勝手にどうぞ、知事の責任で住民の理解を得てほしい、と突き放した。 県は7月9日
鞆住民(約2000世帯)に県が説明会を開くが推進派住民が多いだけに、たいへんだが丁寧に説明するしかない。 私的には計画から30年を賛否住民で揺れ動き、行政も絡まって無駄な期間を過ごしたが、時間の経過と今回仕事のできる県知事により決着を見ることは喜ばしい。
賛否両論で互いに利益が絡むだけにどよような決着でも一方から不満雑言がでることは甘んじてうけなければ100年経っても解決しない。
ただ最終段階になって、県の方針が決まった上は福山市長が意に反しているからといって協力しないと公言しているが、架橋反対者も鞆の住民であり、山側トンネル方針が社会環境の変化、景観や文化遺産えの意識の高まり、30年の時間経過等から苦渋の選択であったことは誰がみても推察できるとおもうが主観的なひとり善がりかな。なにか中央でも似たような事象が多いことか。
歴史的にも京都の八坂神社の本社である沼名前神社は平安時代の法典「延喜式」にも式内社に記されており、その沼名前神社にある能舞台は豊臣秀吉の遺愛の物で京都伏見城にあったものを、時の福山藩主の水野(譜代)が譲り受け移設した。 中世には北朝南朝との合戦になった地、戦国時代には室町幕府15代将軍足利義昭が鞆に下向して鞆幕府を開いた地、 近世には朝鮮通信史の寄港地にも度々指定され鞆の浦の景色が
賞賛された地。 幕末の慶応3年(1867年)の坂本竜馬いろは丸沈没事件の舞台となり、竜馬が一時身を隠していた町屋も現存、もっとも
圧巻なのは江戸時代の港湾施設である「常夜灯」「雁木」「波止場」「焚場」「船番所」の5施設がすべて揃っているは全国で鞆港のみである
また港沖あいでくりひろげられる鯛網は370余年の伝統を伝えており漁法が珍しく皆の目を楽しませている。 そんな歴史ある鞆の町に
30年前地元住民からモータリゼーションを迎え車が増え道路が狭いことから不便を感じ(昭29年まで福山駅から軽便電車有り)た人が人口
減少の要因にもなっているとして市に働きかけ市の提案として1983年(昭58年)、県が鞆港を埋め立て橋を架ける港湾計画を策定、これに反対する住民が1992年山側トンネル案を提言、県は埋め立て面積縮小を1995年3月、2000年2月に提案、2004年9月新市長
が架橋推進を表明、2007年4月住民が地裁に県の埋め立て免許差し止め訴訟、2008年6月県が国に埋め立て認可申請、2009年1月
国土交通相が埋め立ては「国民の同意が必要」と発言、2009年10月広島地裁は原告の景観利益(国民の財産)を認め県に免許差し止めを命令あり県はすぐ控訴、2009年11月に新知事が就任、2010年5月推進、反対両派が話し合う協議会が初会合、2012年1月住民協議会が19回目に及んだ、2月には県知事と福山市長が上記経過を踏まえて会談。 6月22日架橋計画を撤回方針が県から発表され25日に
福山市長にトンネル変更伝達会談を_伝達だけなら会う必要はないと反発した。 6月25日にトップ会談で山側トンネルは景観が維持でき且つ交通の利便性や安全性確保と景観保全が両立できるとの県の案を市長は受け入れたが権限は県にあり泣いて我慢するしかなく、腹立たしい、と今後の鞆住民えの説明会など一切は協力しない_勝手にどうぞ、知事の責任で住民の理解を得てほしい、と突き放した。 県は7月9日
鞆住民(約2000世帯)に県が説明会を開くが推進派住民が多いだけに、たいへんだが丁寧に説明するしかない。 私的には計画から30年を賛否住民で揺れ動き、行政も絡まって無駄な期間を過ごしたが、時間の経過と今回仕事のできる県知事により決着を見ることは喜ばしい。
賛否両論で互いに利益が絡むだけにどよような決着でも一方から不満雑言がでることは甘んじてうけなければ100年経っても解決しない。
ただ最終段階になって、県の方針が決まった上は福山市長が意に反しているからといって協力しないと公言しているが、架橋反対者も鞆の住民であり、山側トンネル方針が社会環境の変化、景観や文化遺産えの意識の高まり、30年の時間経過等から苦渋の選択であったことは誰がみても推察できるとおもうが主観的なひとり善がりかな。なにか中央でも似たような事象が多いことか。