被爆証言を遺そう!ヒロシマ青空の会 2集 武田証言
黒焦げで帰ってきた弟 ――武田恵美子さんに聞く2――

武田恵美子さん 生年月日●大正一五年(一九二六年)二月二七日生まれ (インタビュー時七八歳) 被爆当時●一九歳(家事) 被爆地●爆心地より約一五キロ/広島県安佐郡(現在広島市安北区)亀山村河戸の自宅
だんだん不安が募ってきたんですが、弟が帰ったのは午後四時半ごろでした。自転車に乗せられて来たんです。 弟は可部駅まで、太田川の下流の祇園(ぎおん)から折り返し運転していた残った電車に乗って帰ってきたらしいんですよ。その頃可部駅には自分の子どもたちや家族を心配して迎えに行っている人がいたんです。やっと可部駅に降りたらね、体がもうしんどかったんでしょうね、そこに子どもを迎えに行って待っていた近所のおじさん、水元さんのおじさんを見て「おじさん、山中の幸彦じゃけど、連れてってくれ」と言ったそうです。
そしたら真っ黒だから「あんた、さっちゃんか?」って言ったら「はい」って答える。それでもう、おじさんも飛び上がらんばかりにびっくりしてね、「自転車で行くか?」っていったら「行く」って。それで自転車に乗せて、連れてきてくれた。弟は疲れきってたんでしょうね。知っているおじさんに家へ連れてってくれって自転車に乗せてもらったから、安心して、もう何にも言わなかったそうです。
私たちはそのときぼんやり妹と二人で道路の方を見てたんですよ。もう家の中は暑いし、父もみんな出て誰もいない。近所からも出てこない。私と妹だけないしょで出て、土手にいたんです。心配でしたから。家から一歩も出ちゃならんというのですが、ないしょでずうっと土手で待ってた。ラジオも何も入りませんでね、誰もいない。そこへ下の方から誰か来るなと思って、見たら、水元のおじさんが何かうしろへ乗せて上ってくる。真っ黒のかたまりをね。
おじさんのほうが動転しちゃってるんです。それで私に「おう、恵美子さんよぉ、さっちゃんだけどね、これさっちゃんか?」って言うんです。そんな変なことを言われても最初は全然その意味がわからなかったんですよ。「だれ?」なんてね。とにかく真っ黒のかたまりで来たわけですよ。体も何もどっちがどっちかわからないほど真っ黒なかたまりです。
自転車から降ろしてもらうと、「恵美子姉さん、ただいま」と言うんです。それで次に言った言葉は「お弁当箱を捜したけどなかったよ」と。あのころは食べるのが命でしたから、そんなことを言ったんでしょうけど。「弁当箱なんかどうだっていいけど、さっちゃんなの?」って聞いたら「幸彦だ、ぼくだ」と答えてくる。声は弟と変わらない声でした。元気な時の弟と同じような声。その水元さんていうおじさんは「あっ、ほいじゃ、さっちゃんでよかったんだね、おじさんはこれがさっちゃんかどうかわからないから心配したんだけど、じゃあ置いていくから」って言うんで、おじさんはまた可部駅へ自分の息子を迎えに、戻って行ったんです。その子は弟より一つ上でした。その子はとうとう帰ってこなかったんですけどね。
帰った時の状態、弟の火傷の姿をもう少し言いますとね、上半身は火傷とススで真っ黒。私も声を聞くまではわからなくて、気持ち悪かった。頭が焼かれてチリチリの火傷で。チリチリでも頭の上は何ともなかったですけど、顔は右と左で火傷の度合いが異なっていました。右の耳はもうなかったです。左の耳はありましたが、それも耳たぶのところにちょっと残ってぶら下がっていました。顔はもう全体が引きつっていました。目も腫れてね、顔はくちゃくちゃに焼けて腫れたり引きつったりしていて、目なのか鼻なのか、口なのかちょっとわからない。目というのがわかったのは、まつげが両方とも焼けて白くなっているんです。焼けたカスが白く付いている。その白いまつげがなかったら目はわかりませんでした。
ですから、見えるのかと思うほど細い目をしていました。「さっちゃん見える?」って聞いたら「見えるよ、お姉ちゃん」って、白い糸のような目で見返してね。鼻はグショグショに崩れてわかりませんでした。口も腫れ上がって、鼻もそうですが、引きつっていました。ただね、口の中で「お姉ちゃん」って言ってるときに白い歯が見えるんで、そこが口だなってわかるような感じです。いまでも忘れませんよ。ぶざまなお化けみたいな顔でしたから。「さっちゃん、えらかったね」とほめてやったら白い歯を見せていました。
本当にこんなことってあるのかと言われるけど、私が処置したんだから一番よく見ています。 顔から下の方ですが、両肩が火傷でズルリっと剥けて、肩と肘のかたまりを両手に抱えていました。肘も剥けて、肩からずり落ちた肩と肘の肉を弟がこうひっくり返して手で持っているんです、皮もずるずる。もうちょっとよく見るとね、あれは骨じゃなかったかって言うんだけど、そこまではわからなかったです。とにかくツルンと剥けて、それを大事に抱えている。
体から火傷の水がどんどんどんどん出ている。黒い水と混じって。だから肉のずれ落ちている肩と肘は黒くなかったです。あとは全部黒い雨で真っ黒でね。「お姉ちゃん見て、ここが痛いんだぁ」って言うときには、そこは黒い雨は流れてあとから体液が出てくるんですね。それでこうやって抱えるようにして手に持ってるんです。右は肉が大盛りでしたけど、左手は小盛りでした。
その下からワカメというか、皮膚が垂れてきて、ぽたぽた、ぽたぽた、ずーっとあのつゆがしたたっている。焼けた皮がワカメみたいにぶら下がっているんですよ、五〇センチぐらい。ぽたぽたぽたぽたつゆを落とすんですね。それでもその肉のかたまりを両方の手につけているんです。私たちが邪魔になるから取ろうと思ったんですけど、絶対取らせませんでした。不思議な執着がありました。自分がそれを抱えていると元気になるっていう思い込みと言うか、希望を託していたのか、生きなきゃと思う意志をその肉にかけていたのかもわかりませんが。
弟は、村に帰ってきた第一号なんです。私の弟が一番最初に帰ってきた。ですから村の人たちは、広島市内がどうなっているのか、状況を知りたがった。崇徳中学の弟がそんな黒焦げになってよく帰って来た、気力、精神力がすごいとみんな思ったらしくて。それで私の家にいっぱい村の人が集まってきました。みんな市内のことを聞きたくて。でも弟の姿にはみな一様に息を呑みました。
みなさんが全部治療して靴を脱がしてくださったり、服も脱がしてくださったりしてね、ジャガイモを摺ったりして、手当てをしてくださったりしたんですが、その間、弟は直立不動のままでした。 「さっちゃん、座っていいんだよ」って言っても「みなさんに迷惑かける」って。兄弟で一番とんちもきく頭のよい子でしたから、みなさんに頭を下げて敬礼を繰り返し、その間もずり落ちそうな皮膚と肉のかたまりを抱えながら、「みなさん、憎いアメリカが広島に新型爆弾が落としましたが、ぼくは天皇陛下のために忠誠をつくします。天皇陛下のために頑張ります。みなさん今日はありがとうございました」ってお礼を言いましたよ。あのころ軍国教育っていうのは嫌でしたけどね、もう吐き気がするほど嫌でしたけど、あの精神力っていうのはどっからくるんだろうかと思うくらい、しっかりして言いましたね。そんな弟の姿に近所のみなさんも「天皇陛下もひどいのお」「こんな罪のない子に」「戦争は恐ろしいのお、神風は吹かんのか」と泣きながら、手分けしてズボンを脱がしていただいたり、敷布団にカッパを敷いてくださったり、ジャガイモを擂り下ろしたものを塗ってくださったりしました。
いろんな人が弟に話を聞きました。「広島の街はどんなだったかいのぉ」って聞く人がいると、「広島の街は見ませんでしたけども、みんな火傷で横になっておりました」としっかり答えてね。「でもみんな頑張ってますから。だから戦争で負けてはいけないから、天皇陛下のためにみんな頑張っているから」って一生懸命言っていましたよ。
「火傷で死んだ人が多かった」と言う反面ね、そういう言い方で必死で答えていました。「ピカッと光って、ドーンっていったときには、あんたはどうしたんかい?」って聞かれると、周りで熱くてみんな焼け死んだと私にも話してくれたことを、断片的に答えていました。とにかくあんまりしゃべらしちゃいかんって、みなさんが服を脱がしたり靴を取ったりして、横にしてくださったんですがね。でも、自分で肉のかたまりを持っている手をどうかしようとすると、絶対触らせなかったです。「手はけっこうです」と言って腕でかかえ込んでいて。痛いだろうからって取ってあげようとなさった気丈なおばあさんなんかもいらしたんですね。看護士さんをした人が。でも、弟は「僕はこのままでけっこうです、ご心配なく」って言うんで、そのまま頑張っていました。どこまでも。
上半身は真っ黒で、火傷でずるずるでしたけど、下半身は出かけるとき冬のズボンをはかせましたから、それが幸いしたんですね。ゲートルもなにもぼろぼろに破れていましたけれど、脱がしていただいたら、足はなんともなかったです。きれいでした。だから歩いて帰れたんですね。革靴もよかった。革靴を履いていたから、足も助かった。あれが地下足袋だったらやられている、歩いて帰れなかった、と言われました。革靴のところはきゅっとゲートルでズボンをしっかり縛りますでしょ、それが引っ掛かっちゃっていましたけど。当時はズボンの上に靴紐をしっかり縛り付けて、その上にゲートルを巻いていましたから、それが全体にくっついてしまっていたんですね。皮靴はパカっと口が開いてしまっていました。爆風か何かでしょうかね。それで、足に指がなかったんです。飛ばされたのか、焼かれたのか、歩いているうちに怪我してなくなったのか、そのへんはわからないですが、両方とも足の指はなかった。
靴を脱がされて横にしてもらって、火傷によく効くというのでジャガイモをすりつけてもらってカッパを敷いて横にしてもらったときも、肉のかたまりはこのままこうやって持って寝ておりました。体液がポタポタしたたり落ちるので下へ雨ガッパを敷いたんです。 私も兄と妹が弱かったので、わりに看病の道をちょっと本を読んだりして身につけていましたから、「さっちゃん、ここ痛いだろうから、位置変えてあげようか」って言いましたら、やはり頑なに「僕このままで、好きな格好で寝てるから」と言って離さなかった。

弟が帰ってきてから、村全体が慌ただしくなりました。六時頃か、もうちょっとあとでしたか……空襲警報、ちょっと時間は覚えてないんですけど、もう暗くなりかけていたような気がします。空襲警報でサイレンは鳴る、半鐘は鳴る、そのときは防空退避と決めてありましたから、避難しなければいけなかったんですけど、でも、私の家は父がまだ帰ってきていないので、弟も動かせないから防空壕に入れませんということで、許しを受けて家に留まったんです。みんな近所の人は正直に退避してね、留まったのは私の家族ぐらいではないかなと思うんです。
そのときは時限爆弾の警戒避難命令が出ていたんです。六日の夜中じゅう、時限爆弾が破裂するから退避せよと言って。私の村に原子爆弾の殻のようなもの--あとで聞いたら、たぶん観測器だろうということでしたが--二つ落ちたんです。それが時限爆弾じゃないかということで、そのたびに村にサイレンと半鐘が鳴り響き、村は上へ下への大混乱という状態でした。 でもやっぱりもう弟を動かせないから、家にいましたけど。あれがいつ解除になったのかもわからないんですよ。 家の前の道路も、六日の夕方からにわかに騒がしくなりました。市内からの負傷者がどんどん上ってきていましたし、村の国民学校が臨時の陸軍病院になったので、そこをめざしてどんどん人が集まってきていました。
蚊帳を吊って弟を寝かしていたんですが、そのうちに原爆にあった者に何か物を食べさせたり、水を飲ませたりすると毒がまわって死ぬから、食べさせたり、水を飲ませたりしてはいかん、という伝言が隣組から回ってきたんです。私、デマだデマだと言っていたんですけど、それをデマと言ってくれるなと父を通して私のところに言ってきましてね。デマですよ、あれは。だって、火傷がすごかったですから。あれだけ水を出すんですから、どこかで補わないと。でも、そのデマで何もやるわけにいかなくって、ただ寝かせて……体液を取って。
看病するといっても、何もすることができない。ただ、どんどんどんどん水が出るから、敷いたカッパを取り換えて敷きぶとんを整える、足をさすってやるくらいが、看病といえば看病でした。 水が体からすごく出るんですよ。びっくりするくらい。カッパを敷かないと蒲団がびしょびしょになるくらいなんですね。 あの火傷は、すごく水というか、リンパ液が出るんですよ。三日後に陸軍病院を手伝いに行かされましたけど、そのときも同じように水がすごかった。これはあとで話しますけど。 水は出ているだけおっぽっておくよりしょうがないんですね。だって手のつけようがないんです。近所の人もね、来て下さる方は、蚊帳の中で熱かろうというんで団扇(うちわ)であおいで下さったり、扇風機をつけたりしてくれました。
弟の真っ黒になった体にジャガイモを摺って、メリケン粉を入れて。あの頃は物がないのでみなさんがメリケン粉を入れてねばみをつけて、背中に貼って下さったんですけどね。でも、みんなずり落ちちゃって、役に立ちませんでした。ジャガイモがみんなずり落ちちゃって……。 中から出るリンパ液と混ざってみんなボロボロになって。寝ている所にボロボロ散らばって。ジャガイモが腐ってとても臭(くさ)いのと、原爆のにおいとでものすごく臭かった。あまりに臭くって、みなさんみんな来ると鼻を背(そむ)けましたね。弟自体も臭かったですから。死人のにおいだと思っていましたから。死んだ人を焼く時のにおいが村でよく流れてくることがあるんですよ。それと同じだったので、「今日は死人のにおいがえらいするね」と言われて。いやでしたけどね。それにもっと強烈なジャガイモの腐ったにおいがさらに加わって。私も、弟にも父親にも言いませんでしたけど、吐きながら看病しましたもの。
横になってからは、うわ言と正気を繰り返していましたね。もう寝かされてからすぐです、うわ言が始まったのは。すぐまた正気になると私に断片的に話をしてくれました。「どうしたの。聞いていいかい」って言うと、「いい」って言うから「お姉ちゃん、こうだよ、ああだよ」って言うんです。大まかな話で、どこの町を通ったの、橋はどうだったの、ってさらに聞くと、断片的ではありましたけど、またそれについて話をしてくれて。私も聞きたかったから聞き続けたけど、しばらくするとまたうわ言を始めて……
弟は爆心地から八〇〇メートル、広島城のそば八丁堀で、建物疎開をしていたとき被爆したんだそうです。近くに八丁堀白島線という線が出ていたんですけど、広島城のすぐ東だと言っていました。 弟が断片的に話してくれた話では、点呼をとっていたら空襲警報が鳴ったから、防空壕に入ったと。それからまもなく警戒警報に変わったからみんな出ていって、再点呼を始めた。「では、これから……」っていうので敬礼をしているときにピカって光ってドンと来たというんです。それでわからなくなったそうです。
右と左の火傷の度合いが違うんです。恐ろしかったですよ。右の耳はなく、反対の左の耳は小さくなってぶら下がっていました。手も、左の手はややきれいなのに、右の手は手の甲の火傷がひどく、黒く爛れ落ちていました。腕も、二の腕から、肩から、肉が焦げてごっそりずり落ちるようで……それを抱えて。ちょうど敬礼をしていたとき、右上の方からもろに光を浴びたということなんですね。
弟の話によると「ピカって光ってドンと来て、わからなくなった。しばらくしてあんまり熱いので気がついた。気がついたらもうみんな周りに転がってた」と。それで先生と生徒、みんな起きてくれって、起こして回ったけど誰も起きてこなかった。「それで僕ね、どうしていいかわかんないからどうしようと見回したら、お父さんの顔が見えた。お父さんの顔が見えたから、『ああ、お父さん』って言って抜けていったところが、火の層が立っていた」と。結局そこで火に囲まれた形になったんですね。でも、「そのあたりは火の層が薄かったから、出て自分の帰る所を見ようと思ったら、お姉ちゃん、広島の街、吹っ飛んでなかったよ。お父さんともはぐれた」って言いました。
「それからどうしたの?」って聞いたら、「黒いかたまりの人たちが来てね、それがサーッと来たから僕もその中に入って逃げた」と。弟はまだそのとき自分は真っ黒いと思っていないんですよ。相手の黒いのだけは意識しても。自分も黒焦げになっているということをそのときはまったく思っていなかったんですね。で、弟が言うのには、その中に入らざるをえないから、いっしょになってずっと行った、と。それでその時に「お姉ちゃん、地獄へぼくは堕(お)ちるよ」って。「どうして地獄に堕ちるの」って聞いたら「死んだ人の上、助けてくれーって言ってる人のところをみんなといっしょにその上を歩いて逃げた」って。
崇徳中学校の生徒と先生が五一〇名そこに行ったんですけどね、六日の日に生きて帰ったのが弟と数人だけであとはほとんど全部死んだそうです。生きている人は三人だけとか聞きました。 八時一五分に弟はそんなふうになって、それから黒いかたまりの一団といっしょになって逃げて救護所へ寄ったというんです。
よく原爆展に出てますけど、臨時の手当てをする救護所へ寄って赤チンをつけてもらって、広島駅、横川を通って可部駅へ帰るんですけど、どう帰ったらいいかって聞くたびにまたバックして来たりして、相当余分なところを歩いたみたいですね。 「そのころ何時ごろだったの?」と私が聞くと、ただ「黒い雨に当たって痛かった」って言うんです。「雨が降ったの?」って聞き直すと「黒い雨が降った」と言うんです。真っ黒い雨が降ったそうです。それが「体に当たって、お姉ちゃん、痛かった。肩が一番痛かった」って言ってましたけど。「お姉ちゃん、あれはね、お昼過ぎてたよ」って言ったり。「いっぱい救護所へどんどん、どんどん人が来てね、兵隊さんが『帰るのはあっちへ行けっ、こっちへ行け』って言ってくれたから、ぼくはちょっと横道へ、ちょっと遠回りして来たよ」って言っていました。
仰向けに寝られないので、後ろに置いておいた座布団にダラーンともたれて話し続けました。 「広島の街は一面焼野原、死んだ人たち、怪我をしてうごめいている人、血だらけの人で街は埋まっていた。道らしい道もなく、そういう人たちを踏み越えて逃げる人たちでいっぱいだった」「『助けて』『水、水……』『先生』『お母さん』『お父さん』とすごい悲鳴が倒れた家屋から聞こえていたけど、僕、何にもしてあげられなかった」「防火用水に人が山のようにうず高く重なっていた」と。
そういうようなことを断片的にでも話すんですよ。ただ精神力でしゃべっていたようでしたね。「もうあんまりしゃべると体に悪いからもういいよ、またあんたが元気になったら、お姉ちゃん聞くからね」って言ったんですけど、また話し続けて……。うちの子どもたちはつねにその日にあったことを親に報告するように義務づけられていたんですよ。何があったかというようなことを、あらかた言わないと。とにかく、もういいと言うのに、しゃべり続けましたね。
普通に歩いたら、広島城の東から亀山村までは約一五キロですから、四時間以上かかります。帰りは上り勾配ですし、ましてあのように重傷を負っていたら、二倍の時間がかかっても不思議ではありません。横川から可部線が分かれて出ていて北上するんです。横川から可部まで電車で三〇分ですから。 すでにずいぶん遠回りをしてしまっていたみたいですが、まず横川へ出るのに、広島には七つの川が流れていますから橋を一つ渡らないと横川に出れないんです。その橋を渡ろうとしたら、橋はもうなかったと。ない代わりに「お姉ちゃんね、橋より高く人が埋まってた。水面が見えなかった」と言うんです。それにみんなが上がって行くっていうんです。で、僕も横川の駅に出たいから、みんなといっしょに悪いけど登っていったと。ところが、私の弟は革靴で滑って転んだもんですから、下へストーンと、川の底に落ちたわけです。「橋は渡れないから、人の上を登っていたら、滑って落ちた。下からひょっと見たら、電車の鉄橋が壊れていたから、それへ登って。時間がかかったよ、だけど渡って来た」と。そのときに「お姉ちゃんね、僕、水があったから水を飲もうと思った」と。でも、水を飲みたくても手がこういうふうだから、思うように飲めない。だから結局飲まないで来たそうなんです。
だけど、また途中で我慢ならんから水を飲もうと思って来たら、トタンかなんかわからないですけど転がっているところに水が溜まっていたと。「その周りに、おねえちゃんね、人がいっぱい死んでたよ」と。でも水があったから飲もうと思ってしゃがんだら、真っ黒いボロボロの男の子と女の子が三人来て「お兄ちゃんどいて、ごめん」って言って、弟を突き飛ばした。「先に飲ましてー」って言って飲んだそうです。そしたら飲んだ子はそのまま首を突っ込んで死んでしまったというんです。「僕ね、お姉ちゃん、それを見たら、飲めなかった」と。
で、横川に着いて、横川から可部線の線路に出たそうです。そしたら、市内といっしょだったって。「横川の駅も線路もメチャメチャだった。横たわった人がいっぱいで、みんな呻いていた」って言ってました。「線路の上にみんな倒れていて歩くところがなかった」と。「助けて」とかいろいろ言っていたけど、どうしてあげることもできなかったし、人の死んだ上や、生きている人の上をどんどんどんどん走って行った。倒れている人の上をみな歩いていたって言ってました。
横川の次が三滝という駅なんです。その三滝に崇徳中学校があるんですが、「三滝にね、電車が二台止まってた。お姉ちゃんね、すごいよ。赤とも黒とも何とも言えない幽霊電車だ。その中から窓という窓には死体がぶら下がってた」と。 とにかく家に帰りたい一心で線路の上を歩いているうちに、赤ちゃんが火のついたように泣いていたから見たら、裸で死んでるお母さんがおっぱいをあげていたっていうんです。死んでもおっぱいが出てたって。やっぱり、自分が母がいなかったからその点は敏感に感じたんだろうと思うんですけどね。死んでもまだおっぱいが出ていた。お乳のまわりが白かった。それで赤ちゃんが泣いていたから、手は使えないので足で赤ちゃんの頭を上げてやったと。そうしたら、赤ちゃんがこうやって乳房を口で押して乳首を探したけど、乳首が自分で見つからなかったって。だけど、僕はそれ以上できないから、そこを離れて歩き続けたって。
途中でまた親切なおばさんが「暑いだろうに」「痛かろうに」と言って白い襦袢を掛けてくだすったって。「嬉しかったよ」って言ってました。帰ったときは、その白い襦袢をしょってましたけど、白い襦袢も真っ黒で背中の火傷の中にみんな食い込んでいましたけどね。白襦袢が真っ黒になってるんです。凄かったですよ。 運よく祇園かその辺りから電車が折り返し運転をしていたんです。古市橋かな。そこから電車に乗って。古市橋の方は、私の記憶ではあんまり原爆の影響は受けていないんです。爆風とか何かあったかもしれませんけれど、うちの方とあまり変わりませんでした。とにかくもし電車に乗っていなかったら弟は途中で死んでるんじゃないかと思います。
近所の人はありがたかったですね。ジャガイモをはじめ、いろいろな物を持ってきてくれました。ふだんは隠している人がわざわざ持って来て下さった。人間って嬉しいですね。あんなに物がなくておジャガなんてとてもないと思ったけど、みごとなおジャガが集まりました。そしてさらにお見舞いだといってパイナップルやバナナやそれからリンゴ、缶詰メロンと、ありとあらゆる物をいただきました。うちにはそんなもの何もなかったですから。けっこうあるもんですね。いざという時の人間のヒューマニズムというか、それはありがたかったです。
私は父に「お父さんパイナップルすごいね、パイナップル食べられてすごい」「あれはな、ハワイに親戚がおってじゃけ、送ってきたんだ」とか父は言ってましたけど、バナナもありましたよ。 ただね、それを食べさせると死ぬと言われたので、ただ枕もとに飾っておくだけです。原爆に遭った者に何か物を食べさせると毒がまわって死ぬというので、何もやるわけにいきませんでした。
母が生きていたら、それらを弟に食べさせたんじゃないかと思っています。食べさせたら死ぬと言われたけど、今から思うともしあのとき食べさせていたら、まだ生きてたんじゃないかなと思います。バナナもあったしリンゴもあったし、あんなにいろんなものをいただいたんですから。 あとからわかることなんですが、あの時デマに惑わされず、どんどん水を飲ませた人は助かっています。水を飲んで吐いた人が助かってますよね。あれだけ水を出すんですから逆に入れてやらないと、脱水症状になる。そのことはとても後悔しています。
夕方から表がにわかに賑やかになっていたんですが、広島から逃げてくる人たちが夜になってさらに増えてきました。もう行列です。夜中じゅうずーっと続きました。 村はまだ、騒然としてました。半鐘が鳴ったり、警報がスピーカーから出たりしていましたけれど、とにかくぞろぞろと人が来ているんで、びっくりしました。私のところは少し高台の、太田川が展望よく見えるところでしたから、ちょっと窓から見たら、被爆者の行列がずーっと、家の前を通って小学校へつながっていました。
六日の真夜中でしたか、一二時前だと思います。弟を看病していたら、家の外がばかに明るいんですね。それから、わんわんわんわん声がするんです。こわいから外へ出なかったんですよ、しばらく。何かもう恐ろしくてね。でもあんまり明るいし、わんわん声がするので、何事かと思って表へ出てみると、雲の火の玉が私の村の上に来てたんです。膨張して、大きな風船みたいになって……。家の真上に火の玉みたいなでっかいのが、手の届きそうなところに、メラメラメラメラ、真っ赤でしたね。七色の色で火の玉が。雲がポーと上に上がって。それが風にのって、私の村にちょうど来たんです。もう家で退避も何にもできないのでね。もうどうなってもいいとあきらめていましたけど、そのうち消えてしまって……。
たぶん、広島市内の火事が、広がってきた雲に映ったのか……。わんわんする声は、人の行列がその頃もっとすごくなっていましたから、それが垂れ込めた雲や山の間の川面に響いたのか……とにかく不思議な現象でしたね。こわかったです。真っ赤で遠くまで見渡せました。 不夜城のようでした。太田川の土手を避難していく被爆者の行列がえんえんと続いていくんです。火傷と体液で黒光りした体に毛布をはおり、チリチリに焼けた頭で海坊主のような怪物にも見える行列が、真っ赤な夜にくっきりと浮かび上がっていました。火車のような夜の空の下の、死の行進の光景は凄惨そのものでした。川面に黒と赤の影を落としていました。地の底から湧いてくるような呻き声が夜どおし続きました。
父は夜中の二時頃帰ってきました。九時頃出て行って夜中の二時に……。 それまでずっと弟を捜して歩いていたわけです。父の手に、中学校の記章が握られていました。学校の帽章を父が何個か持って帰りました。三滝の中学校にも行ったそうです。前の晩、弟に「どこへ行くんだ」って、お風呂に入って聞いたそうですよ。そしたら「広島城の東の所へ建物疎開に行くんだ」と言ったと。ですから、父は八丁堀へ行ったらしいんです。
ところが、もうね、「お父さん、広島市内はどうだった」って聞いたら、言いたくないって怒ってましたけどね。現場へ行ったことは確かです。火事がすごいところもあったから大回りしてやっと帰ってきた。わらじなんかなくなっていて、はだしで帰って来ました。 弟が戻っているのをまったく知らなかった。それで、もし死んでいたら、ひょっとしたらその死体なのかもしれない、と、そばにあった中学校の帽章を持ってきたんですよね。 でも帰って来ていたので、もう、びっくり。大喜びして。弟も喜んで「お父さんどこに行ってたんだ」と。その時は正気に戻り、父親とちょっと話をして「お父さん、心配せんでも元気になるから」と言って。父が「よう帰ってくれた、ありがとうよ」と顔をクシャクシャにしていました。
でもそうしているうちにまたわからなくなって、うわ言のほうが多くなった。弟が何を考えているのか支離滅裂になってきて哀れでした。それまではまだ正気で話すのも多くて、断続的に続いていたんですけどね。それからは逆になって教育勅語とか「勝ってくるぞと勇ましく」とかね、君が代とか大きな声で歌ってね。天皇陛下万歳とか言ってました。それで、寝てても直立不動のマネをしたり、これはもうすごいですね。でも、ときどき間にふっと正気に返るんですね。
翌日は弟の容態に別に変化もなかったです。ただうわ言を繰り返して「水をくれ」と言う。痛ましいほど水を欲しがりました。自分で焼け爛れた口に水をすする音を立てるんです。シュルシュルーという音を立ててね、ス、ス、ス、スッとすすってね。「水、水」と言う。その声が元気なんです。「天皇陛下万歳」とか「水」とか言う言葉の音が高いんです。弟の声はだいたい高い方でしたから、声はばかに元気だった。だから弟が死ぬなんて思いませんでした。父も言っていました。「声が元気だから、死ぬとは思わんかった」ってね。 七日はやっぱり弟についてました。変化があったらいけないからというのと、情報を聞きに来るお客さんが多かったので。
七日も、八日も、もうどんどんどんどん、私の家の前はとにかく被爆者の行列です。 どのように設置されたのか私にはわかりませんけどももう六日の夜には小学校が病院になって、それからはみんなそこへ列を成して続きました。トラックでもたくさん連れて来ていました。ずーっと行列は続きました。
八日でしたか、よく覚えてないんですけど、私は急に、行方不明の従姉妹を捜しに広島市内へ行くことになったんです。女学校へ行っていた従姉妹が戻らなかったので、近所の方と組んで捜しに行ったわけです。父に看病を代わってもらって。弟の看病といっても、足をさすってやるくらい、下を取り替えるくらいでしたからね。私と父と近所のおばさんとが看ていましたから、その間、私が父に代わって、従姉妹とか広島の親戚の人を捜しに行ったわけです。 一人では行かれませんし、危ないので、四人で組んで行ったように記憶しています。男の人が二人、初老の男性もいましたか、それから女の人が二人、村の中でちゃんと組んで行きましたけれどね。女学校に関係のある人とか、すぐ近くの崇徳に関係のある人と組んで行ったんですけど、私も暑いですから赤い花柄の日傘をさして行ったんですよ。
だんだん市内に入って行きますと一面焼け野原ですから、そこにまだ人の死体ももういっぱいありました。倒れた家の板の下にも。猫とか犬とかもいっぱい死んでるんですよ。馬もちょっと見ましたけど、馬の死んでるのはすごいですね。大きな腹ワタが飛び出して全身ウジだらけ。恐ろしい形相で死んでいました。猫とか犬とかの死骸は、熱い火でカリカリに乾燥してハエもウジもたかってませんでした。その隣りにある人骨らしきものには、ウジがいっぱいたかっていましたけど。
横川の駅に立って宇品の海が見え、四人とも感激しましたが、見渡す限り焼野原になってしまっていたのには驚きました。市内は家族を捜す人々で溢れていました。 まだ死体が続いたまま片付けていないところを通ったんですよ。その辺りは家なんかなかったです。道らしい道もなくて、そこに死体がずっと連らなっていて……重なって……手や足がいっぱい出ているところをトントン歩いてね、それを踏みつけて歩いていくと、手や足が取れたり折れたりするんですね。忘れられませんね。それでもその頃はもう死体がすごいのに慣れてしまって、平気でした。
三篠(みささ)橋か相生橋かちょっとわからないんですが、半分橋が壊れて半分残ってそこを歩けたところがあるんです。長い橋が縦に割れて、落ちているんですが、半分はなんとか形を残している。そこを歩いていった時に、その橋桁に、自転車がそのまんますっぽりはまっているんですよ。めり込んでいるんです。ばっと入っちゃってね、人もぺシャンと押し付けられているんです。入っちゃった人の体にウジがわいて、ウジのかたまりで盛り上がっていました。もうあのときは広島の町はウジとハエだけでしたから。自転車がめり込んでそこへ死体もぶっつけられて、全部にウジがわいて。私はもうたまらないから、手袋をしてウジを落としましたけど、いっしょに肉片も落ちました。いったい自分が何をしているのかわからなくなりました。
母校の安田学園にも行きました。でも、情報はわかりませんでした。母校は焼けてしまってね、なんかもう情けなかったです。四人とも気分が悪くなり、吐きました。 川へ捜しに行った時に兵隊さんが川に浮かんだ死体を引き上げているんですよ。引き上げるのに、長い竹に鳶口っていうのを入れて引っ掛けてるんです。だけど、引っ掛けて上げてきても引き上げる時に首がみな落っこちちゃう。首のないのが上がってくるんです。首がついているのは、ちょっとの間です。これが人間の尊厳か、これが人間かと思ってね、私、橋のどこかで大声を上げて泣いた憶えがあるんですよ。後から首は首だけで引き上げてくるわけですよ。その首に、目とか鼻とか口の穴までみな、ウジがいっぱい入ってました。広島の町はもうほんとうにハエとウジの町でした。 いっしょに行ったおじさんが「戦争はいやだ。ハエやウジにまみれて死ぬのはいやだ。天皇陛下もいらない」と男泣きしました。
結局消息は誰一人つかめませんでした。みんな吐きながらいたたまれなくなり、正午で切り上げて帰りました。 人間の尊厳というものは何なんでしょうね。ウジやハエがたかるようじゃ人間じゃないですよ。私つくづく生きる希望を失ったことがあります。初恋の人のお嫁さんになりたくて、その人と許嫁になってお嫁になることを想い描いていたのに、その人も戦死。それこそ、オーバーに自殺しようと思ったほどです。たまんなかったですよ。人間がバタバタ死んでいくしね。村の人でも息子が帰ってこない、どこそこのおじさんも帰ってこない。帰ってきた人はほとんどいなかったですよ。皆、どこで死んでいったかわからない。それがほとんどでした。これが戦争だ、兄の言っていたことが正しかったとつくづく思いました。
小学校を臨時の陸軍病院にしたので、その間にも被爆者の人がどんどんどんどんそこに運ばれて来ました。便利な所でしたから。太田川の土手を私の家の前を通って逃げて行く人や、トラックで運ばれる人がその病院へどんどん入っていきました。 入院患者が多くなって人手が足りない、看護兵・看護婦が必要だから、村から人手を出せということで、村に人員が割り当てられました。割り当てられてもみんな年寄り子供でだめですから、結局若い者に回ってくるんですね。 私だけではないんですが、それで、九日の日でしたか、午前と午後に分かれて当番が決まったんですけど、一日出ました。弟が死ぬまでに二回ほど国民学校に手伝いに行きました。午前と午後の部に分かれてましたけど、隣組の代表ということで行ったんです。そのときには、運動場にはトラックが来て、これは男性病棟、これは女性病棟って振り分けてましたけどね。運動場にすでに人がいっぱい死んでましたよ。ハエとウジがたかって。生きている人もいましたけどね。死体置き場は満員でした。
弟が死んでからも病院には手伝いに行きましたから、延べにすると一週間くらい行きましたでしょうか。 男性病棟、女性病棟に分かれていましたけど、私は男性病棟へ行くように言われたんですね。いっぱい病棟がありました。学校全体が病院になっちゃったんですから。何にも聞かず、軍医が、山中さんはここの当番ですから、ここの病棟でやれって言うんで、行かされて。そこには女性は私一人しかいませんでした。そんなことをやるのは初めてでしたから、とまどいの連続でした。とにかく驚くことばかりで。
まず革靴がビチョビチョになるほどみんなの液体が流れ出て、教室の中がビショビショでした。膝から下が全部ビショビショになるほどでした。リンパ液がすごいわけですよ。ダラダラダラダラと、ローソクのロウみたいに流れてるわけですよね。その中でまた耳をほじくったり動いている手がもうすごいんですよ。初めはもうこわかったですよ。それでおろおろしていたら、軍医さんが「尿瓶(しびん)持って来い」って怒鳴るんですよ。みんなほとんど座ってる人でした、板の間にね。
「尿瓶持って来い」、「はい」と言って。看護婦に間違われてるんですね。事情をよく知っていて、てきぱきできるもんだと思い込んでいる。勝手がわからないですから、もたもたして、辺りを見回しても尿瓶なんてものは何もない。尿瓶がないから軍医に聞いたら、缶詰めの缶に針金を付けたのを突き出して「これ持って行け」と言う。びっくりしながら「はい、持って来ました」と行くでしょ、そしたら「ばかやろう、何してるんだ。当てろ」って言われて。で、みんな真っ黒でしょ、どこに当てればいいかわからないから、また軍医の所へ行って聞いて。「どこへ当てればいいんですか」と。すると「どこでもいいから当てろ」って。それで、その辺に缶をポンポンと当てろと言われるので、そうすると、もう男の人はそこからオシッコが出るんですよ。そのオシッコが首の方から出てみたり、横っちょから出てみたり、まともなところから出て来なかったです。オチンチンが伸びてたんです、焼けて。
火傷で消えちゃってる。先っぽがどこにあるかわからないですよ。みなさん火傷でまっ裸ですから、まともなところからオシッコが出ないんです。こっちの下から出たり、背中の方から出たりね。どうかするとビューと上がってきて、何回も顔にかかりました。火傷でリンパ液がどんどんどんどん出てますから。ウジとハエは体中ついてますしね。 黒焦げの患者さんなのに、あちこちで手を動かしている。しきりに動かしているんですね。何でみなさんが手を動かしているかっていったら、頭や耳にウジが入っていて痛いから取るっていうんです。指を突っ込んで、みなさん上手でした。必ず一匹ずつ出して。口からも鼻からもね。「ハエが刺すよう、ウジが咬むよう」と呻いている人がほとんどでした。 その人たちはもう死なれましたけどね。結果的にそこへ収容されている人たちは全部亡くなりました。誰一人生きていません。
口の中にウジが湧くともうだめと言いますか、あとで軍医から聞いた話なんですけど、動物というのはカンが鋭いものでこの人間に栄養がなくなったと思うと出て行くんだそうです。結局ね、動物はだめだと感じたら出るんだそうです。だから口から出て来たというのはもう生きてない証拠。ウジに言わせれば、ここにいたら自分の命がなくなるというんで外に出るから、軍医なんかも、おっぽっとけということでした。むろんそのあとも何日間か生きましたけど、もう口から出るようになったら、まもないということでした。足はふやけていましたけど、みんなそれぞれがウジを取っていて、その手が動かなくなったら死亡ということ、自分で取る力がなくなったら、死亡でした。ウジを取る手がぴたっとやんだら、軍医がもう死亡と書くんです。そうすると毛布を持って来まして、包んですぐ渡り廊下に出しました。実際もう、死んでいましたね。 陸軍病院にはまだあとで何日か働きました。患者さんたちを介護しながら、そうしたことをずっと見ていましたね。とにかく弟を看たり、訪れる人に対応したり、市内に行ったり、陸軍病院に手伝いに行ったり、猛烈に忙しかったですね。
人は技術屋で無線のすごい腕を持ってたんですよ。東京の専門学校を卒業して父親のいる上海に行って無線技師として働いていたところ、現地で召集されて、幹部候補生になったとか。終戦後、主人は一年遅れて安浦に引き揚げて来たそうです。 電気技師としての腕はすばらしくよかったんです。テレビなんかでも直すのが器用でしたから。ちょうど私が結婚するころは電気屋をやっていたんですよ。二三年のころは。
昭和二八年から、主人は無線の技術を買われて、広島の図書館からアメリカ大使館に引き抜かれたんです。それで東京に移りました。どういうルートで引き抜かれたのかよく知らないんですが、なんかその頃は、アメリカ大使館に勤めてるってことは言っちゃいかんよと、言われてましたね。大使館の同時通訳と技術畑を一手に引き受けていました。 子どもが生まれる時になって初めて、原爆の話を主人にしました。やっぱりね、子どもが生まれた時に、原爆のせいでどこかが不自由な子どもができたらどうしようかって、その思いたるや、もう深刻でしたから。それは主人にしか言えないでしょ。 それまで原爆ということは隠してましたけれど、主人に「原爆でこうだったからね、戦争はいけない」って、まあ主人にしか言えないでしょ。ですから結局言いました。お腹に赤ちゃんができたら、話さざるを得ませんよね。 戦争の話をすると、主人も告白してくれて。「俺も、お前だから言うけれど、部下からチャンコロを突き刺したことをしょっちゅう聞かされた」って。主人は兵隊に入ってトントンと上がってね、位が上がっていったんです、伍長、軍曹、士官候補生……とね。。軍ですから、私に言えないこともずいぶんあったみたいでね。
主人は「原爆は正しかった」とは、言いませんでしたけれども「日本もやったんだからしょうがないよ」というような解釈でした。主人も実は心に大きな傷を持っていたんですね、今考えると。そのときはでも、原爆を落とさなくっても負けるのは決まってるじゃないかと主人に反発したんですけどね。「原爆は絶対にいけない」と言うと、主人もしまいにはうるさそうな顔をして「お前の好きなようにしたらええ」と言っていました。私も昔の女のタイプです。自分の青春は戦争で真っ黒けでしたからね、結婚と言ったって、顔も見ないで結婚した。主人はハンサムでしたけど(笑い)。ですから、青春が戦争で彩られているだけに、なおさら、いろんなことが、原爆と弟に傾いていったんじゃないかなって思うんですよ。
幸い、ほんとうにありがたいことに、健康な子どもに恵まれました。恵まれたことをほんとうに感謝していますね。我が子はあんな原爆で殺したくないと、主人に内緒で戦争の歴史を勉強しましたが、姑に取り上げられました。姑には被爆のことでチクチク私の父に告げ口されたり、つらかったですね。 主人はお酒が好きだったせいか、脳血栓で一度倒れて、体が不自由になったんですが、アメリカ大使館から来てくれって言われて、私がよく付き添いで行きましたね。大使館の人に、「日本人は意見を持たない、バカだ」って、いろいろ日本の悪口とか聞かされましたけど。一番可愛がってくだすったのがライシャワーさん、あの人はすばらしかったです。
そのあとも主人に「原爆はいけない。戦争はいけない」って言いますでしょ。すると「うん、うん、そりゃいかん」って。「お前は身内も被爆していちばんわかってるんだから、運動がしたかったら、していい」って言ったことはあったんですけどね。そう言いながらも、私が何かやるとすぐ主人が彼の両親に電話を入れるんですよ。とにかく主人は両親の言いなりでしたから。主人の両親が死んで、まもなく主人は昭和六〇年に亡くなったんですよ。身体障害者になって、脳血栓になって、最後はまた脳血栓ですけど、ただ家で死んでくれましたからよかったんですけども、三度目はだめでした。苦労しました。
それで一人になって、さて何をしようかと、いろいろ考えて、原爆禁止の運動の方に行ったんですね。 子供たちはその運動へ行くことをある程度理解してくれていました。ただ健康だけは心配してくれてね。 それ以前、東京から神奈川に転居して、長男が小学校三年生の頃からさらに娘、次男のPTA活動を通して地域の活動に参加させていただきました。すばらしい人たちに恵まれてお母さんたちの手で市からいろんな要求に応えていただきました。市の保守的な壁もなんとかみんなで突き破って……。
主人が亡くなってからいろんな原爆の大会によく行きました。運動に参加するようになって、広島以外で参加するとき原爆手帳があるとずいぶん違うことを痛感するようになりました。発言の重みがちがうんですね。主人が三度目の脳血栓でちょうど六〇年に死んで、六一年に、四十九日も終わって一周忌も済んだので、広島に行って、被爆手帳を取りたいと思ったんです。そうしないと被爆者のことが東京や神奈川で身を入れてできないと思ったんです。運動に参加する上で必要を感じたわけですね。
八月の二〇日までに広島市内に入った人は原爆手帳をもらえるという規則があとでできていたんです。私もそのときまでに何回か入っていましたから、取れると思ったんです。 それで、広島へ行って被爆手帳を取りたいと思って行ったら誰も証言してくれないんですね。妹も父も死んでいましたから。親戚、おばやら従姉妹はどうして証言してくれないのかって聞いたら、下手に証言したらあなたの被爆手帳を没収しますよという噂が流れた、というんです。
納得できない気持ちで、先輩に会いに行こうかなと思いながらお友だちに「明日帰るからね、また来るからね」って言った帰りのことでした。ちょうど小学校の恩師に会ったんですよ。いろんな話をして「証人になってくださる方がいないんです」と言ったら、「あんたはね、生真面目なほうだから」と先生がおっしゃってくれて。陸軍病院の看護婦さんとして介護に出ていたときのことをよく憶えていてくださって、「一番よくやった」とおっしゃってくださった。自分でそんなの憶えていなかったんですけど。 で、もう一日泊まっていけと言うんです。「私が何とかしてあげるから」っておっしゃるんです。それで恩師が市役所へ行って直接交渉してくれたんです。その恩師は被爆手帳を持っていないんですよ。手帳を持ってないんだけども、交渉してくれた。女の先生でしたけどね「どうして先生は手帳をお取りにならなかったんですか」ってたずねたら「山中さんね、私はね、いろんな婦人の団体の役員をしてるから、別にとらんでも、みんなが被爆者と思うてやってくれるから、いいんです。だけどあんたと私じゃやっぱり違う。あんたは広島の外にいるから、やっぱり必要だ」と。「ちょっと待っていて」って、手帳をもらって証人になってくれたんです。で、市が認めてくれて六二年に早々と手帳がおりました。
川崎ではわりに原水爆反対運動が活発でした。手帳をいただいたので、じゃあ仲間を集めて、みんなで運動を盛り上げようと思ったら、やっぱりそうはいかなかったですね。運動の会のなかでも一部の人が牛耳っていたり、見栄でやってるような人も少なくなかったですから。名前のみの人もありましたしね。 手帳をもらって神奈川県被災者の会の委員を五年くらいしましたが、いろいろな団体や政治団体と絡んでしまって、純粋な思いが伝わらないことが多いんですね。それがひじょうに残念なんです。 被爆の会の人に会うと「あなたは考えすぎなのよ、考えたってしょうがないじゃない、どうすることもできないんだから」と言われるけど、やっぱり弟のことやあの頃のことを思い出すと、つらいんです。弟の姿を思い出すと、これでいいのかって。
この年頃になって、いつのまにか弟が、自分の中で子供になったんですよ。夢で。私、今七九歳ですから、一四歳で弟と思っているうちにいつかしら自分の子供のようになった。今でもやっぱり夢に見るのは「お姉ちゃん、あれだね」ってけらけら笑ったりするあのときの表情のままなんですね。それがあまりに鮮やかなんです。我が子と思うようになりました。 それと広島にたびたび帰りますけどね、広島の街をまだ満足に歩いたことはないです。わかります? 足の骨の上とか、腕の骨の上を歩いてポキポキ折れる音を聞いたそのときのことを思い出したりするんです。それがこわいんですね。私の足の裏が覚えているんです。 そのこわさが私の体に残っている限り、弟の顔を思い出す限り、私は原爆の現実をもう二度と人々に味わわせてはならないことを痛切に感じるんです。弟がどこかから呼びかけているような気がして、私を原爆や戦争を繰り返してはならない運動に駆り立てていくんです。
平和行進も八年間、県内通し行進も一三日間やりぬきました。私の一歩一歩が殺された被爆者の供養になればと、広島の原水禁世界大会にもたびたび参加しましたが、でも広島にはたいていあまり泊まらないで帰ります。親戚や従妹の墓があっても、骨がないので、辛くて縁遠くなりました。広島の街は夏でも足許が冷たいように感じて、行きたいところもあるのですが、足が向かないのです。人骨の上にあるような、ウジとハエの街の記憶があまりに強いのです。懐かしいですが……。今はただ戦争反対の立場から小学校や地域の証言活動をしております。
広島原爆ドーム
二〇〇五年二月一三日
神奈川県秦野市・喫茶店「田園」にて/聞き手●寺田智・五十嵐勉)
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