編集後記 第一集

2016-09-06 | 第一集
被爆証言を遺そう!1集編集後記

●●編集後記・・・・ヒロシマ青空の会  

                         



●逃げるのがやっとだった原爆投下の日
            --被爆者の声を未来に--                           

立川太郎(69歳/元広島電鉄電車運転士)

 広島の電車の運転をしながら、私はたくさんの被爆者に接してきた。まぶたが赤剥けになった娘さん、板にコロを付けてもらって座ったまま移動することしかできない女性、両手の手首ともなくなった男の人が、胸ポケットから運賃を取り出してくれと言われた時のこと。どれもこれも私は忘れることができない。
 こうした人たちを電車の中で多く見てきた私は、今回、あらためて被爆者の生々しいお話を聞かせてもらった。当時、一三~二二歳だったこれらの方々は、負傷した体でよくここまで生きて来られたものだと驚嘆した。

 太陽が照りつける真夏の朝、一瞬にして真っ暗くなり、何メートルも吹っ飛ばされていて着ていたものはボロボロ。しばらくして、かすかに明るくなった方向をめざし逃げようとしたがだれもいない。何と心細かったことか。これが学徒動員された少年少女の姿だったのだ。
 だれもが自分の所だけがやられたと思い、母の待つ我が家へと心は急ぐが方向さえわからない。途中、「水をください」「連れて行ってください」「助けてください」と家の下敷きになって弱々しくうめく声がしても、迫り来る火を避けて逃げるのがやっとだった被爆者。その「置き去りにした」という思いは、今も罪悪感にさいなまれ、心の傷となっている。
 ましてや、納得のいかないまま死を待つしかなった人々の無念さは、推し量ることさえできない。幾日もかかって、やっと探しあてた父母兄妹を、満足な治療ができずに亡くし、拾い集めて来た燃えかすの木々で、自ら荼毘(だび)にふさなければならなかった幼い姿がそこにはあった。

 こうした証言は決して過去の出来事としての話にすぎないものではない。ミサイルや原子力潜水艦、無人爆撃機が配備されている今日、いつまた核兵器が使われ、ヒロシマの惨禍が繰り返されるかわからない状況にある。その恐ろしさから逃れる道を求めることは現世界の最重要な課題となっている。
 証言に立ち会わせてもらった私は、辛い体験をよく話してくださったことに心から感謝と敬意を表したい。
 また、被爆絵を描かれた高齢の金崎是氏のご厚意、さらに丁寧にご紹介くださった土井克彦氏、小西正則氏のご厚意にも、深くお礼を申し上げたい。
 証言者が、「おだやかで、平和な世の中になるように」と結ばれたことを、心して受け継ぎたいと思う。



●原爆体験の継承を
 --若い世代の魂に--
 

    谷川陽子(48歳/主婦)

 ボランティアで被爆体験の録音テープを書き起こし、次世代に伝えていこうという、この取り組みが産声を上げたのは二〇〇三年の原爆記念日前日でした。二度とあってはならない悲惨な体験を、若い世代や子供たちと共有することは、大きな平和活動の核を得ることになるはずです。今現在の戦禍の国の人々のことを他人ごとにしない、能動的な平和教育はヒロシマの次世代にとって不可欠だと思います。

 これまでにも被爆体験記はたくさん出版されています。しかし、高齢になった祖父母世代の被爆者の中には六〇年近くの沈黙を破り、今話しておかなければ……と、口を開き始めた方々も多くいます。身近な人たちの閉ざされてきた被爆体験を、今こそ若い世代の魂に刻みつけておくことが大切だと思います。
 継承の意味に共感し、今のうちに話しておきたいと思われた方は、ぜひ青空の会へご連絡下さい。
 呼びかけに応えてくださった方々の尊い志を糧に、この小さな継承の輪が少しずつ広がって、国境のない大きな青空として世界中の人々の心に届くことを願っています。


●過去を知ることでこれからの未来を


   三宅ゆうこ(23歳/学童保育指導員)


 新聞のオリコミ広告で被爆体験のテープ起こしのボランティアを募集していることを知り、それがきっかけでボランティアに参加させていただきました。被爆体験を聞くことで今は亡き祖父母の生きた時代の一端を少しでも知ることができれば……私の中にその思いを残すことができればという思いからの参加でした。
 過去を知ることでこれからの未来を考えていくことが、今必要なのだと思います。
 一見平和で豊かに見えるこの時代を私は生きています。だけど、日々の生活の中で豊かさの中に潜む貧しさを感じずにはいられません。平和に見える「今」の日本は本当に平和といえるのでしょうか。
 過去に起きた悲しい現実と向き合い、私なりに平和について考え、それを少しでも未来へとつないでいけたら……そう思います。


●子供たちにも原爆を伝えたい

      木本英子(30代/主婦)


 私は、小学生の娘を持つ母親です。広島に生まれて育ち、現在も広島で生活しています。
 原爆のことについては、学生時代に平和学習で学んだり、平和公園にある原爆資料館を見学したことがあるものの、広島で過去に起こった悲惨な出来事ということしかあまりよく知りませんでした。
 今回青空の会に参加して、被爆者の方の実際の体験談に接することができました。そして、原爆が落ちた後の街の状況や人々の様子、その後の生活のたいへんさを知ることができました。戦争や原爆が、人々をどんなに苦しめるのかを強く感じました。
 この貴重な体験談を通して、原爆を過去のものにしないで子どもたちにも伝えていき、そして、戦争や原爆について話し合ってみたいと思います。


●広島から発せられる生の声

     渡辺道代(41歳/主婦)

 私は、転勤族で二年半前に広島に来ました。それまで一五カ所ほど全国各地を回りましたが、原爆について詳しく知る機会はあまりありませんでした。広島では、どの書店でも原爆の本が目に入り、学校では平和教育があります。新聞やテレビのローカルニュースでも頻繁に原爆の話題が取り上げられます。カルチャーショックを受けました。
 知識が入り始めると、私だけではなく、他県の多くの人が原爆についてあまり知らないのではないかと思うようになりました。原爆が落とされたという事実は、だれもが知っているのに、それによる惨状がこれほどひどいとは理解していないのです。関心がないわけではなく、今まで、知る手段や強く引きつけられるきっかけがなかったのです。
 同じ日本の中でも広島と他県では、かなり温度差があると言えます。今、世界情勢はたいへん不安定です。日本全体に、世界に、原爆による惨状を知ってほしいと思いました。

 夫のアメリカ赴任で私たち家族は数年間アメリカに暮らしたことがあります。戦地に行く兵隊に応援の缶詰を送り、兵隊がそのお礼に小学校を訪問するアメリカ。逆に被爆者が被爆体験を語りに学校を訪れる広島。私の息子たちは、この両方を経験しました。三才からアメリカで育った彼らは、戦争に疑問を持ちながらも兵隊の話を素直に聞いていました。そして、一一才になって、広島で原爆について学ぶと、戦争、原爆はいけないと結論を出したのです。被爆都市から直接発信された情報ほど強烈なものはありません。

 そのようなことを思っていた頃です。この本の発行の手伝いをするお話をいただきました。被爆者の方々の貴重な体験談を後世に残す本。まさしく広島から発せられる生の声です。この活動に少しでも関わることができたことを心から感謝します。そして、世界中の青空が戦争で汚れることがないよう、願ってやみません。



●谷川さんと立川さんの情熱


  五十嵐勉(54歳/作家/東京在住)

 今回、被爆者の声を後世に残す活動に、東京から特別参加させていただいた。
 谷川さんは、私が編集していたアジアウェーブの広島ボランティアとして、アジアの人々の生活と文化を伝える雑誌活動に積極的に参加していただいた。炎天下でも、雨の日でも、広島市の様々な場所にアジアを伝える雑誌をしっかり配布してくださった。その強固な情熱はいったいどこから来るのだろうと、つねづね不思議に思っていた。九八年八月六日に広島を訪れ、原爆の慰霊式典に参加させていただいたとき初めてお会いしたが、そのとき戦争と原爆とへの真剣な怒りに接して、その情熱の根拠を知った気がした。

 私としては、あれほど力を尽くしていただいたことに、報いないままでいることは心残りだった。
 何か自分としてお返しできることはと考えていたとき、被爆者の声を後の世に残す活動に参加できることになった。紆余(うよ)曲折を経たが、こうして真に残さなければならない痛切な体験を後世に伝える活動に参加できることをありがたく、光栄に感じている。
 またその過程で立川さんと知り合い、被爆者の高齢化に伴い、貴重な証言が埋もれたまま消えていくことを危惧する真情に触れて、共感を覚えた。被爆当時のまま残っている建物も案内していただくことをとおして、立川さんの思いを強く感じた。

 立川さんのお世話で、今回被爆体験をお聞きすることのできた方々に心から感謝したい。これをお話ししていただくまでの半世紀以上の間にどれほど大きな痛みと苦悩があったか、それを乗り越えての尊い語りであることを深く受け止めたい。

 今回お聞きした被曝者の凄惨な体験をとおして強く迫って来るのは、地獄そのものの様相であると同時に、生きようとする人間の強い意志である。胸を打つのは、必死に生きることをめざすその思いである。どんなに悲惨な状況にあっても、どんなに死に呑み込まれていく絶望的な状況であっても、親が子を愛し、子が親を愛し、夫婦が愛し合う、その生きる意志と人間の姿の中に、死を超える大きな力が伝わってくる。その力こそが、原爆の破壊力を超える人間の建設の力であることをあらためて感じる。そしてそこにこそ、原爆をはじめとする核兵器の破壊力を超え、戦争を避ける一つの道があることを確信する。

 広島・長崎の痛みを、人類の遺産として、未来へつなげていかなければならない。それを祈りの軸として、未来への道をなお踏み出していかなければならない。文明の悲劇を避ける道はそこにこそ敷かれているはずである。



●●被爆者の声を未来に残していく活動に参加していただけませんか
 被爆者から話を聞き取り、録音テープを書き起こし印刷物にまとめ、次世代に伝えていこうという取り組みを、実施・協力して下さる方を募集しています。
 被爆者の方々にお願いし、お話を録音させていただく作業や、文字に置き換える活字化・データ化作業、さらに編集や校正や確認の作業をしていきます。
 根気のいる作業ですが、被爆者と膝を交えて話を聞くことは、直接の実感が得られ、体裁が整えられたVTRや本になった文章とはちがった手応えが得られるはずです。

         (お断り 現在、会は解散し、活動は行っていません。2016年9月6日)
 
                             

 

 

被爆証言を遺そう!お知らせと第一集配布先

2016-09-06 | 第一集

被爆証言を遺そう!お知らせと第一集配布先

                


ノー・モア・ヒロシマの声を未来へ

59回目の原爆忌を前に、原爆被爆者証言集『遺言「ノー・モア・ヒロシ マ」-未来のために残したい記憶-』第1集を出版することができました。
 
広島、 長崎以外の地域の方にも関心を持っていただけるよう、全国の都道府県立図書 館などに送っています。書架に見当たらない場合は、ぜひリクエストをしてく ださるようお願いします。
  
60年近くの時を経て、今ようやく自らの辛い過去を振り返り、次の世代 のために残しておかなければ…と語られた被爆者の方々の貴重な言葉を、五十嵐勉氏がインタビューし、市民の協力でまとめたものです。   
重い内容ですが、一人でも多くの方の胸の奥に、証言者の方々の記憶が届 き、それが継承されてゆくことを願っています。

                                                             代表 渡辺道代      2003.8.6

 

 


   第1集配布先 お近くの図書館でご覧下さい

国連関係

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広島県(一部旧町名あります2016/9/6)

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福山市民図書館/福山市松永図書館/福山市北部図書館/福山市東部図書館/三原市立図書館/沼隈町立図書館/かんなべ町立図書館/油木町シルトピアカレッジ図書館

三次市立図書館/庄原市立図書館/甲奴町立図書館/作木村立図書館/三良坂町立図書館/三和町図書館/比和町立図書館


広島市国際会議場図書館


序文--未来のために

2016-08-30 | 第二集

被爆証言を遺そう!ヒロシマ青空の会  序文、第2集のための序文

 

     
  序文--未来のために

 一九四五年八月六日人類未曾有(みぞう)の核爆弾によって一瞬にして広島市が壊滅し、この世の地獄を現出した。凄惨をきわめた状況は、核時代の現代に生きる我々にとって忘れてはならないことであり、もし再び核兵器が使われることがあるならば、それよりさらに数千倍の破壊力を得た水爆によっていっそう激烈な破滅に直面することを心に銘記しておかねばならない。それはたんに人類の絶滅にとどまらず、生物全体の絶滅にもつながる、まさにこの世の終末を招来するものである。
 
 このような重大事を考えるならば、核兵器の放棄と封印は、速やかに実現されねばならないにもかかわらず、むしろ現状はアメリカ・ロシア・中国・イギリス・フランスなど既保有国に加え、インド、パキスタン、北朝鮮などの諸国家の開発もしくは保有によって、核問題は新たな脅威となって拡散している状態にある。

 核兵器がもし地上で再び使われたらどのようなことになるか、その悲惨さを知るには、現実に原子爆弾の爆発を体験した人々の声が、なによりも強固な拠りどころとなる。つぶさに語られる声は、人から人に真摯に伝えられるとき、新たな力を生むはずである。その声を受け止めるところにこそ、未来への道がつながっていくものと信ずる。広島・長崎の被爆の痛みこそが、それを二度と繰り返さない核兵器抑止へ基盤とならなければならない。

 しかし今、それを伝える声は、被爆者の高齢化とともに、この世界から遠のき、埋もれていこうとしている。
 被爆者の貴重な体験に耳を傾け、二度とその悲劇が繰り返されないよう、今もう一度体験を掘り起こし、現代の重大な記録として、この世界にとどめ、再提出したい。

 また、原爆は自然災害ではなく、人間の意志と行為によって産み出されたものである。私たちと同じ人間が造り出し、一つの戦略の下に実行された人間の行為である。今それに思いをめぐらし、原爆がどのようにしてつくられ、現代の世界にどのような危機的状況を生み出しているか、人間の立場から考察し、その危機を回避する方途を探すことは、地球市民の立場から、つねに求められなければならない。人間どうしの行為として理解を深めていくところに、真に未来につながる根本的な解決の道が見つかるかもしれない。
 
 私たちは強くそれらを願って、この本を出版することにした。一人でも多くの人の目に触れ、心に残ることによって、人類存続への希望の道につながることを心から祈るものである。
                 二〇〇四年八月六日                
                                        ヒロシマ青空の会一同



  第2集のための序文


 今回新たに三人の方から貴重な被爆証言をいただき、「遺言『ノー・モア・ヒロシマ』」第二集を出版することができた。
 原子爆弾の惨酷な状況は、人を代えて聞くたびに、まったく別な角度から破壊の空間のすさまじさを教えてくれる。新たな視点から当時の破壊状況はさらに広がり、深まっていく。爆発時の物理的な状況と多様な惨劇の構造が、より大きな被爆都市空間を形成していく。
 それぞれの人の遭った地獄が、総和としての都市の残酷な姿を突きつけ、全体の巨大さを連想させてくれる。その惨劇のとめどなさは、原爆そのものの巨大さと言っていい。一人一人に襲いかかった悲劇と苦悩の集積の上に、とてつもない破壊力があらためて浮かび上がってくる。
 人類が今どのような危機の上に立っているか||被爆者の言葉があらためてリアルにそれを実感させてくれる。
 証言を聞くたびに感じるのはまた、一人一人の苦しみの深さである。地獄の体験を抱えつつ生きることの苦悩の深さも、あらためて人間の存在の闇を見せてくれる。
 生きた被爆の声に触れさせていただくことによって、同時にそこから死んでいった方々の無念の思いや呻きや慟哭が鳴り響いてくる。そしてそれが一つの力となって合流してくることも感じる。
 今あらためて私たちボランティアは、被爆者の声の重みを痛感し、犠牲者の無声の嘆きを聞いて、これらを後の世に遺すことの意義と使命とをより深く実感している。はじめはこの作業がこれほど過去の惨劇に肉迫し、時代の重大な役割を担っているとは想像できなかった。しかし少しずつ活動が軌道に乗り、形ができ、証言を聞くその輪が広がり始めるのを覚えたとき、同時に、私たちが果たさなければならない役割は、きわめて大きいことを再認識した。未来への橋渡しは、今しかできない。
 被爆六十年を経た現在、当時の惨状を思い返し、現在も続く危うい状況を知って、その上に立って未来をめざすことをおろそかにしてはならない。核弾頭ミサイルは数千倍の威力を持って現在も我々の都市、我々の文明の破壊を狙っているからである。証言の真の意味はここにある。この方向にこれらの尊い証言がつながり、人々の胸に収められ、新たな力となって湧き出していくことを願って止まない。
二〇〇五年八月六日
                --原爆被爆六〇周年を迎えて
                                       ヒロシマ青空の会一同



爆心八百メートルの記憶     竹村伸生さんに聞く1

2016-08-30 | 第二集

被爆証言を遺そう!ヒロシマ青空の会 2集竹村証言

 

 
   爆心八百メートルの記憶     竹村伸生さんに聞く

竹村伸生さん

生年月日●昭和八年(一九三三年)一月六日生まれ (インタビュー時七一歳)

被爆当時●一二歳(私立崇徳中学校一年生)

被爆地●爆心より〇・八キロ/八丁堀京口門

●子供の頃

 私は竹村伸生といいます。昭和八年(一九三三年)一月六日生まれです。生まれは市役所の真裏の雑魚場(ざこば)というところです。昔の町名で雑魚場町三一五番地、今の中区国泰寺(こくたいじ)一丁目です。
 父は専売局に勤務していて、兄妹は妹二人の三人、七歳違いと一二歳違いの妹がいました。
 母は専業主婦、まあ、あの頃ですから全くの専業主婦でした。

 小学校入学は昭和一四年(一九三九年)、六歳の時で、市役所の向かいにあった大手町尋常高等小学校へ入学しました。この頃はもう戦時色が強くて、日清、日露から……日華事変とずっと続いていたから軍事色一色でした。小学校では教練はないんですが、学校には二宮尊徳の銅像があり、御真影を祀(まつ)っている前を拝んでから通っていたものです。それを考えるともう戦時色がかなりあったということですね。

 小学校の六年間を過ごした雑魚場町には、そりゃたくさんの思い出がありますよ。子供は遊びの名人と言われますが、パッチン(メンコ)、マプロ(ビー玉)、ケン玉、こま、釘立て、竹馬、馬跳び、川での水泳、水鉄砲、杉鉄砲、山へ行ってどんぐりを拾ったり……夢中で遊んだものです。
 また大きな祭りも楽しみでしたね。六月にある「稲荷山(とうかさん)」、十月の「胡子講(えびすこう)」と白神社(しらかみしゃ=雑魚場町の氏神)の氏神祭、護国神社の「招魂祭」など、どの祭りでも縁日に出る屋台で買い物をすることが、子供ですから一番嬉しかったです。中でも招魂祭は、サーカス、大相撲、見世物小屋、屋台が出たりして本当に賑やかで、毎年とても楽しみでしたよ。西練兵場(今の県庁付近)でオートレースを見たこともありました。
 子供の頃のことや賑やかな広島の街のようすは、今でも楽しくてなつかしい思い出ですね。

 昭和一六年(一九四一年)一二月八日に太平洋戦争が始まった時は八歳で三年生、次第に物資も不足してきて、ズック(靴)も不十分、ゴムボールもこんにゃくボールに替わりました。
 こんにゃくボールというのは何で出来ていたのか……こんにゃく玉といって、ゴムではないんです。濡れると溶けるような、ゆがんで丸でなくなるボールです。それも配給で、学校から分けてもらうという状態で。しかしまあ子供は遊びの天才、何かを遊び道具にして遊んだものですよ。

 二人の妹の間に弟がいましたが、弟は生まれて少しして死にました。
 弟が死んだ翌年の昭和二〇年(一九四五年)二月二三日に下の妹が生まれて、その頃はもう、雑魚場町は第二次建物疎開が始まっていました。
 広島の建物疎開の話をちょっとしますとね、サイパン島が陥落してB29の爆撃に日本の都市がさらされるようになった。それで、重要な建物には燃え移らないように、その周囲の建物は壊してしまって、類焼を防いだ。特に焼夷弾による爆撃が始まってから、建物疎開は積極的に行なわれるようになったわけです。計画では一期から六期までで、昭和一九年十一月に始まった頃は土木業者がやっていましたが、昭和二〇年五月頃から一般国民や学生、生徒などの動員が始まったんです。原爆の落ちた時は第六期で最後の追い込みをしていたところ。もう少し早く済んでいればそれだけで何万人と助かっていると思います。みんな外にいたからそれだけ被害がひどいんです。
 建物疎開は同じ雑魚場でも早い所と遅い所があって、うちの場合は母親の実家の長束(ながつか)へ行く予定でしたが、妹が生まれたばかりで小さいので、動かせるようになって少し遅れて家を替わりました。
 その時、親父が疎開先の長束から近い楠木町の崇徳(そうとく)中学というのを探してきて、空襲を避けるつもりで急にお世話になることになったのです。
 戦後、親父が、
「何とのお、市内の学校をわざわざ避けて田舎の学校へ行かしたのに、ど真ん中で被爆したなぁ」とぽっと言うたことがあります。
 その頃は人のことはようわからんで、私のことしかわからないからそう言ったんです。
当時は全部の学校が建物疎開に動員されていたので、どこの中学校へ入っても結局は被爆してますがね。

 昭和二〇年(一九四五年)四月、崇徳中学に入学しました。母親の実家、長束からは歩いて三〇分くらいの所です。僕らの時はどさくさで、みんなぞろぞろ疎開したりする時代ですから大手町小学校の卒業写真も無いし卒業証書もありません。どうもよく聞いたらあの当時はないようですね。一年くらい前まではあったようですが。

●建物疎開と被爆

 母親の実家に疎開したのは昭和二〇年の三月末で、比較的早い方です。私らの出た後、同じ雑魚場の人に家を貸しています。あの時代は探すといってもなかなか探せんでしょ、行く所がないのでとりあえず貸して欲しいと言われたようです。

 私の学校の場合、学徒動員に出たのは三年生以上で、一、二年生は午前中勉強して午後からは農家や軍需工場へ手伝いに行っていました。
 ところが昭和二〇年八月三日からは、学徒として軍隊の命令で建物疎開に従事することになり朝から出てたんです。軍の強制命令だったと聞いています。学校は絶対に反対でしたが、県の人が中に入ったりして最後はしようがないということで、始まったようです。
 とは言ってもまだ体も小さいので、暑いから朝早く作業にかかり、一般の人より二時間早く終わっていました。当時は栄養失調で休んでいる人も多くて、よく調べてみるとそれで助かっている人もいるんです。
 当時一二歳、そりゃ小さいですよ。語り部をする時、話す相手は六年生でしょ、君らと同じ頃に作業して被爆したんじゃと話します。

 作業は力のあまり入らない、家を倒したあとの取り片付けで、地面だけの更地(さらち)を作るための仕事です。
 三、四年生は柱にノコギリを入れて、十人もでワッショイ、ワッショイとロープで引っ張ってダァーッと倒す仕事をしていました。
 それが八月三日から一〇日間。あとで学校に聞くと「一〇日から夏休みだったんじゃないんか」と言ってましたので、一週間の予定だったかもしれません。
 とにかくその作業は連日休みなしで、被爆は四日目でした。
 最初は土橋で、五日は中島付近、僕の学校だけ受け持ちの仕事が早く済んで、前日に急遽八丁堀へ行けという命令が下ったんです。まあ土橋でも中島付近でも八丁堀でも、結局は被爆していますが……。
 元安橋のたもと、今のレストハウス前の広場で別れる時、「明日は八丁堀の京口門に集合」と言われ、前日には作業の場所はわかっていました。帰って話をしたので税務署の近くに行くことは親父も知っていました。

 当日は、朝七時に家を出て長束から横川までは国鉄可部線で行って、そしてあと歩いて八時前には京口門に着きました。爆心地から八〇〇メートルくらいのところです。
 涼しい時に作業をするということで、八時一〇分前くらいに点呼を取って「作業、始め」の合図で作業が始まりました。
 私は前の日に五寸釘を踏み抜いて足にけがをしていたので「休ませてください」と申し出て、先生の指示で、道路の傍へズラーッと並べたカバンや弁当の番をすることになったんです。
 それで、京口門の点呼を取った場所でみんなと別れて営林署の真ん前まで行き、停めてあったトラックの陰で作業のようすを見ておったのです。
 その頃の電車は、今の電車通りからお城側へ一筋寄った、現在バスが運行している道を通っていて、京口門の付近はもう壊したあとでした。壊すのは軍隊とか土建会社とか上級生で、僕らは瓦と廃材をトラックに乗せて更地にする作業です。

 当日は先生六人、一、二年生が四一〇人行っていて、一年生は二人生き残り、今生きているのは僕だけで、二年生は三人生き残って今は一人だけになりました。二年生だった人は能美島の中村、今の鹿川(かのかわ)というところにいます。この間お電話したらお元気でした。この人は家の下敷きになって火傷も何もしていないんです。

 被爆して亡くなった一、二年生の最期を、供養と思って調べていますが、取り組んでみたら大変で、遺族の人の話を聞くとみんな壮絶な死に方をしているのでなかなか前に進まんのです。
 私は営林署の前で被爆したので、幸いどこにいたかわかるんです。生き残るというのは何かそんな運命のようなものがあるのかなと思います。
 この付近は官庁街で、ほかに税務署とか財務局とかがあって、当日の作業は南の福屋の方が二年生、北の方が一年生でした。これはあとの話になりますが、遺族をずいぶんその場所に案内して「二年生はこの辺よ。拝んであげて下さい」と言ったものです。
                      
 そうして作業が始まった時に飛行機が来たんです。B29です。
 その時には「どうしたん、きょうはえらく低く飛行機が飛ぶなあ」と作業の手を休めて、原爆を落としたB29をみんなが見よったんです。
 パラシュートがふわふわ落ちるのは見とるんです。そのあと、飛行機がぐーと上昇する音は聞いてますが、飛行機は一機しか見とらんのです。原爆を落とした時、三機編隊で来たということですが、僕らの眼には一機しか見えませんでした。(編集部注※パラシュートは観測器につけられたもの)
 被爆の瞬間は……私らは真下ではあるし、火の玉なんかは見えとりません。
 電車のパンタグラフがショートしてスパークするでしょ、あんな感じです。よくピカドンと言うけど、近いほどピカとドンが近いですから時間にしたら一秒あったかどうかくらいのもん。
 青白い閃光がウワーッとして、あらっと思ったその瞬間に初めてパチンという音、炸裂音がして。
 フラッシュを焚いたよりも……あんなもんじゃなくてまだまだ青い光でした。
 ウワーッという光であらっと思った瞬間、ドンと。青白い光がわっと来て、パッ、パチン。ほぼ同時じゃね。
 近くで被爆した人はほとんど死んでいるからその話をする人がおらん。だが実際はそうです。

 私は学校で爆弾から身を守る訓練をしていたので、両手で耳を塞いで目を覆い、口を半開きにしてぱっと伏せました。と同時に体が宙に浮き上がったのは憶えとるが、あとは気絶していました。そして気がついたら営林署の垣を越えて、防空壕の上にいたんです。防空壕はこんもりした小山みたいな感じに屋根をつくり、半地下になっていました。
 私はまだ飛ばされていないほうです。あとで会った友達はずっと先へ飛ばされて反対側から来た者もおりますからね。
 その瞬間には、その付近の爆風は風速が毎秒二〇〇メートル(編集部注※三六〇メートル/秒以上というデータもある)、温度が摂氏一八〇〇度と言われていますから考えられんことが起きたとしか思えないんです。
 あの辺りはすぐ西は軍隊で建物はないし、建物疎開をしていたので遮蔽物がなくて特に被害がひどかったんでしょう。それに建物疎開でガラスが散らばってたでしょ、爆風でそのガラスがみんなに刺さっていっそう被害が大きくなったんでしょうね。

 飛ばされたあと「お母さん、いたいよー」という同級生の声ではっと気がついたんです。それが何秒かあと。
 気がついたら真っ暗で、何も見えんのです。瞬間、直撃を受けて目が見えなくなったと思いました。最初に思ったのが、母親や妹がひどい目にあっていないかということ。それから、私は今一二歳、このまま目が見えなくなって何十年とどう生きていけばいいか、とかいろんなことを考えました。
 時間がたってチリや埃が沈んでうっすら見えてくると、さっき言ったように営林署の防空壕の上にいたんです。ドンとたたきつけられ瞬間は記憶にないんです。気を失っていたんじゃね。砂の上だったからその程度で済んだけど、コンクリートだったらもっとひどかったでしょう。
 真っ暗な時間は大した時間ではないと思いますよ。このあと長寿園まで行って、九時過ぎから降り始めたと言われる黒い雨を見たので、気を失っていたのもそんな長い時間ではないと思います。

 気がついたら周りの家はぺッシャンコでした。夢中で営林署の塀に上がってその上を走り、家の倒れた上に飛び移って逃げていたら、向こうから来る友達に会ったのでびっくりしました。友達はもっと向こうへ飛ばされたんでしょう。


 僕はたまたまこういう大きい建物の前だったから、向こうまでは行かなかった。爆風が直接営林署の庁舎に当たって弱くなったんですね。電車通りを挟んで向こうにいた人もいます。死んだ友達ですが、気がついたら一〇〇メートル向こうにいたと、お母さんに言い残しているのがいる。そりゃ一〇〇メートルぐらいは飛ばされたかもしれませんよ。家が倒れるくらいだから。
 あの辺は木造が多かったからペシャンコで、見渡す限り何もなかった。ずっと向こうまで見える、その壊れている上を私は逃げて行ったんです。
 そしてしばらくしたら、友達と出会ったんです。京口門の付近にいたのが、向こうから歩いてきたんだから、飛ばされたのは一〇メートルやそこらではない。
 防空壕にたたきつけられたあと、今考えるとよくサーカスのように塀の上を歩いたなあと思いますよ。たぶん裸足だから歩けたんでしょうね。地下足袋を履いていたらすべったでしょう。裸足だから歩けた。直前までちゃんと履いていたので、飛ばされた瞬間に脱げたんでしょうね。それだけでも、ものすごい爆風だったということですよね。
 裸足だということは、家の近くへ帰って初めてわかったんです。それまでは裸足も何もわからない。いつ脱げたかも記憶にないんです。とにかく考えられないようなことが起きている……体自体がパニックになってしまっている||そういうことだろうと思いますよ。
 私の他にも靴が脱げた人はたくさんいましたからね。
 家の上を逃げていたら、向こうから来る先生に「明るい方へ逃げえー」と言われました。それで紙屋町の方へ向かいました。あとで思ったら、紙屋町は爆心地に近いのですぐ火が出て明るかったんですね。その付近はまだ火事にはなっていませんでしたが、倒れた家に火がついて、女の人が金盥(かなだらい)か何かで水をかけていました。それは記憶にあります。
 また営林署まで戻って来た時、崩れた建物の下敷きになって首だけ出して「助けてー」と叫んでいる人がいました。ガラスが刺さったりして顔は血だらけでまともな姿ではなかったです。
 その人は、朝、暑いので裏の炊事場で水を飲ませてもらったお姉さんです。それで助けてあげよう思うたんですが、はぁ、とてもとても、よう助け出せませんでした。近寄って柱に手をかけたんですが、木造の官公庁の建物で柱は太いし、とてもじゃないが……。
「僕は子供じゃけえ、僕の力じゃどうにもならんけえ、誰か大人の人に助けてもろうてください」と言うしかありませんでしたよ。そこにもそう長いことおられんからね、そう言ってその場を離れたんです。
 その人があとどうなったかさっぱりわかりません。毎年八月六日になると、そのことを一番最初に思い出していました。ひょっとしたら誰かに助けてもろうて生きとるんか、そのままあそこで死んだのか、二つのものが去来していたんです。
 五〇年以上たって、たまたま営林署の生き残りの人に出会ったので聞いてみたら、その人もそっくり同じことを見ていました。
 その人の話では、その女の人は東広島市の八本松から通勤していた人で、よそから疎開で来た人だったそうです。その人もよう助け出せず、結局そこで亡くなったことがわかったんです。二一歳で焼け死んだと知って、ああやっぱり亡くなったのだと、遺族には悪いがやっと胸のつかえが取れたんです。じゃが五〇何年引きずりましたよね。それはどうしても、強烈じゃったけんねぇ。

 営林署から出てみたら先生も友達もいなくなっていました。その時にはもう暗闇は晴れていて、道路には電線や電車の架線がだーと垂れ下がり、それをまたぎまたぎ歩いた記憶があります。
 明るい方へと思い、紙屋町の方へ向かっていたら、済美(せいび)小学校、今のYMCAのところで今度は向こうから逃げてくる兵隊さんに「紙屋町は火事で近寄れん、引き返せ」と言われました。紙屋町は爆心地に近いのでその時にはもう火の海、それで明るかったんですよ。
 僕に引き返せと言った兵隊さんは、言葉は悪いが片面焼きというか、着衣の片側は全部焼けてベルトと将校さんの靴だけ残して半身は裸でした。そんな人はたくさん見ました。その時初めて、朝来た道を家に帰ろうと思ったんです。
 道路は電車の架線や電線がジャングルみたいでスースー自由に歩けんからね。またいだりジャンプしたりして逃げましたね。白島線の電車通りは、向こうから来て八丁堀の方へ行く人もいたし、逆に爆心地から向こうへ逃げて行く人もいました。
      
 昔の白島線は縮景園のところでカーブしていてそこに電車が一台止まって中には誰もいなかったです。乗っていた人は逃げたか、中で倒れていたかで外からは見えなかったのかもしれませんね。
 その時には無我夢中で、わが身のことだけ。とても人のことなんか目に入る状態ではないですよ。建物疎開の作業をしていた人が倒れていたのも記憶にないんです。ジャングルみたいになった電線をよけながら必死で歩いていたので、自分の目線の先だけは目に入ってきて、それで足元が見えなかったのかもしれませんね。
 ひどいのは赤ちゃんを背負っていた女性でしたね。それはよく覚えています。赤ちゃんの着衣は全部焼けて、背負っていた帯だけが残っていました。それを後ろから見たんだと思うんです。そんな人がいっぱい、とっと、とっと北へ向いて逃げるんです。あの赤ちゃんは多分死んでいただろうと思いますよ。

 私はたまたま営林署のトラック越しに火傷したので軽かったんです。それが助かった原因の一つです。
 が、頭は後ろ全部がやけど。あとで化膿して膿がどっどこ出たし、腕の辺りは十二月頃まではやけどが残って今も軽いケロイドになっとります。
 腕の上の方はシャツを着ていたので、少し助かった。下の出ていた所とは皮膚の色が違うでしょ。肘から下は皮膚がぶら下がって傷になったが、六〇年経ってわからんようになりましたね。
 この間友達に会ったら「あんたあ、昔、軽いケロイドがあったよね」と言われました。高校を卒業した昭和二七年(一九五二年)ころにはまだケロイドがあって顔の半分黒かったんです。散髪屋で「ここはどうしちゃったんですか」と聞かれたこともあったし、深酒して、火傷した側の顔が引きつったこともあります。

●長寿園へ逃げる

 広島城の東から北を廻って長寿園まで逃げました。長寿園は当時、広島の桜の名所だった所です。はじめは三篠(みささ)橋を渡るつもりでしたが、橋のたもとは火の海で近寄れんし、その上流の国鉄の鉄橋も、枕木に火がついて渡れないのでとりあえずそこへ行ったんです。長寿園の土手は川に向かってゆっくりしたスロープで、その斜面に怪我人がいっぱい。ドアーッといて坐れんくらい、それくらい私が行った時にはもういっぱいでした。
 八丁堀の辺りでは夢中だったので負傷者を見るどころじゃなかったんですが、長寿園へ行って初めてゆっくりと見て「うあー、これはどういうことかいの」と思ったんです。世に言う生き地獄を見たと言うか。そりゃ凄かったもの。
 下が太田川でしょ、長寿園の下流には本川(旧太田川)にかかる山陽本線の鉄橋があって、その付近の水際に石があって、その上に物凄い負傷者がいました。兵隊さんがようけおったんよ。
「どうなっとるんかいの、こりゃ」と思いました。みんなうなって、うんこら、うんこら言いよるしね。
 顔は全然わからんし、広島城付近の中国軍管区司令部や第五師団司令部や西練兵場の兵隊さんはみんなここらへ逃げて来とるしね。もう兵隊さんは凄かったね。石の上にも鉄橋の下にもいっぱいおってね、もうそんなにね、人のことキョロキョロ見る段階じゃないけんね。
 そのうち下流の三篠橋の方から雨がこちらへ向かってくるのが見えました。これが黒い雨だったんです。
「黒い雨」というのは本当に真っ黒で、川面をバタバタとたたいてスゥーと通り過ぎて、どうしょうもないのでそこでごっとり寝てしもうたんです。あとはわからなくなってしまいました。
 この日、四キロを七時間かけて歩いて帰ったから、いかに長寿園で長く寝とったかと
いうことですよね。

       
      
                           (逃げ惑う被爆者)    カット 大野逸美

 何時頃だったのか、ふと目が醒めると雨で濡れたせいか体が寒さで震えていました。
 このあと、本川対岸の崇徳中学がメロメロと燃えてダァーと崩れるのを見たんです。これも早かったですよ、焼け落ちるんが。
 そのうち小さい舟に宇品からの暁(あかつき)部隊の兵隊さんが三人くらい乗って「重傷者はおらんか」言うて土手につけて来たんです。
 私も夢中ですからそれに乗ってとにかく逃げたかったんですが「あんたは重症じゃないけん」と拒否されたんです。それが結果としてよかったと思います。家とは逆の方でしたからね。そちらへ行っていたら、どうなっていたかわかりませんでした。今思えば、トラックの陰で火傷が軽かったこと、その日のうちに家に帰れたことなどが助かった原因ですからね。
 もしそれに乗っていたら恐らく似島(にのしま)へ行ってたでしょう。そうすれば、親としたら僕がまさか似島へ行ったとは夢にも思わんでしょ。あの混乱の中でよう探さんかったと思うんです。私はその日に家に帰ったんです。それで助かった。似島へ行ったら、何日もへたばって、そこで衰弱して死んでいたかもしれないですからね。
 暁部隊が来た時、それまで傍に寝ていた女の人が起き上がり、「私も連れて行ってください」と叫んですーと倒れ、それきりでした。その人は舟まで歩いて行く力はありませんでした。その人は恐らくそこで死んどるじゃろうね。


          

                    白島側から本川の向こうに崇徳学園を望む  2005/8



         
 そのあと後ろに坐っていた若い将校さんが、寒がっている私に軍服を着せてくれて「腹が減ってるんじゃないかね」といっておにぎりをくれました。もう午後二時に近かったかもしれません。
 いろいろ話をして、将校さんは「駅前の辺で爆弾におうた、君の家はどこかね」と言うので「長束です」と言うと「ああ、あの辺なら家は倒れてないし、家の人が心配するので早く帰れ」と言われたんです。
 その時には、朝燃えていた鉄橋の枕木は、雨で濡れて火が消えていました。それでそこを渡って帰ろうと思ったんです。
「ありがとうございました」とお礼を言うと「気いつけて帰れよ」と言ってくれました。
 ところがいざ立ち上がったら歩けんじゃないの。仕方ないので土手を這って行ったんです。鉄橋へ行く中間くらいで物凄く吐きました。何べんも何べんもドッドッドッと。貰ったおにぎりを一個食べただけで水も何も飲んでないけれど、おにぎりがきっかけになったのか、吐きましたよ。最後は真黄色の胃液みたいなのも吐きました。結果としてはそれがよかったんでしょう。
 助かった人は吐いた人が多いようですよ。あとで母親から「あんたあ、あそこで毒を吐いたけん助かった」と言われましたしね。   
           

 鉄橋も這って渡りました。まだ熱かったですよ。あの枕木がマッチを擦ったくらいで燃えるもんじゃない。あれは栗か何かじゃけんね。あの硬い枕木に火がついた。誰も火をつけたもんはおりゃあせん。原爆の熱線がどれくらい高熱だったかということですよ。爆心地から四キロくらいの長束辺りも、藁(わら)屋根は、陰になってるところは別ですが、全部燃えたといいますから。
 やっと向こう岸へ渡ると倒れた家からちょうどいい太い棒を探し、それを杖にして川べりの道を歩いて帰りました。今生きている叔母が「伸ちゃんがね、大きな柱みたいなのを杖にして帰ったよねえ」と今でもその時のことを話しています。

 この辺でもかなり酷いのを見ましたよ。友達の一人が向こうから来るのに会ったのですが、顔がものすごく腫れてうっすら友達とわかるくらい。
 この付近では負傷者は大半が可部(かべ)線を通って逃げてるんです。行く先を間違えないのと、当時は各町内ごとに避難先が決められていて、駅を辿っていけば道に迷いませんからね。
 でも私は可部線沿いではなく太田川の土手を伝うて逃げました。この辺は学校があってよう知っとるのでね。この時、向こうから来た女の人が「あんたあ、ひどう怪我しとるけぇ、あそこの救護所で治療してもらいなさい」と言いました。
 そのとき初めて、腕だけじゃなくて顔や頭の後ろも火傷をしているのに気がついたんです。
 その日は戦闘帽を被っている人が多かったので、みんな帽子のあるところだけ髪が焼け残って女の子のおかっぱ頭みたいになっていました。気がつけば私も帽子はないし、靴もはいてないし、そのくらい自分がどうなっているかわからないんです。夢遊病者みたいにとっとことっとこ歩いて、その時は家に早く帰ることしか考えとらんですからね。
 救護所は川沿いの工場のようなところにありました。ここにもたくさん負傷者がいてここで二度目の生き地獄を見たんですが、そこでは何もしてくれないので、こんな所にいてもしようがないと思って家に帰りました。
  

 裸足だったことは、家の近くまで帰ってから気がついたんです。その付近の人は、負傷した人が次々通るから、何事だろうとびっくりして外へ出て見てるんです。そんな中を私が帰っていたら、道端に立っていた女の人が、「あんたあ、どこへ行くん」と聞くんです。「長束の家へ帰るんです」と答えたら、もう長束まで帰ってたんですが、「ちょっとあんた待ちなさい、裸足だから」と言われ、そこで初めて裸足だってわかったんです。
「待ってなさい」と言ってわらじを持ってきて「近いけど、あんた裸足でかわいそうだからこれを履いて帰りなさい」と言われました。帰ってから、「あそこで、借りて履いて帰ってきた」って言ったら、母親がすぐお礼に行った。それはあとで聞きましたけどね。
 母親は、その日私がどこに行っていたかは知らなかったんです。三時ごろまで帰らなかったから、恐らく大変なことになっているだろうと想像はしてたでしょう。ずいぶん心配して待っていたはずです。待つのも長かっただろうと思いますよ。八時一五分にドーンといってから、三時ぐらいまでずっと待っていたんですね。帰って来ないと思って。
 私の疎開先は可部線と田圃一枚挟んだ場所でした。可部線に沿ってぞろぞろ逃げて行く人を見た時に、うちの息子もこんな状態じゃなかろうか、死んでいるのではなかろうかぐらいのことは思っていたはずです。それでもその避難者に紛れ込んで私が帰ってこないかと微かな望みを持っていたのかもしれない。
 畑にトマトがあったから、母親はそれを避難者にあげたそうです。逃げていく人を見たらあげざるを得なかった、何かあげたいという気持ちでしょう。へたりこんでる人が「あぁー、元気が出た。これで避難場所へ逃げられる」と言って喜んでいたそうです。
 当時は母の実家には叔母なども身を寄せていましたが、みんなで出て配ってたんです。母親があとでその時の話をしてくれました。
「そりゃひどいもんじゃった。目が飛び出たもんがおる、内臓が飛び出たのを持って歩いとる人がおる……」
 それは、ひどいですよ。人間は内臓が出ていても歩く。そのかわり、着いたら恐らく死ぬじゃろうね。
 そんな人を見ていたので、私が自力で、火傷をして帰ってきたから母親はびっくりした。お祈りをする人、祈祷師ですね、水をかけながらお経みたいなのをあげて拝む女の人をすぐ呼んできたんです。
 その人は、土間で、私の体に水をかけながらお経のようなものを唱えました。火傷を封じる||封じるというのは抑えるという意味だと思うんですが、それをすぐやってくれました。

 ここで父親の話をしますとね、当時は皆実(みなみ)町の専売局に勤めていました。親父が書き残しているのがあって、結果として、私が親父を助けたことになるんです。
「……その日の朝に限って息子は、『父ちゃん、今日わしは八丁堀に行くんだけど、早いけど一緒に行かないか』と誘った。私は『うんそうか』と言って、快くいつもより三〇分早く出た……」と日記にある。
 おそらく日曜日は親父は休みで、月曜日に私が誘っている。それまでも毎朝建物疎開に出ているのに誘っていない。八月六日の朝に限って親父を誘っているのです。うちの親父は、いつもは近所の県庁へ勤めていた人など五、六人と一緒に通勤していました。親父の通勤コースは横川まで国鉄可部線、あとは市内電車です。
 八時一五分というと、普段だったらちょうど十日市か紙屋町辺りの爆心地の近くを通っているんです。いつもどおりに出た人はみんな死んでいる。全滅です。大やけどをして帰ってきて自宅で死んだ人が一人、あとは全員影も形もない。行方不明なんです。
 うちの親父も、皆と一緒だったら影も形もなかったでしょう。私が誘ったので横川からいつもより早く電車に乗って、専売局へ着いたのも早かったので、地下の床屋で散髪してもらおうと座ったとき、「ドーン」ときた。だから私のおかげで今日があるんだと、生前はよく言っておりましたがね。

 その日、親父は燃えている倉庫を消火したり、負傷者を似島へ送り出すのを手伝ってから夕方帰って来ました。専売局の敷地の中に診療所のようなかなり大きな建物があって、急遽そこが救護所というか、仮の病院になって、そこに収容した負傷者を次々似島へ送り出す手伝いをしたと聞いています。
 その日は、中心部は燃えているので、いつもの道は戻って来られないから、父親は己斐を通って大回りで帰ってきました。その帰り道で、人に「うちの息子は八丁堀に行っているんじゃが」と言うと、「はぁ、あの辺はもう全滅じゃ」と言われて、親父は、うちの息子はもう死んだとばかり思って夕方帰ってきたんです。そこへ私が迎えに出たんです。
 私の母親の実家は、一山崩して盛り土をしているので、ほかの家より少し高くなっていて、家の前にスロープがある。そのスロープまで、親父が帰ってきたから私が迎えに出たんです。私を見て、親父は抱きついて泣いたわけです。
 私はそのときの記憶はないんですが、それを見ていた人が、私に、「お父さんが本当に泣いていた」と言っていましたからね。
 親父はびっくりしたんでしょう。死んだと思った者がのこのこ迎えに出て来ているんだから。一人息子ですしね。
 被爆したあと帰宅した親父が私に抱きついて泣いたということは私は全く記憶がなくて、五年ぐらい前に初めて教えてもらったんです。話をしてくれたのは近所に疎開していて友達付き合いをしていた人のお母さんです。テレビか何かで見て偶然この人の居場所がわかって、原爆で死んだ友達の代わりに親孝行と思い、時々お菓子なんか持って話に行っていました。その時に親父が抱きついた話を聞いたんです。
「お父さんがあなたをこうやって抱いて、ワンワン泣いていたのが忘れられない」と。年賀状が来なくなったと思ったら、去年九十何歳かで亡くなっていました。
 親父がここに書いているんです。
「世の中、人間の一生には奇跡ということがある。宿命というか、生き運がその人についているということを如実に感じました、私もその一人です……」と。親父は私に助けてもらった。戦後、私は極道(やんちゃ)したけども。親父は八四歳まで生きましたからね。
 親父が私の姿を見て泣いた話を聞くと、親父が私をそこまで思っていたのかと知って、もっと親孝行しておけばよかったと思いますよ。それこそ孝行したいときに親はなしですね。私らの学校のことなんかでも、親父が全部やってくれたしね。通知票なんかでも、親父が持ち帰ってきているし。

 中心部の大手町に母の叔父夫婦といとこがいて、親父はあくる日すぐその家が心配になって捜しに行って、そのあと二〇日間ぐらい寝込んだと言っています。放射能障害でしょうね。
 その家へ行くと親子三人折り重なって死んでいた。三つの骨があったそうです。おそらく三人が朝御飯でも食べていたんでしょう。折り重なっていたのは即死ではなくて、火が来て逃げられず、それでおそらく焼け死んだんだろうと、そんな話をしていました。
 長束の疎開先は天井が吹っ飛んで梁が見えたり、おそらくガラスも割れたと思いますが、母親も妹二人も家の中に居たから傷も何もしていませんでした。灰や埃はかぶったらしいんですが、家族全員が無事でした。

 そのあと、この日の夕方薄暗くなった頃ですが、玄関の戸をたたく音がするので母親が出て行くと、被爆者がいました。
「子供が死にそうなので、畳の上で死なせてやりたい。暗くなったので避難所にも行けないので泊めてください」と頼まれたんです。すぐに家に入れて、私たちが食事をしているところに泊めてあげることにしました。途中で一緒になったという人も一緒で、胸に柱が刺さった中年の女の人、中学生、体全体を火傷した小学一、二年くらいの子供の、五人がいました。
 赤ん坊を見るともう死んでいたので、私の母親がお経を上げてみんなで弔ったんです。小学生はあまりに火傷がひどいので叔母が布団に寝かせましたが、火傷の汁が沁み込んで、臭くて二度と使えなかったそうです。
 翌朝早く、それぞれの指定された避難場所へ行かれたんですが、翌年の二月頃、髪の短い女の人がお礼に来ました。死んだ赤ちゃんのお母さんでした。早くにと思ってたのに髪が抜けて恥ずかしくて外出できなかったと言っていました。もう一人の女の人と小学生は避難先で亡くなったそうで、中学生はわからないと言っていたそうです。


「爆心八百メートルの記憶」 竹村信生さんに聞く2

2016-08-30 | 第二集

●被爆後の障害

 私は二日、三日ぐらいは、わりかし元気で寝込むというほどではなかったんです。足の怪我も骨折ということはなかった。立つことが出来たから軽い打撲だったんでしょう。
 翌日に「岩崎の坊ちゃんが帰ってきたから、ちょっと見舞いに行って来なさい」って言われて、足を引きずりながら、行ったのは憶えています。
 この人は千葉県から近所に疎開していて、学校は違うけど同じ疎開者同士、仲良くなって夜になったら私の家に来て学校の話なんかして遊んでいました。母親同士も女学校の先輩、後輩でした。
 見舞いに行くと、顔の面影はあったんですが、ひどい火傷で、本人とは全然わからなかったです。名前を呼びかけようが、何しようが、ただ「水、水」と言うばっかり。お母さんが病人に飲ます吸い口で水をあげていて、あくる日の八日に死にました。

 足はそうすぐには治らなかったと思うけれども、家の中では足を引きずっていたのは記憶にありません。友達の家へ行っただけでそのあとどこへも行かなかったからね。痛いとか寝込むという程でもなく、じっとしていたんです。
 それ以降は足のことを憶えていない。ということは、大したことはなかったんでしょうね。瞬間的には、杖までついたということは、歩けなかったということで、その時右足をぶつけたんでしょう。バーンと上まで上がってドーンと落ちる時、右足から落ちたのかもしれません。左足は何ともなかったですからね。
 ところがそのうちに熱が出る、火傷が化膿してくる、うわごとを言う。恥ずかしい話だけども、トイレに行きたいと思うと、しまりがなくなっていてしくじる。中学一年ですから、恥ずかしいので陰で洗ったのを憶えている。親にしくじったなんて言えないですから。
 お医者さんも祇園というところから、その日じゃないけど、ちょっとしてから来てくれました。そのうち放射線の症状が出てくると、帰る時に玄関口で「もう駄目だ」と母に話しているのが聞こえました。そしてそれ以後その医者は来なかったんです。医者はもう駄目だと思ってたんでしょうね。

 終戦になる前、私が熱を出してうわごとを言って、気を失ったことがあるんです。近所に病院に勤めているお医者さんがいて、呼んだらすぐ来てくれたんですが、そこへ空襲警報が鳴って、私を抱えて、庭が広かったから、家族みんな、十人もそれ以上も入れるような大きな防空壕が掘ってあって、そこへ逃げこんだ。ふっと気がついたら防空壕の中でそのお医者さんが僕の脈をとっていました。
 母親に「どうしたん」って聞いたら、「あんたがうわごとを言ってどうにもならんかったけえ、お医者さんに来てもらったら、空襲警報が鳴ったから、抱え込んできた」と言うんです。防空壕の中で気がついたんです。連れて行かれたのも何もわからない。うわごとを言って。そういう状態がずっと続いていました。
 傷はしばらくしたら膿んでくる。毎日膿がどんどん出て盛り上がって来るから、ちぎり取っては薬を塗る。それは、軽い胸の病気を患って長束の家で自宅療養中だった叔父がやってくれたんですが、それでも見る間に白い膿が盛り上がってくる。それもよかったんじゃないかと思いますよ。そうやって膿を取っていたから。でも他のところが治った後も、右肘と、右耳の後ろはなかなか治りませんでした。
 耳の後ろも膿むんですよ。痛くて狂いながら寝ていました。朝起きて、楽になっているなと思ったら、徳利一杯ぐらい膿が出てるんです。この耳の後ろの今薄くなっているところにね、塊になるくらい膿が出てきたんです。膿が出ると楽になる。それがまたすぐたまる。何日もそれが続いたんです。
 痛くて、狂って寝たのを覚えてますよ。狂うというのはねえ、痛い、痛いと、広島弁では、狂うような痛さを言うんです。泣きながら寝入ったんです。
 それはうなされるのと同時進行です。熱が出る、膿んでくるというのも並行して起こりました。
 熱でものが食べられないので、トマトに父親が物々交換で手に入れてきた砂糖をかけて食べさせてくれました。それも受け付けなくなると砂糖の中にトマトがあるようなのを食べてね、そのせいか今はトマト・アレルギーで、ジュースなどの匂いを嗅いだら全然飲めませんね。
 トマトも食べられなくなると今度は果物の缶詰を食べました。親父が果物の缶詰をいっぱい持って帰りましたね。それをみんな食べた。
 元気になって、裏へ出たら空き缶が山のようにあって、「この缶詰どうしたん」と聞いたら、「どうしたのってことあるかね、おまえがみんな食べたんだ」って言われましたよ。
 当時はお金では何も売ってくれないため、建物疎開の前に窓枠、畳、襖、障子などの建具を、田舎は大きな家なので運ばせてあったので、それと交換しました。戦後すぐはバラックを建てるのに建具が必要で、食べ物に換えてもらえたんです。当時は家に合わせて建具を入れるのではなく、手近にある建具に合わせてバラックを作るんです。だから私は建具を食べて生き残ったようなもんです。
「息子に食べさせちゃらにゃあいけんけえ」と母親が近所で、人参の間引き菜を頼み込んで貰って来たりもしました。
「としえさんがああ言うてんじゃけえ、しょうがない」と言われてやっと貰うて来たりね。当時は全部物々交換でね、おばが古江の方へ果物を買いに行ってもどうしても分けてもらえなかったということもありました。
 私は幸い食べ物が手に入ったし、米は元々十分にあって元気だったんです。そんなことが助かった原因です。
 でも、十二月ぐらいまでは寝込んでいました。膿も出ていました。今も耳の後ろにケロイドが残っているでしょう。
 髪が抜けたのは被爆後一か月ぐらいしてからじゃないでしょうか。髪の抜けた時は、さすがに「死ぬるんじゃないかのぉ」と思いました。
 髪が抜けるのは人よりは遅かったんです。縁側の日の当たる所へ出てじっとして頭をちょっと触ったらパラパラッと何か落ちるので、どうしたんかと思って頭をこう触ると、直ちに一本もないように抜けたんですよ。
 その時は、みんなに校長さん、校長さん言われてからかわれました。ぼちぼち抜けたんじゃなくて頭を触ったらその場で一本もなくきれいにさーっと。一本もない、きれいなもんですよ。
 昔は禿頭(とくとう)病という病気があって「伸生は禿頭病じゃけえ、あれのかぶった帽子は絶対かぶったらいけん」と言われてね。
 みんな二、三週間で抜けましたが、「みんな髪が抜けて死によらあ(死んでいる)」という話を聞いたあと、私は抜けたんです。ちょっと遅かったんです。
 元気になって外へ行くと「あんたあ、よう生きとるね」と言われました。
「高橋の孫じょう(お孫さん)は髪が抜けちゃったけん、はあ、死んでんじゃ(もう死ぬんだ)」という話になってたのが、私の姿を見てみんな「おりゃ?」ということになったんです。
 紫の斑点も出ました。どっちが早いと言うか、同時進行ですね。
 放射能の初期障害は消化器症状、神経症状、無力感、脱毛、脱力、出血、吐き気、皮膚出血斑、炎症、血液障害、生殖器異常とありますが、私の場合全部当てはまります。当時を知っている人には「よう生きとってですね」と言われました。
 それとやけどで寝ている時、とても臭かったそうです。ぐにゃーとなって死んだようになっていました。
 ある会合で子供がいないと話したら、原爆のせいじゃと言われました。一二歳、思春期なので考えられますよね。中学二年生で中広で被爆した人や、中学一年生で雑魚場(ざこば)で被爆した人も子供がいないそうです。
 私の兄妹にはみな子供がおるけんね、影響があるのかなと思います。じゃが、おらんでよかったと思っています。私に似た極道(やんちゃ)者が出来て業煎って(ごういって=苦労させられて)往生しとると思う。女房に言うと「私に似とったら」と言うので、「ほうか、ほうか」という話で。まあ冗談も言わにゃ。あまり暗い話ばっかりしてもね。
 私の場合は髪が抜けるのもちょっと遅かったし、手当てもよかったんです。
 叔父が消毒した針で膿んだところを潰して膿(うみ)を搾(しぼ)り出して、毎日赤チンを流してくれました。傷口にハエが止まると痛いんですが、毎日赤チンで洗ってくれたのでウジは湧かなかったんです。当時は赤チンもなかなか手に入らなかったんですが、私は恵まれていたと思います。食べ物もよかったし。
 私が元気になった翌年の二月、父が学校へ出向き、こういう時だから二月から登校したら進級させてくれると聞いてきたんですが、父が私の体の状態を見て「命あっての学校やけん」と判断して、もう一度一年生をするかということになりました。まあ、今でいう留年ということですね。それもよかったかもしれません。

 その後の障害ですが、ABCC(現放射線影響研究所/アメリカ政府によって建てられた)で検査して、中学三年生くらいの時に白血球、赤血球の数は元に戻りましたが、原爆白内障があるので将来手術をするようになるでしょうと言われました。
 目は五十歳前から調子が悪くなって定年近くなって職場にコンピュータが入ると、青い字が見えない、定年後にテニスを始めましたがボールが見えない、道路を歩くと車が見えずクラクションを鳴らされる、それで手術をしました。
 あと弁膜症もあります。弁膜症は後天性とは言われましたが、ひょっとしたら被爆のショックでなったのかもわからんですね。はっきりとはわかりませんが。
 ABCCの検査は中学三年生からずーっと今でも行っています。その頃は学校へジープで迎えに来て、先生からも「行け、行け」と言われたものです。初めは結果も知らせてもらえませんでしたが、母親が気丈で「息子はモルモットじゃないけん、結果を言うてくれなければ行かせません」と言うと、それから検査結果が来るようになりました。
 本当にモルモットですよ。胸に穴を開けて、赤血球か何かを調べるんですが、帰りがけに「みんなには言わんでくれ」と言われました。苦しくてね。錐(きり)のようなもので揉んで胸に穴を開けるんです。
 どこへ転勤しても広島へ来た時には検査に来るように依頼がありました。歯が抜けても持って来るように言われています。
 ABCCは補償もないしお金もくれん。しかしものは割り切りようで、自分の健康管理と思うとります。今は二年に一度、検診に行っています。その他に市立舟入病院の近距離被爆者の検診にも毎年行っています。      
                 

●語り部活動と同窓生の罹災状況調査

 私は高校を卒業して専売公社に入社して、五七歳で退職しました。退職したときは日本たばこ産業株式会社ですね。それから、六三か四で語り部を始めましたが、退職して数年はこういう証言活動は一切しませんでした。
 現職の時もずーっと気持ちの中では、話さなければいけない、書き留めて置かなければ……大変なことだからというのはありましたが、仕事に追われていましたし、転勤族でしたからね。毎年八月六日が近付き、新聞などで原爆の記事を見ると「ああ、またやり出したなあ」と一年に一度思い出してはいましたが、人には話していませんでした。
 でも、去年取材されて被爆体験が新聞に出たあと、それがJTの退職者の会報にも載った時、何でも知っている同期の人事担当だった人が「あんた、大変じゃったねえ」とやっとわかったくらいで、そのくらい人には言わなかったですから。
 人に自慢出来ることでもないし、問われたら答えますが、ほとんどの人は私が被爆者だと知らないんです。
 語り部を始めたのは、職場の知り合いだった桑原さんに誘われたのがきっかけです。
 平和運動のようなことはしないけれども、自分の中に、原爆の体験がいかにひどいものか、こういうことが二度とあってはならんという気持ちはあったわけです、ずっと。だから何かの機会をとらえて、原爆とはこういうもんですよという話をしなければいけない。それを何かに書き留めておきたいという気持ちがずっとあった。ポッと湧いたわけではないんです。

 今から一〇年前の五十回忌法要の年に、新聞もいろいろ特集をしたりして、その時、ちょっと学校へ行ってみるかなと崇徳学園の法要へ行ったんです。
 私が行くと、何と、被爆した生き残りがいるのかと驚かれました。五十回忌の節目なので法要のあとで座談会が開かれて、百人ぐらい遺族の人が残ったんですが、先輩方の話のあと、先生に頼まれて最後に私が話をしました。
 私の話を聞いた遺族の人は、亡くなったのが八丁堀付近しかわからなかった、どういう状態だったか全然わからなかった。私の話で初めて、場所やその時の状態がわかったと言うんですね。
 座談会が終わると四、五人遺族の人がバアーッと駆け寄って来ました。口々に、何年何組の誰それですと言うわけ。おそらくその人達はみな行方不明なんでしょう。遺族は、被爆した時はどういう状態だったか知りたいわけです。知って生き返るわけじゃないけど、遺族は知りたい。それはものすごくある。考えれば、死んだものが生き返るわけはないと言うけど、絶対そんなことはない。ものすごく知りたがる。
 その四、五人の遺族はみな兄弟だった。もう年齢的に言って、兄ですとか言うわけ。だから「ごめんなさい。入学して四カ月で、誰がどうとかあんまり憶えてない」と話しました。
 それを見ていた先生が、「竹村さん、あなたの所に遺族の人が話が終わったら駆けて行った。あれが印象的だ」って話して、そのあと見せてくれたのが、終戦の年の九月に学校がまとめた罹災者名簿です。そのコピーを貰い、それをとっかかりにして同窓生の最期を調べようと思い立ったんです。

 最初は、語り部をするんで、子供には本当の状況を話したかった。そのために始めたんです。私だけじゃなしに他の人はどういう状態だったとか。生存者にはどうして生きているのかとか。そういうことを名簿を基に調べることにしました。
 当時、崇徳中の生徒は廿日市(はつかいち)大野、宮島、大竹辺りからたくさん通っていました。その人達に連絡して直接聞きに行ったり、出会った時には、どうでしたかと聞いたんです。
 そのうち、語り部で少しずつ話をするよりも、この状況を残しておけば、口で語るよりもいかに原爆というのは悲惨なのかということがわかる。調べたことを記録として残したいという気持ちが出てきたんです。崇徳中学の記録はほとんどないんです。
 去年の八月六日に学校へ行って中国新聞の取材を受け、私が同窓生の罹災の状況を記録に残したい、遅きに失した感はあるが、何とかやってみたいと話し、それが記事になったのが後押しになってそれから本気で調査を始めたんです。
 ところが遺族を探すのが大仕事。NTTから電話帳を送ってもらって調べて、遺族の方に電話をかけて状況を聞いているんです。
 まだ完全ではないけど、メモもたくさん作りました。先生方もどういう状態で亡くなったかも調べ、私のいた八丁堀だけやろうとしたんですが、どうせやるんなら、他のところの犠牲者、三年生もという気持ちになったんです。
 でもこれが本当に大変でね。来年が六十回忌だから、何とかしてやりたいと思うんだけども、なかなか大変です。完璧なものは作れないけど、ある程度はやらなければしょうがない。メモならいいけれども、残したいから。残すとしたらある程度を詰めていきたい。もうこれ以上はだめだというのは除いてやってみたいから。
 この資料は出来上がったら原爆資料館からも欲しいと言われていますが、まだ整理し切れてないんです。

 当時のようすをわかってもらうのに、一番説得力があるのが、死亡年月日。それから死亡場所です。この人は常磐橋とか自宅とか、この人が縮景園で死んでいるとか。そうやって調べていったら、自力で帰っている人がほとんどいないんです。
 常盤(ときわ)橋や工兵橋を渡って牛田の水源池辺りまで逃げた友達は多いです。みんなこの辺りで力尽きてるんじゃね。
 ……この人は八月六日五時ごろ自力で宮島に帰宅。体半分が焼けている。八月九日の一〇時ごろ、落下傘の軍歌を歌いながら息を引き取った……。
 勝ってくるぞと勇ましくを歌いながら息を引き取ったのもいる。僕は死ぬから敵を撃ってくれと言いながら死んでいったんです。
 それからこれは教えてもらった新聞記事ですが、右後頭部が裂け中身が出たまま歩いていた崇徳中学の一年生が、あまりに苦しいので、「切ってください。殺してください」と通りかかった兵隊さんに頼んだそうです。広島駅へ向かう常盤橋のたもとに松林があってその付近です。兵隊さんは持っていた短剣が竹光(たけみつ)なので殺してあげようにも殺されなかったそうですが、これで奇跡が起こったんです。
 調査のために家族に電話して、偶然逃げた場所や傷のようすが同じで同一人物とわかった同級生がいるんです。話を聞いて「ちょっと待ってください、それと全く似た記事がある」と言って私がお兄さんに記事を送ったら喜んでくれて、手紙を貰いました。
 それによると、尾長へ避難しているという知らせでお兄さんが行ってみたら、近所の人が「よかったね。生きとってよ。さっき水を上げたよ」というので言われた所を探し、いないので付近を探しているうちに尾長小学校の先二、三〇〇メートルで発見した時にはもう死んでいたそうです。
 お兄さんが言うのに、まだぬくかったそうです。八月七日です。           
        

 涙をばーと流しとった。「死んだばかりじゃったんじゃろ、さぞ残念じゃったんじゃろ」と。
 新聞記事は同じ人間で間違いないだろうと、これを送ってあげたら兄弟二人が最期がわかったと喜んでいました。
 さっきも言いましたが、自力で帰ってきたのはほとんどいない。全部途中でお父さんお母さんが連れて帰ったり、あとは行方不明。当時は倒れていると家へ知らせてくれるんです。
 例えばこんな人がいます。可部(かべ)のずっと奥に加計(かけ)というところがある。そこから来た生徒が、長束の親戚まで帰った。それで自転車に戸板をのせて親が加計から自転車で連れに来た。直線距離は約二〇キロ。実際には川沿いの曲がった道なので二倍くらいの距離があるかもしれません。
 その生徒は八月一五日まで生きていて、八月一五日の天皇陛下の玉音放送を聞いて、「残念」と言って死んだそうです。そのくらい戦争に対して張り切っていたんだろうと思います。
 軍歌を歌いながら「勝ってくるぞと」と歌いながら死んだのも何人もいる。天皇陛下万歳と言って死んだのは、はっきり言ってあんまりいないね。やっぱり「お母さん」だね。
 一人だけいますが、弟さんの話だと「天皇陛下万歳と言ったけど、最後には小さい声で「お母さん」と言って息絶えた。天皇陛下万歳と言ったときは大きな声だったけど、お母さんというのは小さなとぎれるような声で、死ぬ前に母親に何か言うたんじゃないか」ということでした。弟さんといっても私らより三つ四つ下。よく憶えておるからね。
 その人の話ですが、水を飲ませたら死ぬと言われていたので、飲ませなかった。けれども、お母さんが看病疲れでウトウトとしていると、キーコーキーコーとポンプを押している音がする。ハッとお母さんが目が覚めると、いつの間にか抜け出して水を汲んで飲もうとしている。お母さんは飲ますまいとして、止める。その弟さんが言うには、「兄と母親の葛藤でした」とね。飲ませ、飲まさんと、その葛藤が五日間続いているわけ。八月一〇日に死んでいるからね。
 別の友達で、たまたま近所の人が通りがかって、戸坂(へさか)のお姉さんの嫁入り先に連絡して迎えに来てもらい、大林からお母さんが来るのを待ったようにして死んだ友達もいます。
 家のすぐそばの鉄橋の下に一〇日までいて、お父さんに発見されて連れて帰ってもらって、その晩死んだ人もいます。あれはきっと、みんな待ちよるんじゃね。

 どうしてあの時水を飲ますと死ぬと言われたんですかね。私が長寿園の前を必死で歩いていた時、土手の上に逃げてきた人で「水、水」と言っている人もいました。
 あのころは何かわけがあったのかな。遺族はどうせ死ぬなら飲ましてあげればよかったと言っています。
 語り部をしている時、小学生に、「水を飲ましたらいけない。死ぬから、というのはどういうことですか」と質問されました。
 あとで放影研やら知り合いの医者などに聞きましたが、水を飲まして死ぬことはない、むしろ飲ました方がよかったという答えでした。
 強いてあげたら、「末期の水」的な感覚があるのでしょう。自律神経が張っていて水が飲みたい、水が飲みたいと思っているのが、水を飲んでホッとして神経がプツッと切れる。その人はおそらく水を飲まさなくても死んでいます。しかし、死期が早まったということでしょう。水を飲ましたら安心感が出てそこでプッツリ切れる。そういうことだろうと思います。
 あれだけ火傷したら熱を持つから喉が渇くと思う。その先生が言うには、飲ましてはいけない場合もある。例えば、喉なんかが焼けていると、水を飲むと、今度は喉から血を吐いたりする。それで死ぬことも考えられるが、それ以外は水を飲んで死ぬことはないということです。

 小学生はすごい質問をしますよ。「戦争中あなたはどう思っていた」と質問したりします。今だとイラクのことを質問したりする。語り部をするならば、新聞から目を離せません。語り部というのは、ただ苦しかっただけではいけない。やっぱり戦争をしてはいけないということに繋(つな)げていかないと。私は最初からずっとそういう話をするんですけどね。

 逃げながら一二歳の私がその時感じたことは、これは大変なことだ。早く大人になって軍人になって、この苦しみをアメリカ人にも味わわせたい、つまり敵(かたき)討ちという気持ちですよ。それは当時の誰でもありました。みんな敵を討って欲しいって死んでいるんだから。仇討ちみたいな話は子どもたちにするのは、よくないと思っているので、話はしないんだけれども。
 それはそう、戦争中ですからね。アメリカ人にこれだけのことをやられたんだから、やり返す、と思った。今日みたいに、大人の人を相手に証言する時はちょっと話します。その当時はそれが正直な気持ちです。それほど、被害がひどかったということです。
 普通ならこんなことを思わない。早う大人になって、軍人になってアメリカ人に、苦痛を味わわせたい。いわゆる敵討ち、それは当時の私の偽らざる心です。みんなすごい死に方をしているんですからね。
 原爆で一番悲惨なことは、まず犠牲者がほとんどが非戦闘員ということです。子供、女性、老人がほとんどです。兵隊も死んでいるけれども、兵隊はごく少ない。朝鮮人も相当死んでいるんですが人数がつかめない。
 崇徳中学の場合は寄宿舎に入っていた人は一〇〇人ぐらいでした。その他に遠くから通学していた人、親戚、知人宅に下宿して被爆後は家に帰り、学校に連絡のない人などの場合は生死が不明です。
 崇徳中学で死んだのは学徒動員がほとんどだけど、先生が一〇人と、生徒が五一二人死んでいる(崇徳学園一二〇年史による)。男子中学では一番多いです。女学校では市女(いちじょ=当時/市立第一高等女学校)、今でいう舟入高校、そこが六〇〇何人死んでいるから一番多い。

 慰霊碑の碑文に「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と書いてあるでしょう。けれども、あれを見た時、被爆者として憤慨しましたよ。大学の先生が考えて、意味に含みがあるんでしょうが、ちょっと考えたら「二度と繰り返しません」って言っても、やられた者が繰り返すはずがないでしょ。そんな馬鹿な文章はない。あれは問題になったんですよ。私は見たときにカチンときた。
 それを書いた先生が説明するには、英文でWe、我々と入っているのが、日本文では抜けていたということですが、先生の言わんとしたことと、あの碑文に載っていることとは違う。自分が悪いことして、こんな悪いことしてはいけないというならわかるけれども、あれを見たときは頭にきた。
 Weと言ってやっと世論が収まり、それからNo More Hiroshimaという言葉が出てきたそうですが、でもねえ、私らが語り部をしていて憤慨するのは、最近聞いた話では、先生が、原爆が落ちたおかげで戦争がすんだんだという教育をしている。私はびっくりした。そんな先生がいるのかと。しかしそれは事実らしいですよ。

 原爆投下の理由が三つあるとされていますね。日本を早く降伏させアメリカの犠牲を少なくしたい、と。
 それから、ドイツ降伏後三カ月以内にソ連が対日参戦することがわかった。ポツダム宣言の時。その前に原爆を日本に投下して、戦後の世界でアメリカがソ連より有利に立ちたい。冷戦ですね。だから早く戦争を終結させてしまいたいということで、落とした。
 それと最後に、原爆を実戦で使い効果を実験したかったというのもあるでしょうね。
 私に言わせると、本当に打撃を与えるんだったら広島であれだけやったんだから長崎に落とすことはない。長崎と広島は爆弾の型が違う。だから実験のために落としたのではないかとも思うんですね。
 日本にダメージを与えるとしたら広島の原爆だけでもう十分なはずでしょ。その時は、ポツダム宣言を無条件で受けるかどうかというところまでいっていた。それが駄目押しになって、無条件降伏が早くなったかもしれないけれども、降伏には手を挙げていた。ただ天皇制をどうするかと詰めているときだった。向こうはソ連との対抗上、早くやらなければいけなかったんですね。そのために広島・長崎が犠牲になったんです。

●今振り返って

「もうこれで助かった。これで何とか生き延びられる」と思った時期というのは特にありません。私はのんびりしているのか、自然にずっと来ました。
 私の場合は戦争中も食べるものは充分でしたし、被爆後は、半年以上苦しんだですけど徐々によくなっていきました。頭の毛が生えたのは年が明けてから。そしてその年の十二月ごろまで顔の傷が消えませんでした。今でも鏡見て、髭を剃るときに「おお」と思う。大した傷ではないけれど一生消えない。
 話がちょっと戻るけれども、被爆後は空襲警報でも動悸が起きました。自分では意識してなくてもそれほど恐怖心があったんです。また今はこうやって元気だけども体の調子が悪いときは、ひょっとしたら、原爆症が出たんじゃないかという不安がずっとありました。
 それとあまり言いたくないのですが、同窓生で一キロ以内で被爆し、その時は助かって、あとから九人ぐらい死んでいるんですが、調査したら、全部ガンなんですね。やっぱりガンになる。何かあるんですかね。建物の中にいて助かった人は、私より浴びた放射線は少ないはずなのにみんなガンになる。
 被爆者のお子さんが特にガンになるということは聞いていない。これを憶測でものを言ってはいけないけれども、ちょっと隠しているような気がするんです。言わないだけで。 私も実を言うと結婚してから、ずっと八月六日が来たら悩んでいたんです。もし子供ができたらどうしようかと。そういう報道をするじゃないですか、テレビで。それを聞いたら本当に落ち込みましたよ。幸か不幸か子供は生まれなかったけれども、女房と話をしました。十月十日悩んで、おぎゃあといっても大丈夫かと思って怖いだろうなと。
 いないことはない。だが、表に出ないんだろう、全くないということはないと私は思
っています。私も実はそれで悩んだ。子供が出来ないようになるまで悩んだんです。

 よその地方の方ではまわりの人がいやがるから言わないということもありますね。
 そのことでひとつ、ぜひ話したいことがあるんです。
 八丁堀で被爆した崇徳中学の先輩で、この方は戦後は草加市に住んでいて六三くらいでガンで亡くなったんですが、その人の話です。その先輩のお姉さんがちょうど七回忌だし大叔父さんが原爆に遭ったことを見せようと、自分の孫を連れて原爆資料館に来ていたんです。私をたまたま知っているピースボランティアの方がその人の住所を書き取り、崇徳の生徒の情報として知らせてくれました。
 私から連絡を取って、そのお姉さんから聞いた話です。
 弟さんは被爆者だということで「離婚された」そうなんです。弟さんは火傷をものすごくしているわけ。結婚する時に、奥さんがこの火傷はどうしたと聞くから、子供の時にしたんだと言った。だから、原爆手帳も何も取っていなかったんです。取ったらすぐわかりますからね。そして子供さんが、大学へ行くようになって、お姉さんが、まぁもうここまで来て、子供も二人とも大きくなったので、別に影響もないからもういいだろうとつい奥さんの前で話をした。そしたら奥さんの顔色が変わって、「原爆の子を産ませた」と言ってすぐ離婚したというんですよ。
 お姉さんに「どう思いますか、竹村さん」と聞かれたので、「それは、おかしい。隠していたのは悪いけれども、身体が悪いような子供が出来たらまだまだしょうがないけれども、五体満足で、大学へ行くような子供がいるのに」と私は言いました。こういうことはかなりあるらしい。広島よりひどいらしいですよ。
 広島でだって、被爆後、私らがまだ子供の時は、「ピカに遭った人間のそばに行くな。うつる」と子供同士で言うわけ。それがいわゆる原爆差別というものでしょう。
 特に、結婚では女性がひどい差別を受けているんです。今でも原爆手帳を持ってない女性がたくさんいる。隠している。ようやく最近になったら話し出した。自分の余命がないから。話しておかなければいけないという人が、最近ぼちぼち出始めている。
 それまでは、子供はもちろん孫にも全然話していない。もちろん原爆手帳も持っていない。今でも隠している人は相当いるんじゃないですか。子供や孫に言って、被爆者の子だと知って悩んだりするから隠している。その前は結婚できないから隠していた。離婚されたのもいるんです、ピカに遭ったものは。
 それである時、私が語り部をしていると言ったら「しっかり頑張ってくださいね、私は結婚を諦めていたら、主人の両親が被爆者で理解があって結婚出来たんです」と言う人がいました。その人も原爆手帳を持っていない。とくに女の人が多いんじゃないですか、原爆手帳を持っていない人が。
 それから就職差別。ピカに遭った人間は根気が続かないから雇わない、そういう差別もありました。被爆者だと言ったら採用してもらえないんです。私も今考えたら、人が疲れないのに疲れるなあと思うこともありました。
 私は就職試験を受け幸い何ごともなく採用されましたけど、そういうのが原爆差別の
中にあるんです。

●被爆者からのメッセージ

 私はイデオロギー的なものはありません。自分独自で、平和のことだけを考えています。核兵器廃絶、恒久平和ということを唱える団体などがあるけれども、私は核兵器はなくならないんじゃないかと思う。
 今でもアメリカは、テロ用の小型核兵器を開発したりしている。アメリカ自体がおかしい。自分がちゃんと持っていて北朝鮮にはどうのこうのと言う。自分がなくして言うならいいけれども。
 私は、核兵器廃絶というのは言葉で言うだけであって、実際にはなかなか難しいんじゃないかなっていう気がするんです。
 しかし核廃絶より、いかにして戦争しないか、平和でいるかを考えることはできる。
 核兵器をなくすことよりも、平和を実現する方がたやすいんではないか。子供にも話をするんですが、命の尊さ、思いやりのある人間になってほしいと。
 国と国が争わないのが平和だから、みんなが平和な心を持たなければいけないと。私としてはもう二度と使ってはいけないということを何とかして実現させたい、手段はいろいろあるかもしれないが、今はそういう気持ちです。
    (2004年11月29日/宇品公民館にて/聞き手■五十嵐勉・渡辺道代他ヒロシマ青空の会メンバー)



建物疎開 学徒・引率教師 犠牲者数

2016-08-30 | 第二集

 
2集 建物疎開 学徒・引率教師 犠牲者数


建物疎開 学徒・引率教師 犠牲者数

                     
広島原爆資料館資料による

        
        


原爆の街        絵 金崎 是

2016-08-30 | 第二集

被爆証言を遺そう!ヒロシマ青空の会 2集「原爆の街」

 

 

原爆の街        絵 金崎 是


突然、強烈な光が襲った


すさまじい衝撃波であっという間に家は崩れ落ちた



ヒロシマ


炎の中を逃げる人々


追ってくる炎。でも逃げられない


原爆の街


焼け焦げたボロボロの体で火の中を逃げ惑う


破壊された橋を渡る人々。熱さと渇きに耐えられず次々に川に飛び込んでいく


原爆の街


翌日、黒焦げの死体を運ぶ兵隊



放射能で死んでいく我が子。街のあちこちで家族の死骸を焼く煙が昇る


苦しんで死んでいった遺骨に手を合わす




金崎 是    かねざきすなお


大正5年(1916年) 広島市福島町で出生
被爆後、生活擁護連盟を組織。活動の中心になる。
福島診療所建設に尽力。地区被爆者の会会長。
被団協副理事長。
地区文化推進協議会を結成し絵画教室を開く。
戦後一貫して解放運動に参加。

主な出版物
「金崎是画集」
原爆絵本「天に焼かれる」
未解放原爆被爆者の手記「壁」
市民学習シリーズ「いのちあるかぎり」


アメリカ原爆開発の発端  アインシュタインの手紙

2016-08-30 | 第二集

被爆証言を遺そう!ヒロシマ青空の会 2集「アメリカ原爆開発の発端」

 
アメリカ原爆開発の発端  アインシュタインの手紙
                                     五十嵐 勉
 核物理学は一九二〇年代になって最先端科学として急激に発達した。それまでのニュートン力学を超える新たなエネルギー理論と方法が次々に登場し、アインシュタインをはじめ、パウリやハイゼンベルクなどヨーロッパの天才青年科学者たちによって華々しい新理論の論文が咲き誇った。これはそれまでの科学の世界を根底から覆すほどの革命的な理論を内蔵していた。

                    
                 アルベルト・アインシュタイン

 その道筋を辿るように、一九三〇年代になって原子核関連の実験と構造の解明が進むにつれ、原子核そのものが変化することが明らかになってきた。それまでは元素は絶対不変のものであり、元素の中核をなす原子核は変わりえないものとされてきた。しかし一九三二年の中性子の発見に伴い、イタリアのフェルミなどによって、原子核に中性子を当てるとどう変化するかなど原子核反応の実験が進んだ。原子核そのものが分裂したり結合したりして、他の原子核になりうることが予想されるようになった。
 ウラン原子に中性子を当てるとバリウムができ、これが原子核の分裂(フィッション)によるものであることが実験で確かめられたのは、一九三八年一二月のことである。ドイツのハーンとシュトラウスマンによって報告されたこの事実は、翌年一月にマイトナーとフリッシュによって確かめられた。マイトナーはユダヤ人でドイツのカイザー・ヴィルヘルム研究所にいたが、ナチスの迫害が身辺に及んだため、デンマークのボーアの研究所に身を寄せていた。この論文ノートが、一九三九年一月にちょうど渡米直前だったボーアの手によってアメリカへ運ばれ、米国の科学者の間にセンセーションを巻き起こした。まもなく「ネイチャー」誌に発表されたこの論文には、次の驚くべき事実が示されていた。
 一つの核分裂で生じるエネルギーは、なんと二〇〇メガボルトというすさまじいもので、これはこれまでの火薬などによるエネルギーの数万倍それ以上のエネルギー指数を示していた。しかも原子核は1立方センチのなかだけでも無数にある。これが同時に核分裂したときのエネルギーは膨大なものになる。さらに驚くべきことに、一つの核分裂で中性子がいくつか飛び出すので、それがまた他の原子核に当たって核分裂を引き起こす無限の連鎖反応を起こすことになる。このエネルギーの総和は、これまでの常識を超えるとほうもない力を生じる……。
 科学者たちは、この膨大なエネルギーが利用できるようになれば、人類にとって画期的な新エネルギー源となると同時に、もしこれを兵器として爆弾に利用するならば、とてつもない爆弾が生まれることを予測した。
 原子物理学者たちを興奮の渦に巻き込んだこの核分裂連鎖反応の発見は、戦争に巻き込まれていく当時の世界情勢と奇妙に表裏をなしている。
 当時ドイツではナチスが世界戦略を全面に押し出して、ゲルマン民族の帝国建設を実行の段階に移しつつあった。東方への国土拡大を実施するその前からすでに、ヨーロッパ全土に散らばって住むユダヤ人を経済の寄生人種として徹底的に排除する政策を実施していた。
 ナチスの魔手から逃れるために、多くの核物理学者がアメリカに渡っている。アインシュタインをはじめ、フェルミ(妻がユダヤ人)、シラード、テラーなど、ユダヤ人関連の核物理学者は多数にのぼる。のち彼らがアメリカの原爆製造に間接、直接にきわめて重要な役割を果たすことになる。
 原子爆弾の誕生は当初から戦争と表裏をなす数奇な運命の影をまとっている。核分裂連鎖反応の発見はナチス・ドイツの膝元で行なわれつつ、ユダヤ人の迫害といっしょにアメリカへ飛び火する。第二次大戦の勃発と進行とともにナチスによる原子爆弾の製造を恐れたアメリカが逆にその製造に成功する。
 核分裂連鎖反応の発見がほぼ一九三九年であり、原子爆弾の製造が一九四五年であることを考えると、原爆の誕生はほとんど第二次世界大戦の期間と一致する。ある意味で、原爆を誕生させるために第二次世界大戦が存在したかのような悪魔の罠にも似た影の色彩を孕んでいる。少なくとも、ある血塗られた深い影の宿命を帯びてこの世に生まれたと言っていい。
 それは第二次大戦全体が人類に意味するものと根を同じくする。原爆の影とは、破壊の力をあまりに巨大にしてしまった人間の文明そのものの影であり、科学文明の発達とともに欲望を無制限に解放してきた自らの罪の影にほかならない。これを乗り越えることができるか否か、滅びに至る道を人類はいま試されている。むしろその重荷はバイオテクノロジーや環境問題をはじめ、さらに多くの領域に広がることによってますます大きく、危険になっていることを知らねばならないだろう。

 連鎖反応の可能性がきわめて大きくなった一九三九年の後半、核分裂に関する論文がほとんどの科学雑誌からぱったりと消えた。このことは、核分裂を使った新たな爆弾の開発が、ドイツをはじめ各国政府の報道管制下に入ったことを意味する。また原爆の材料となるウラン鉱石もドイツ占領下のチェコスロバキアにおける販売がストップした。チェコはヨーロッパではソ連を除いて唯一ウラン鉱石が採掘される地である。これもドイツが原爆の生産に向けて動き出したことを意味していた。
 これらを憂慮したユダヤ人核物理学者たちは、大御所アインシュタインを担ぎ出して、アメリカ大統領ルーズベルトに直訴する。八月二日付の手紙は、そのときにはまだ開かれることはなかったが、ドイツがポーランドに侵攻し、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まったのちの一〇月一二日、大統領と懇意にしていたアレクサンダー・ザックスの手紙に添えられて、ついにルーズベルトの前に開かれる。

「大統領閣下
 E・フェルミとL・シラードによる最近の研究論文が原稿で私のもとに届けられましたが、これは近い将来にウラン元素を重要な新エネルギー源に変えうるという期待を私に与えてくれます。すでに起こっている事態のいくつかの側面について、政府は警戒するとともに、必要ならば機敏な措置をとらなければならないように思われます。したがって、私は、閣下に次の事実と勧告に注目していただくことが私の義務であると考えます。
 最近四カ月の間に、米国のフェルミやシラードだけでなくフランスのジョリオ(・キュリー)の研究によっても、次のことが有望になりました。すなわち、大量のウランのなかで核連鎖反応を発生させることが可能であり、それによって巨大なエネルギーとラジウムに似た新元素が大量につくられるという可能性です。近い将来にこれを実現できるのは、まず確実であるとみられます。
 初めて発見されたこの現象は結果として爆弾の製造にもつながります。それほど確実ではありませんが、これによってきわめて強力な新型爆弾を製造することが考えられます。この型の爆弾一個を船で運び、港湾で爆発させれば、それだけで、港湾全体のみならず、同時に周辺地域の一部をもたぶん破壊するでしょう。しかし、このような爆弾は、航空機で運ぶにはおそらく重すぎるでしょう。
 米国には、きわめて質の悪いウラン鉱石が多少あるにすぎません。カナダとかつてのチェコスロバキアには良質のウラン鉱石が多少ありますが、しかし、最も重要なウラン産出地はベルギー領コンゴです。
 このような状況から考えると、政府と米国で連鎖反応について研究している物理学者グループとの間で何らかの恒常的な接触を保つことが望ましいと考えられます。これを実現するために考えられる一つの方法は、閣下の信頼を受け、かつ、おそらくは非公式の立場で仕事をやれる個人にこの任務を委嘱することでしょう。その任務には、次のような事項が含まれるでしょう。
(a)政府各省に出入りし、今後の開発について絶えず情報を提供するとともに、政府の措置に資する勧告を提言し、米国が必要とするウラン鉱石の供給確保の問題に格別の注意を払う。
(b)もし資金が必要であれば、喜んでこれを寄付しようという個人との接触を通じて資金を提供してもらい、また、必要な設備をもつ企業の研究施設の協力を得ることによって、現在、大学の研究室の予算の枠のなかで行なわれている実験作業を加速する。
 ドイツは、同国が接収したチェコスロバキアの鉱山から産出するウランの販売を実際に停止したものと思います。ドイツがこのように早めの措置をとったことは、ドイツの国務次官の子息であるフォン・ヴァイツゼッカーがベルリンのカイザー・ヴィルヘルム研究所に所属していること、米国で行なわれた、ウランに関する研究の一部が現在そこでも繰り返し行なわれていることを考えれば、たぶん理解できるでしょう。
        アルベルト・アインシュタイン」
『マンハッタン計画』(大月書店)岡田良之介・訳

 この手紙の中には、目立たないが注目すべきことが一つある。それは、ウラン鉱石の供給地にまで触れている点である。アインシュタインのような理論学究肌の人間がなぜウランの供給地にまで精通しており、それへの対処を匂わせているのかと疑問を覚えずにはいられない。
 実はこの手紙は、シラードの草案が元になっており、シラードはもっと詳細に原爆供給地の問題を、例えばチェコのウラン鉱石の埋蔵量を一五〇〇トンというふうに書いている。このほかにも政策的関与が必要であるとも述べている。シラードはのちに水爆の父となるテラーと協議して積極的に政治家に訴え、開発を実現させようとしていた。そのためにアインシュタインを担ぎ出し、アレクサンダー・ザックスにコンタクトした。
 シラードもテラーもユダヤ人である。だから科学者としてだけでなく、ナチスの恐さを知る者として、よりいっそう危機感を深め、なんとしてもナチスがこれを先に手中にすることを恐れ、それ以前にアメリカが開発するようにしむけたかった。ユダヤ人だからという切迫性は理解できる。しかしそれでもこれだけの広範な対策を、一人や二人の考えで練ることができるのだろうか、とさらに疑問が湧く。おそらくここには他のユダヤ人、例えば銀行家や鉱山業などに携わっている資本家などが参加して、その総意のもとにシラードやテラーを動かし、大統領へ向かわせたというのが自然だろう。ここにはナチス対ユダヤ人の潜伏した激しい戦いが見て取れる。
 添えられたアレクサンダー・ザックスの手紙の中にも、ほぼ同じことがもっと詳しく勧告されていた。アインシュタインの短い手紙で大統領の関心を引き、そのうえで詳しい文面をさらに読ませるという周到な手配だったと想われる。
 すでにナチスはポーランドに侵攻し、イギリスとフランスはドイツに宣戦布告をした。とほうもない戦争が始まっている。そのような状況下での、これまでの常識を破る爆弾の可能性は、ルーズベルトを困惑させたにちがいない。
「たった一つで港湾全体のみならず、同時に周辺地域の一部を破壊する爆弾」とはいったい何か。こんなとほうもない爆弾がほんとうに実現するのだろうか。科学者たちは絵空事を言っているのではないか……。ルーズベルトの胸に去来したものは、まず現実主義者としての疑いであろう。しかし同時にこの非凡な政治家は、すぐにこれが現実に立脚していることを直感した。それはドイツがチェコスロバキアのウラン鉱石を販売禁止としたことである。ドイツの科学力なら、ひょっとしたらそれが可能かもしれない。ドイツはその科学力をふんだんに生かした最新兵器をもって、破竹の勢いでヨーロッパを侵略している。ドイツの野心は大きい。ヨーロッパを席巻しつつある。もしヒトラーがその爆弾を手中にしたら……
 ルーズベルトは「手を打たなければならない」と決断した。
 書面を極秘ファイルに保存することを指示し、アインシュタインに次のような返礼の手紙を送った。
「アンシュタイン教授殿  一九三九年一〇月一九日
 先日のご書面ならびにこのうえなく興味深く、かつ重要な同封資料について、お礼申し上げたいと存じます。
 同資料はきわめて重要であるとの認識から、ウラン元素に関するご提言の実現性について徹底的に調査するため、標準局の局長および陸・海軍の各選抜代表から成る委員会を招集しました。
 さいわい、ザックス博士がこの委員会に協力・協同してくれますが、当該問題に対処するには、これが最も実際的かつ有効な方法であると思います。
 重ねて衷心よりお礼まで。
        フランクリン・D・ルーズベルト」
      (同)
 アインシュタインの手紙が、アメリカ合衆国の原爆開発の扉を開いた。それはまだ人類が手にしたことのないとほうもない力、太陽そのもののエネルギーにつながる、新たなプロメテウスの火だった。ルーズベルトの決断は、一瞬のうちに一つの都市を壊滅してしまう悪魔の火をこの世に生み出すことになる、大きな決断だった。
 この時点で、ルーズベルトはアメリカも大戦に巻き込まれていくことを覚悟したにちがいない。どのように準備し、どのように参加していくか。このようなすさまじい破壊力を持つ爆弾がどのようにして世界に登場し、どのように人類の未来を変えていくのか……ルーズベルトの胸中は不安の渦を濃くしていたはずである。
          


「火の海と黒煙の壁」 大野逸美さんに聞く

2016-08-30 | 第二集

被爆証言を遺そう!ヒロシマ青空の会 2集大野証言

火の海と黒煙の壁
                     ――大野逸美さんに聞く――

大野逸美さん

生年月日●昭和六年(一九三一年)七月○日生まれ (インタビュー時七三歳)
被爆当時●一四歳/広島市立第一国民学校二年生
被爆地●爆心より二・七キロ/広瀬軍需工場

 私は大野逸美と申します。昭和六年(一九三一年)七月二〇日に、広島市の松川町で生まれました。自宅跡は現在、松川公園という公園に変わっています。育ったのは比治山の下、当時の段原小学校のすぐ横の金屋町です。              
              
 父は逸蔵と言って段原日出町で材木商をやっておりました。
 母は後入りで私が八人目の末っ子です。私だけが腹違いで、父が五〇歳の時に生まれた子です。
 父の本籍は現在の白木町で、もともとは山の仕事をしていました。木の伐り出しとか、山を売買したり、材木を売り買いしたりする、いわゆる山師です。それで、若い頃に事業に失敗して、広島へ出てきて、それで材木商になっていたわけですね。
 父は私と同じく大きな男で、相撲でも村で横綱を張るくらい強かったです。日露戦争の勇士で、勲章をもらったような剛毅な人でした。九〇歳で亡くなるまで父といっしょに生活しましたけどね、それは強い親父でした。
 兄が三人、姉が四人でしたが、長男は私と親子ほども年が離れていました。
 私は父が年をとった時の子じゃけぇ言うて、親父がもう猫かわいがりに可愛がった。もう親父とべったりで、小さい時でも仕事場に行って、親父の弁当半分食べたりね。小学校の四年生ぐらいまで父といっしょに寝よったですよ。
 子供時代はお山の大将で、みんなを連れて駆け回っていましたよ。夏になると京橋川で泳ぎました。京橋川は私のプールじゃと思うとったほど、河童じゃったです。浅瀬でね、潮が引いたら白浜になりよったんですよ。川がきれいだったんです。ここでしじみがとれよった。バケツ一杯ね。隣のガキと一緒に、ここに行って勉強もせんと川で一日遊んで。バケツにしじみ貝を二人でとって、重たいくらい持って帰るんですよ。それで、近所に分けてあげよったですよ。しじみ貝を塩で煮るわけですよね。白っぽいようなスープになった。これは、何かの病気にいいと言って、しじみはよう食わされよったです。
 比治山は私の庭のようなもので、よく兵隊ごっこをして遊びました。太平洋戦争が始まった昭和一六年(一九四一年)は、私がちょうど一〇歳。その頃にはもう遊びの主流は兵隊ごっこ、チャンバラごっこですよ。いつも私は大将です。大将と言わずに、小隊長というんですね。要するにリーダーです。比治山に陸軍墓地がありますよね。ここが絶好の遊び場所です。この下に戦時中、陸軍電信隊があったんですよね。この山に高射砲陣地ができたりね。



             
                                      戦前の御便殿


 比治山周辺の略図 クリックで拡大 大野逸美さん作成



 比治山を拠点にして、ここでずいぶん遊びました。山の上には御便殿(ごべんでん)と言う建物がありました。日清戦争の時、明治天皇が広島に大本営を置かれ、御座所が今の広島城の中にあったんで、のちにその御座所の椅子とテーブルを比治山に奉って御便殿を造ったという由緒ある山なんです。私の遊び場所の一番のポイントにしとったのが、加藤友三郎という海軍元帥の銅像でしたね。広島で最初の総理大臣になられた方。だから加藤元帥の銅像にも憧れましたしね。まあ、そういう生活の中で原爆に遭ったわけです。      

 昭和一九年(一九四四年)になってB29の爆撃が始まってから、町内会でも防火用水を作ったり空襲に備え始めました。各家に防火用水を作ることも奨励されましたよね。消火訓練も始まったり。
 私の家は防火用水を大きめに作ろうということで、私も父がセメントをこねるのを手伝いました。木の枠を作って、セメント流し込んで。セメントのアクが抜けてから、ここへフナを飼っておいたですよ。とてもとても一人や二人じゃ動かせないものですが、原爆の時あちこちの防火用水にみんなが頭を突っ込んで、死んでいたりしましたがね。この中にこう突っ込んで死んだとか、水飲みにいってそのまま息絶えたとか、熱いからこの中に頭を突っ込んで死んでいるのをたくさん見ました。姉と母も、逃げる時に防火用水の中でアップアップしているのを見たと言っていました。これは、水、水、水で水を求めた防火用水でもあったわけです。



 鳶口(とびくち)なんかも家には用意してありましたよね。鳶口と火たたきは、どこの家でもあったと思います。
 広島の原爆の半年ぐらい前に、米軍のグラマン戦闘機が空襲したときに、機銃掃射をしたことがあるんです。民家が機銃掃射されましたね。私ははっきり覚えております。尾長地区です。東練兵場がここにあるんですね。
 やはり同じ頃、防空壕を造りましたね。空襲警報のサイレンが鳴ると、防空壕に避難したんですよ。私の家の裏庭に、大きな松の横に防空壕を作って、中が三、四畳あったでしょうか、家族四人が横になって寝るだけのスペースが十分ありましたね。「大野さんとこの防空壕は大きいのぉ」って言われよったくらいですから。私の記憶では家財道具が若干入っとったんで、被爆後もそれが無傷のままで役に立ちました。扉はなかったですが、父の日露戦争時代の戦場の知恵で、入口のところは防火壁と言いますかね、爆風が入らんように、土嚢(どのう)みたいのを積んで壁を作っとったですよ。
 ここへ、高射砲の弾の破片かなんかわからんのですがね、鉄のカクカクとしたような断片が落ちてきたことがあるんです。あれを一度経験しとります。それと、機銃掃射を受けたときの音を聞いたことがあります。あとから聞いたら、尾長町の民家に弾を撃ちこまれたと聞きましたが、何が目標じゃったんかのぉ、と当時近所では言っていましたがね。あの頃はね、それ以上のことはあんまり言えんのですよ。噂話でもしようものなら、すぐ非国民とかね、スパイとか何とか言うてね、憲兵や特高警察が町をうろうろしよったですから。
 戦争が激しくなるにつれて、父の材木の商売もパッとせんようになったわけです。戦局が差し迫って、疎開したりして、男手も少なくなって、家を建てる者もおらんようになりました。空き家も多くなって。建てるどころか、建物疎開で壊すばっかりになって。
 そんな状態でしたから、原爆が落ちる前は、父は軍隊の関係の仕事をするようになっていましたね。
 私は当時、広島市立第一国民学校の生徒でした。戦前戦後、学校制度がたびたび変わり昭和二二年に第一中学校、昭和二四年に今の段原中学校という呼び方になりました。
 私は生徒会長をしていました。当時は軍国時代ですから、分列行進とか何とかいうのが、よくあったんですね。戦意高揚のためにいうことで。観閲式のような形でしたね。そのときはラッパ鼓隊の隊長もしていたので、行進なんか先頭に立ってカッコよくやりました。



         

          防火用水、バケツ、火たたき、鳶口など 

                                  

          勤労奉仕で土を運ぶ            絵・大野逸美                                                                                
                               



 学徒動員令が下ったのが昭和一九年くらいじゃったかな。
 昭和二〇年の四月に私らも軍需工場で働かされました。厳密に言えば私は五月からなんですが、皆より一カ月遅く縫製工場に入りました。新学期になったとき、特攻隊続行組というのが編成されて、各クラスから級長、副級長、そして成績優秀と見られる者が二人から三人出て、合計で一二、三人が学校に残ったんです。ほかの者は全部、先に動員で工場へ行ったんですが、残った一二、三人は、先生が勝手につけたんでしょうね、「特別特攻隊続行組」と呼ばれました。予科練を志願する者、兵隊を志願する者は、一五歳から受けられますから、一年前から勉強をさせようという方針じゃったらしいですよ。そっちの方へ四月に一カ月行っとったんですが、特別組の担任の先生が召集にあわれて、継続不能になったので、軍隊用語で原隊復帰という形で元のクラスに帰ったんです。他の生徒は昭和二〇年度新学期から、国鉄宇品線沿線の広瀬軍需工場という縫製工場で軍のテント、幕舎なんかを作っていました。中学二年の私たちのクラス約四〇人は、この縫製工場に出ていたわけです。そのほかのクラスもいろんなところへ配置されていました。旋盤機械で武器の部品を作るようなところとか、郵便局とか専売局とかいうところへ。
 広瀬軍需工場には平屋で天井の上に動力ミシンのモーターなんかついとるんですよ。それで、ベルトが下りとるんです。それがだーっとある。それが何台もならんどるんです。工場の他には事務所と講堂みたいなの、それに休憩室もあった。



           

                      校庭でいもを作る

         
        
          当時の大野さん



 ミシン工が別なところから来ていましたね。女子挺身隊といいましてね、女子商業中学、学年にしたら四年生ですから、私らよりお姉さんですよね、三〇人ぐらい同じ工場で働いておりました。
 朝八時から夕方五時まで働いて、昼の休憩時間が一時間ありました。
 作業は、私ら男子生徒は、梱包するんですよ。硬いテントですから、そりゃあ、とてもじゃないが、力のいる仕事でした。今ごろみたいに機械で圧縮したりなんかできる時代じゃないですよ。何人もが畳むのに、あっちからやって、こっちからやって、立って踏んで空気を少なくして、それを梱包して。梱包の容量がある数値以上になってはいけないので、検査があるんですよ。それでさらに踏んだりして圧縮して。この作業が主じゃったですね。
 それを朝から晩までずっとやるんですが、私は要領よく高いところにいて、「おーい、あれやれ、これやれ」と指図して横着していました。でも責任感は強いつもりでした。
 工場のミシン台は相当大きな、しっかりした頑丈なものでした。台の脚そのものも三寸角の柱で、こう、ずどーんとどっしりとした。上に動力ミシンがあって、大きな幕舎、広げたら二〇畳ぐらいのものをあっちまわしこっちまわし、ぐるーっと女子挺身隊三人がかりで縫うていくわけですから。男もそれを手伝って。だからミシン台は頑丈でなけりゃいかんのです。私は、そのミシン台があったから助かったんです。

 毎朝、七時半ちょっと前ぐらいに家を出よったですよ。比治山の山の陰を歩いて、段原の今のサティの裏を通っていきました。道が山沿いにあったんですよ。
 服装は、男はいわゆる戦闘帽ですよ。女子は防空頭巾、座布団を二つ折りにして一方を縫って袋にして、肩に掛けて行きよったですよね。救急袋は、ずた袋でした。お袋が帯の芯を解いてね、帯の芯は硬いでしょ、あれで手縫いで肩掛けカバンを作ってくれた。当時は服でも全部縫ってくれましたね、学生服みたいなのも。
 救急袋と言っても、中は弁当だけです。大豆が入ったようなね。芋のご飯とかね。そらもう、麦が入っとったらまだいい方ですよ。時には小芋、里芋が入ってねばっとしているんですよ。昼ごろ食べようと思ったら、芋の粘ったのと、ご飯の腐ったのとで、酸っぱいようなにおいがしたりね。もう腐りかけてるのを食べましたよ。食べにゃあ、腹が減ってくる。不思議と下痢せんかったですね。
 履いているものは親父が作ってくれた下駄。松の木を、材木はお手の物じゃったろうと思うんですがね、ああいう桐の下駄を作る状態じゃない。「丈夫でよけりゃええ」と、親父がカンナで削って、歯までつけてくれて。忘れもしません、鼻緒は電気のコードですよ。下駄を履いて素足でカバンさげて戦闘帽かぶって、それでカランコロン、カランコロン、毎朝、工場へ通いよったんです。みんなそんなもんですよ。運動靴を手に入れよう思ったら何年がかりか、配給じゃったですよ。くじで当たりゃあいいけれど、当たらんかったら何年も、まだわら草履をはいていたのもおりましたからね。
 工場の裏に塀があって道路があった。道路と言っても、軽自動車も通れんような道路ですよ。農道でしょうね。その後ろに兵器廠(しょう)、今の大学病院があり、塀の外にどぶ川があったですよ。私らはここから出たり入ったりしよったです。

 広島に原爆が投下された当日――私は朝、下駄をはいて弁当を持って、普段通りに家を出ました。姉は二階の物干棚で洗濯物を干しているようでした。お袋は台所におりました。
「行くでー」言うて、お袋に声掛けて、外へ出たら、親父が疎開荷物を大八車に積んで、ロープかけよったです。表へ出たら学校の校舎が見えるんですよ。三メートルぐらいの路地です。私が親父の横を通ったとき、親父が振り向いて「今日は暑いで」と言いました。もう七時半ごろからカンカン照りじゃったんでね。ろくに返事もせんまま、青い空を見上げながらずーっと電車道まで出たんですよ。電車道まで一〇メートルあるかないかですから。比治山の裏を通って、弁当を持って歩いていったわけですよ。
 
 八時前に縫製工場に着いて、事務所の二階の講堂のような部屋でみんなを整列させて、「番号っ」「一、二、三、四、五……」と点呼をとります。椅子も何にもない広いところに一応ステージがあって、そこに日の丸と社旗があって、工場長かなんかが点呼をとるのに立ち会い、私がさらに報告するんですよ。「黒瀬組、総員何名、欠席何名、ほか異常なし」と。黒瀬組っていうのは担任の先生の名ですが、先生は五月に兵隊に行ってしまって不在でした。
 その日欠席者がおったかおらんか、それはもう憶えておらんです。
 号令をかけて点呼をしてその後、作業を始めた。それからまもなく光った。白っぽいような感じではあったけれども、何か私にはオレンジ色にも見えたような気がしますね。光ったというだけで、あのフラッシュをたかれるでしょ、目の前で。ああいう感じがポッとそこだけ見えたわけです。部屋の中ですからね、目の前が真っ白になるということはなかった。フラッシュがたかれたような感じで、それが眼に来て、「うわーい」というような感じでした。窓全体が白というか、オレンジというか、黄色というかね。筋の光が真っ直ぐ目に入った。残像というか、それがオレンジ色にも見えた感じがするんですよ。ゼロコンマ何秒ですから、はっきりした色はわからない。でも光ったことは間違いない。

 それから次の瞬間、ずーっと真っ暗になって。工場の一階の梁が落ちてぐちゃっとへしゃげたんですよ。工場の中に何十人もの女の子と私ら作業員がおった。私が助かったのは動力ミシンの台と台の間にがばっと伏せたからです。そういうとっさの行動がとれた友達は助かった。ばぁーっと光が当たった瞬間「うわぁ、爆弾じゃ」と思ったんです。ほかのものは窓の光が何かわからんのですよ。「なんじゃろうか」言いよる間に爆風が後ろから来た。比治山を越して来たんですから。爆心は北西方向ですからね。光った瞬間、私もとっさに動力ミシンの台と台の間に顔を伏せて。私のすぐ後ろに梁が落ちて、床に穴が開いて、腹の上にその材木が落ちて体が二つに折れて死んだ女子がおります。その子は私の近所じゃったんですよね。金屋町(かなやちょう・戦後きんやちょうに呼び名が変更される)近くの二級上の女の子じゃったんですが、私は級長という責任から、これを出さんにゃいけんと……真っ暗闇の中でどうしたらええか、とっさに考えて。みんなこんな状態じゃったら救い出さにゃあいかんという気持ちがあったんでしょう。そのときは、何が何やらわからんような状態なんですが。

 それから、どうやって出たかわからんのですが、屋根を破って出た気がするんですが、はっきり覚えとらんです。真っ暗闇からようやく明るさが戻ってきて、外に出たら、鳶口があったんで、それを手に持ちました。もちろん素足のまんまで、屋根をバンバンバンバンと鳶口で叩いて穴を開けて「おーい、おるか」言うて、「ここから出て来い」て言うたら、私が開けたところから級友や女子が十何人か出てきた。それから私らは、手分けして工場の中にいた者を救い出しました。みんな光が射したから出て来たと言うんです。そこへ同級生が私を呼びました。「大野よ、とくちゃんが死んどらあ」と。「えー」と見たら梁の下の女の子なんですよ。さっきまでいっしょに作業しよった女子なんです。それで、私はまたそこへ入っていって、どうやって救いだそうか思ったんですが、もう梁で押さえられて即死状態でした。私一人の力では、どうにもならんかった。いまだにあの子を思うとき、涙が出ます。外に出て空を見上げ「ヤンキーのクソッタレ!」と叫びました。

 そのとき受けたガラスの破片が二カ所ほどあるんです。ガラスの破片が刺さったんですよ。そのガラスが飛んだのは相当距離があるんです。工場の中で出入り口がここにあったんですが、そのガラスがつぶれて、飛んできた。私はこっちの端におったんですがね、一〇メートル以上あった。そのときに何でガラスが、こっちへ来たんだかわからんですがね。胸と腕の二カ所ほどね、今だにまだ傷がちょこっと残っとりますよ。もろにガラスで顔を叩いた者もおったそうです。
「ピカドン」と言われるけれども、私はドンという音は聞いてないんですよ。とにかくもう、伏せて。伏せたと同時に屋根が崩れてきて……それから五分以上一〇分くらいは動かんかったですよ。動かれんのですよ。真っ暗だから。埃か何か、わかりませんよ、それは。建物も木造ですからね。上は瓦でしょう。だから埃とか、何とかで。それからまあ、ばーっと舞い上がっているから、光が入るところがないですわね。屋根がその形のままどんと落ちた。出入口がガラス戸じゃったんでね、私のいたところは工場の真中の通路みたいになってたわけですよ。製品を運ぶためのね。私はね、その間におったと思うんですよ。だから屋根が高くなっていて、屋根が落ちても被害がなかったと思うんですよ。それでその辺を開けたんです。

 外へ出た時点で外はどんよりとしていて、まだかなり土埃が立ち込めていて、見通しがいいような状況とはいえなかったですよ。原爆が落ちてから一、二時間でしょう、時間的に言えば。そうですねえ、一〇時か一〇時過ぎでしょう。その間私はまあぐるっと中を見て……。事務所・講堂・休憩室がある方はつぶれてなかったですよ。それで、みんなと話したり、どうじゃった、あれはおったか、だれはおるかって……
 八〇人くらい働いていたんですが、五、六〇人くらいは下敷になったと思いますね。女子商業中学からは三〇数名、私の学校の男子は四〇数名、そして工場従業員は一〇人以上いましたからね。大半は下敷になってしまったと思います。
 それで女子商業中学の二級上の生徒が「大野君どうする?ここにおったら、また爆弾が落ちるかもわからんよ」と。「おお、おお、そうじゃの」と。てっきり爆弾じゃとばっかり思うとるわけですから。あんな方から爆風が来たとは思いませんし、五〇〇メートル上から来たとは思いませんから。近くに爆弾が落ちたとばっかり思いましたから。
 それで、「ちょっと様子見て来うや」言うて。「どこ落ちたんかの」と言うて、この近所をちょろっと見てみたら、建物は崩れたところもありましたが大体原形をとどめたようなかたちで家があるわけですよ。今思えば比治山が爆風を防いでくれていたんですね。だからそれより東南の方は爆風で家が倒れるのも少なかったわけです。そんことはわかりませんでしたよね、そのときは。

 それで、ひょっと見たら比治山が燃えとる。こっちから見たら山が燃えよるんですよ。それで比治山から向こうは真っ暗なんですよ。黒い雲がかかってね、比治山の上に。それで、私は「待っとれよ」と言うてだーっと山へ上がったんですよ。山には防空壕がいたるところにあったんですよ。それで、同級生やら女の子をそこへたちまち避難させようかどうしようかと考えて防空壕まで見に行ったんですよ。そうしたらもう、防空壕の中はいっぱいじゃったですよ。一一時前にですね。もう防空壕の中に、避難してきた人間が何人かはおりましたよ。で、火傷しとるとか何とかいうのは、そのときには見ませんでした。おそらくこっちから逃げていった者ですね。それで、陸軍墓地を横切って、千本松へ行った。そこが見晴らしのいい所なんです。ここに「天狗の足跡」という岩があるんですよ。ここはもちろん高射砲陣地もあったんですが、もう兵隊さんもおらんかったんですよ。

 それでここから見たときには、向う側、広島市の中心地帯のほうが火の海じゃったですよ。だーっと、どこまでも。あそこは広島城じゃの、あっこは福屋かの、あっちは己斐(こい)の山か、こっちを見たら似島(にのしま)かいうくらいの認識はもっておりましたが、全然見えんのですよ。煙と炎で。炎の海。全部がもう燃えよった。それでもうびっくりした。これは爆弾じゃない、思うた何じゃろうと思いました。原子爆弾とか何とかいう知識ありませんよね。何百発落としやがったんじゃろうかと。私は焼夷弾だと思ったんですよ。防衛対策というか、日本の土地柄からして、建物からして焼夷弾攻撃を一番恐れとったわけですからね。だから火たたきも、鳶口も役に立たんかったということですがね。そりゃ一発でその何千倍という熱を加えられたら……ねえ。
             
 そのとき見た雲が忘れられません。私がいまだに、あれをどういう表現したらいいのか。最初にこちら側から見上げた時に雲が真っ黒で壁みたいに、上も。あの垂れ込めるとか言うでしょ、雨が降る前とか。そういう感じで黒い壁がばーっと立っていた。だから埃とか何とかの黒さじゃないですよね。もう、焼けた、その煙とそれからその上昇気流に乗ったやつとで。上ではきのこ雲があったかもわかりませんよ。きのこ雲は見とりませんよ。目の前に立っているんだから、見えませんよ、そりゃ。それが一体になった形で真っ黒じゃったと思うんですよ。それで、その中に火がちょろちょろちょろちょろ、炎が見えるんですよ。
 最初、山に登る前に黒いものが立っていて山に登ったら火が見えたということですね。原爆が落ちてから二時間ぐらいでしょうね。

 で、それからこの辺に出たときに、被爆者が山へどんどんどんどん逃げてきたんですよ。これはその黒い煙の壁の方から逃げてきた。広島の中心部の方から逃げてきた人たちですよね。私がもろに見たのは皮膚も垂れ下がって、顔が赤鬼とかね、お面を被ったとか、まったくそんなんですよ。どす黒いというかね。人相を識別できるような状態じゃない。ただ着てるもので、かろうじてこれは女性だ、おばさんじゃ、あるいは若い人じゃいうのがわかる程度で。男の人は前から光に遭うた者は、前部が焼けてるんですよね。私はこのあと避難するときに駅の裏を通って逃げたんですが、こういう状態の人をずうっと見ました。それで、とにかくもう恐ろしい。「いったいどうしたんかの。どうしてこうなったんじゃ」「なんでこうなったんじゃろうか」と、驚きと怖さとで見たんです。あの当時、もうちょっと観察力があったら、もっと詳しく言えるんですがね。しかし、ああいう状態の中でしげしげと見るというようなことはできませんよ。瞬間に見た感じをぱっと頭の中に取り込んでおいたものが、今こういう形で出てくる。ほぼこういう状態じゃったと……

 比治山下の電停の広い道から上がってくる所で、こういう人たちがうずくまったりしている。負傷者がこの道をどんどんどんどん上がってきてたんです。私はこっちの道を通って帰ろうと思ったんですよ。ですが、消防団の人じゃったろうか、警察かどうかようわからんのんですが、「下へおりたらだめじゃー」「通れんど、行かれんど」と言ってるんですよ。慌てて今度は避難する負傷者の流れに逆らって引き返して、同級生らを何とかせにゃいけんという気持ちで、また元の所へ戻ったんですね。それが一一時半過ぎやったですね。お昼前じゃったろう思います。

 それで工場へ帰って、そしたらもう、みんな……どういうんですかね、もうなーんにも考えんのか、どうしたらいいのかもうわからんような状態で、休憩室のところと講堂のところでぼけーっと座って話もしよらんような状態。ここは怪我をしている者があまりいないわけで。ただとくちゃんが私のうしろで死んだ、と言うだけで。それでそれをどうするか、話し合いもなけりゃ、臨時で付いて来とった先生もおらんのですよ。先生は、どこへ?と聞。いたら、ガラスで顔面右頬がガーッとまっすぐに切れて大怪我をしていたそうで、「わしは帰るけえ、あとは大野の指示に従え」と言って帰ったという。私に言わせたら逃げたんですよ。同じ被爆者ですからね、先生ですから悪う取りとうないけれど、私は先生卑怯だと思ったんですよ、子供心に。

 残った者が「どうしたらええんだろう、どうしたらええんだろう」と言うので、「これから状況がどう変わるかわからんし、とにかく比治山の防空壕へ避難する者がおったら避難せえ。もうこっち帰るにもこっちは火の海じゃけ。家へ帰れるんじゃったら帰る方へ逃げていけ。今日は解散!」と言うて、そこで私なりの指示を出したわけですよ。それが正午前でしたか。工場のえらい人からも全然指示もなければ、そういう動きもなかったわけです。私しかやる者がおらんかったわけですね。もう人数も相当減っとりましたからね。私はそこから自分の家へ帰ろうとしたんですよ。自分の家の方は焼けるのは見えんかったですから。

 昼前に解散して工場から逃げるとき、自分の持ち物を探したら、上着は木の上に吹っ飛んでひっかかっていたんですよ。上は作業するときは裸でしたから。弁当は、ロッカーみたいな棚があるんですよね。それに入れておいた。下駄はそこで履きました。下駄を履いて上着探して、木の上にあったんで、上着を鳶口で木から下ろしたんです。それを着て、ズックのかばんを下げた。でも、帽子がないんですよ。そのときひょっと見たら陸軍の兵隊さんがかぶりよった鉄かぶとがあったんですね。それを見つけて、鉄兜かぶって、下駄はいて、講堂へ行って大切な日の丸の旗をはずして背中にたすきがけに被って、片方はかばんで片方は日の丸、異様な格好ですよね。


   


  大やけどをして逃げ惑う人たち        絵・大野逸美


 私は大畑(おおはた)町の停留所まで出て、逃げてくる人たちと逆行して帰ったんです。電車道に出たら自分の家が見えるんですよ。一〇メートルくらいの広い幅の道ですから。それで電車道から片方の金屋町側は燃えていたんですよ、バリバリッと。しかし反対側の大畑町側は燃えていなかった。電車道が、火を切ってたんですね。大畑町は今、段原七丁目ですが。
 学校が見えたときには、学校の校舎も建ったまんまで、私の家も建ったまんまで燃えよったのを見たんですよ。「うわー、これは帰られんわ」と思いましたね。「燃えよらあ……」
 家にいたお袋と姉が心配でしたが、家族は日頃話し合いをしていて、爆弾が落ちたとき避難する場所を決めていたので、よしそれじゃあとりあえず、田舎へ逃げようと。それでここの町内の、この学区の避難場所は現在の高陽町の小学校、安佐北区の落合(おちあい)小学校と決まっておった。ここを目標に逃げるということで、また歩き出しました。

 正午過ぎだったと思いますが、大正橋のほうへ逃げていった。大正橋は現在の大正橋ではなしに、ちょっと下手にあったんですよ。架け替えをして現在の大正橋は、一〇〇メートルくらい上になったんですね。比治山の線路のまっすぐ延長した形で。現在、道路は的場のほうへ曲がるのと大正橋へとなっています。
 大正橋でも、原爆が落ちたその日の昼にはもう、水面が見られんぐらい死体がいっぱいでしたね。水をくれ水をくれという人たちも……。それから飛ばされた家の建物の材木とかで水面は見えんかったですよ。死体は潮の加減で行ったり来たりしたんですが、京橋川も、私が逃げるときの猿猴川(えんこうがわ)ももう水面は見えなかった。そのときには頭がパニックでしたから意識して見てなかったですが、人が川面に溢れて、溺れとったような姿を見ましたからね。これはすごいなー、と。             
             
 ボロボロになった真っ黒や、真っ赤な状態の被爆者が、幽霊同様に逃げる姿も随分見ました。しばらく大正橋でたたずんでいたら、姉婿に会った。義兄は消防団の団長をしよったんです。避難誘導をしていたんですね。偶然そこで会った。それで私の顔を見て「逸美!」と私の名前呼んで、「もうこっちはだめじゃけえ、家の避難先にみんな待っとるはずじゃけえ、戸坂(へさか)か矢口(やぐち)へ、落合へ逃げぇ」と言うて指示をしてくれたわけです。それでその通りに私は大正橋を渡って、それから荒神町(こうじんちょう)を通り、踏切を渡って、大内越峠(おおちごとうげ)へ出ようとした。

 途中、広島駅の北側の東練兵場を横切ったときに奇妙なものを見ましたね。何の火の気もない、鉄道の線路の横に、枕木がこうずーっと井桁に組んであったんですよ。これが燃えよったのを見てびっくりしたですよ。火の気が何もないところで燃えているのが不思議でしたよ。私が自分の家を見たときに、私の家は原爆が落ちた爆心方向から広い道路を挟んで逆側にあった。学校の校舎も逆側にあった。木造です。木造三階建てだった。ここが建ったままで燃えよったんですよ。周りには何もない。火の気はなかった。ですから、ひじょうに不思議に思って、何じゃろうか、と。これは強い光かなんかの爆弾、子供心に熱射爆弾かなと感じたんですよ。火の気のないところで学校が燃えよった、それからずっと歩いて逃げよったら、とんでもないところで井桁に組んだ枕木が、あんな堅い木が、火の気のないところでまたこれも燃えよった。これどうしてじゃろうか、と。これは熱でやられる熱射爆弾か、と思った。それが当たらずとも遠からずじゃったわけですよね。

 それで避難民がどんどんどんどんこの大内越峠へ向けて出よるんですよ。そのときに今の私の同級生もおったんでしょう。知り合いもおったんでしょう。近所の人は見んかったですが、そりゃ何百人の人間、何千人ですよね。そりゃ死の行進ですよ。真っ黒に焼けた者や皮を垂らした見分けのつかないような者の行進ですね。その中に交じって、私もずっと歩いていったんですよ。鳶口をずっと持って。田舎に避難するまで、鳶口を離さなかったですよ。             


 

           現在の大内越峠(おおちごとうげ) 2005/8/23
                  



 一番まともなのは私ぐらいのもんですよ。途中でも同じような状態の人がこうやって手をぶら下げて、ナイロンの靴下がありますよね、あのようなずれ落ちた皮を顔から手からぶら下げて。幽霊ですよ。そりゃ痛くてたまらんのでしょう。それから私の同級生、同じ学校の生徒の女の子は、途中でへたばって「大野くぅん」と小さい声で言うて。同じくらいの年恰好ですから、セーラー服かなんか覚えてませんがね。作業に行っとったんでしょう。「大野君」言うけえ、おお知っとるやつかと思うて見たら「水ちょうだい」って言うけえ、私は水筒も持っとらんし、それで「水ないよ」って言うたら「助けて」とか何とか言うたんでしょう。で、私は名前も聞かずに、ま、そこを逃げ去るように、どうしてやることもできんじゃないですか、道端で。何もしてやれずに見殺しにして私ら田舎に逃げたんですよ。それも悔やまれることのひとつです。忘れもしませんが、大内越峠のてっぺんくらいのとこですよ。

 それでそのときに名前を確認しようと思って近くへ寄ったら、あの当時名札はね、木綿の布に名前を書いて縫い付けとったんですよ。墨で書いとった。墨で書いた字だけが、「山本」なら「山本」だけが、焦げた文字になっとるんですよ。黒い部分だけがちょうど虫が食うたように。ということはその子はねえ、おそらく鶴見町辺りの建物疎開だったと思うんですよ。あとからねえこういう体験談やら同級生の話を聞いたりしたらねえ、女の子は鶴見町で被爆しとるんですよ、たいていが。結局、そこへおいてけぼりにするしかなかったですけどね。大内越峠は学区外ですよ。自分の家へ帰るんじゃったら学区外へ出ませんよ。だから人に連れられて避難しようとしたんか、どこが目的かわからんまんまにさ迷うてあそこへ行って力尽きたんか、どちらかでしょうね。

 駅の近くを通ってきましたが、大正橋から向こうは焼けてなかった。まだこの方は、火の波が来てなかったですから。駅前のほうはね。鶴見町のほうがやっぱり直射でやられたということでしょうね。
 ぞろぞろと逃げて……それは百人、二百人じゃないですよ。一時期にはそりゃ何百人がぞろぞろですよ、行列です。
 言葉を交わすようなことはなかったし、励まし合うとか、尋ね合うようなこともなかったし、私も向こうも。ただ呆然と、でしょう。知らず知らずにどこへ逃げるという目的地が頭に残っているだけで……火傷しとらん人は、私みたいに荷物担いだりしている人もおりましたよ。でも、大半は火傷で歩いてましたよ。まあ火傷しとらんでも、あんな風に手から皮膚をぶら下げとらんでも、もう意識的に手を前へ出すような状態でしたね。火傷しとらんでも熱いか痛いかで。まあ私も鳶口を持っとりながら、杖代わりにしとったんじゃないかと思いますよね。下駄を履いて何里も、何キロもあるところを歩くんですよ。そりゃあのころは元気がええ、とはいいながら。砂利道を下駄ですよ。大内越峠はすごい坂道ですからね……

 私のお袋と姉は東練兵場から饒津(にぎつ)神社を通り、牛田の土手から川沿いにずーっと戸坂へ逃げたと言うんですよ。饒津神社からずーっと川沿いにあがって工兵橋で、お袋が言うのには陸軍の軍曹の服装をした兵隊さんが、誘導をしてくれたと。その人も怪我をしておる状態だったそうです。とにかくこっちへは入れん、白島の方へは行けんと。とにかく避難せえ、避難せえ、こっちへ行けと言うので戸坂まで逃げたんだそうです。戸坂の親戚にやっとたどり着いたということです。こういう状態で相当数の避難する人間が……そりゃ全部で十何万でしょ、市内で亡くなった人、あの、軍隊の人の数は入っとらんのでしょ。で、そういう状態の中で何千人かずつあっちこっち……広島市周辺四方へ分散して逃げていった。友達は己斐のほうへ逃げた者もおりますよ。         
       

 私はこっちから逃げていって、今でいう芸備線の線路沿いにずーっと上っていったんですよね。それで戸坂の手前で線路から降りて、田んぼの中の火の見やぐらを目印に下りて行った。そしたらお袋のほうも……やはり親子なんでしょうね、私を探しに向こうから歩いてきよったんですよ。それで、お袋が先に見たんか私が先に見たんかわかりませんが、お互いを認めて……、やっぱり親子じゃのお、血じゃのお、とあのとき思うたんですよ。あれだけの雑踏のなかで、いちはやく金切り声上げて「逸美!」と言って、寄ってきたお袋を見ると、その格好たるや……親父の下駄ですよ。下駄を履いて、一方は素足。あの頃、ワンピースで普段着といったらあんな格好でしょうね。それに前掛けしたまんまで、真っ黒い顔して私の腕に飛びついてきた。私は鳶口とそれから大切な日の丸の旗を背にしょって……「なんちゅう格好しとるんねえ」と自分のことは棚に上げてお袋が言うて「よかった、よかった!」と。

 それで姉も今、親戚の家へ向かっているから、私らも落ち合い先の戸坂駅の下の親戚、石津家へ、とりあえず行こうということになって、そこへ逃げていった。落ち合い先はこの戸坂にしようということになっていましたから。
 やはり姉もそこへ来ていました。三時以降じゃったでしょう。
 姉はもう顔とか何とか、ガラスでやられてましたね。そのとき物干しへ上がっとったために光が直接当たったんかのうと思っていたら、そうではなくて、あの時ちょうど洗濯物を干し終わったところで、階段を下りて座敷の畳の上へ足をかけたときに、光ったと。それで爆風がどっと来て、吹き飛ばされた。気がついたらいっしょに割れたガラスにやられていたということなんです。そのとき爆風が横からきたんか斜めからきたんか、姉はどっち向いとったんかわからんですが、光った方向に向いとったんでなくて横向いとったかなんかじゃろうと思うんですね。体片面にものすごくガラス傷があったんですよね。夏ですから今で言う簡単服、ノースリーブみたいなものを着て二の腕を出していたですから、十個あまり刺さっとったんじゃないですか。すぐそばにあるガラスに一気にバーッと力が加わって粉々に砕けて、小さいガラスですからね、それが顔面に突き刺さった。

 これは余談ですが、私に刺さったガラスもみんな小さく砕けていました。周りにおったガラスの傷を受けた者も、みな小さく砕けたガラスを受けていましたね。あの当時は、どの家もガラス窓はテープとか紙とか貼ってね、粉々にならんように処置してあった。最小限度にあのガラスを十文字とか、バツ印とかに紙やテープを貼って、壊れるのを防ぐ方策をとっていましたね。どの家庭でも。私は工場の窓ガラスにやってあったかは記憶がないし、うちの家もそのガラスへテープを貼っとったか覚えがないんです。じゃが、ガラスが粉々になっとったのは間違いないと思う。あの、刃物みたいにスパっというような大きいのはなかったですね。ですから、爆風というのはね、全然予想できんような、ガラスの壊れ方をしたと思うんですね。

 しばらくしたら、父がやっぱり来たんですよ。家族全部そこで落ち合いました。
 それで、急に安心して、腹が減ってきた。「腹減ったー」と言うたら「弁当がある」言うて。お袋もそれまで何も食べとらんのですよ。親戚のほうも、まだご飯を炊いて食べさすような準備もしとらんわけですよ。どんどんどんどん行列をなして逃げてきているところへ、そこへさらに他人が何十人も逃げて来とるわけですから、御飯の支度どころじゃない。それで残っとった私の、酸いような大豆のごはんを、井戸の水でゆすいで洗うて、かき込んだんです。私一人弁当食べたんですね。そこまでずーっと何も食べていなかったので、やっと空腹を満たして。さっさっさっさっと歩くような状態なわけにはいかんですよ。しかも声をかけられたりして。
 途中でね、私泥棒したんですよ、畑へ下りて。なすびときゅうりとかぼちゃと、三つほどカバンにつめて。かぼちゃは料理せにゃいけんですよね。でも、きゅうりは、水、水で喉の渇きを癒すのになるし、口しのぎになると思ったんですね。

 それから八月六日のその日のうちに四人で避難場所の今の高陽町(こうようちょう)まで逃げたんですよ。逃げられるうちに。というのは、その家は親戚でも遠縁でしたから。うちの直接の親戚兄弟ではなかったので、そこを足がかりに落合の方まで。落合の小学校で、炊き出しの食料をもらったり乾パンをもらったりしました。そこで、避難してきたということで、割り当てられた農家へ行きました。落合のずーっと先の諸木(もろき)いうところで、一軒の農家で四人家族がお世話になりました。もう日がとっぷりくれた時刻で、八時前後じゃったですかね。そんな時刻を何で覚えとるかいうたら、その家の前に川があって蛍が飛んどったんですよ。ああいう情緒的なことも意識の中に残っとるいうことは冷静なところもあったんじゃないかと思いますが、やっぱり家族全員が無事会えたという安堵感もあったかもわからんですね。諸木から広島方面を見たら、広島の空は真っ赤っ赤じゃった。あそこから広島の空が見えたんです。空だけですよ。戸坂の山と山との間に広島の空が真っ赤に。明るい間は見えんかったし後ろを振り返るだけの余裕もなかったですしね。その晩はお風呂へ入れてもろうたりね、よくしてもらったんですよ、そこの家には。お布団もちゃんと出してもらって。そしてそこでもまたご飯を炊いてもらって。「大変じゃったね」って……。じゃけえ、いまだにそこのご家族とは一年に一ぺんでも通りがかりにちょっと声をかけて挨拶していますよね。今は代が変わって息子さんになっていますから、付き合いと言うほどの付き合いはしていませんけども。当時そこにおられた方も年配の人だったんで、親父なんかは「どうかいのう、お元気かいのう」と声をかけて行き来しよったらしいですよ、戦後はね。とにかく良くしてもらいました、その家には。ほんとうにありがたかった。

 そこには二晩泊めてもらいました。その間、父は、三篠(みささ)川をのぼって白木町の三田(みた)というところへ行って、話しというか、交渉というか、田舎へ帰ってくるいうことを言いに行ったんでしょう。三田は父の本籍で、ぼろ家ですが家はあり、墓もある場所ですから。親父にとっては故郷ですからね。それで、身内が何軒かいる中で一番身近では自分の妹がおるもんで、そこへ訪ねていったら、叔母さんの連れ合いさんがあんまりええ返事をしてくれんかった、ということで帰って来たんですよ。
 あの落合の避難所までね。その間、私らはそこでずうっと厄介になって、何することもなしに生活しよったんですよ、二日ほどね。

 それで三日目の八月八日の昼過ぎじゃったですか、父が帰って来たんです。田舎から。
もちろん、その間父は歩いて行ったり来たりですよ。交通機関がないですから。当時六十四歳で、広島から今の白木町まで、徒歩で二十何キロを往復して。元気がよかったんですね。広島から避難して、途中一晩泊まったとはいいながら、田舎まで行ってそれでまた田舎から落合まで重い荷物を持って引き返してきましたから。必死じゃったんでしょうがね。

 父が「おい、逸美」って言うんですよ。お袋には言わんのんですよ。「田舎へは帰らんで」って。えらい怒っている様子で言うんです。「どうしてぇ。行くとこないじゃない」と言ったら「じゃけぇ、広島へ帰る」と言うんです。「わしが持っとるだけの道具は防空壕の中にあるが、田舎からも、ちいっとせしめてきたけぇ」と言うて、大工道具をですね、どうしてあんなもの持ってきたかよくわからんですがね、大工道具のノコギリとか、手斧とかカナヅチとか、こんな重いものを肩からぶら下げて帰って来たんですよ。しかもその上に米も。もちろん、叔母さんが気をきかせて米もくれたんでしょう。背中いっぱい、野菜やら米やらね。背中がかがむくらい持って帰ったんですよ。何十キロでしょう。当時はそれくらい父は元気がよかったんですよ。やっぱり自分らの子供や家族を守ろう、養おうという気持ちがあったんでしょう。それだけ持って帰って、「広島へ帰ろう」と。

 それを聞いて、そこのおばさんが「今帰っても、市内には入れんよ。今広島から逃げてきた人に聞いたら、市内には熱うて入れんそうなよ」と言うんですね。「火がまだ残っとるけえ入れんよ」と。それで、「ぜーんぶ、焼け野原になってるんじゃけえ、行ってもどうすることもできん」と言うて、おばさんが「もう一晩おりんさい」と。そう言うて泊めてくれたんです。
 六日の晩に逃げて、七日に泊まらしてもろうて、八日の晩も泊まらしてもろうて、結局九日の朝に「お世話になりました」と言うて「これで行きますわい」と。父が「おい、帰ろうで」と、お袋と姉と私を連れて出発しました。もちろん徒歩です。

 それで広島まで芸備線の線路伝いに帰ってきました。東練兵場を横切って、広島駅のホームに立ちました。広島駅はもちろん、線路に汽車はまだそのときは通っていなかったですね。二、三台蒸気機関車や客車が動かないままちょっとは見受けられましたが。そのホームを上がったり下りたりして。裏から入って、表の南の旧広島駅の建物はがらんどうでした。駅前は完全に焼け野原。それでそこに立った時に、広島湾の向こうの似島が見えたんですよ。ホームからね。立ち木も、焼けたときの葉っぱのない幹が、バーッと見えましたね。焼け残った煙突とか、ビルとか……。印象に残っとるのは、広島駅の前に鉄道病院があったんですよ。そこにね、大きな煙突があったんです。これは戦後昭和三〇年ぐらいには、駅前を開発するときに今の鉄道病院の位置に移しとる。それまでは駅前の焼け跡のシンボルみたいだったんですよね。駅前橋は当時ありませんでしたからね、みな猿猴橋を迂回して行ってたんですよ。猿猴橋から京橋通りを抜けるのが当時としてはメインでした。

 諸木から一生懸命歩いて、九日の昼過ぎには広島へ帰り着きました。
 私らが住んどった金屋町へは、猿猴橋を渡って的場へ出て、的場から戦後太陽館とかいう映画館があったところの裏の方、段原小学校の裏、この辺へ抜けて出た。もちろん、周囲は当然焼け跡ですね。段原小学校まであの猿猴橋を通って、土手を通って学校の校庭を抜けて焼け跡へ帰ったんですよ。もちろん校舎も何もないですよ。

 他も心配で、ずーと回って歩いてから、召集されて以来会っていない担任の黒瀬卓美先生の家へ寄ったら、先生が熱線をもろに被って全身火傷で寝ておられました。運悪く西練兵場で被爆したそうです。昔の護国神社の裏の方、今の市民球場の裏手、そこで被爆され、全身火傷の体で半日かかって学校近くの自分の家に帰られたんじゃそうです。先生は、すりおろしたジャガイモとメリケン粉を混ぜた火傷の薬を、全身、足の先まで塗ってもらってね。目と鼻のところだけが開いてました。お父さんが、先生の耳の中にわいたウジを、箸で二、三匹ずつ摘まみ取りながら付き添っておられたです。当時、黒瀬先生というのは二七歳です。一兵士として入隊してまだ間なしですよ。五月に私は元の学級へ帰る、先生は兵隊へ行く、それが同時でしたから。三カ月あまりで被爆されたんですよ。

 偶然私が訪ねていって、「先生」と声をかけたら、全身火傷で虫の息じゃったですが、意識ははっきりしていて「大野か」という声が出ました。自分のことより、「お前らみな元気か」「阿部先生は大丈夫じゃったか」と言うて、人のことを気遣われたんですよ。「今のところ何の話も聞いていない、どうしよるんや」と。

 そのときに先生の口から聞いたのは、「もろに光を浴びて、顔をやられた」ということ。お父さんが言われるには、ひと皮剥けたどころじゃなかったそうです。もろに正面向いとったということですから。爆風で飛ばされた、そっから先は覚えとらんと言って。家に帰ったときは、血もぐれと皮と服とがボロボロに焼け爛れて、軍服の形らしいものが残っていなかったそうです。素肌が見えて赤身が見えたいうて「わしの息子かどうかわからんぐらい。赤いお面をかぶったようになっとった」とお父さんは言っていました。
 お父さんが「もうこれ以上の話は無理じゃけぇ」と止めたので、「また来るけぇね、先生。何か食べるもの持ってきてやらぁ」とは言ったんですが、それが永の別れになったわけです。そんな状態で実際には食べられるものなんてないんですから。

 家のあった場所は九日でも、火事の後でまだ土が温かったですね。
 で、帰って来た時に「おい、飯が炊けらあ」と、父が言うたんですよ。水道管は昔は鉛管じゃったですよ。家が焼けるとき、鉛管も熱で溶けるんですよ。蛇口のところは鉄ですがね。鉛管のところの水がバーッと出よったんですよ、もう九日の日は。「おい逸美、水が出るけえ、飯が炊けらあ」と言うんで、じゃあ、ということで防空壕の中を探して飯を炊く釜があったんで、あれで飯を炊いて食ったのが九日の夕方です。塩はありましたが、おかずは何にもありません。

 生活がまた始まったわけです。九日に帰って来て、何にもないところから。最初は防空壕の中に寝泊りしようかと考えたんですね。でも父がバラックを建てる、家を建てると言うんで、大きな松の木がありましたんでそれを中心の柱にして、近所から拾い集めてきた、材木なんかで広げていった。電車道をはさんで段原大畑町(だんばらおおはたちょう)は焼けていなかったんですよね。でも、崩れた家はたくさんありました。無人の家が多いんですよ。もう住めないからと逃げてしまって。それらの倒れた家からちょっと柱とかトタンとか板とかいただいて来て。焼け跡にもトタン板がずいぶん散らばっとるわけですよ。これは焼け残りますから。屋根にするのにはこれがうってつけの材料なんですよ、一枚板で広い。板を一枚一枚打つよりはてっとりばやいですしね。それで、焼けた後のトタン板を私がずいぶん探してきましてね、二〇枚ぐらい探してきて。そして打ち合わせをしてバラック小屋を建てたんです。防空壕と庭の松の木をうまく利用して、柱も引っ張ってきたりして。焼け跡に電線がようけありましたから。電柱からぶら下がって、もちろん電気は通っていませんよね。銅線ですから、ぶつぶつ引きちぎって、父の知恵で「おい、縛れや、こんなんにせえ」言うて、組んでね、それで一〇畳くらいのバラックを建てたんですよ。

 金屋町にいち早くバラックを建てた人は、もう八日の日、私らより前の日、もう帰ってきて建てましたよ。二、三軒ね、もうあった。それらのバラックはほとんどテント小屋で、畳一畳か二畳くらいで生活しとったです。その人たちが私たちが建てた一〇畳くらいのバラックを見て大きいのにびっくりして。「大野さん方は何をやらしても大けえのお」と。父は何事もやることが徹底しとるんで、うちはもうがばーっとやったもんじゃから「大邸宅じゃの」って言われたよね。

 家の材料を拾い集めながら不思議に思ったことの一つは、段原小学校の黒板ですね。当時一枚板で大きいやつがあるでしょう、教室の。あれが何枚も飛んどったんですよ。校舎は焼けてすっかりなくなってる、もう土台の石が見えるんですよ。なんであの黒板だけが外へ飛んで出たんか。どっちにしても爆風でしょ。あれを持って出る者はおりゃしませんよ。それも何枚もですよ。校庭の真中辺りまでね。台風の後みたいに転がっている。風の向きがどうだったんか、どの方向になぜ飛ばされたのか調べるようなこともあったらね、面白いデータが出るんじゃないかと思うんですがね。ま、とにかくその黒板を家へ持って帰って、父が板にしてノコギリで引いて家の部材にしたんです。焼けた後ですから、土はまだ温いんですよ。それで黒板をひいてもケツのほうからほんわりほんわり、温かくて。そういうような状態じゃったです。九日にはね、川にはまだ死体がありましたよ。死体は、行ったり来たり、潮が行ったり来たりしたんでだいぶんなくなったようですが、橋桁にかかっていた材木類はまだだいぶ残っていました。

 あと、川で私の記憶に残っているのは魚ですね。イダ(※標準和名はウグイ)と言うて広島の川には魚がおるんですね。帰ってきた九日の晩でした。すぐ晩御飯のために魚の調達に行ったんですよ、川へ。京橋川は、遊び場所でもあったが食糧調達場所でもあったわけですから、ついその感覚で。それで行って水面を見たら、背中を火傷した魚が泳いでおったんです。水面近くで泳いでいたのか、かなり深いところを泳いでいたのかわかりませんが、熱線の温度がどのくらいきつかったかというのは、この魚の背中もね、よく表していたと思います。泳ぎよる魚の背中が焼けとったんです。それがまだかろうじてぴくぴく泳いでいた。そんなの見たらびっくりした。うわー気持ちが悪いと思って。取らんかったですよ。
 柳橋という木の橋があって、そこにかかった材木類の間に、魚が逃げ場がなくて干からびて死んどったのがおりました。まだぴくぴくしよったのもおりました。そのとき、死体が二つ三つまだ木と木の間にあったのも見とります。その頃はもう水面は割とこう、いろんなもので埋っておったですがね。

 九日の日から二、三日かかって落ち着いたですね。その間、防空壕に寝たんですが、最低生活はできるだけの家財道具というか鍋釜を置いとったものですから、なんとかなって。水はちょっと汲みに行きゃぁ、なんぼでも出よるんですよ。もと炊事場じゃったところから。それから、風呂が残っとったんですよ。五右衛門風呂じゃったですが。屋根はむろんないですよ、焼けて。あれをきれいにして五右衛門風呂焚いて翌日から風呂に入りましたよ、私たちは。一〇日くらいから。

 それから焼け跡生活が始まったわけです。職もない、仕事もない、収入もないので、どういう生活したかいうと、焼け跡の物拾いでしたね。一番金になったのは鉄屑とか、金ものですね。そういう商売をしとる者がすでにおったいうことを考えると、おかしいんですがね。もちろん風呂釜なんかはね、高価に売れました。五右衛門風呂でしょ、鋳物でしょ。焼け跡に残っとるのは焼けんのですから、風呂釜は。これは親父と二人で行ってね、槌とハンマー、それからゲンノウを持って行って、崩して、それを父がどこから調達したか知りませんが、大八車に積んで、持って帰って一日に一個、二個は売りましたね。平塚の方までずーっと行ったんですよ。鶴見橋のこっちですね。高級住宅は幟町(のぼりまち)、上柳町(かみやなぎちょう)言うて、この辺が、いわゆる銀行の人とか偉い人が住んどる大邸宅が並んどったんですよ。みんなもちろん焼けたんですけど。

 父はここへ何度も足を運びましたね。それはいろんなめぼしいものがいっぱいあって、収穫が大きかったことも理由でしたが、実は父はここで被爆したんですよ。その縁もあった。原爆の当日、父は疎開ということで家の荷造りをして大八車を引いていったんですね。大八車を引いて上柳町まで来たわけです。広島銀行の頭取の邸宅があってそこに大きな石の門があった。四角い石の門に昔の武家屋敷のような大きな扉があって、その門のところへ座って一服しよったらしいんですよ。キセルに火を点けて一服しよったら、なんか飛行機の音がするので、見上げたら、飛行機が上を向いて行きよったと。あ、B29じゃ、と思ったら、ピカッとそれが光った、と。それはB29の機体に陽の光が反射したのかもしれませんけどね。あ、空襲じゃ思うて。その前に広島は空襲警報を解除しとりますからね。市民は大半安心しとったので、父はこれはおかしいと思うて、その石の陰に身を伏せたいうんですよ。大八車を置いて、とにかく身を伏せた。その瞬間、どーっと来た。それで助かったいうんですね。どーっとすごい音がして。「わしはあんな音聞いたことがない」言うくらい、すごい音がした。ですから、光ったのを逆に見とらんのですよ。目をこうやって、閉じて、手の指で鼻と目と耳を塞いで。「光ったのを見とらんが、音はとにかくあんな音は世の中で聞いたことない言うようなのを聞いた」と。それで地震かと思うたくらい体が揺れて、気がついたら石柱の陰におったのが大八車のところまで動いとった。飛ばされたかどうかはわからんのですがね。それから父は荷物も全部置いてそこから逃げたというんですね。京橋川を渡って、子供を助けたりなんかして、逃げよったと言うんですね。それからあらかじめ決めてあった親戚の所へ来たということなんです。

 ですから、父は帰ってきてどうしても一度はそこへ行きたかったんでしょうね。大八車がどうなったか、見届けたかったと思いますよ。で、父と見に行ったんですよ。そうしたら、大八車は荷物ごと焼けていた。そのままで全部焼けちゃった。積んでおいた箪笥(たんす)とかなんとかみんなきれいに焼かれて。金属の輪と心棒だけが焼け残っていた。
 あの焼け跡でものを拾って歩いて……。特に父が大八車を置いていた辺が大きな屋敷があると言うんで、焼け跡から遠征してここへようけものを取りに行ったんですよ。アパッチですよ。高価な物もありましたよ。骨董品のようなものもね。
 金にしたのは父がしたんですからそれらをどこへ売ったもんか、知りません。ですが生活費は、ある程度入ったと思います。
 父は無傷でしたが、焼け跡を歩いたせいか、のちにやっぱり原爆症の症状は出ましたね。ガスを吸ったんじゃろういうことで。白血球の数が、ちょっと多くなったり。それで、意識がなくなったり、ずいぶん病院通いをしましたよ。しかし父は戦争へ行って弾を打ち込まれても死ななかったくらいですから、「わしゃ死にゃへんど」と言いよって、へこたれなかった。それで九〇歳まで生きたんです。

 しばらくの間、家の近所でも、ずいぶん死体を焼きましたよ。松川公園のところにね、ちょうど火葬する場所があったんですよ。すぐ裏側の電車道の方に、糧秣廠(しょう)いうて陸軍の食糧を貯蔵する倉庫があったんですが、その軍の敷地で火葬をよくやっていました。私たちのバラックの目と鼻の先なんですよ。五〇メートル離れているか離れてないかですね。そこで毎晩ですよ、死体を焼く。夜な夜な。晩御飯食べよったら、そこで死体焼いとるんですよ。軍隊とか消防団とか何とかがね。あのにおいは、もう一生忘れませんよ。どういうふうに表現していいかね。飯食いよってもね、飯がまずくなる。たまらないにおいでしたね。炎が見えて、その煙が家にも流れて来て……においがうわーっと。

 終戦を聞いたのは、私が子供のころからよく遊んだ京橋川ででしたね。昭和二〇年八月一五日の終戦の報はそこで聞いたんですよ。対岸の平塚の方から、大きな声で教えてくれた人がおるんですよ。ラジオがかすかに聞こえたんですが、「おーい、日本は負けたどー」って。それで、「何が?」と思うて。私は日本が負けるようなことなんか全然思ってはおりませんでした。「神国日本は絶対勝つ」という気持ちが強かったもんですから、何を言っているのかわからなかった。
「負けたよー」「どうしたの、おじさん、おじさん」言うて。川は向こう側が船着場でこちらが浅瀬なんですよ。向こう岸に貸しボートがあって、そこのおじさんはガキ大将の私をよく知っているわけですよ。そのおじさんが、「おーい、日本は負けたどー」と。それはショックじゃったです。遊び場所でそれを言われ「えーっ」と慌てて、タッタッタッタッと走って帰りました。
「おとーちゃーん」と父を捕まえ、「日本負けたみたいやで」言うたら「何言いよるんか」と言われた。父は金鵄(きんし)勲章をもらった人ですから、そんなこと言い出したらもう殴られるのがおちぐらいの雰囲気ですよ。「ばかいうんじゃねえ。何言ってんだ」と。電車道の向こうにラジオを聞いた人がおられて、その人に父が聞きにいったんです。
「天皇陛下が直接負けたいうことを言うたらしい」と、父はがっくりして帰ってきました。「いやー、負けたか」と。昼過ぎですよ。あんなにがっかりした父を見るのは初めてでした。

 八月末じゃったろうと思うんですが、アメリカの軍用機コンソリデーティッドB24というのがね、低空を偵察機みたいに飛んできましたね。広島上空の焼け跡を何回も何回も旋回して、写真を撮っていましたね。それこそ四、五〇メートルの低空ですよ。機上の人間の姿がはっきり見えるんです。爆心地を中心にぐるーっと旋回して写真を撮って行きましたね。で、そのときにすごい恐怖心を覚えました。姉が一番恐れたのは、進駐軍に真っ先に乱暴されるんじゃないかと。それで男の格好せにゃいけん、防空壕に隠れとかにゃいけんとか、いうような恐怖心もありましたね。負けた、というね。

 生活が落ち着いてきたのは、九月の初め頃でしょうかね。
 二、三ヶ月したら近所にも相当数のバラックができましたよ。町内活動が立派にできるような所帯数になりましたから。罹災証明とか配給とか、それを活用したいろんな町内活動ですね、これはもう半年も経たんうちに機能しましたから。

 あの体験は、ずっと残さなけりゃならない体験だと思いますね。あの広島があって、今日の広島がある。忘れられない、忘れちゃいけないことだと思います。

 一四歳の夏、キノコ雲の下の地獄絵図を見てから六〇年。この夏私は七四歳。私には三人の子供と四人の孫がいます。その孫のなかに中学二年生で一四歳の男の子がいます。私が被爆したときと同じ歳ですが、夢は野球の選手だそうです。とりわけ広島カープのファンで、よく広島市民球場に連れて行ったものです。小学生の頃にはキャッチボールの相手をしてやったこともありました。今では私は高齢社会の一員となって、糖尿、心臓の持病に加えて足・腰が不自由になってしまいました。現在杖をつく「じいちゃん」では相手をしてやることはできません。今、孫は屈託なく、元気に中学校の野球部で頑張っています。

 しかし、じいちゃんが自分と同じ年頃にあった出来事には無関心で、〝ゲンバク〟については、学校で話を聞いている程度で、『サダコ』や千羽鶴の話、爆心地の『原爆ドーム』が世界遺産になっていることくらいしか知っていない様子です。『ノー・モア・ヒロシマ』の原点とも言うべき〝声〟を聴いてはいません。
「ピカドン」という言葉の語源も知らない、私の孫たちを含めたヒロシマの若い世代に被爆者の一人として、犠牲者に代わり、話し、遺すべき責任があるような気がします。

 不幸中の幸いとでも言いますか、私の父母も被爆者でしたが、二〇年後に他界しており、平和記念公園の慰霊碑には被爆犠牲者として過去帳に名前を載せられ、納められています。身内に大きな犠牲はありませんが、私の身近な人、特に学友、先生の被爆犠牲者が数多く、仲の良かった同級生は勤労奉仕で被爆死して、いまだに遺骨がわからないと聞いております。
 また私の学校の先生で勤労奉仕で生徒と被爆し、自分自身大きな火傷を負いながら生徒の救助、避難誘導に活動された話もあります。
 被爆状況証言は数多く語られてきています。私の話には他の人と重なっていることも、またずれもあるかもしれません。
 被爆六十周年は、私と孫にとっても意義ある節目の年と考え、〝じいちゃんのノー・モア・ヒロシマ〟を、老いた頭の中を整理しながら、話を遺すことにします。
 孫をはじめ、若い人たちが何かを考え、感じ取ってくれることを願いつつ……。

      (2004年11月28日/宇品公民館で/聞き手■立川太郎・渡辺道代他ヒロシマ青空の会メンバー)

 





核兵器を日本に使用するか――岐路となった一九四五年六月

2016-08-30 | 第二集

被爆証言を遺そう!ヒロシマ青空の会 2集「核兵器を日本に使用するか」


  核兵器を日本に使用するか――岐路となった一九四五年六月
                                               アメリカ暫定委員会とフランク報告 

                                                                                                 五十嵐 勉 

   

 原爆製造が生産の軌道に乗りかかった一九四五年五月、アメリカ大統領トルーマンおよび陸軍長官スチムソンら首脳は、この恐るべき新兵器をどのように使用するか、あらためて検討する段階に直面していた。スチムソンは原爆使用をどのような展望と方針のもとに、具体的に実行するかを検討する必要に迫られていた。原爆のあまりにすさまじい破壊力が、戦争だけでなく、戦後の世界、人類の未来にきわめて大きな影響を及ぼすことが明らかになっていたからである。使用目的を検討し明確にするために組織されたのが、「陸軍省暫定委員会」である。
 それ以前、ルーズベルト時代には、原爆をある場所で公開実験し、その威力を敵国にもよく見せつけた上で、勧告に従わなければ、投下するという使用方法がアレクサンダー・ザックスなどにより、提案されていた。しかし四月一二日ルーズベルトの急死により、トルーマンが新大統領に就任した。しかもソ連との関係がそれまでとは変わって険悪になっていた状況の変化もあって、あらためてこの超破壊兵器をどのように使うか、実行へ向けて決断しなければならなかった。暫定委員会はこのような状況の下にトルーマンとの打ち合せを経て組織されたものである。
 暫定委員会の議長は陸軍長官スチムソン(※注意しておきたいのは、アメリカの陸軍長官はこの時点でも軍人ではなく、文官である)、副議長はジョージ・ハリスン。他のメンバーは、大統領の代理役としてバーンズ、海軍からはラルフ・バード、ウィリアム・クレイトン国務次官補。また科学技術部門代表としてバネバー・ブッシュ科学研究開発長官、マサチューセッツ工科大学総長カール・コンプトン、ハーバード大学総長ジェームズ・コナントが参加した。
 さらにコナントとブッシュの助言で、この暫定委員会を科学者の開発現場から補佐する顧問会議が設けられた。顧問会議の四人の科学者はロスアラモス開発研究所所長のロバート・オッペンハイマー、他にアーサー・コンプトン、エンリコ・フェルミ、アーネスト・ロレンスであった。
 ほぼ一カ月に及ぶ準備と討議を経て、五月三一日と六月一日に暫定委員会は次のような結論を採択する。これは満場一致で決められた、大統領への勧告である。

1 できるかぎり早く原爆を日本に対して使用すべきである。
2 それは二重の目標に対して使用すべきである。すなわち最も破壊されやすい家屋その他の建築物に囲まれるか、あるいはこれに隣接した軍事施設あるいは軍需工場を目標とする。
3 それは事前の警告(爆弾の性質についての)なしに使用すべきである。

 この過程で、「どこかの無人島で超爆弾の示威実験をやるとか、事前警告をするとか」別の方法は「非現実的だ」として退けられた。
 またペンタゴンでの五月三一日の会議に、スチムソンはジョージ・マーシャル参謀総長、原爆開発総責任者レスリー・グローブス、バンディ、アーサー・ページを招いて科学者たちの重要な意見を聞かせた。原子兵器の将来、国際開発競争のスタートの懸念、国際管理の必要性などが強く訴えられたが、このなかでも、①アメリカの独占が短いこと(A・コンプトンは六年間と説いた/ソ連が開発したのは四年後である)、②熱核爆弾(水素爆弾)の可能性は重要事項とされた。
 いずれにしても、どのように使用するかはここでほぼ決定された。軍の意向が重視されたことになる。政府の現場にいる者たちは戦争の終結を第一に考えたのに対し、科学者たちはもっと長期の、その後の世界を中心に考えた。

 この暫定委員会では、原爆の開発と平行して討議され、主張された、科学者たちの声がまったく封印されたことになる。原爆の破壊力のすさまじさを知る科学者たちは早くからこの爆弾が世界を一変させてしまうことに気づき、苦悩とともにどのように使用されるべきかを討議し、アメリカ首脳に勧告しようと日夜腐心した。
 この科学者たちの意見の代表的なものがフランク報告である。
 ジェームズ・フランクを委員長とし、D・ヒューズ、J・ニクソン、E・ラビノウィッチ、G・シーボーグ、J・スターンズ、L・シラードなど科学者のグループは、一九四五年六月一一日付で、現代の世界にとってもきわめて重要な意味を持つ、一つの報告書を提出している。
 その内容は次のようなものである。引用は『危険と希望』(A・K・スミス/広重徹訳/みすず書房)による。
「原子力の発展において我々のなしとげた成功が、過去のあらゆる発明よりもはるかに重大な危険性を孕んでいる」
「原子力の破壊的使用に対抗するのに十分な効果的防御を科学は約束できない……。それに対する防御は、世界的な政治機構によってのみ与えられる」
「他のいかなる形態の戦争においても、先制攻撃の利点は核戦争ほど大きくない」
「核爆弾をわが国が独占的に使うことのできる『秘密兵器』としておくことは、ほんの数年のあいだしか可能でない。その製造の基礎となっている科学的事実は、他の国の科学者によく知られている」
「もし有効な国際協定が達成されなかったら、核兵器の存在を我々がはじめて表示したその翌朝からただちに、核軍備競争が熾烈に開始されるであろう。その後では、他の国々は三、四年で我々の最初の出発点に追いつくであろうし、我々がこの分野での強力な研究を続けたとしても、八年から一〇年で我々と肩を並べるにいたるであろう」

 国際協定がいかに重要か||へ向けて、フランク報告はさらに次のように論を展開していく。
「この観点からすると、わが国で現在密かに開発されつつある核兵器が最初どのようにして世界に知らされるかが、大きな、おそらくは決定的な重要性を持っていると考えられる」
「手に入った最初の原子爆弾を対日戦で使用する問題は、軍事当局者によってばかりでなく、この国の最高の責任者によっても極めて慎重に熟考されるべきだと我々は考えるのである。もし我々が核戦争の全面的防止に関する国際協定を最高の目標と考え、それが達成し得るものと信ずるのなら、そのような形で核兵器を世に送り出すことは、容易に我々の成功の機会を全く破壊してしまうであろう。ロシアだけでなく、我々のやり方と意図にそう不信をいだいていない同盟諸国さえ、中立諸国とともに、深い衝撃を受けるであろう。ロケット爆弾のように見境のない、何百万倍もの破壊力を持つ兵器を秘密に準備したり突然投下したりした国が、国際協調によってそのような兵器を廃止させたいという希望を宣言しても、それを信じるよう世界の国々を説得するのは非常に困難なこととなろう」
「日本に対して原爆を突然投下することによって達成されるアメリカの軍事的優位と人命の節約は、その結果生ずる信頼の喪失や、アメリカ以外の全世界の上に吹きまくり、そしておそらくはアメリカ国内でさえも世論を分割させる恐怖と反感の波によって帳消しにされてしまうであろう。
『この観点からみると、新兵器の示威実験は、砂漠か、不毛な島の上で国連(※編集部注/この時点ですでに国連の予備会議が招集され、準備委員会ができている。ルーズベルトは原爆を軸の一つとして国際連合を組織することを考えていた)のすべての国々の代表者の目前で行なうのが最も良いと言えよう。』もしアメリカが世界に対して、『あなた方は、我々がいかなる種類の兵器をもっており、しかもそれを使用しなかったことがおわかりになったでしょう。もし他の国が我々と一緒になってこの兵器を放棄し、効果的な国際管理を設定することに賛成するなら、我々は将来におけるそれの使用を放棄する用意があります』と言うことができるならば、国際協定達成を可能にする最上の雰囲気が生じ得るであろう。
 かかる示威実験の後なら、もし国連や国内世論の認可が得られ、さらにおそらくは、日本に対して降伏するか、あるいは少なくも、全面破壊に代わるものとしてある地域を無人とするように予め最後通牒を出した後ならば、この兵器を日本に対して使用することがおそらく許されるであろう。このことは空想的に聞こえるかもしれない。しかし、核兵器は破壊力の大きさの点で全く新しい何ものかであり、我々がそれを所有することによる利点を十分に利用したければ、我々は新しい想像力に富んだ方法を用いねばならないのである」
 この優れた見解が、当時のアメリカ首脳には受け入れられなかった。軍部によって握りつぶされたとも言える。フランク報告が代表する科学者たちの展望と警告は、その後の米ソの冷戦時代を的確に予言ししかも何が必要かを明確に示しているばかりではなく、その後の中国、インド、パキスタン、北朝鮮などの核所有国の拡散化とその危険を予言している。そればかりではなく、テロによる都市への攻撃の底に横たわる懸念を含めて、現代世界が直面している根本的な問題が、すでにここから胚胎していることを示している。
 それは同時に、その原点に立ち返ることによって可能な、一つの希望の道をも示している。



「黒焦げで帰ってきた弟」  武田恵美子さんに聞く1    

2016-08-30 | 第二集

        黒焦げで帰ってきた弟  ――武田恵美子さんに聞く――     


武田恵美子さん
生年月日●大正一五年(一九二六年)二月二七日生まれ (インタビュー時七八歳)
被爆当時●一九歳(家事)
被爆地●爆心地より約一五キロ/広島県安佐郡(現在広島市安北区)亀山村河戸の自宅


 私は武田恵美子と申します。大正一五年(一九二六年)二月二七日、広島県安佐郡亀山村河戸で生まれました。旧姓は山中と申します。広島に原爆が落とされた当時は山中恵美子でした。
 実家は土木建築をやっていましたけど、失敗しましてね。戦争当時は移動製材という仕事をやっていました。父は本当は木材業なんです。土木建築の頃は、収入はよかったのではないかと思います。土建屋木材業で大きくなっていたんですけど、だんだん戦争がひどくなって縮小され、立ちゆかなくなりました。男性はどんどん兵隊に取られていきましたし、爆撃が近くなって家を建てるどころではなくて、むしろ爆撃に備えて家を壊していたような状況でしたから、結局は倒産に追い込まれたわけです。木材業が倒産し、事務所の大きな金庫やその他の物に赤い紙がペタペタと貼ってあったことを子供心に憶えています。転居も三回し、父や母の苦労は並々ならぬものがあったと思います。その後は機械を持って山へ入って木を切り出す移動製材の仕事を続けて生計を立てていきました。

 父が事業に失敗した頃とちょうど重なるようにして、母は癌で亡くなりました。七人の子供を残して。ちょうど私が一〇歳、小学校三年のときでした。でも父は後妻を入れないで、男手一つで七人の子供を育てました。一番下がすぐ死んだので実際は六人でしたけれども。七人兄弟のうち、私は次女で、姉、兄、私、妹、弟、末の弟という順です。姉と兄は年子、それから六歳とんで、私と妹がまた年子、あと弟二人は飛び飛びです。この下の末の妹は、生まれたばかりで早くに亡くなってしまいました。ピカドンで亡くなったのは、一番下の弟です。
 姉がは広島で被爆しまして、嫁いだ先で六七歳ぐらいで癌で亡くなりました。原爆の一番ひどいところにいた影響でしょうか、癌は転移転移で、すごかったです。

 兄は硫黄島で戦死しました。東京の今は理科大と言うんでしょうか、その頃は物理学校と言っていました。そこは入るときは試験がいらないけど、出るときが大変という学校です。たった二人卒業できたうちの一人だったんですが、体が弱かったんですね。だからもう兵隊には行かれないだろうと言っていたんですが、昭和一九年の末に突然召集令状が来ましてね。学徒出陣で、海軍に入りました。それから千葉県の館山へ気付で手紙を送るんですけど、どこにいるのか、どこへ行ったのか全然わかりませんでした。「水が黄色い。太田川の水が飲みたい」っていう手紙が時々来ていたんですけど、場所が書かれていない。私たちは子どもですしね、父もそこがどこだろう?と、わからなかったです。硫黄島で玉砕の報道が入るちょっと前に三月頃「あんたんとこ、あのお兄さんが戦死した」という知らせがありましてね。「じゃあ硫黄島だったのか」とやっとわかったような次第です。硫黄島で二〇年(一九四五年)三月に亡くなりました。

 妹は肋膜を患っていましたから、病身で全然まともな生活ができなくって……。
 次男坊の弟は、あのころ中学を卒業して、予科練に入隊してました。昭和二〇年より前ですね。「予科練で何をしてたの?」って聞いたら、「防空壕ばかり掘っていた」と言ってましたけど。もう覚悟して「お前たちもあれだから……」っていうようなことは言われていたと言っておりました。特攻隊ということなんでしょうか。

 私どもは、広島の北の山に囲まれたところで育ちました。小学校は近所の小学校、あの頃亀山国民学校と言っておりましたね。村の小学校ですから、とても近いです。歩いて一〇分もかからなかったです。全校生徒は百人いたのか……二百人くらいだったか……。わりに分校とかいっぱいあって、大きい小学校でしたから。
 私の村は畳表のい草を栽培していました。だから田んぼも多かったですけど、い草の田んぼでした。太田川のそばで風光明媚な土地でね。ずうーっと駅までい草の田んぼがありました。い草をねかして干しておくんです。乾燥させたものを畳屋さんに持ってってそれを織るわけです。い草は水を吸うと使えなくなるんです。商品価値が落ちる。干すのが命みたいなところがあって。

 ですから、い草を作った農家は雨が降るとたいへん。雨に濡らすとおしまいでしょ、だから、すぐに「おーい出て来い」って声がかかるんです。もう何にも知らなくても、みんながとにかくもう手伝うものだと思っていましたから。猫も杓子もみんな手伝いに行きました。
 山や畑に囲まれた中で、私たちはのびのび育ちました。私の実家は太田川のずっと上流にあたります。その土手に近い、いいところにありました。
 太田川で泳いだことも鮮明に残っています。釣りの思い出も多いです。男の子といっしょに太田川で釣りをしたりしていました。

 ずっと奥の方に変電所があるんですけど、その変電所に遊びに行った思い出もありますね。そこへ行くと鮎が捕れるんです。それから、蟹も。沢蟹ですけど、変電所のコンクリートの上にずーっと登って来るんですよ。川上から流れてきたカニがね。それをみんなで捕って、私たちはたまにそれをゆでておやつにしたりしましたね。甲羅が手の甲くらいありまして、大きいのは足を入れると一〇センチ近くありました。いいのは全部旅館や広島の市内に送られるんで、私たちはちっちゃいのをもらって。父が捕って来たのを、釜ゆでにして食べましたよ。美味しくて。
 雨がよく降りますとね、川が氾濫しますので変電所で水を放流するわけですよ。そこに鮎がどっと出てくる。私なんかも先にいっぱい釣針が付いた釣竿で、それをポーンと川上の方になるべく遠くの方に投げますとね、多い時はいっぺんに一〇匹ぐらいかかる。父が山とか川とかの権利をみな持ってましたからね。よく山や川で遊んで。遊んだ記憶はほとんど太田川でしたね。土手とか、変電所とか。太田川で泳いだり、男まさりにチャンバラごっこをやったり。刀は好きな人がいまして作ってくれてね、それで私は男みたいだった、大きかったものですから。
 雨が降ったりしますとね、お寺へ行って遊んだりしましたけれど。

 私の家は母がいないので、みんな遊んでるときに、朝ごはんの支度をして、片付けて、それからさらにお掃除をしないと出してもらえませんでしたので、それだけはちょっとちがいましたけどね。お風呂を沸かすのに近くの山へ行って薪とか木のこっぱを採ってきて、新聞紙の代わりにしてお風呂の火を点けるんです。よく燃えましたね。いろいろやらされてはいましたけど、遊ぶほうものびのび遊ばせてもらいました。姉がいる頃は特に。

 昭和一二年(一九三七年)に日華事変、支那事変が始まりましたから、その頃中国の攻撃地が陥落したというと、提灯行列をしたりね。勝手に日の丸と提灯(ちょうちん)行列があってそれに行くことは、誰が言うことなく決まっていたんです。それから太平洋戦争が始まって。それで勝った、勝った、戦争に勝ってよかったねって。そしたら後から聞いたら負けてたんですけどね。天皇陛下のために勉強をよくしましょう、行ないをよくしましょう、何をしましょうとか、朝、国旗に四拝をして君が代を歌ったりする行事はよくありましたし、やっぱり戦争が悪化するにつれてだんだん男手が少なくなりましたけれど、昭和一八年の学生の頃までは私の周辺ものどかな時代でした。空襲の経験もありませんでしたしね。

 私の実家は広島市の爆心地より北へ直線距離で一五キロほどの太田川の中流の可部駅に近い広島県安佐郡亀山村河戸にありました。現在は広島市安佐北区となっていますが、太田川の清流と川沿いに展開されるのどかな田園風景は四季を通じて素晴らしく、戦前もハイキングコースだったとか。
 父は子供たちにその頃ではとても恵まれていた中等教育を与えてくれました。母がいない分、躾(しつけ)はとても厳しかったですけどね。「お前たちへの財産として、また人間が人間らしく生きるために」というのが、父の信条でした。父はまた「お前を教育するのは、女学校に行って戦争をやらすためじゃないんだ」とも言っていました。建前は平和主義者でした。

 ですからそんな父の方針の下に友だちとも遊んだり、おはじきをしたり、いろんなことをしてみんなで遊びました。小学校を卒業してもよく遊びに行きましたしね。お手玉を、広島では「おじゃめ」って言うんですけど、おじゃめで何人もと遊んでとーんと上に上がってぱっと受けてね、負けたらどうするかと言うと、手を重ねて叩くとかして、楽しかったですね。あの頃はみんな仲が良かったです。

 一三歳で、六年生。勉強はまあ普通よりちょっとできるほうでした。
 女学校、中学校への進学は、当時は少なかったです。一クラス四〇人くらいでしたけれど、私のクラスメートは全部で六人くらいしか進学しませんでした。父の方針としては貧乏はしているけれど、やはり中等教育を受けさせるというものでした。私は県立女学校へ行きたかったんですけれど、安田へ行けということで、安田高女へ行きました。その頃は私立には行く人は少なかったので、友だちになぜ行ったのかと言われたりしたほどです。
 ちなみに父は子どもに教育を与えるという点は一貫していました。兄は東京で理科大の前身の物理学校へ行きましたし、妹も安田高女へ行きました。二人の弟は、お寺関係の親戚が多かったものですから、どちらも崇徳中学校へ行きました。三滝にあるこの崇徳中学は、お坊さん学校で、将来お寺をやる人が多く行くところでした。ですから、お寺でなくて行くのはうちくらいのものでした。

 そうした経緯で一四歳で安田高等女学校に入学しました。当時の女学校は四年制度です。広島市内西白島にありました。横川から白島は近いものですから、通学は鉄道で、可部線で横川に出て通っていました。朝五時ごろ起きてお弁当を作ったり女学校へ行く準備をしました。夜は早く寝ますし。やがて妹も同じ安田高女に一級下で入ったものですから、いっしょに行きました。
 安田リョウという女の校長先生でした。普通科です。あの頃は中学校は普通科しかなかったかな……。その上に教職員、先生になる教職の学校がありましたけどね。師範学校という、教員養成の予科。私も本当は教員になるつもりだったんですけど、嫁の貰い手がなくなると、親戚中が大反対。それで諦めました。
 家庭科というのは別になかったです。もう総合した中で家庭科の時間があってというような時間表に組んでありました。当時の学校の内容は、まあ良妻賢母になるためですね。英語廃止、まず英語の時間がなくなりまして、代わりに歴史、今でいう社会科ですか、歴史の勉強が多くなった。そうかといって戦争教育もあまりしてませんでしたけどね。わりに良い先生たちが多かったですから。

 礼儀は厳しかったです。ただ女は結婚して良妻賢母というのが目標ですから、言葉遣いでもなんでも「はい、かしこまりました」って言わないといけなかった。廊下を歩くのも、こっちを通るとか、うるさかったです。髪は全部、鋏を入れてはならないと。私もちょっと長めで、ぐっと束ねていました。私らのときは髪は切ってはならなかったんですね。それでも中には切る人がいるんですね、そうすると呼ばれていって怒られたりしましたけれど。戦争教育、大和撫子というような教育はなかったんですけど、ただ女の子は女の子らしくということと、また髪を切ってはならない、それから言葉遣いにやかましかったことは、徹底していました。

 当時母がすでにいませんでしたので、上から、姉が母代わりをして一家の家事を見ていたんですけど、ちょうど私が女学校の終わりの頃には、姉が嫁いで行きました。それで、私が上から順番にというしきたりで、代わって家を見るようになりました。で、ご飯の支度をしながら女学校へ行っていたんです。

 国家総動員法はすでに昭和一三年(一九三八年)に出ておりましたが、昭和一八年(一九四三年)に、学徒戦時動員体制というのがしかれましてね、学徒はみんな勤労奉仕に動員されたんです。でも私は母親代わりということで戦時動員を免除されました。工場などでの勤労奉仕に出ずに、それを逃れて家にいたわけです。友だちは被服廠とか、爆弾を作る工場とかに勤労奉仕に出ていました。特に兵隊さんの軍服を縫ったりする被服廠が多かったですね。それにほとんど動員されておりました。まだまだ昭和一八年ですから、戦時動員を許されたのも多少は緩かったということなんでしょうけどね。あとはもう、あーもすーもなくて、全部狩り出されまして勉強なんかは全然しませんでした。弟も小学校を出てすぐです。だって一四歳で、予科練に行って……。まだ子どもですよ。
 戦局が悪くなるにつれてだんだん食べるものがなくなりましたから、農家に切り替えたり、食べる野菜を作ったりしました。私も昭和一八年女学校を卒業してから初めてさつま芋を作るとか、今まで父がちょっとやっていた野菜作りを手伝ったりしました。

 母親代わりの役もしだいに多くなって、どこかの人が兵隊への召集がかかってきたというと、お祝いを持っていったり、戦死したというと葬儀に参列したりとか、父が出られないときには私が出るということも多くなりましたね。
 その頃から父と対立することもしばしばになりました。
 父の言うことに矛盾を覚え始めたんです。父は村のお世話をしていましたので、人の出入りは多かったです。どこかの娘さんがお嫁にいくとかというと、前聞き調査が来るんです。すると父は「あそこの家は金のない貧乏人だ」と言ったりするんです。でも父はふだんから「人間は平等だ」って教えるんですよ。「みんな同じだ」と言う。そう言いながら「貧乏人だ」と言う。言ってることが矛盾してます。だから父が嫌いになっていきました。兄弟の中でやっぱり私は一番父に反抗しましたね。「これはどういうこと?」って。もともと次女だったせいか、何でも納得させてもらえないと「うん」と言わない子でしたから。

 父と兄の対立についても、矛盾を覚えました。東京の物理学校に行っていた兄が、夏休みとか冬休みとかに帰って来ましたけど、兄はどちらかというと戦争反対者。でも父は上べは平和主義者でしたけど、やることは戦争協力者でした。やっぱり戦争というものは勝つものと思っていましたから、もう頭の中で昭和一八年頃は米英憎しで、一九年には鬼畜米英に変わってきましたしね。兄に召集令状がかからないから、肩身が狭い、村でも胸を張れない、ということを父は私によくこぼしていました。

 兄は体がすごく弱いので兵隊検査が不合格。もうほんとうに弱かったんです。兄は根っからの反戦主義者で、床下に本を隠しておいてそれをよく読んでいました。哲学の本とか洋書とか、樋口一葉とか、日本がどうのとか、文庫本がもういっぱいありましたけど、洋書が多かったです。あんなのを持っていたら本当に憲兵さんにやられるんですけど。戦争は反対だ、命はかけがえのないものだ、と言って。私は当時、なぜ命、命っていうのかわかりませんでしたけど。命の大事さは父がよく言っていましたから、それとどうちがうのか考えられませんでしたけどね。
 だけど、戦争へ行くのになんで兄が自分の命って言うのかな?っていうのはこだわっていました。私自身はそれほど文学少女ではなかったんですけど、本は読みました。兄は「若きヴェルテルの悩み」とか、そういう西洋のものは本当に一生懸命読んでいた。それが父は気にいらなかったんです。

 だから兄は父といつも対立がありました。私は兄の言っていることが正しい気がしました。いろいろ説得力もありましたから。父の方は絶えず矛盾したことをやっておりました。それで私は父親が嫌いだったんです。
 昭和一九年(一九四四年)末に兄に召集令状が来ました。丙種合格でした。甲、乙、丙とあって、最低の合格、とにかく猫も杓子も戦場へ行くということですよ。その時、父は「召集が来た」と、小躍りして喜びました。兄は黙って、召集令状を見つめていました。父は大きな声で肩身が広くなったって言ってましたけどね。

 でも兄が言いました。「恵美子、戦争は負けるよ」って。
 私もそのときはよくわからなかったものですから、二人の状態を見たときに、私は兄を非国民だと思ったんですよ。召集令状が来たら喜び、父をはじめみんな喜んでいますからね。「おめでとうございます」ってね。兄はいやがってじっとそれを見ていたので、兄は非国民だって思ったわけです。周りは「山中の息子さんに召集令状が来た」と、婦人会の人が来たり、在郷軍人さんや、いろんな人が来て「おめでとうございます」と言って。

 当時は召集令状が来たらお赤飯を炊いて祝うというのが習わしでした。それで、なけなしのお米をとって赤飯を炊いてみんなで食べたんですよ。兄はやはり浮かない顔をしていました。私はそれが気になって、あとで兄のところへ行ったら、兄は日の丸を裂いていました。当時は出征が決まるとみなからお祝いの日の丸の旗をもらうんですよ。誰でもいただくんです。方々から来るんです。それに「出征、山中正秋様」と書いてあるんです。お友達の寄せ書きですね。日の丸の旗に寄せ書きするんです。私が黙って入っていったら、兄がちょうどそれを全部裂いていたんです。それを束ねて丸い玉にしていました。

 それで「恵美子ね、お前、よく考えろ」と私に言うんです。「なぜ死んでいく者にこういうことをするんか?」と。「もう僕は帰らない、だから後をよろしく頼む。お父さんや妹、弟をよろしく頼む」と。「今お前に言ってもよくわからんかもしれんけれども、戦争とは醜いものだ。命を大事にしろ」といってその玉を握りしめていましたよ。「おまえも幸せになれよ」と。

 出陣に可部駅まで送っていくというんで、みんなといっしょに私も送っていきました。
 なぜか私の兄の出陣式はとても質素でした。後から聞いたら、それが兄の希望だったそうです。それでも一応みんな大きな声で言いました。「万歳!万歳!」ってね。日の丸の旗を持って。大きな幟(のぼり)に「山中正秋様出征」って書かれてね。みんな後から「万歳!万歳!山中さんの息子さん、万歳!万歳!」と大声で言って。私と兄は最後について歩いていました。だけど兄は駅まで何も言わない。ただ私に「よく考えろ」というようなことを言っておりました。

 母がいないということはいろいろ苦しいこともありましたし、戦争のことや周囲のことでは矛盾もあったし、困難なこともありましたけど、涙なんてこぼしてられませんでした。米はないし、もう朝から一家のきりもりでたいへんでした。父があそこへ取りに行け、ここへ取りに行けというようにね、お塩を頼んでいたから取りに行けとか、お米を頼んでいたから取りに行けとかっていうふうなことで慌ただしくて。兄にも慰問袋を送ったり、忙しいことはとても忙しかったです。でも、戦争に勝つまではという頭がありましたからね。いろんなものが、矛盾していて、なんだろうね、おかしいね、これが戦争というものかという疑問はありましたけど。でも、やっぱりそういうことを言うと非国民になりますのでね、いっさい胸にたたんでしまって、それでただ親の言う通り、ご近所の人の言う通りにやっていました。
                                 

 昭和一九年も末になると、どんどん若い人が戦争に行っちゃいましたね。同級生の男性たちも、予科練に入ったり、出征したり、自分から志願したりしてみんな兵隊にいきましたから、年寄りと子どもと女だけになってしまって。年頃の私としては面白くなかったです。
 よくやったことに千人針があります。寅は運が強いというんで、寅年の女性に縫ってもらった腹巻は喜ばれたんです。私は寅年ですから、千人針はよく縫いました。

 一九年の終わりくらいでしたでしょうか。米軍の艦載機が私の家すれすれに、通っていきました。たびたび来ていましたよ。四国の空襲の前後に艦載機が通っていきました。
 もう日本の戦闘機がすっかりなくなってからのことでしょうが、とにかくすぐ間近に、びっくりするくらい近くに、米軍の艦載機を見たんです。空襲警報が鳴っていたんでしょうけど、その頃はもう慣れっこになっていて、昼ですから防空壕の中から飛行機が通るのを見ていました。私の村が四国への急降下の起点になっていたんでしょうか。ちょうど村の真上から下りていくんですね。それですぐ近くに見えたんです。もう家すれすれですよ。私の家は柿の木の下に防空壕が掘ってあったんです。家と柿の木の間がちょっと開いていた。それで、艦載機がすぐそばに見えるんです。友だちといっしょに覗いて見てましたらね、艦載機のパイロットもちゃんと飛行機からこちらを見てるんですよね。恐ろしかったですよ。笑顔でね、ペラペラ、ペラペラしゃべってるんですよ。続けて来ました。編隊です。私が見たのは二〇機ぐらいでした。初めの機がたぶん後に来ている人と連絡したんでしょうね。あとから来た飛行機が、白いマフラーが飛んでて、ガムをムニャムニャ噛みながら「ハロー!」って。投げキッスをやられた。それがほんとうに悔しくて、悔しくてね。届くわけないのに土を投げつけました。父親がそれを誰にも言うでないと。昔は親の教えは絶対でしたから。
 飛んでいったあと、海の向こうの四国の方が暗くなって、ボンボン、ボンボン花火のような火と煙が上がっていました。赤い火がボンボンと上がって。それが私の家から見えました。父が「今の艦載機のあの野郎たちがやったんだ」と口惜しがっておりました。

 昭和二〇年(一九四五年)の三月一日でした。硫黄島で戦っていた兄の戦死の知らせが届きました。たまたまその日は母の命日でした。父は無言でした。特に長男に寄せる期待が大きかっただけに、父の悲痛な表情はいたたまれませんでした。人には見せたことのない表情でした。

 兄も戦死、兄の友人でもあった私の初恋の人も朝鮮で戦死、村にも次から次へと戦死の公報が続きました。戦争への疑問が大きくなっていきました。私は母のいない淋しさもあって、父によく反抗しました。「お父さん、戦争って人間が人間として生きれんね。戦争は負けるの?」とくってかかりました。父はしばらく無言でした。怒って叩かれるかと思いましたが、一言「胸にしまってくれ」と言いました。

 家の外にある五右衛門風呂で、父が「正秋、正秋」と兄の名を闇に向かって呼んでいました。
 もう一つ忘れられない光景があります。父が仕事から帰って、あまり音がしないので怪訝に思っていると、家の台所の薄暗い土間で一人茶碗酒を飲んで溜息をついていました。父の手許にはそれぞれの子供の月謝の納付書がありました。父の体臭でもあった、木の香りがしました。その後姿が、いまでも胸に焼き付いています。

 二〇年の七月の終わりごろでした。飛行機の爆音がしました。空襲警報が鳴らないで爆音がするんです。何事かなと思って出ますと、飛行機の姿が見えないで、爆音だけが聞こえて、ビラが吹雪のように舞い降りてきました。三回ぐらいありました。それは七色でした。短冊のような紙でしたけどね、短冊じゃない、色紙でもない、七色でした。それに金銀が入って。それが陽の光に反射しながらキラキラ空から降ってきました。私の田舎ではその頃はもう、年寄りと子どもと女としかいないもんですから、子どもが出て集めたんです。

 それを見ましたらね、「日本は負けますよ」ときれいな日本語で書いてありました。「アメリカは貴方がたの友達ですよ。仲良くしましょう」と。「貴方がたは直ちに戦争を止めるように天皇陛下に言いなさい」。それから、一番悔しかったのは、「広島は今まで空襲がなかったでしょう、だけどこのまま戦争を続けると新型爆弾を落としますよ」という部分でした。「戦争をやめないと貴方達も死にますよ」と。国民の神経を逆撫でするような内容の文章でした。

 だから私の田舎では、あとになって広島がたいへんなことになったとき、ひょっとしたらアメリカが新型爆弾を落としたんじゃないかってすぐ考えました。そういうビラを見ていたからです。そのビラは、銃後の国民として天皇陛下や前線の兵隊さんたちに申し訳ないと、全部太田川へ流しました。家に来たビラは、父が全部埋めるなり、焼くなりして処分しました。飛行機は二、三回くらい来てその都度まきました。文面はやっぱりそういった「日本は負けます。戦争を続けていると新型爆弾を落としますよ」といったものでした。可部っていうのは、島根県に近くて雪がけっこう降ってましてね、雪が深々と降り積もるような感じでビラが落ちてきました。それに「アメリカはあなた方の友だちです。戦争をやめないと殺されますよ」とか書いてありましたね。「退避せよ」とあったかは覚えてないんですけどね。今考えたらおかしいですけど、あれは、読んでもいけなかったんです。読んだりすると非国民になっちゃう。だから私はちょっと集めてそのつど盗み読んで、父もちょっと読んでましたけどね、とにかく読んで、太田川にどんどん流しました。

 広島市の太田川ではどうなったのか、下流のことはわからないですけど。田んぼのも全部拾いました。でも全部拾いきれなくてね。うちの田んぼからはそのあともよく紙切れが出てきてましたけどね。今思ったら考えられないことですよ。「あなた方が戦争をやめないと新型爆弾を落としますよ。新型爆弾を落としたら、みんな死にますよ」とそんな言葉がいっぱい。もう戦争がいやになることが書いてありました。それでもそのことはいっさい話題になりませんでした。私の村では、箝口令(かんこうれい)が敷いてありましたから。

                                    

 八月六日のその朝は、寝坊しましてね。いつもは五時に起きるんですが、その朝に限って六時に起きたんです。父はあの朝早く畑へ行って、後は私がやるという予定でしたから、父が行ってしまった油断で私は朝寝坊したんです。

 で、もう大急ぎで、六時半……弟が七時前に出て行ったような気がするんですけど。末の弟の幸彦(さちひこ)は当時一四歳で、崇徳中学校へ通っていたんです。二年生でした。電車で広島市内に通っていたので、いつも定刻に家を出ていました。その日は広島城近くの建物疎開の片付作業に動員されていました。爆心地から八〇〇メートルの距離のところです。でも、とにかくその日に限って朝寝坊したので、幸彦に「今日は休まん?」と言ったんですよ。「さっちゃん、休んでよ。ごめんね。今日寝坊したから、間に合うかわかんないから」って言ったら、幸彦がね、支度しかけていたんですけど、一度休む気持ちで座ったんですよ。そしたら、肋膜を悪くして寝ていた私の一つ違いの妹が、蚊帳の中から出てきて、「何よ、そんなことやってたら非国民になるから行きなさい!」と弟をヒステリックに叱ったんです。

 そしたら弟がピーンとなりましてね、「お姉ちゃん、行く!」と。もう止めても聞きませんでした。「やっぱり行く。お姉ちゃん、ごめん、天皇陛下に申し訳ない」と言って。大急ぎでご飯を弟だけ食べさせて、弁当に梅干しを入れて、ちょっとタクアンも入れて、佃煮を入れて、そして送り出したんです。

 今になりますと、妹がそういうことを言わなければ弟は休んで広島市内に行かなかった。学校へ行くと言っても、勤労奉仕ですから、建物疎開かで、炎天の下を働くわけでしょう。もし行かなければ被爆もせずに、生きてたんじゃないかっていう後悔がずーっとあります。妹は病気で神経質になっていたんでしょうけど、そんなことを言わなければ、幸彦が休んだのに、って今でも思っています。

 それでその朝弟が出るときのことですけど、ズボンを履いたらズボンに穴が空いていたんです。娘ですからよく繕いをやらなかったんでしょうね。しょうがないから冬のズボンを出して、冬のズボンとそれに合った革靴とを履いて、出かけたんですよ。その時に玄関に出てね、革靴が履きたくて履きたくて、いじいじしてもう帰ってからあんなに大事にしていた皮靴ですけども、なぜか革靴が履きたくって履いていったんですよ。それを家の中から履いて行きまして、出て、たたきでね、トントントンって、かかとを鳴らして嬉しそうに出ていきました。「行って来まーす」って。

 でもまさかそんなになるとは夢にも思わないですから。遅れるのを心配していたら、「お姉ちゃん、近道していくから大丈夫だよ」って言って、可部駅へ行きました。いつもの道よりか近道をして出ていった後姿は見ているんです。玄関から見送りましたから。必ず出る人を見送るというのが、うちの習慣でしたからね。どこか出かけるときには、必ず父を門先まで送らないとやかましかったです。弟もいつもと同じように見送ったんですけどね。暑かったです。太陽が朝からギラギラしていました。今日も暑いなって思いながら、見えなくなるまで弟を見送ったんです。田圃(たんぼ)道を駆けていく弟の姿を今でも夢に見ます。

 弟を送り出して、それから父がその頃食料難で二反の田を買ってにわかのお百姓をしておりましたから、田の草を取るっていうんで一回朝出たんです。父が草取りに行っていることはわかっていましたから。朝の涼しいうちにいつもそれをやるので、草取りをちょっと手伝って、帰って来ました。それからいつものように掃除をして洗濯をして、汗だくで洗濯物を干しているときでした。空襲警報がちょっと鳴って、飛行機が来たよっていうのは耳に入ったんですが、飛行機の姿は見えなくて爆音だけでした。爆音はよく聞いていましたので、あまり気にはかけなかったんですね。

 物干しは家の南の庭にあるんです。もちろん一階の。ちょうど南に広島の上空がよく見えるわけです。
 そこで、シーツやなんかを干しているときに、広島の上空でピカっと光ったんです。それがいったい何なのかわかりませんから、最初稲光かと思ったんですよ。稲光の強烈なもので、ピカーッと。あっと思ってるうちにすぐドーンっと足の下から風にあおられたんです。爆風がドーンと来て。太田川から吹き上げるような形で来ました。いくらも間をおきませんでしたよ。その時に私のうちの雨戸がバラバラバラっと鳴った音も聞こえましたけど、後はわかりませんでした。
 そして気がついたら、飛ばされて、尻もちをついていました。体はなんともありませんでした。洗濯物はちりぢりに吹っ飛んでましたよね。八時一五分頃、ピカって光ってドーンときたんですけどね。

 私の家の庭は見晴しがいいところなので、尻もちをついていても広島の上空がよく見えるんです。
 尻もちをついたまま見ていたら、黒い入道雲がもうモクモクと……真っ黒い雲でした。工場がよく焼けるでしょ、焼けてモクモクモクモクっていう、何か生き物みたいに、黒い雲がモクモク動いていました。墨を流したような形で盛り上がっていって、それでその下と上にね、夕焼け雲のような赤い雲がサーッ、サーッっと、下と上に。黒い雲の中で光が夕焼けの真っ赤なのが、サーッとありましてね。その上に黒い雲があって、その奥の方や後ろの辺にまたモクモクと赤い雲が見えました。

「あれはなんだろう?」って思って、洗濯物は方々へ散らばってましたから、とにかく洗濯物を片付けなきゃっていうんで、それで大急ぎで洗濯物を入れてまた見に出たんです。出てみるとやはり全体は黒い雲と夕焼けのような雲がモクモクしていましたが、真ん中あたりからサーっと白い雲が上がっていきました。その白いのがすごい勢いでずーっと上空へ上がっていったんです。
 だから黒と赤と白のすごい雲だったという印象があるんです。それでその白い雲が、見てましたらスーッと上に上がって、先が火の玉のように赤く燃えていました。

 それは黒い雲の中からじゃなかったです。黒い雲の中から白い雲が出た感じじゃなくってね、私の方から見ると、広島の方から、もうこの黒い雲と赤い夕焼けの雲とは別個に、白い雲がスーっと上がったように見えた。上はこう何かね、ギラギラギラギラしていました。赤い雲とは違うんですよ、白いのが上がって行きました。その先端はメラメラと燃える火の玉に見えました。稲妻が飛び交っていました。突き抜けてはいない感じです。黒い雲があって、赤い雲があってね、別のところからずっと白いのが上がっていって、この上が火の玉みたいだった。外側から出たように見えたんです。刻々と変化する積乱雲はまるで生き物のようでした。

「いったい何だろう、これは?」と思って茫然としばらく見てたんですけど、間をおかないうちに、すぐに白い雲がぐちゃぐちゃになりましてね、赤は消えて黒い雲で、その積乱雲みたいな、もうどうなるのかなと。もう雲が広島の町いっぱいに動いていました。
 時間が経つにつれて、ずーっと白い雲が散って……。赤い雲はもう見えませんでした。見ているうちに黒い雲が広島の町をワンワン生き物のように動いていました。

 のちに、隣のおばさんに聞いてみたんですよ。おばさんもちょうど見たって。「あんたの言うとおり、黒い雲があって赤い雲が下の方にあって、ちょろちょろっと見えて、赤い火も見えた」と。「おばさんはどうして見ていたの?」って言ったら、「障子にハタキをかけていた」と言うんです。かけているときに障子越しにピカって光ったから「何だろう」と思って、開けて、見たって。おばさんも黒い雲と赤い雲と、さらに白い雲がスーッと上がっていったのを見たと。だけど私が見たときはきのこみたいのは見ませんでした。

 最初に見たときは、白い雲が別のところから出て、私が覗いた時はまだ白い雲がありました。もう、どんどんどんどん白い雲が大きくなっていましたから、上の方へ行ってきのこ雲になったのかなと、おばさんと話したんですけどね。私の見たときはスーッと上がって上へ、ポンとこうあったんです。それで今度その空が気になるものだから、見たときにはさっき言いましたように、黒い積乱雲ていうんですか、よく真夏にねえ、あれのように昇って広島の空が真っ暗でしたから。その黒い雲が動いていました。その時は白い雲はわかりませんでした。白い雲がスーっと上がっていきました。で、先っぽにギラギラするのを見たんです。雲が積乱雲のようにうごめいていました。だから村は薄暗かったです。あとで広島で直爆を受けた人に聞いたら、一瞬真っ暗になったそうですね。それでだいぶ経ってからですけど、こちらも薄暗くなってきました。広島の方から風が流れてきたんですね。

 とにかく広島の上空は積乱雲ですごかったという印象しかないんです。その時爆弾だとは思わなかったですから。「何があったのかな?」というくらいでね。それはかなり短時間のことでしたね。
 近所は雨戸が外れたり、それぞれ異常があったみたいです。みなさん大急ぎで雨戸を閉めたりしていましたけどね。けれど、何しろ戦争につながるということでね、当時情報交換ということはしないわけですから、近所のことはよくわかりませんでした。

 村の人たちは年寄りや子どもが多かったので何があったのかなと私に聞くぐらいでしてね。裏のおじいさんとおばあさんなんかは「あんた若いんじゃけんね、何かあったらすぐ知らせなきゃ」と言って。だからうちの村でほとんどの人が原爆の雲を見ていますけど、そのことで話し合ったりということはなかった。とにかく箝口令(かんこうれい)が敷かれていましたから。
 それで私の家でも暑いのに全部雨戸を閉めて、鍵をかけて、それで妹がまだ熱が高かったですから、氷のうを取り替えてやったりしたんですけど、とにかく村が静かですから、「どうしたんだろう」と思って空ばっかり見て家にいました。

 村はひっそりとして、誰も出てこないんです。それで情報もない、シーンと静まりかえって。ただ「広島に新型爆弾を落とすよ」というビラを拾っていたので、ひょっとしたら新型爆弾を落としたかなあ、とは、ちらりとは思いましたけど。私の村ではピカっと光ってドンていったから、もうその六日にはピカドンて名前がついてました。言いようがないですから、ピカっと光ってドンていったからピカドンと。

 後から聞きましたら、広島の爆心から北へ直線距離で一五キロのところで見た格好になるんですね。ちょうど私の家辺りに茶臼山っていう山があったんです。太田川はその山をずーっと巻く形で広島の方へ流れて行ったんです。ですから、爆風がいったん太田川を北上してきて、まあ、一瞬の間ですけど、爆風がそれにあたって来たからちょっと弱っていると思うんです。茶臼山という山に当たって、その煽りをくったんだろうと思うんですけども。だけどやっぱり飛ばされましたね。爆風の来たガラス窓は全部ガラスが割れてなかったですから。雨戸がみんなヘンテコな形になったり外れたり、ガタガタになっていました。私は飛ばされて、一メートルぐらいか何メートルかはわかりませんですけども、とにかく尻もちをついて「何だろう?」と思ったんですけどね。

 父が九時ごろ戸を叩いて帰って来ました。「お父さん、何があったの?」と聞いたら「何かわからんけど異変があった。幸彦に何かあったらいけんから、広島にこれから捜しに行く」と言うんです。父は父で情報をちょっと集めていたようでしたね。ワラジを二足、腰へぶら下げて、弁当を持って尻はしょりをしてね、とにかく大急ぎで麦藁帽子をかぶって出て行きました。それが九時ごろでした。
 後から聞いたんですけど、村の人たちはみんな可部の駅までは息子や娘を迎えに行っても、その日直接市内に入った人はあまりいませんでした。
 あのころまだ九時ごろは市内が壊滅して電車はストップ、何も出ていませんでしたからね。その先へ行く人はほとんどいなかった。


「黒焦げで帰ってきた弟」 武田恵美子さんに聞く2

2016-08-30 | 第二集

被爆証言を遺そう!ヒロシマ青空の会 2集 武田証言

                                                        


         黒焦げで帰ってきた弟  ――武田恵美子さんに聞く――     



武田恵美子さん
生年月日●大正一五年(一九二六年)二月二七日生まれ (インタビュー時七八歳)
被爆当時●一九歳(家事)
被爆地●爆心地より約一五キロ/広島県安佐郡(現在広島市安北区)亀山村河戸の自宅


 
 だんだん不安が募ってきたんですが、弟が帰ったのは午後四時半ごろでした。自転車に乗せられて来たんです。
 弟は可部駅まで、太田川の下流の祇園(ぎおん)から折り返し運転していた残った電車に乗って帰ってきたらしいんですよ。その頃可部駅には自分の子どもたちや家族を心配して迎えに行っている人がいたんです。やっと可部駅に降りたらね、体がもうしんどかったんでしょうね、そこに子どもを迎えに行って待っていた近所のおじさん、水元さんのおじさんを見て「おじさん、山中の幸彦じゃけど、連れてってくれ」と言ったそうです。

 そしたら真っ黒だから「あんた、さっちゃんか?」って言ったら「はい」って答える。それでもう、おじさんも飛び上がらんばかりにびっくりしてね、「自転車で行くか?」っていったら「行く」って。それで自転車に乗せて、連れてきてくれた。弟は疲れきってたんでしょうね。知っているおじさんに家へ連れてってくれって自転車に乗せてもらったから、安心して、もう何にも言わなかったそうです。

 私たちはそのときぼんやり妹と二人で道路の方を見てたんですよ。もう家の中は暑いし、父もみんな出て誰もいない。近所からも出てこない。私と妹だけないしょで出て、土手にいたんです。心配でしたから。家から一歩も出ちゃならんというのですが、ないしょでずうっと土手で待ってた。ラジオも何も入りませんでね、誰もいない。そこへ下の方から誰か来るなと思って、見たら、水元のおじさんが何かうしろへ乗せて上ってくる。真っ黒のかたまりをね。

 おじさんのほうが動転しちゃってるんです。それで私に「おう、恵美子さんよぉ、さっちゃんだけどね、これさっちゃんか?」って言うんです。そんな変なことを言われても最初は全然その意味がわからなかったんですよ。「だれ?」なんてね。とにかく真っ黒のかたまりで来たわけですよ。体も何もどっちがどっちかわからないほど真っ黒なかたまりです。

 自転車から降ろしてもらうと、「恵美子姉さん、ただいま」と言うんです。それで次に言った言葉は「お弁当箱を捜したけどなかったよ」と。あのころは食べるのが命でしたから、そんなことを言ったんでしょうけど。「弁当箱なんかどうだっていいけど、さっちゃんなの?」って聞いたら「幸彦だ、ぼくだ」と答えてくる。声は弟と変わらない声でした。元気な時の弟と同じような声。その水元さんていうおじさんは「あっ、ほいじゃ、さっちゃんでよかったんだね、おじさんはこれがさっちゃんかどうかわからないから心配したんだけど、じゃあ置いていくから」って言うんで、おじさんはまた可部駅へ自分の息子を迎えに、戻って行ったんです。その子は弟より一つ上でした。その子はとうとう帰ってこなかったんですけどね。

 帰った時の状態、弟の火傷の姿をもう少し言いますとね、上半身は火傷とススで真っ黒。私も声を聞くまではわからなくて、気持ち悪かった。頭が焼かれてチリチリの火傷で。チリチリでも頭の上は何ともなかったですけど、顔は右と左で火傷の度合いが異なっていました。右の耳はもうなかったです。左の耳はありましたが、それも耳たぶのところにちょっと残ってぶら下がっていました。顔はもう全体が引きつっていました。目も腫れてね、顔はくちゃくちゃに焼けて腫れたり引きつったりしていて、目なのか鼻なのか、口なのかちょっとわからない。目というのがわかったのは、まつげが両方とも焼けて白くなっているんです。焼けたカスが白く付いている。その白いまつげがなかったら目はわかりませんでした。

 ですから、見えるのかと思うほど細い目をしていました。「さっちゃん見える?」って聞いたら「見えるよ、お姉ちゃん」って、白い糸のような目で見返してね。鼻はグショグショに崩れてわかりませんでした。口も腫れ上がって、鼻もそうですが、引きつっていました。ただね、口の中で「お姉ちゃん」って言ってるときに白い歯が見えるんで、そこが口だなってわかるような感じです。いまでも忘れませんよ。ぶざまなお化けみたいな顔でしたから。「さっちゃん、えらかったね」とほめてやったら白い歯を見せていました。

 本当にこんなことってあるのかと言われるけど、私が処置したんだから一番よく見ています。
 顔から下の方ですが、両肩が火傷でズルリっと剥けて、肩と肘のかたまりを両手に抱えていました。肘も剥けて、肩からずり落ちた肩と肘の肉を弟がこうひっくり返して手で持っているんです、皮もずるずる。もうちょっとよく見るとね、あれは骨じゃなかったかって言うんだけど、そこまではわからなかったです。とにかくツルンと剥けて、それを大事に抱えている。

 体から火傷の水がどんどんどんどん出ている。黒い水と混じって。だから肉のずれ落ちている肩と肘は黒くなかったです。あとは全部黒い雨で真っ黒でね。「お姉ちゃん見て、ここが痛いんだぁ」って言うときには、そこは黒い雨は流れてあとから体液が出てくるんですね。それでこうやって抱えるようにして手に持ってるんです。右は肉が大盛りでしたけど、左手は小盛りでした。

 その下からワカメというか、皮膚が垂れてきて、ぽたぽた、ぽたぽた、ずーっとあのつゆがしたたっている。焼けた皮がワカメみたいにぶら下がっているんですよ、五〇センチぐらい。ぽたぽたぽたぽたつゆを落とすんですね。それでもその肉のかたまりを両方の手につけているんです。私たちが邪魔になるから取ろうと思ったんですけど、絶対取らせませんでした。不思議な執着がありました。自分がそれを抱えていると元気になるっていう思い込みと言うか、希望を託していたのか、生きなきゃと思う意志をその肉にかけていたのかもわかりませんが。

 弟は、村に帰ってきた第一号なんです。私の弟が一番最初に帰ってきた。ですから村の人たちは、広島市内がどうなっているのか、状況を知りたがった。崇徳中学の弟がそんな黒焦げになってよく帰って来た、気力、精神力がすごいとみんな思ったらしくて。それで私の家にいっぱい村の人が集まってきました。みんな市内のことを聞きたくて。でも弟の姿にはみな一様に息を呑みました。

 みなさんが全部治療して靴を脱がしてくださったり、服も脱がしてくださったりしてね、ジャガイモを摺ったりして、手当てをしてくださったりしたんですが、その間、弟は直立不動のままでした。
「さっちゃん、座っていいんだよ」って言っても「みなさんに迷惑かける」って。兄弟で一番とんちもきく頭のよい子でしたから、みなさんに頭を下げて敬礼を繰り返し、その間もずり落ちそうな皮膚と肉のかたまりを抱えながら、「みなさん、憎いアメリカが広島に新型爆弾が落としましたが、ぼくは天皇陛下のために忠誠をつくします。天皇陛下のために頑張ります。みなさん今日はありがとうございました」ってお礼を言いましたよ。あのころ軍国教育っていうのは嫌でしたけどね、もう吐き気がするほど嫌でしたけど、あの精神力っていうのはどっからくるんだろうかと思うくらい、しっかりして言いましたね。そんな弟の姿に近所のみなさんも「天皇陛下もひどいのお」「こんな罪のない子に」「戦争は恐ろしいのお、神風は吹かんのか」と泣きながら、手分けしてズボンを脱がしていただいたり、敷布団にカッパを敷いてくださったり、ジャガイモを擂り下ろしたものを塗ってくださったりしました。

 いろんな人が弟に話を聞きました。「広島の街はどんなだったかいのぉ」って聞く人がいると、「広島の街は見ませんでしたけども、みんな火傷で横になっておりました」としっかり答えてね。「でもみんな頑張ってますから。だから戦争で負けてはいけないから、天皇陛下のためにみんな頑張っているから」って一生懸命言っていましたよ。

「火傷で死んだ人が多かった」と言う反面ね、そういう言い方で必死で答えていました。「ピカッと光って、ドーンっていったときには、あんたはどうしたんかい?」って聞かれると、周りで熱くてみんな焼け死んだと私にも話してくれたことを、断片的に答えていました。とにかくあんまりしゃべらしちゃいかんって、みなさんが服を脱がしたり靴を取ったりして、横にしてくださったんですがね。でも、自分で肉のかたまりを持っている手をどうかしようとすると、絶対触らせなかったです。「手はけっこうです」と言って腕でかかえ込んでいて。痛いだろうからって取ってあげようとなさった気丈なおばあさんなんかもいらしたんですね。看護士さんをした人が。でも、弟は「僕はこのままでけっこうです、ご心配なく」って言うんで、そのまま頑張っていました。どこまでも。

 上半身は真っ黒で、火傷でずるずるでしたけど、下半身は出かけるとき冬のズボンをはかせましたから、それが幸いしたんですね。ゲートルもなにもぼろぼろに破れていましたけれど、脱がしていただいたら、足はなんともなかったです。きれいでした。だから歩いて帰れたんですね。革靴もよかった。革靴を履いていたから、足も助かった。あれが地下足袋だったらやられている、歩いて帰れなかった、と言われました。革靴のところはきゅっとゲートルでズボンをしっかり縛りますでしょ、それが引っ掛かっちゃっていましたけど。当時はズボンの上に靴紐をしっかり縛り付けて、その上にゲートルを巻いていましたから、それが全体にくっついてしまっていたんですね。皮靴はパカっと口が開いてしまっていました。爆風か何かでしょうかね。それで、足に指がなかったんです。飛ばされたのか、焼かれたのか、歩いているうちに怪我してなくなったのか、そのへんはわからないですが、両方とも足の指はなかった。

 靴を脱がされて横にしてもらって、火傷によく効くというのでジャガイモをすりつけてもらってカッパを敷いて横にしてもらったときも、肉のかたまりはこのままこうやって持って寝ておりました。体液がポタポタしたたり落ちるので下へ雨ガッパを敷いたんです。
 私も兄と妹が弱かったので、わりに看病の道をちょっと本を読んだりして身につけていましたから、「さっちゃん、ここ痛いだろうから、位置変えてあげようか」って言いましたら、やはり頑なに「僕このままで、好きな格好で寝てるから」と言って離さなかった。

                                  

 弟が帰ってきてから、村全体が慌ただしくなりました。六時頃か、もうちょっとあとでしたか……空襲警報、ちょっと時間は覚えてないんですけど、もう暗くなりかけていたような気がします。空襲警報でサイレンは鳴る、半鐘は鳴る、そのときは防空退避と決めてありましたから、避難しなければいけなかったんですけど、でも、私の家は父がまだ帰ってきていないので、弟も動かせないから防空壕に入れませんということで、許しを受けて家に留まったんです。みんな近所の人は正直に退避してね、留まったのは私の家族ぐらいではないかなと思うんです。

 そのときは時限爆弾の警戒避難命令が出ていたんです。六日の夜中じゅう、時限爆弾が破裂するから退避せよと言って。私の村に原子爆弾の殻のようなもの--あとで聞いたら、たぶん観測器だろうということでしたが--二つ落ちたんです。それが時限爆弾じゃないかということで、そのたびに村にサイレンと半鐘が鳴り響き、村は上へ下への大混乱という状態でした。
 でもやっぱりもう弟を動かせないから、家にいましたけど。あれがいつ解除になったのかもわからないんですよ。
 家の前の道路も、六日の夕方からにわかに騒がしくなりました。市内からの負傷者がどんどん上ってきていましたし、村の国民学校が臨時の陸軍病院になったので、そこをめざしてどんどん人が集まってきていました。

 蚊帳を吊って弟を寝かしていたんですが、そのうちに原爆にあった者に何か物を食べさせたり、水を飲ませたりすると毒がまわって死ぬから、食べさせたり、水を飲ませたりしてはいかん、という伝言が隣組から回ってきたんです。私、デマだデマだと言っていたんですけど、それをデマと言ってくれるなと父を通して私のところに言ってきましてね。デマですよ、あれは。だって、火傷がすごかったですから。あれだけ水を出すんですから、どこかで補わないと。でも、そのデマで何もやるわけにいかなくって、ただ寝かせて……体液を取って。

 看病するといっても、何もすることができない。ただ、どんどんどんどん水が出るから、敷いたカッパを取り換えて敷きぶとんを整える、足をさすってやるくらいが、看病といえば看病でした。
 水が体からすごく出るんですよ。びっくりするくらい。カッパを敷かないと蒲団がびしょびしょになるくらいなんですね。
 あの火傷は、すごく水というか、リンパ液が出るんですよ。三日後に陸軍病院を手伝いに行かされましたけど、そのときも同じように水がすごかった。これはあとで話しますけど。
 水は出ているだけおっぽっておくよりしょうがないんですね。だって手のつけようがないんです。近所の人もね、来て下さる方は、蚊帳の中で熱かろうというんで団扇(うちわ)であおいで下さったり、扇風機をつけたりしてくれました。

 弟の真っ黒になった体にジャガイモを摺って、メリケン粉を入れて。あの頃は物がないのでみなさんがメリケン粉を入れてねばみをつけて、背中に貼って下さったんですけどね。でも、みんなずり落ちちゃって、役に立ちませんでした。ジャガイモがみんなずり落ちちゃって……。
 中から出るリンパ液と混ざってみんなボロボロになって。寝ている所にボロボロ散らばって。ジャガイモが腐ってとても臭(くさ)いのと、原爆のにおいとでものすごく臭かった。あまりに臭くって、みなさんみんな来ると鼻を背(そむ)けましたね。弟自体も臭かったですから。死人のにおいだと思っていましたから。死んだ人を焼く時のにおいが村でよく流れてくることがあるんですよ。それと同じだったので、「今日は死人のにおいがえらいするね」と言われて。いやでしたけどね。それにもっと強烈なジャガイモの腐ったにおいがさらに加わって。私も、弟にも父親にも言いませんでしたけど、吐きながら看病しましたもの。

 横になってからは、うわ言と正気を繰り返していましたね。もう寝かされてからすぐです、うわ言が始まったのは。すぐまた正気になると私に断片的に話をしてくれました。「どうしたの。聞いていいかい」って言うと、「いい」って言うから「お姉ちゃん、こうだよ、ああだよ」って言うんです。大まかな話で、どこの町を通ったの、橋はどうだったの、ってさらに聞くと、断片的ではありましたけど、またそれについて話をしてくれて。私も聞きたかったから聞き続けたけど、しばらくするとまたうわ言を始めて……

 弟は爆心地から八〇〇メートル、広島城のそば八丁堀で、建物疎開をしていたとき被爆したんだそうです。近くに八丁堀白島線という線が出ていたんですけど、広島城のすぐ東だと言っていました。
 弟が断片的に話してくれた話では、点呼をとっていたら空襲警報が鳴ったから、防空壕に入ったと。それからまもなく警戒警報に変わったからみんな出ていって、再点呼を始めた。「では、これから……」っていうので敬礼をしているときにピカって光ってドンと来たというんです。それでわからなくなったそうです。

 右と左の火傷の度合いが違うんです。恐ろしかったですよ。右の耳はなく、反対の左の耳は小さくなってぶら下がっていました。手も、左の手はややきれいなのに、右の手は手の甲の火傷がひどく、黒く爛れ落ちていました。腕も、二の腕から、肩から、肉が焦げてごっそりずり落ちるようで……それを抱えて。ちょうど敬礼をしていたとき、右上の方からもろに光を浴びたということなんですね。

 弟の話によると「ピカって光ってドンと来て、わからなくなった。しばらくしてあんまり熱いので気がついた。気がついたらもうみんな周りに転がってた」と。それで先生と生徒、みんな起きてくれって、起こして回ったけど誰も起きてこなかった。「それで僕ね、どうしていいかわかんないからどうしようと見回したら、お父さんの顔が見えた。お父さんの顔が見えたから、『ああ、お父さん』って言って抜けていったところが、火の層が立っていた」と。結局そこで火に囲まれた形になったんですね。でも、「そのあたりは火の層が薄かったから、出て自分の帰る所を見ようと思ったら、お姉ちゃん、広島の街、吹っ飛んでなかったよ。お父さんともはぐれた」って言いました。

「それからどうしたの?」って聞いたら、「黒いかたまりの人たちが来てね、それがサーッと来たから僕もその中に入って逃げた」と。弟はまだそのとき自分は真っ黒いと思っていないんですよ。相手の黒いのだけは意識しても。自分も黒焦げになっているということをそのときはまったく思っていなかったんですね。で、弟が言うのには、その中に入らざるをえないから、いっしょになってずっと行った、と。それでその時に「お姉ちゃん、地獄へぼくは堕(お)ちるよ」って。「どうして地獄に堕ちるの」って聞いたら「死んだ人の上、助けてくれーって言ってる人のところをみんなといっしょにその上を歩いて逃げた」って。

 崇徳中学校の生徒と先生が五一〇名そこに行ったんですけどね、六日の日に生きて帰ったのが弟と数人だけであとはほとんど全部死んだそうです。生きている人は三人だけとか聞きました。
 八時一五分に弟はそんなふうになって、それから黒いかたまりの一団といっしょになって逃げて救護所へ寄ったというんです。

 よく原爆展に出てますけど、臨時の手当てをする救護所へ寄って赤チンをつけてもらって、広島駅、横川を通って可部駅へ帰るんですけど、どう帰ったらいいかって聞くたびにまたバックして来たりして、相当余分なところを歩いたみたいですね。
「そのころ何時ごろだったの?」と私が聞くと、ただ「黒い雨に当たって痛かった」って言うんです。「雨が降ったの?」って聞き直すと「黒い雨が降った」と言うんです。真っ黒い雨が降ったそうです。それが「体に当たって、お姉ちゃん、痛かった。肩が一番痛かった」って言ってましたけど。「お姉ちゃん、あれはね、お昼過ぎてたよ」って言ったり。「いっぱい救護所へどんどん、どんどん人が来てね、兵隊さんが『帰るのはあっちへ行けっ、こっちへ行け』って言ってくれたから、ぼくはちょっと横道へ、ちょっと遠回りして来たよ」って言っていました。

 仰向けに寝られないので、後ろに置いておいた座布団にダラーンともたれて話し続けました。
「広島の街は一面焼野原、死んだ人たち、怪我をしてうごめいている人、血だらけの人で街は埋まっていた。道らしい道もなく、そういう人たちを踏み越えて逃げる人たちでいっぱいだった」「『助けて』『水、水……』『先生』『お母さん』『お父さん』とすごい悲鳴が倒れた家屋から聞こえていたけど、僕、何にもしてあげられなかった」「防火用水に人が山のようにうず高く重なっていた」と。

 そういうようなことを断片的にでも話すんですよ。ただ精神力でしゃべっていたようでしたね。「もうあんまりしゃべると体に悪いからもういいよ、またあんたが元気になったら、お姉ちゃん聞くからね」って言ったんですけど、また話し続けて……。うちの子どもたちはつねにその日にあったことを親に報告するように義務づけられていたんですよ。何があったかというようなことを、あらかた言わないと。とにかく、もういいと言うのに、しゃべり続けましたね。

 普通に歩いたら、広島城の東から亀山村までは約一五キロですから、四時間以上かかります。帰りは上り勾配ですし、ましてあのように重傷を負っていたら、二倍の時間がかかっても不思議ではありません。横川から可部線が分かれて出ていて北上するんです。横川から可部まで電車で三〇分ですから。
 すでにずいぶん遠回りをしてしまっていたみたいですが、まず横川へ出るのに、広島には七つの川が流れていますから橋を一つ渡らないと横川に出れないんです。その橋を渡ろうとしたら、橋はもうなかったと。ない代わりに「お姉ちゃんね、橋より高く人が埋まってた。水面が見えなかった」と言うんです。それにみんなが上がって行くっていうんです。で、僕も横川の駅に出たいから、みんなといっしょに悪いけど登っていったと。ところが、私の弟は革靴で滑って転んだもんですから、下へストーンと、川の底に落ちたわけです。「橋は渡れないから、人の上を登っていたら、滑って落ちた。下からひょっと見たら、電車の鉄橋が壊れていたから、それへ登って。時間がかかったよ、だけど渡って来た」と。そのときに「お姉ちゃんね、僕、水があったから水を飲もうと思った」と。でも、水を飲みたくても手がこういうふうだから、思うように飲めない。だから結局飲まないで来たそうなんです。

 だけど、また途中で我慢ならんから水を飲もうと思って来たら、トタンかなんかわからないですけど転がっているところに水が溜まっていたと。「その周りに、おねえちゃんね、人がいっぱい死んでたよ」と。でも水があったから飲もうと思ってしゃがんだら、真っ黒いボロボロの男の子と女の子が三人来て「お兄ちゃんどいて、ごめん」って言って、弟を突き飛ばした。「先に飲ましてー」って言って飲んだそうです。そしたら飲んだ子はそのまま首を突っ込んで死んでしまったというんです。「僕ね、お姉ちゃん、それを見たら、飲めなかった」と。

 で、横川に着いて、横川から可部線の線路に出たそうです。そしたら、市内といっしょだったって。「横川の駅も線路もメチャメチャだった。横たわった人がいっぱいで、みんな呻いていた」って言ってました。「線路の上にみんな倒れていて歩くところがなかった」と。「助けて」とかいろいろ言っていたけど、どうしてあげることもできなかったし、人の死んだ上や、生きている人の上をどんどんどんどん走って行った。倒れている人の上をみな歩いていたって言ってました。

 横川の次が三滝という駅なんです。その三滝に崇徳中学校があるんですが、「三滝にね、電車が二台止まってた。お姉ちゃんね、すごいよ。赤とも黒とも何とも言えない幽霊電車だ。その中から窓という窓には死体がぶら下がってた」と。
 とにかく家に帰りたい一心で線路の上を歩いているうちに、赤ちゃんが火のついたように泣いていたから見たら、裸で死んでるお母さんがおっぱいをあげていたっていうんです。死んでもおっぱいが出てたって。やっぱり、自分が母がいなかったからその点は敏感に感じたんだろうと思うんですけどね。死んでもまだおっぱいが出ていた。お乳のまわりが白かった。それで赤ちゃんが泣いていたから、手は使えないので足で赤ちゃんの頭を上げてやったと。そうしたら、赤ちゃんがこうやって乳房を口で押して乳首を探したけど、乳首が自分で見つからなかったって。だけど、僕はそれ以上できないから、そこを離れて歩き続けたって。

 途中でまた親切なおばさんが「暑いだろうに」「痛かろうに」と言って白い襦袢を掛けてくだすったって。「嬉しかったよ」って言ってました。帰ったときは、その白い襦袢をしょってましたけど、白い襦袢も真っ黒で背中の火傷の中にみんな食い込んでいましたけどね。白襦袢が真っ黒になってるんです。凄かったですよ。
 運よく祇園かその辺りから電車が折り返し運転をしていたんです。古市橋かな。そこから電車に乗って。古市橋の方は、私の記憶ではあんまり原爆の影響は受けていないんです。爆風とか何かあったかもしれませんけれど、うちの方とあまり変わりませんでした。とにかくもし電車に乗っていなかったら弟は途中で死んでるんじゃないかと思います。

                                   

 近所の人はありがたかったですね。ジャガイモをはじめ、いろいろな物を持ってきてくれました。ふだんは隠している人がわざわざ持って来て下さった。人間って嬉しいですね。あんなに物がなくておジャガなんてとてもないと思ったけど、みごとなおジャガが集まりました。そしてさらにお見舞いだといってパイナップルやバナナやそれからリンゴ、缶詰メロンと、ありとあらゆる物をいただきました。うちにはそんなもの何もなかったですから。けっこうあるもんですね。いざという時の人間のヒューマニズムというか、それはありがたかったです。

 私は父に「お父さんパイナップルすごいね、パイナップル食べられてすごい」「あれはな、ハワイに親戚がおってじゃけ、送ってきたんだ」とか父は言ってましたけど、バナナもありましたよ。
 ただね、それを食べさせると死ぬと言われたので、ただ枕もとに飾っておくだけです。原爆に遭った者に何か物を食べさせると毒がまわって死ぬというので、何もやるわけにいきませんでした。

 母が生きていたら、それらを弟に食べさせたんじゃないかと思っています。食べさせたら死ぬと言われたけど、今から思うともしあのとき食べさせていたら、まだ生きてたんじゃないかなと思います。バナナもあったしリンゴもあったし、あんなにいろんなものをいただいたんですから。
 あとからわかることなんですが、あの時デマに惑わされず、どんどん水を飲ませた人は助かっています。水を飲んで吐いた人が助かってますよね。あれだけ水を出すんですから逆に入れてやらないと、脱水症状になる。そのことはとても後悔しています。

 夕方から表がにわかに賑やかになっていたんですが、広島から逃げてくる人たちが夜になってさらに増えてきました。もう行列です。夜中じゅうずーっと続きました。
 村はまだ、騒然としてました。半鐘が鳴ったり、警報がスピーカーから出たりしていましたけれど、とにかくぞろぞろと人が来ているんで、びっくりしました。私のところは少し高台の、太田川が展望よく見えるところでしたから、ちょっと窓から見たら、被爆者の行列がずーっと、家の前を通って小学校へつながっていました。

 六日の真夜中でしたか、一二時前だと思います。弟を看病していたら、家の外がばかに明るいんですね。それから、わんわんわんわん声がするんです。こわいから外へ出なかったんですよ、しばらく。何かもう恐ろしくてね。でもあんまり明るいし、わんわん声がするので、何事かと思って表へ出てみると、雲の火の玉が私の村の上に来てたんです。膨張して、大きな風船みたいになって……。家の真上に火の玉みたいなでっかいのが、手の届きそうなところに、メラメラメラメラ、真っ赤でしたね。七色の色で火の玉が。雲がポーと上に上がって。それが風にのって、私の村にちょうど来たんです。もう家で退避も何にもできないのでね。もうどうなってもいいとあきらめていましたけど、そのうち消えてしまって……。

 たぶん、広島市内の火事が、広がってきた雲に映ったのか……。わんわんする声は、人の行列がその頃もっとすごくなっていましたから、それが垂れ込めた雲や山の間の川面に響いたのか……とにかく不思議な現象でしたね。こわかったです。真っ赤で遠くまで見渡せました。
 不夜城のようでした。太田川の土手を避難していく被爆者の行列がえんえんと続いていくんです。火傷と体液で黒光りした体に毛布をはおり、チリチリに焼けた頭で海坊主のような怪物にも見える行列が、真っ赤な夜にくっきりと浮かび上がっていました。火車のような夜の空の下の、死の行進の光景は凄惨そのものでした。川面に黒と赤の影を落としていました。地の底から湧いてくるような呻き声が夜どおし続きました。

 父は夜中の二時頃帰ってきました。九時頃出て行って夜中の二時に……。
 それまでずっと弟を捜して歩いていたわけです。父の手に、中学校の記章が握られていました。学校の帽章を父が何個か持って帰りました。三滝の中学校にも行ったそうです。前の晩、弟に「どこへ行くんだ」って、お風呂に入って聞いたそうですよ。そしたら「広島城の東の所へ建物疎開に行くんだ」と言ったと。ですから、父は八丁堀へ行ったらしいんです。

 ところが、もうね、「お父さん、広島市内はどうだった」って聞いたら、言いたくないって怒ってましたけどね。現場へ行ったことは確かです。火事がすごいところもあったから大回りしてやっと帰ってきた。わらじなんかなくなっていて、はだしで帰って来ました。
 弟が戻っているのをまったく知らなかった。それで、もし死んでいたら、ひょっとしたらその死体なのかもしれない、と、そばにあった中学校の帽章を持ってきたんですよね。
 でも帰って来ていたので、もう、びっくり。大喜びして。弟も喜んで「お父さんどこに行ってたんだ」と。その時は正気に戻り、父親とちょっと話をして「お父さん、心配せんでも元気になるから」と言って。父が「よう帰ってくれた、ありがとうよ」と顔をクシャクシャにしていました。

 でもそうしているうちにまたわからなくなって、うわ言のほうが多くなった。弟が何を考えているのか支離滅裂になってきて哀れでした。それまではまだ正気で話すのも多くて、断続的に続いていたんですけどね。それからは逆になって教育勅語とか「勝ってくるぞと勇ましく」とかね、君が代とか大きな声で歌ってね。天皇陛下万歳とか言ってました。それで、寝てても直立不動のマネをしたり、これはもうすごいですね。でも、ときどき間にふっと正気に返るんですね。

 翌日は弟の容態に別に変化もなかったです。ただうわ言を繰り返して「水をくれ」と言う。痛ましいほど水を欲しがりました。自分で焼け爛れた口に水をすする音を立てるんです。シュルシュルーという音を立ててね、ス、ス、ス、スッとすすってね。「水、水」と言う。その声が元気なんです。「天皇陛下万歳」とか「水」とか言う言葉の音が高いんです。弟の声はだいたい高い方でしたから、声はばかに元気だった。だから弟が死ぬなんて思いませんでした。父も言っていました。「声が元気だから、死ぬとは思わんかった」ってね。
 七日はやっぱり弟についてました。変化があったらいけないからというのと、情報を聞きに来るお客さんが多かったので。

 七日も、八日も、もうどんどんどんどん、私の家の前はとにかく被爆者の行列です。
どのように設置されたのか私にはわかりませんけどももう六日の夜には小学校が病院になって、それからはみんなそこへ列を成して続きました。トラックでもたくさん連れて来ていました。ずーっと行列は続きました。

                               

 八日でしたか、よく覚えてないんですけど、私は急に、行方不明の従姉妹を捜しに広島市内へ行くことになったんです。女学校へ行っていた従姉妹が戻らなかったので、近所の方と組んで捜しに行ったわけです。父に看病を代わってもらって。弟の看病といっても、足をさすってやるくらい、下を取り替えるくらいでしたからね。私と父と近所のおばさんとが看ていましたから、その間、私が父に代わって、従姉妹とか広島の親戚の人を捜しに行ったわけです。
 一人では行かれませんし、危ないので、四人で組んで行ったように記憶しています。男の人が二人、初老の男性もいましたか、それから女の人が二人、村の中でちゃんと組んで行きましたけれどね。女学校に関係のある人とか、すぐ近くの崇徳に関係のある人と組んで行ったんですけど、私も暑いですから赤い花柄の日傘をさして行ったんですよ。

 だんだん市内に入って行きますと一面焼け野原ですから、そこにまだ人の死体ももういっぱいありました。倒れた家の板の下にも。猫とか犬とかもいっぱい死んでるんですよ。馬もちょっと見ましたけど、馬の死んでるのはすごいですね。大きな腹ワタが飛び出して全身ウジだらけ。恐ろしい形相で死んでいました。猫とか犬とかの死骸は、熱い火でカリカリに乾燥してハエもウジもたかってませんでした。その隣りにある人骨らしきものには、ウジがいっぱいたかっていましたけど。

 横川の駅に立って宇品の海が見え、四人とも感激しましたが、見渡す限り焼野原になってしまっていたのには驚きました。市内は家族を捜す人々で溢れていました。
 まだ死体が続いたまま片付けていないところを通ったんですよ。その辺りは家なんかなかったです。道らしい道もなくて、そこに死体がずっと連らなっていて……重なって……手や足がいっぱい出ているところをトントン歩いてね、それを踏みつけて歩いていくと、手や足が取れたり折れたりするんですね。忘れられませんね。それでもその頃はもう死体がすごいのに慣れてしまって、平気でした。

 三篠(みささ)橋か相生橋かちょっとわからないんですが、半分橋が壊れて半分残ってそこを歩けたところがあるんです。長い橋が縦に割れて、落ちているんですが、半分はなんとか形を残している。そこを歩いていった時に、その橋桁に、自転車がそのまんますっぽりはまっているんですよ。めり込んでいるんです。ばっと入っちゃってね、人もぺシャンと押し付けられているんです。入っちゃった人の体にウジがわいて、ウジのかたまりで盛り上がっていました。もうあのときは広島の町はウジとハエだけでしたから。自転車がめり込んでそこへ死体もぶっつけられて、全部にウジがわいて。私はもうたまらないから、手袋をしてウジを落としましたけど、いっしょに肉片も落ちました。いったい自分が何をしているのかわからなくなりました。

 母校の安田学園にも行きました。でも、情報はわかりませんでした。母校は焼けてしまってね、なんかもう情けなかったです。四人とも気分が悪くなり、吐きました。
 川へ捜しに行った時に兵隊さんが川に浮かんだ死体を引き上げているんですよ。引き上げるのに、長い竹に鳶口っていうのを入れて引っ掛けてるんです。だけど、引っ掛けて上げてきても引き上げる時に首がみな落っこちちゃう。首のないのが上がってくるんです。首がついているのは、ちょっとの間です。これが人間の尊厳か、これが人間かと思ってね、私、橋のどこかで大声を上げて泣いた憶えがあるんですよ。後から首は首だけで引き上げてくるわけですよ。その首に、目とか鼻とか口の穴までみな、ウジがいっぱい入ってました。広島の町はもうほんとうにハエとウジの町でした。
 いっしょに行ったおじさんが「戦争はいやだ。ハエやウジにまみれて死ぬのはいやだ。天皇陛下もいらない」と男泣きしました。

 結局消息は誰一人つかめませんでした。みんな吐きながらいたたまれなくなり、正午で切り上げて帰りました。
 人間の尊厳というものは何なんでしょうね。ウジやハエがたかるようじゃ人間じゃないですよ。私つくづく生きる希望を失ったことがあります。初恋の人のお嫁さんになりたくて、その人と許嫁になってお嫁になることを想い描いていたのに、その人も戦死。それこそ、オーバーに自殺しようと思ったほどです。たまんなかったですよ。人間がバタバタ死んでいくしね。村の人でも息子が帰ってこない、どこそこのおじさんも帰ってこない。帰ってきた人はほとんどいなかったですよ。皆、どこで死んでいったかわからない。それがほとんどでした。これが戦争だ、兄の言っていたことが正しかったとつくづく思いました。

 小学校を臨時の陸軍病院にしたので、その間にも被爆者の人がどんどんどんどんそこに運ばれて来ました。便利な所でしたから。太田川の土手を私の家の前を通って逃げて行く人や、トラックで運ばれる人がその病院へどんどん入っていきました。
 入院患者が多くなって人手が足りない、看護兵・看護婦が必要だから、村から人手を出せということで、村に人員が割り当てられました。割り当てられてもみんな年寄り子供でだめですから、結局若い者に回ってくるんですね。
 私だけではないんですが、それで、九日の日でしたか、午前と午後に分かれて当番が決まったんですけど、一日出ました。弟が死ぬまでに二回ほど国民学校に手伝いに行きました。午前と午後の部に分かれてましたけど、隣組の代表ということで行ったんです。そのときには、運動場にはトラックが来て、これは男性病棟、これは女性病棟って振り分けてましたけどね。運動場にすでに人がいっぱい死んでましたよ。ハエとウジがたかって。生きている人もいましたけどね。死体置き場は満員でした。

 弟が死んでからも病院には手伝いに行きましたから、延べにすると一週間くらい行きましたでしょうか。
 男性病棟、女性病棟に分かれていましたけど、私は男性病棟へ行くように言われたんですね。いっぱい病棟がありました。学校全体が病院になっちゃったんですから。何にも聞かず、軍医が、山中さんはここの当番ですから、ここの病棟でやれって言うんで、行かされて。そこには女性は私一人しかいませんでした。そんなことをやるのは初めてでしたから、とまどいの連続でした。とにかく驚くことばかりで。

 まず革靴がビチョビチョになるほどみんなの液体が流れ出て、教室の中がビショビショでした。膝から下が全部ビショビショになるほどでした。リンパ液がすごいわけですよ。ダラダラダラダラと、ローソクのロウみたいに流れてるわけですよね。その中でまた耳をほじくったり動いている手がもうすごいんですよ。初めはもうこわかったですよ。それでおろおろしていたら、軍医さんが「尿瓶(しびん)持って来い」って怒鳴るんですよ。みんなほとんど座ってる人でした、板の間にね。

「尿瓶持って来い」、「はい」と言って。看護婦に間違われてるんですね。事情をよく知っていて、てきぱきできるもんだと思い込んでいる。勝手がわからないですから、もたもたして、辺りを見回しても尿瓶なんてものは何もない。尿瓶がないから軍医に聞いたら、缶詰めの缶に針金を付けたのを突き出して「これ持って行け」と言う。びっくりしながら「はい、持って来ました」と行くでしょ、そしたら「ばかやろう、何してるんだ。当てろ」って言われて。で、みんな真っ黒でしょ、どこに当てればいいかわからないから、また軍医の所へ行って聞いて。「どこへ当てればいいんですか」と。すると「どこでもいいから当てろ」って。それで、その辺に缶をポンポンと当てろと言われるので、そうすると、もう男の人はそこからオシッコが出るんですよ。そのオシッコが首の方から出てみたり、横っちょから出てみたり、まともなところから出て来なかったです。オチンチンが伸びてたんです、焼けて。

 火傷で消えちゃってる。先っぽがどこにあるかわからないですよ。みなさん火傷でまっ裸ですから、まともなところからオシッコが出ないんです。こっちの下から出たり、背中の方から出たりね。どうかするとビューと上がってきて、何回も顔にかかりました。火傷でリンパ液がどんどんどんどん出てますから。ウジとハエは体中ついてますしね。
 黒焦げの患者さんなのに、あちこちで手を動かしている。しきりに動かしているんですね。何でみなさんが手を動かしているかっていったら、頭や耳にウジが入っていて痛いから取るっていうんです。指を突っ込んで、みなさん上手でした。必ず一匹ずつ出して。口からも鼻からもね。「ハエが刺すよう、ウジが咬むよう」と呻いている人がほとんどでした。
 その人たちはもう死なれましたけどね。結果的にそこへ収容されている人たちは全部亡くなりました。誰一人生きていません。

 口の中にウジが湧くともうだめと言いますか、あとで軍医から聞いた話なんですけど、動物というのはカンが鋭いものでこの人間に栄養がなくなったと思うと出て行くんだそうです。結局ね、動物はだめだと感じたら出るんだそうです。だから口から出て来たというのはもう生きてない証拠。ウジに言わせれば、ここにいたら自分の命がなくなるというんで外に出るから、軍医なんかも、おっぽっとけということでした。むろんそのあとも何日間か生きましたけど、もう口から出るようになったら、まもないということでした。足はふやけていましたけど、みんなそれぞれがウジを取っていて、その手が動かなくなったら死亡ということ、自分で取る力がなくなったら、死亡でした。ウジを取る手がぴたっとやんだら、軍医がもう死亡と書くんです。そうすると毛布を持って来まして、包んですぐ渡り廊下に出しました。実際もう、死んでいましたね。
 陸軍病院にはまだあとで何日か働きました。患者さんたちを介護しながら、そうしたことをずっと見ていましたね。とにかく弟を看たり、訪れる人に対応したり、市内に行ったり、陸軍病院に手伝いに行ったり、猛烈に忙しかったですね。

                                
 人は技術屋で無線のすごい腕を持ってたんですよ。東京の専門学校を卒業して父親のいる上海に行って無線技師として働いていたところ、現地で召集されて、幹部候補生になったとか。終戦後、主人は一年遅れて安浦に引き揚げて来たそうです。
 電気技師としての腕はすばらしくよかったんです。テレビなんかでも直すのが器用でしたから。ちょうど私が結婚するころは電気屋をやっていたんですよ。二三年のころは。

 昭和二八年から、主人は無線の技術を買われて、広島の図書館からアメリカ大使館に引き抜かれたんです。それで東京に移りました。どういうルートで引き抜かれたのかよく知らないんですが、なんかその頃は、アメリカ大使館に勤めてるってことは言っちゃいかんよと、言われてましたね。大使館の同時通訳と技術畑を一手に引き受けていました。
 子どもが生まれる時になって初めて、原爆の話を主人にしました。やっぱりね、子どもが生まれた時に、原爆のせいでどこかが不自由な子どもができたらどうしようかって、その思いたるや、もう深刻でしたから。それは主人にしか言えないでしょ。
 それまで原爆ということは隠してましたけれど、主人に「原爆でこうだったからね、戦争はいけない」って、まあ主人にしか言えないでしょ。ですから結局言いました。お腹に赤ちゃんができたら、話さざるを得ませんよね。
 戦争の話をすると、主人も告白してくれて。「俺も、お前だから言うけれど、部下からチャンコロを突き刺したことをしょっちゅう聞かされた」って。主人は兵隊に入ってトントンと上がってね、位が上がっていったんです、伍長、軍曹、士官候補生……とね。。軍ですから、私に言えないこともずいぶんあったみたいでね。

 主人は「原爆は正しかった」とは、言いませんでしたけれども「日本もやったんだからしょうがないよ」というような解釈でした。主人も実は心に大きな傷を持っていたんですね、今考えると。そのときはでも、原爆を落とさなくっても負けるのは決まってるじゃないかと主人に反発したんですけどね。「原爆は絶対にいけない」と言うと、主人もしまいにはうるさそうな顔をして「お前の好きなようにしたらええ」と言っていました。私も昔の女のタイプです。自分の青春は戦争で真っ黒けでしたからね、結婚と言ったって、顔も見ないで結婚した。主人はハンサムでしたけど(笑い)。ですから、青春が戦争で彩られているだけに、なおさら、いろんなことが、原爆と弟に傾いていったんじゃないかなって思うんですよ。

 幸い、ほんとうにありがたいことに、健康な子どもに恵まれました。恵まれたことをほんとうに感謝していますね。我が子はあんな原爆で殺したくないと、主人に内緒で戦争の歴史を勉強しましたが、姑に取り上げられました。姑には被爆のことでチクチク私の父に告げ口されたり、つらかったですね。
 主人はお酒が好きだったせいか、脳血栓で一度倒れて、体が不自由になったんですが、アメリカ大使館から来てくれって言われて、私がよく付き添いで行きましたね。大使館の人に、「日本人は意見を持たない、バカだ」って、いろいろ日本の悪口とか聞かされましたけど。一番可愛がってくだすったのがライシャワーさん、あの人はすばらしかったです。

 そのあとも主人に「原爆はいけない。戦争はいけない」って言いますでしょ。すると「うん、うん、そりゃいかん」って。「お前は身内も被爆していちばんわかってるんだから、運動がしたかったら、していい」って言ったことはあったんですけどね。そう言いながらも、私が何かやるとすぐ主人が彼の両親に電話を入れるんですよ。とにかく主人は両親の言いなりでしたから。主人の両親が死んで、まもなく主人は昭和六〇年に亡くなったんですよ。身体障害者になって、脳血栓になって、最後はまた脳血栓ですけど、ただ家で死んでくれましたからよかったんですけども、三度目はだめでした。苦労しました。

                              

 それで一人になって、さて何をしようかと、いろいろ考えて、原爆禁止の運動の方に行ったんですね。
 子供たちはその運動へ行くことをある程度理解してくれていました。ただ健康だけは心配してくれてね。
 それ以前、東京から神奈川に転居して、長男が小学校三年生の頃からさらに娘、次男のPTA活動を通して地域の活動に参加させていただきました。すばらしい人たちに恵まれてお母さんたちの手で市からいろんな要求に応えていただきました。市の保守的な壁もなんとかみんなで突き破って……。

 主人が亡くなってからいろんな原爆の大会によく行きました。運動に参加するようになって、広島以外で参加するとき原爆手帳があるとずいぶん違うことを痛感するようになりました。発言の重みがちがうんですね。主人が三度目の脳血栓でちょうど六〇年に死んで、六一年に、四十九日も終わって一周忌も済んだので、広島に行って、被爆手帳を取りたいと思ったんです。そうしないと被爆者のことが東京や神奈川で身を入れてできないと思ったんです。運動に参加する上で必要を感じたわけですね。

 八月の二〇日までに広島市内に入った人は原爆手帳をもらえるという規則があとでできていたんです。私もそのときまでに何回か入っていましたから、取れると思ったんです。
 それで、広島へ行って被爆手帳を取りたいと思って行ったら誰も証言してくれないんですね。妹も父も死んでいましたから。親戚、おばやら従姉妹はどうして証言してくれないのかって聞いたら、下手に証言したらあなたの被爆手帳を没収しますよという噂が流れた、というんです。

 納得できない気持ちで、先輩に会いに行こうかなと思いながらお友だちに「明日帰るからね、また来るからね」って言った帰りのことでした。ちょうど小学校の恩師に会ったんですよ。いろんな話をして「証人になってくださる方がいないんです」と言ったら、「あんたはね、生真面目なほうだから」と先生がおっしゃってくれて。陸軍病院の看護婦さんとして介護に出ていたときのことをよく憶えていてくださって、「一番よくやった」とおっしゃってくださった。自分でそんなの憶えていなかったんですけど。
 で、もう一日泊まっていけと言うんです。「私が何とかしてあげるから」っておっしゃるんです。それで恩師が市役所へ行って直接交渉してくれたんです。その恩師は被爆手帳を持っていないんですよ。手帳を持ってないんだけども、交渉してくれた。女の先生でしたけどね「どうして先生は手帳をお取りにならなかったんですか」ってたずねたら「山中さんね、私はね、いろんな婦人の団体の役員をしてるから、別にとらんでも、みんなが被爆者と思うてやってくれるから、いいんです。だけどあんたと私じゃやっぱり違う。あんたは広島の外にいるから、やっぱり必要だ」と。「ちょっと待っていて」って、手帳をもらって証人になってくれたんです。で、市が認めてくれて六二年に早々と手帳がおりました。

 川崎ではわりに原水爆反対運動が活発でした。手帳をいただいたので、じゃあ仲間を集めて、みんなで運動を盛り上げようと思ったら、やっぱりそうはいかなかったですね。運動の会のなかでも一部の人が牛耳っていたり、見栄でやってるような人も少なくなかったですから。名前のみの人もありましたしね。
 手帳をもらって神奈川県被災者の会の委員を五年くらいしましたが、いろいろな団体や政治団体と絡んでしまって、純粋な思いが伝わらないことが多いんですね。それがひじょうに残念なんです。
 
 被爆の会の人に会うと「あなたは考えすぎなのよ、考えたってしょうがないじゃない、どうすることもできないんだから」と言われるけど、やっぱり弟のことやあの頃のことを思い出すと、つらいんです。弟の姿を思い出すと、これでいいのかって。

 この年頃になって、いつのまにか弟が、自分の中で子供になったんですよ。夢で。私、今七九歳ですから、一四歳で弟と思っているうちにいつかしら自分の子供のようになった。今でもやっぱり夢に見るのは「お姉ちゃん、あれだね」ってけらけら笑ったりするあのときの表情のままなんですね。それがあまりに鮮やかなんです。我が子と思うようになりました。
 それと広島にたびたび帰りますけどね、広島の街をまだ満足に歩いたことはないです。わかります? 足の骨の上とか、腕の骨の上を歩いてポキポキ折れる音を聞いたそのときのことを思い出したりするんです。それがこわいんですね。私の足の裏が覚えているんです。
 そのこわさが私の体に残っている限り、弟の顔を思い出す限り、私は原爆の現実をもう二度と人々に味わわせてはならないことを痛切に感じるんです。弟がどこかから呼びかけているような気がして、私を原爆や戦争を繰り返してはならない運動に駆り立てていくんです。

 平和行進も八年間、県内通し行進も一三日間やりぬきました。私の一歩一歩が殺された被爆者の供養になればと、広島の原水禁世界大会にもたびたび参加しましたが、でも広島にはたいていあまり泊まらないで帰ります。親戚や従妹の墓があっても、骨がないので、辛くて縁遠くなりました。広島の街は夏でも足許が冷たいように感じて、行きたいところもあるのですが、足が向かないのです。人骨の上にあるような、ウジとハエの街の記憶があまりに強いのです。懐かしいですが……。今はただ戦争反対の立場から小学校や地域の証言活動をしております。


 広島原爆ドーム

           (二〇〇五年二月一三日/神奈川県秦野市・喫茶店「田園」にて/聞き手●寺田智・五十嵐勉)
   


 

広島市北方略図

2016-08-30 | 第二集

被爆証言を遺そう!ヒロシマ青空の会 2集略図




編集後記

2016-08-30 | 第二集

2集 編集後記
 
編集後記  ヒロシマ青空の会

●明るい未来が約束されますように……

                                                北門千恵
                                              (40歳/主婦)
 六年前の夏の日、初めて見た痛々しい姿の原爆ドームと、あの日の惨禍を今に伝える平和記念資料館の遺品の数々に、私は強烈な印象を受けました。こんなにも戦争や原爆が悲惨なもので、今の平和はたくさんの犠牲の上に成り立っていたものなのだと。関東に住んでいた時には無関心でした。それからというもの平和について関心を持ち、「ヒロシマ」を知りたいと思うようになったのです。そんな時に、この会と会発行の証言集を知りました。
 今回初めてお手伝いでテープ起こしをさせていただきました。作業をしながらたびたび手が止まり、つい聴き入ってしまいました。すると、いつの間にか違うことをしていた小学生の娘も、私のそばで聴き入っていたのです。二人して、大切な人を亡くした方、自身の心も身体も傷ついた方、この六〇年間どんな気持ちで皆さんが生きてこられたのか、その深い悲しみを知りました。被爆者の方は高齢となられ、年々証言することも困難になってきています。それでも、一生懸命辛い思い出を語ってくださる姿から、あらためて戦争の愚かさと平和の尊さを感じました。
 今、証言集を残すということはとても地道な作業ですが、後に大切な意味を持つことになると思います。微力ですが、私にできることで協力していけたらと思います。同じ過ちを繰り返すことなく世界中が平和で、子どもたちに明るい未来が約束されますようにと願いながら……。

二冊目も参加して
                                            木本英子
                                 
         (30代/主婦)
 一冊目の証言集に続き、二冊目も参加しました。今回は実際に被爆者の方にお会いして、インタビューにも立ち会いました。お話を聞くと、現代では想像も出来ないようなことを体験しておられました。私達が平和に暮らすこの町で、過去に原爆による惨禍があったのです。一瞬のうちに町の機能が失われ、人間を含む全ての生き物が熱線を浴びたり、放射能による後遺症で苦しみました。被爆者はとても辛かった、苦しかったと思います。そして、その人達を捜して歩いたり、看病したりした家族の人もとても辛く苦しかったと思います。
 絶対にこのような思いは、二度と繰り返してはいけないと思います。
 今年は、被爆・戦後六十周年記念になります。戦中、戦後の苦しい時代を生き抜いた人々に敬意を表したいと思います。戦争は大切なものを簡単に奪ってしまいます。一人では何も出来ないけれど、平和の尊さを実感して身近なことから平和を考えていきたいと思います。

ノー・モア・ヒロシマからノー・モア・ウォーァ(戦争)へ
                                           坂谷照美
                                         (50代/家業手伝い)
 去年の秋、公民館の広報紙で会の活動を知り、この号から参加しています。
私は広島に三十年余り住んでいますが、一目で被爆者と分かる人に一度も会ったことはなく、毎日の生活の中では、人類初の被爆地ということを実感することもありませんでした。けれど、被爆者の心の傷までが癒えたわけではないでしょう。以前、知り合いの人に、被爆の時の話を聞こうとしましたが、「立ち話で済むことじゃないから」と急に顔を曇らせて逃げて行かれました。その時の経験から、辛いことを聞くにはこちらもきちんと準備をし、その思いを受け止める姿勢を見せなければならないと痛感しました。遺言「ノー・モア・ヒロシマ」第一号を読んで、よくここまで話してもらえたなあというのが最初の感想でした。よその土地の人、広島へ来て日の浅い人も含めてわずか数人で市の補助金をいただき、本を作った……前から広島にいる私は、恥ずかしさと軽い衝撃を感じました。こんなことも出来るのだと、目からうろこの落ちる思いでした。そして被爆者の本当の痛み、被爆の悲惨さは知らなかったことに気がついたのです。この号でも信じられないような話が出てきます。そして、本当はもっと酷かったことでしょう。言葉が生まれたあとに原爆が出来たので、人類はこの被害を表現する言葉を持たないのです。しかし、語りたい思いと知りたい思いがかみ合った時、必ずや言葉を超えたものが伝わると確信しています。
 私自身は、広島の被害を勉強するつもりでこの会に参加しました。また同時に広島や国内だけではなく、各国の戦争の被害を知りたいと願っています。そうしなければ、もう二度と戦争は嫌だというヒロシマの声に共感してもらえないと思うからです。ノー・モア・ヒロシマからノー・モア・ウォーァ(戦争)へ、この証言集がその道しるべになればと思っています。最後にお願い、この本を読み終えた方は、どうか死蔵せず多くの人に読んでもらって下さい。本は人間よりもずっと長生き、いつまでもヒロシマの心を訴えていくでしょうから。

癒されないまま六〇年……
                                          清水 晶

                                          (33歳/会社員)
 今でも市電に乗る度に緊張します。最初は三年半前に広島に引っ越してきたばかりのことでした。シンガポールから来た友達二人と市電に乗り英語で話していたところ、横に立っていらっしゃった男性が英語で話し掛けてきました。
「この街には今でも原爆の後遺症に苦しんでいる人がいることを知っていますか?」
 三人のうち私が日本人であることがわかると、被爆者手帳を見せてくださり、「海外からいらっしゃった人に復興した広島の姿だけでなく、今でも苦しんでいる人がいることを説明してください」と促されました。周りの方がじっと聞き耳を立てている中、自分の浅い理解をどやされるのではないかとどきどきしたのを今でも昨日のことのように思い出します。
 それから後も二回、市電の中で年配の方に、「原爆のこと、どれくらい知っていますか?」と問いかけられ、その度に周りの刺すような視線の中、自分の浅学さを反省する機会がありました。このときかいた冷や汗は、アメリカで「東南アジアの歴史」の授業に出たときに「第二次世界大戦における日本のやり方はあまりにひどい。どう償うつもりでいるのか?」と「加害者」として吊るし上げになった時にかいた汗とそっくりでした。「被害者」・「加害者」という立場の違いこそあれ、「自分の国のことなのに知識が浅い」ということがこうも自分を狼狽させていると気が付いたときに、被爆体験のテープ起こしのボランティアの募集を知り、参加させていただきました。
「正しく過去を知ることが、一個人としても日本人としても、今と先を考えていくことには欠かせない」と、勇気を奮って参加したものの、被爆者の方のお話を聞いて、詳細な歴史的な事実よりも、「突如もぎ取られてしまった平和な日常」の重さにおののきました。「六〇年前のあの日に、助けてあげることができなかった」と泣きながらお話される被爆者の方が受けたこころの痛みや痛手は何十年も見過ごされ、被爆者の方の心の中に押し込められたままになっているということに、このボランティアで一番ショックを受けました。
 残念ながらどんなにお話を伺っても、被爆者の方のそのときの心の動き、原爆から六〇年どのような気持ちで過ごしてこられたかを一〇〇%「理解できる」ことはないと思います。ただ、「突如もぎ取られてしまった平和な日常」のもたらす被爆者の方の心の痛みに思いを馳せることこそが、「二度と過ちを繰り返さない」という一言につながると信じています。

第二集出版に当たって
                                           立川太郎

                                 (70歳/元広島電鉄電車運転士)
 第一集を出版して、早や一年が経ちました。一千部つくったのですが、その反響のすごさには、正直いって驚きました。
 当初、新聞報道などは一切しないということにしておりましたが、いつの間にか、その関係者の目に止まり、報道された時には、既に底をついてしまっておりました。読んでくださった方が、友人、知人へ紹介してくださり、嬉しい悲鳴となったのです。
 何故でしょうか。それは、読んでくださった方から「この本は、ヒロシマの叫びだ」とのお手紙をいただきましたが、この声が全てを表してくださっていると思います。
 二一世紀は、もっとよくなる世紀だと信じて幕開けを期待したのは、私だけではないと思いますが、どうしたことでしょう、その正反対の破壊と殺りく、核兵器の使用も辞さない世相になってしまいました。そんな現状に苦難な人生を歩んで来られた被爆者が、その経験を生かして、平和な世の中をつくって欲しいと遺言されていくことは、いっそう意味の深いことだと思います。
 ヒロシマ、ナガサキの惨禍に遭い、見た人知った人は、必ずや、このようなことを繰り返してはならないと誓われるのに違いありません。
 戦争に突き進む指導者は、立ち止まることを知りません。それは、過去の事例が、はっきり示しています。日本もそうです。そうしたことへの警鐘への意味からも、あらゆる戦争の犠牲者、被爆者の心と経験の原点に返り、過去を反省してみるのが一番わかりやすく「過ちは繰り返しませぬから」の碑文に応える道ではないかと思います。
 私は、そうした気持ちから、この第二集の出版メンバーに加わらせていただきました。

証言者のことばが母の声のように聞こえた
                                            谷川陽子

                                              (49歳 主婦)
 昨年八月六日、一冊目の証言集を発行後、たくさんの方々が励ましの熱いお便りや、関係資料を送ってくださいました。そのなかに、「証言者のことばが母の声のように聞こえた」というお便りがありました。記憶の継承は、肉親の情に近い感情で体験者の声を自分の痛みとして感じることができるかどうかにかかっていると思います。若い母親の立場で現状を心配する声もいただきました。「心に重く響き、とてもリアルで訴える力が強く大変衝撃を与えられた。テレビでイラク戦争が映し出されていても戦争があることは実感できない。今の報道や資料展示で原爆の実際の悲惨さ恐ろしさがどこまで想像できるというのか、戦争を体験していない世代にどこまで想像力をかきたてることができるのか、このままでは訴える力が薄らぎ、いつの日か本当にあったかどうかさえぼんやりしてくるように思う。広島にいれば被爆報道を頻繁に目にするが、全国の人たちの意識の中にどのくらい関心あることなのかと思う。『矛盾しとる……原爆の事実を出す事が二度とあの悲惨な事を繰り返さない思いにつながるんじゃないのか』という部分を読み、被爆者の方にも同じ考えを持った人がいると心強く思った」(抜粋を一部要約)
 一冊目を出版した昨年は、五里霧中の状態で瞬発力と集中力が必要でした。励ましの言葉を添えた切手やはがき、カンパも届くようになりましたが、今後継続してゆくためには持久力が試されそうです。証言集を残してゆくことは具体的な目標ですが、大切なのは記憶を継承してゆこうとする一人一人の思いを繋げることだと思います。この本を手にされた方が、背後に火の手が迫る怖恐や肉親との離別を、誇張のない生身の人間の痛みとして受け止め、追体験していただけたらと思います。また、一年に半日くらいのボランティアでもいいの?と興味をもたれた方はいつでもご連絡ください。一人でも多くの方と「ヒロシマ青空の会」を共有できることを願っています。

被爆国の教師として、その継承を子供に託す教育をすすめていきたい
                                           寺田 智

                                        (50歳/小学校教員)
 一九四五年三月の東京大空襲。そして、六月の沖縄戦。さらに、八月の広島、長崎への原爆投下。終戦間近に数多くの、それも一般市民が命をなくしています。その中に子どもたちも巻き込まれ、広島でも、わかる範囲で八千人もの子どもたちの命が消えていきました。六十年前、早朝から暑い夏の日差しの中で、多くの子どもたちは、建物疎開作業などに健気に働き続けていました。もちろんあの日も、いつものように、きっと母や祖父母などに見送られ、家をあとにしたことでしょう。原爆を搭載した米軍機「エノラ・ゲイ」が広島上空のすぐそこまで迫ってきていることも知らずに……。
 あれから六十年経た今もなお、わずかな手掛かりを頼りに、消息がつかめない子どもをさがし求めている遺族の声を伝え聞いたことがあります。
 戦争が、そして原爆が、今日の私たちに何をもたらし続けているのか。一言で簡単に言い伝えきれるものではないでしょう。しかし、思い出したくもないあの悲惨な出来事を体験された、おひとり、おひとりの生の声は、これから、どのような日本を、いいや、どのような世界を築いていくことが私たちに求められているのか、その進むべき大きな導きを示して下さっています。
 教育現場からも、日本の未来を、世界の未来を担っていく子どもたちに、被爆されたみなさまの声を届けさせていただき、教室で、あるいは家庭に持ち帰って、これからどのように生きるのかを、考え深めていける子どもたちの育ちを願わずにはいられません。さらに、子どもたちに限らず、多くの方にこの貴重な本をお読みいただき、「二度と戦争を起こさせない」「二度と核兵器を使わせない」という思いが、みなさんの心の中に、さらに、しっかりと根付いてくださることを願っております。

次の世代への役割
                                            渡辺道代

                                              (42歳/主婦)
「ヒロシマ青空の会」の活動も二年目となり、この被爆証言集も二冊目発行の運びとなりました。証言してくださる方々とそれを多くの人に伝えたいと願う者の平和への思い、応援してくださる皆様の力がこのような形になったことに心から感謝します。
 被爆者の方が証言をしてくださるのには、さまざまな辛い過去との葛藤があると思います。その辛い体験を話してくださるお姿には、亡くなった多くの被爆者への深い哀悼の思いと愛情を感ぜずにはいられません。痛み、怒り、憎しみ、悲しみ、悔しさを心の中に押し込めて平和を願うお気持ちに、わたしたちはどう応えていけばよいのでしょうか。もし、私が被爆者だったら、その家族だったら、悲惨な体験、辛い過去を語ることができなかったかもしれません。また、勇気をもって語っても、それを残し伝えることは難しいでしょう。考えようによっては、本当の痛みを持たない「体験のない私たちだからこそ」できることなのかもしれません。証言の内容に耐えられず、たびたびテープ起こしの手を止めながらそのようなことを何度も思いました。被爆者から直接話を聞ける今、年月を経てやっと語ろうと思う方々がいらっしゃる今、私たちだけが次の世代のためにできることです。
 原子爆弾には、物を破壊し人の命を奪う以外、何の目的もありません。それも悲惨な形で、長年にわたり人体と環境に影響を与えます。そしてその原子爆弾はこの地球上にいくつもあるのです。一度戦争になれば使われないともかぎりません。敵を倒すためならなんでもしてしまうのが戦争です。被爆や被曝するとどういうことになるのか、冷静な判断ができる今のうちに私たち人類はしっかりと知るべき、知らせるべきではないでしょうか。この証言集がたくさんの方々の目に触れるよう、当会では内容を本と会のホームページで公開しています。別のボランティア団体のご協力により、英訳作業も進んでいます。世界中どこからでも読んでいただけるようになるわけです。目にされた方が平和への思いを抱かれるよう願っています。

広がる環(わ)――うれしい熱意
                                          五十嵐 勉

                                      (55歳/作家/東京都在住)
 新たに証言をいただいた方や、またこの環が少しずつ広がりを見せてくれていることに、そしてさらに新たにこの活動に参加してくれたボランティアの方々の熱意に、あらためて証言集をまとめていく重大さを感じた。うれしく、ありがたい思いととともに、役割の大きさをまたひしひしと感じる編集過程だった。
 またお聴きすることを通じて新たに痛感したのは、被爆者一人一人の心の傷の深さである。あまりの地獄に、この世には再び開くことなく、そのまま心のなかに封印してしまおうという意志があることも否定できない事実であることを痛感させられた。封じ込め、抹殺してしまうことも、確かに一つの有効な態度であり、方法であるだろう。それほどの地獄であり、深い傷となっているということだ。私たちは沈黙するしかない。
 一人一人は無力である。ただ現実の巨大な力に翻弄され、呑み込まれていくしかない。しかし心のどこかに、抵抗する何かがあり、これだけは拒否したいという固まりがあれば、それらはどこかでいつか共鳴し合うのではないかという希望がある。鳴り響き合う何かが、広がりを持ち、透明な音色のうちに、過去の犠牲者の心とも鳴り響き合うとき、そこには何かが流れ始めることを信じたい。生きているうちに、それは実現しないかもしれない。しかしだからこそ、これを今残し、未来に託したい。希望を心のうちに持つことこそが未来だからである。
 この集も、土井克彦先生のお世話になった。表紙デザインとともに、金崎是さんの絵を新たに橋渡ししてくださった御苦労と御厚意に深く感謝したい。
 広島市、広島平和記念資料館の御協力にも深く謝意を表したい。
 そして目に見えぬ力が励まし、導き、助けてくれたことに、心から感謝を捧げたい。題が、すでにここから胚胎していることを示している。
 それは同時に、その原点に立ち返ることによって可能な、一つの希望の道をも示している。

          

原爆投下前の広島 絵 金崎 是    

2016-08-30 | 第二集

 

原爆投下前の広島     
                        絵 金崎 是

路面で遊ぶ子供たち。子守りをする少女

井戸で水を汲み、洗濯をする主婦たち