◆寄稿 戸村 彰義
昭和25年(1950)1月の寒い日の朝、広島学園でモールス音響通信を学んだぼくは、同級生のO君と配属先の音戸郵便局を目指し、本州側の波止場で渡し船に乗った。潮風が肌に冷たい。
音戸町に着くと、幅3メートル程の道があり、その両側に店や家が立ち並んでいた。5分ばかり歩くと、道路の右側に洋館風の建物があり、音戸郵便局の看板がかけられていた。
建物の正面にある石段を上りドアを開くと、10数人の人たちが忙しそうに仕事をしている。「今日からこちらで電報の仕事をすることになりました」と若い女性にO君が2人の名前を告げてあいさつをした。するとみんなの視線がいっせいにこちらを向く。
ぼくたちは、モールス通信機のある席に案内された。「郵便局長が来客中なのでしばらく待つように」と言われたが、なかなか声がかからない。2人は緊張してコチコチになっていた。
後日、そのときの様子を電話交換のMさんが話してくれた。
「1階に下りるとモールス通信席のところに、緊張して座っている男の子が2人いた。2人とも学生服を着て坊主頭。2階の交換室に上がってみんなに話すと、順番に見に行こうということになった。」
こうしてぼくたちの音戸郵便局勤務が始まった。
ぼくは16歳、O君は18歳だ。その年齢の差以上に、彼は世の中のことをよく知っており、あいさつ、目上の人に対する言葉づかいもきちんとしていた。しかも、モールス通信の技量は、ぼくより数段上。このためぼくのコンプレックスは半端ではなかった。
ぼくたち2人が勤務を始めてから10日後、S君がモールス通信担当として補充されてきた。彼の年齢は17歳、通信技術はO君とぼくの中間といったところだ。
電報業務は夜中にもあるので、宿直勤務(16時から翌日8時まで)、日勤勤務(8時から16時まで)を3人で順番にすることになった。
初めてぼくが日勤勤務についた日のことである。
午前9時を過ぎると、窓口に電報を打ちに来る人が増えてきた。ほとんどの電報が業務用で、チチキトクといった電報はめったにない。これらの電報は呉電報局に送信すると、さらに広島や大阪、東京などに転送される。反対に受信は、呉局から音戸局に電報が送られてくると、通信席の音響席から聞こえてくるモールス符号を、頭の中でカナ文字に翻訳しながら和文タイプライターを叩き、カナ電報に仕上げる。ざっとこんな仕事の流れになっているが、当日は呉局に送信する電報が非常に多く、ぼくの送信速度が遅いこともあって次第に電報が溜まってきた。
相手方受信者が、「今溜まっている電報はどれくらいあるか」と訊ねる(通信士相互の会話はすべてモールス通信)。
「50通くらい」と答えると、相手は怒り出し、「ヘボかわれ。」これは『お前が下手なので電報がはけない。上手な人と代われ』という意味だ。しかしこちらの担当は、1人しかいないので代わりようがない。ねばりにねばり2時間くらいかけて、やっとのことで送信を終えた。
これからもこんな日が続くのかと思うと、暗澹たる気持ちになる。
辛い日々が続き1カ月が過ぎたころ、仕事から家に帰って、母親に郵便局を辞めたいと言った。その晩遅く、母親は父親や祖母といっしょになって必死で辞めるなと説得する。わが家は貧しくて進学は期待できなかったし、戦後間もない時期で就職先も皆無という状況だったのでムリもない。止むを得ず重い気分をひきずって渡し船に乗り、音戸郵便局に通った。
昭和26年(1951)2月、音戸郵便局(郵政省)は、郵便・貯金・為替などを担当する音戸郵便局と、電報・電話交換・電話営業を担当する音戸電報電話局(電気通信省)とに分割。郵便局は1キロくらい離れた建物に引っ越し、電報電話局は今までの建物を占有することになった。
注 その後、電気通信省は昭和27年(1952)廃止され、日本電信電話公社として発足
昭和26年というと昭和29年から始まる高度成長期の3年前で、産業の発展にともない電報・電話交換取扱数、電話加入申込数が激増してきていた。そのときの組織分割は、これに対応するためのもので、音戸電報電話局では、電報・営業・設備などの担当者が増員された。ところが、ぼくの担当は相変わらず苦手のトンツー。
同じ年の4月、自分にとつては大変革が起きた。広島県立宮原高校定時制2年生の編入試験に合格したのである。O君とS君は高校を受験していない。それにもかかわらず、ぼくが高校受験をしたのは、トンツーに対するコンプレックスがあったからで、もし普通にトンツーができていたなら高校には魅力を感じていなかったかも知れない。
音戸電報電話局は20人くらいの和気あいあいとした職場だったが、その中でとくに印象に残っているのは、やはり電報業務を一緒に担当したO君とS君である。S君は年の割にませており、ことあるごとに「戸村は子どもだなあ。彼女くらい作れよ。紹介してやろうか」と、けしかけてきた。
そのころ毎日自転車に乗って、電報を打ちにくる少女がいた。漁業関係の会社の事務員で年は17歳くらい、面長の笑顔の優しい子だった。
昭和27年3月の温かい朝、いつものように彼女が窓口にやってきた。ぼくは一世一代の勇気を奮い起こしラブレーターを手渡すと、彼女はびっくりして受け取った。ところがしばらく返事がない。あきらめていると、2週間過ぎたころ、彼女が緊張した面持ちで窓口に入ってきて1通の電報を差し出した。その電報の下には、ぼく宛のレターがあった。
有頂天になって、「これからどうすればいいのか」とS君に訊ねると、「お前はほんとうに子どもだなあ。どこかへ誘えばいいじゃあないか」と笑った。
それから機会あるごとに彼女と音戸の海岸を歩いたが、手も握らなければ、ろくに話もしない。そのあげくあきられてしまい、いくら誘っても応じてくれなくなった。初めての失恋である。毎日本を読んだり、酒を飲んだりしてまぎらわそうとしたが、悩みは深まるばかりだった。
ある日、鬱々と仕事をしているとNさんが声をかけてきた。
「東京の研修所が、訓練期間2年の高等科訓練生を募集しているよ。気分転換に挑戦してみてはどうか。」
Nさんは電報配達を担当している30代半ばの人で、20代のとき東京にいたせいか、どことなく垢抜けている。彼はなぜかぼくと相性がよく、いろいろ面倒をみてくれた。
N さんに「今年は試験まで1カ月しかないので来年受ける」と、返事をした。
すると彼は、「合格すればトンツーから離れられるよ」と言った。
その一言は強烈にぼくの心に残り、これから1年間、試験勉強に集中しようと決心した。
翌年、受験した。受験場での応募者の多さに、合格は難しいと半ばあきらめていた。ところが1カ月後、合格通知書が職場に送られてきたのである。
職場のNさんとS君は、ぼくが合格するとは思っていなかったようで、信じられないといった顔をしていた。O君はなにも言わなかったが、彼の気持ちを考えると複雑な気持ちになった。彼は抜群のモールス通信の能力を持っていただけに、割り切れない気がしたのではなかろうか。
その年の8月、ぼくを4年間育んでくれた音戸の地を離れ、両親とも別れ、研修所のある東京へ向かった。
平成27年(2015)の夏の終わり、60数年ぶりに音戸町を訪れた。渡し船は昔と同じ小さな箱船だ。旧道は昔ながらの細い道だったが、店がすっかりなくなり閑散としていた。町中を探し回りやっとのことで、音戸電報電話局があった場所に辿り着く。跡地は駐車場になっていた。人っ気のない駐車場に佇んでいると、昔のことが目に浮かんできた。
「ヘボかわれ」はほんとうに辛かった。無機質な金属音なのに、そこには感情と個性があった。爆発的に怒りをぶちまける相手より、じめじめと意地悪をしてくる相手の方が苦手だった。
今、冷静に考えると、ヘボだったのはモールス通信だけではなかった。職場や地域の人たちとのつきあいもヘボで、どんなに多くの人たちに迷惑をかけていたことだろう。今やその大半の人たちが鬼籍に入ってしまった。
音戸を去ってからも、ヘボ人生が続いた私も今や81歳。2人の息子も独立し、妻と2人暮らし。感謝、感謝。
トムラノヘボ(モールス符号)と靴で駐車場のコンクリートを叩き、音戸電報電話局跡を立ち去った。
◆ 寄稿者紹介
・ 戸村 彰義 広島県 昭和9年(1934)生れ
・ 電気通信職員訓練所広島学園普通科 昭和24年(1949)卒
昭和25年(1950)1月の寒い日の朝、広島学園でモールス音響通信を学んだぼくは、同級生のO君と配属先の音戸郵便局を目指し、本州側の波止場で渡し船に乗った。潮風が肌に冷たい。
音戸町に着くと、幅3メートル程の道があり、その両側に店や家が立ち並んでいた。5分ばかり歩くと、道路の右側に洋館風の建物があり、音戸郵便局の看板がかけられていた。
建物の正面にある石段を上りドアを開くと、10数人の人たちが忙しそうに仕事をしている。「今日からこちらで電報の仕事をすることになりました」と若い女性にO君が2人の名前を告げてあいさつをした。するとみんなの視線がいっせいにこちらを向く。
ぼくたちは、モールス通信機のある席に案内された。「郵便局長が来客中なのでしばらく待つように」と言われたが、なかなか声がかからない。2人は緊張してコチコチになっていた。
後日、そのときの様子を電話交換のMさんが話してくれた。
「1階に下りるとモールス通信席のところに、緊張して座っている男の子が2人いた。2人とも学生服を着て坊主頭。2階の交換室に上がってみんなに話すと、順番に見に行こうということになった。」
こうしてぼくたちの音戸郵便局勤務が始まった。
ぼくは16歳、O君は18歳だ。その年齢の差以上に、彼は世の中のことをよく知っており、あいさつ、目上の人に対する言葉づかいもきちんとしていた。しかも、モールス通信の技量は、ぼくより数段上。このためぼくのコンプレックスは半端ではなかった。
ぼくたち2人が勤務を始めてから10日後、S君がモールス通信担当として補充されてきた。彼の年齢は17歳、通信技術はO君とぼくの中間といったところだ。
電報業務は夜中にもあるので、宿直勤務(16時から翌日8時まで)、日勤勤務(8時から16時まで)を3人で順番にすることになった。
初めてぼくが日勤勤務についた日のことである。
午前9時を過ぎると、窓口に電報を打ちに来る人が増えてきた。ほとんどの電報が業務用で、チチキトクといった電報はめったにない。これらの電報は呉電報局に送信すると、さらに広島や大阪、東京などに転送される。反対に受信は、呉局から音戸局に電報が送られてくると、通信席の音響席から聞こえてくるモールス符号を、頭の中でカナ文字に翻訳しながら和文タイプライターを叩き、カナ電報に仕上げる。ざっとこんな仕事の流れになっているが、当日は呉局に送信する電報が非常に多く、ぼくの送信速度が遅いこともあって次第に電報が溜まってきた。
相手方受信者が、「今溜まっている電報はどれくらいあるか」と訊ねる(通信士相互の会話はすべてモールス通信)。
「50通くらい」と答えると、相手は怒り出し、「ヘボかわれ。」これは『お前が下手なので電報がはけない。上手な人と代われ』という意味だ。しかしこちらの担当は、1人しかいないので代わりようがない。ねばりにねばり2時間くらいかけて、やっとのことで送信を終えた。
これからもこんな日が続くのかと思うと、暗澹たる気持ちになる。
辛い日々が続き1カ月が過ぎたころ、仕事から家に帰って、母親に郵便局を辞めたいと言った。その晩遅く、母親は父親や祖母といっしょになって必死で辞めるなと説得する。わが家は貧しくて進学は期待できなかったし、戦後間もない時期で就職先も皆無という状況だったのでムリもない。止むを得ず重い気分をひきずって渡し船に乗り、音戸郵便局に通った。
昭和26年(1951)2月、音戸郵便局(郵政省)は、郵便・貯金・為替などを担当する音戸郵便局と、電報・電話交換・電話営業を担当する音戸電報電話局(電気通信省)とに分割。郵便局は1キロくらい離れた建物に引っ越し、電報電話局は今までの建物を占有することになった。
注 その後、電気通信省は昭和27年(1952)廃止され、日本電信電話公社として発足
昭和26年というと昭和29年から始まる高度成長期の3年前で、産業の発展にともない電報・電話交換取扱数、電話加入申込数が激増してきていた。そのときの組織分割は、これに対応するためのもので、音戸電報電話局では、電報・営業・設備などの担当者が増員された。ところが、ぼくの担当は相変わらず苦手のトンツー。
同じ年の4月、自分にとつては大変革が起きた。広島県立宮原高校定時制2年生の編入試験に合格したのである。O君とS君は高校を受験していない。それにもかかわらず、ぼくが高校受験をしたのは、トンツーに対するコンプレックスがあったからで、もし普通にトンツーができていたなら高校には魅力を感じていなかったかも知れない。
音戸電報電話局は20人くらいの和気あいあいとした職場だったが、その中でとくに印象に残っているのは、やはり電報業務を一緒に担当したO君とS君である。S君は年の割にませており、ことあるごとに「戸村は子どもだなあ。彼女くらい作れよ。紹介してやろうか」と、けしかけてきた。
そのころ毎日自転車に乗って、電報を打ちにくる少女がいた。漁業関係の会社の事務員で年は17歳くらい、面長の笑顔の優しい子だった。
昭和27年3月の温かい朝、いつものように彼女が窓口にやってきた。ぼくは一世一代の勇気を奮い起こしラブレーターを手渡すと、彼女はびっくりして受け取った。ところがしばらく返事がない。あきらめていると、2週間過ぎたころ、彼女が緊張した面持ちで窓口に入ってきて1通の電報を差し出した。その電報の下には、ぼく宛のレターがあった。
有頂天になって、「これからどうすればいいのか」とS君に訊ねると、「お前はほんとうに子どもだなあ。どこかへ誘えばいいじゃあないか」と笑った。
それから機会あるごとに彼女と音戸の海岸を歩いたが、手も握らなければ、ろくに話もしない。そのあげくあきられてしまい、いくら誘っても応じてくれなくなった。初めての失恋である。毎日本を読んだり、酒を飲んだりしてまぎらわそうとしたが、悩みは深まるばかりだった。
ある日、鬱々と仕事をしているとNさんが声をかけてきた。
「東京の研修所が、訓練期間2年の高等科訓練生を募集しているよ。気分転換に挑戦してみてはどうか。」
Nさんは電報配達を担当している30代半ばの人で、20代のとき東京にいたせいか、どことなく垢抜けている。彼はなぜかぼくと相性がよく、いろいろ面倒をみてくれた。
N さんに「今年は試験まで1カ月しかないので来年受ける」と、返事をした。
すると彼は、「合格すればトンツーから離れられるよ」と言った。
その一言は強烈にぼくの心に残り、これから1年間、試験勉強に集中しようと決心した。
翌年、受験した。受験場での応募者の多さに、合格は難しいと半ばあきらめていた。ところが1カ月後、合格通知書が職場に送られてきたのである。
職場のNさんとS君は、ぼくが合格するとは思っていなかったようで、信じられないといった顔をしていた。O君はなにも言わなかったが、彼の気持ちを考えると複雑な気持ちになった。彼は抜群のモールス通信の能力を持っていただけに、割り切れない気がしたのではなかろうか。
その年の8月、ぼくを4年間育んでくれた音戸の地を離れ、両親とも別れ、研修所のある東京へ向かった。
平成27年(2015)の夏の終わり、60数年ぶりに音戸町を訪れた。渡し船は昔と同じ小さな箱船だ。旧道は昔ながらの細い道だったが、店がすっかりなくなり閑散としていた。町中を探し回りやっとのことで、音戸電報電話局があった場所に辿り着く。跡地は駐車場になっていた。人っ気のない駐車場に佇んでいると、昔のことが目に浮かんできた。
「ヘボかわれ」はほんとうに辛かった。無機質な金属音なのに、そこには感情と個性があった。爆発的に怒りをぶちまける相手より、じめじめと意地悪をしてくる相手の方が苦手だった。
今、冷静に考えると、ヘボだったのはモールス通信だけではなかった。職場や地域の人たちとのつきあいもヘボで、どんなに多くの人たちに迷惑をかけていたことだろう。今やその大半の人たちが鬼籍に入ってしまった。
音戸を去ってからも、ヘボ人生が続いた私も今や81歳。2人の息子も独立し、妻と2人暮らし。感謝、感謝。
トムラノヘボ(モールス符号)と靴で駐車場のコンクリートを叩き、音戸電報電話局跡を立ち去った。
◆ 寄稿者紹介
・ 戸村 彰義 広島県 昭和9年(1934)生れ
・ 電気通信職員訓練所広島学園普通科 昭和24年(1949)卒
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