モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

終戦前後の大分電報と私(その3)

2016年11月17日 | 寄稿
◆寄稿 高野 明

米軍初の大分進駐

終戦とともに街にはいろいろな流言飛語も飛びかい、大分駅では特別列車を仕立てて婦女子を庄内方面へ一時避難させた。丁度そんな時、米軍が初めて大分に進駐して来た。完全武装の米兵が激戦の証を物語るかのように、破れて外枠のみが残る軍旗を先頭に列隊を組み堂々と大分駅から電車通りを行進して来た。当時我々が入居していたトキハデパートの前まで来ると唯一残る大きな建物を意識してか指揮官が大きな声でレフト、ライト、レフト、ライトと号令をかける。するとそれに呼応してレフト、ライトと歩調を整える。日焼けした立派な体格、装備、皆息を殺してガラス越しに米軍の行進を見つめている。恐ろしさと驚き。行進通過後しばらくは米軍の話で持ちきりであったが、何時とはなしに平常作業に戻った。

私も受付作業をしていたところ、突然トウモロコシの様な毛を生やした大きな腕が机上ににゅーと差し出された。驚いて顔を上げると先程局前を行進した米兵が数名入室し、溢れた者は外に待機している。その中の1名が手帳をつき出し指をさしては私に語りかける。ポケット式手帳は和英対照方式となっており、電報局、電報電話局、郵便局の項を指す。該当箇所を回答すると次々に質問、更には数人の手帳が机上に差し出され質問攻撃である。この異様な光景を通信室の者が目ざとく気づき上司に急報したのであろう、木村課長が主事主任等を引き連れ応援にかけつけてくれた。木村課長等の案内で薄暗い通信室を一巡した一行は引きあげたが、このときのことは今でも忘れられない。大分郵便局で米軍と接触したのは恐らく私が第1号であったと思う。

活気あふれる大分電報

終戦後、日増しに職場にも先輩が復職して来た。旧陸軍軍服姿、海軍軍服姿、長靴、半長靴、軍靴等々、旧軍人の集いのようだ。戦争に負けたが気合は大いに入っている。軍隊気分が抜けきらないので、言うことなすこと全て軍隊式である。出退勤時は通信室の中を頭を下げて全ての人に挨拶をして廻のが日課であった。若者が増え、職場での演奏会、護国神社での運動会、別府志高高原へのレクレーション等、仕事に遊びに活気が満々てきた大分電報であった。

終戦後初の暖房生活

終戦後初めての冬は、職場でも家庭でも今だ経験したことのない厳しいものであった。衣食住、何一つとってみても満足の行くものではなく、かろうじて生きているというのが実態であった。職場でも暖を取るのに満足な木炭の配給はなく、従って夜勤宿直時を利用してトキハ店周辺の焼跡から木材等薪となるものは手当たり次第、運び込み斧で適当に割り、大きなコンクリート製の大鉢に投込み暖をとっていた。1階で燃やすので通信室の向かい天井は煙で変色し、煙は更に2階3階へと階段を伝わり各階に充満。保険、管理課等から度々苦情を受けた。その後、昼間は自粛していたが夜勤宿直時は一晩中燃やして終戦後初の冬を乗り切った。

小松寮時代

終戦直後の大分電報を語るには先ず小松寮をぬきにしては語れないと思う。大分大空襲で家を焼かれ行くあてのない者、食料不足で下宿を追われた者、通勤不能な者等かなりの人が小松寮のお世話になった。小松寮は大分城の外堀跡に焼け残った唯一の2階建(たしか片山さんという酒屋さんだったと思う)を寮としていた。寮生は年齢に制限なく年配の人もいた。2階に寮生が雑居、1階は主として逓信診療所が使用していた。私も下宿を出されお世話になった1人である。夜間休日等は一つしかない火鉢を囲み雑談をしたり藤井さん等先輩の話を聞くのが楽しみだった。

2・1ゼネストとその背景

物価は日ごとに上昇する反面、公務員の給与は〇〇ベースとかいう名目で押さえられ、ヤミ物質の取得はおろか日常生活も貧困の極みに達し、各職場に組合が次々と結成され組合運動が活発になってきた。電報も連日アンポンチョウカン(経済安定本部長官)宛、長文電報が発せられ生活の窮状を訴え、給与改善を強く要望していた。昭和22年2月1日ゼネストを目前にして組合活動は最高潮に達していた。とにかく生活の現状から見てゼネスト突入はあり得ると皆信じていた。ところが直前になってGHQマッカーサー元帥からスト中止の厳しい指令が出され、燃えに燃えていた2・1ゼネストは涙をのんで中止となった。誰が持参していたが記憶にないが1台のラジオを寮生が囲みゼネスト中止の放送に耳を傾けた。「1歩後退2歩前進」、無念の涙声でゼネスト中止を切々と訴える声・・・・。マッカーサー元帥の一声でゼネスト中止をせざるを得ない時代であった。誰言うことなく「明日のストは中止だ寝よう・・・・。」

大分電報さようなら

スト中止直後、主事から「津久見郵便局が普通局に昇格、欠員があるがどうか」と転勤希望の有無を聞かれた。郷里佐伯局の方がよいが駄目なので津久見局をお願いした。住宅食料事情の悪いときなので上司は極力出身地へ転勤出来るように配慮してくれていた。その後再度主事から呼ばれ「転勤は出来る。ただし条件として、旅費辞退をしてもらいたい、それでよいか」と念を押された。当時の厳しい世相を反映してこのような制度があったのか。とにかく「旅費辞退届」を提出し、終戦直後の混乱期を2年間過ごした大分電報に別れを告げたのである。
2月4日、春にはまだ早く冷雨そぼ降る港町津久見に赴任した。おわり。<津久見局へ赴任してのことは、別に寄稿がありますので、後ほど掲載します。増田>

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