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モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

戦争末期の速成モールス通信訓練とその後(その2)

2018年04月06日 | 寄稿・戦時のモールス通信

◆大戦末期の速成モールス通信訓練とその後(その2)
宇野 準一

電信課の中からもどんどん兵隊へ兵隊へと召集され、わずか半年程でなにしおう福岡二重回線につくことになる。恐れていた福岡回線は常に状態が悪く、音かすれたり時には記号が消えたり、それでもかすかな音を聞き分けてこなしていかなければ「このヘボやろう」とブルの洗礼だ。

新米の時からこの二重回線には憧れと恐れをもって眺めていた。隣に座る先輩殿はノースペースもなんのその、器用な手捌きで打ち出していく。その姿をみているから初めて福岡回線を指定された時には恐れおののいた。

1回に配られてくる電報は30通はある。それが10分おきにくるからうまくいかないとすぐに溜まるのだ。溜まってくるとすぐに主事がとんでくる。そうなるとぶざまだ―悪くすると席を変えられる―ここまでくると技術者としては面目丸潰れということだ―私は祈った。どうぞ無事に終わらせてください、祈ったお蔭で最初は無事に済んだ。だが福岡回線はそんな甘いもんじゃない。そのうちいつかぶざまな時がと、いつも心に不安があった。

二重回線は送りっぱなし,受けぱなっしで問い返せば先輩の送信者にも迷惑をかける。福岡の相手に対してはなおさらだ。懸命に神経を集中してただ黙々と―1分間に120字前後の速度で送られてくる音を追っかけ、ただひたすらに何も聞かない何も言わない、通過番号を打ち込む番号器の音、音響器の音を追っかけて打つタイプライターの音のみ―無心の時は流れ知らぬ間に電報もはけ、「しばらく休憩」と相手が言ってくる。そのときの満足感と充実感は何とも言えない気持ちであった。新米の私としてはその時、これで一人前という実感を味わったのである。

それから間もなく大分郵便局の一部が近くのトキワ百貨店の1階(電信関係)と2階(郵便関係)に移転した。そしてそのすぐ後に大分中心部総なめの大空襲となるのだが、鉄筋建物のお蔭でさしたる被害もなく通信回線も無事守られたのである。

今思うと通信回線を地下に引き込んでの移転は大変なことではあったが、実にいいタイミングで行われたものだと、局側の大英断につくづく感心しています。

私は多分、大空襲の翌日宿直だったので、午後ゲートルを巻いて焼け跡の道を歩いて行った。昨日のように思い出される。宿直の夜、鉄筋の壁に浮いた黄燐の青い光がにじむように不気味に這っていた光を見ながら、一晩中眠ることもなく考え続け、最後に「もしかすると日本は負けるのではないか」とおぼろげながら感じた。そして「もうすぐオレも死ぬのではないか」、そんなことも考えた悲しい思い出の一コマである。

◆筆者紹介  宇野 準一 大分県
昭和19年12月 熊本逓信講習所大分分室卒

◆出 典   九州逓友同窓会誌 相親 1994 11・12月号

「付記」大分電報局の戦時の様子は、本稿のほか江藤利彦氏の「戦中秘話~電信マンの思い出(1/2)」<本ブログ2016.2.29日>にも記述がある。大分大空襲、電信局舎の移転、二重通信回線など、両者は共通の経験をしたことが分かる。それにしても人手不足の戦時とはいえ、大分分室卒業後わずか6か月で二重回線に配置され、祈りながら必死に音響通信に苦闘した先輩の姿を想い、只々こうべを垂れるのみ。(増田)


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