チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

ソ連映画『ベルリン陥落』(1949年)~ショスタコーヴィチとチアウエリ監督のツーショット写真

2015-11-18 22:47:39 | メモ

月刊誌『ソヴェト映画』1950年3月号の表紙です。北星商事発行。

 

ショスタコーヴィチの写真が載っていました。

ミハイル・チアウレリ(Mikheil Chiaureli, 1894-1974)の監督作品『ベルリン陥落』(1949年のカラー作品。日本では1952年公開)の音楽はショスタコーヴィチが担当しました。これは音楽を検討するチアウエリ監督とショスタコーヴィチの図だということです。

「はい、その真面目な表情のまま動かないでくださいー、パチリ」って感じの固い写真ですね。

 

映画はYouTube等で見ることができます。スターリン、ヒトラーがホンモノそっくり!


カワイEXを弾くアルゲリッチ(1990年の広告)

2015-11-16 20:20:15 | 楽器

1990年の音楽雑誌から、河合楽器製作所のコンサート・ピアノEXの広告です。

これ以前から日本製のピアノの実力はかなりのものだったらしいので、アルゲリッチに限らずコンサートではカワイやヤマハのピアノをどんどん弾いてもらいたいものです!

 

(ご参考) 当時のカワイ・グランドピアノの標準価格表


演奏を最初からやりなおしたジェームズ・ゴールウェイ(1982年)

2015-11-15 23:59:11 | 来日した演奏家

1982年に来日したフルーティスト、ジェームズ・ゴールウェイ(Sir James Galway, 1939年生まれ)が新宿厚生年金ホールでヴィヴァルディ「四季」(フルートとオーケストラのための編曲)を吹き振りしたときの模様です。オーケストラは日本フィル。


↑ 「冬」を演奏中、異常を感じたゴールウェイ。
吹くべき箇所を飛ばして次に進んでしまったらしいのです。日フィルのメンバーのある者は指揮者に合わせ、ある者は譜面どおりに演奏してズレてきてしまった。。

 


↑ 大声で「ストーップ!」。 会場はシーンとなったあと、ザワザワザワ。。。

 


↑ 「やっちまった~!」の表情。その後、「冬」を最初から演奏しなおした。



このときのコンサートマスターの大河内弘氏は「指揮を止めるとは思わなかった。前代未聞のことです。大体、大所の指揮者だったら、こんなことするのはプロとしてプライドが許さない。聴衆にそれと分からせずうまくゴマかしてしまうものです。」と証言していますが、この頃のゴールウェイ氏はまだ指揮者としてはデビューしたばかりで大河内氏によると「テクニック的にはまだシロート」だったようです。

演奏終了後、ゴールウェイ氏は楽団員に向かって「集中力がなくなってしまって、ごめんなさい」と謝ったそうです。

。。。誤魔化すより、よっぽど正直で好感が持てますね!

(フォーカス誌1982年10月8日号より)


細川俊夫・アリオン賞受賞記念コンサート(1984年)

2015-11-13 18:09:37 | 日本の音楽家

作曲家・細川俊夫氏(1955年生まれ)の第2回アリオン賞受賞記念コンサート出演者の写真です。1984年11月1日(木)、東京・青山の草月ホールにて。



左から
平尾真伸(ヴィオラ)
篠崎史子(ハープ)
小林健次(ヴァイオリン)
江戸京子(ピアノ)
細川俊夫(当時29歳、アリオン賞の受賞のため久々に西ドイツから帰国)
前橋汀子(ヴァイオリン)
堤剛(チェロ)

。。。豪華メンバー!

このアリオン賞というのは、江戸氏(小澤征爾氏の元奥様)が主宰する会員制室内楽鑑賞会「ムジカ・クラブ」の5周年を記念して創設された賞で、若い才能のある音楽家を応援しようというのが主旨だということです。賞金は100万円。

写真の堤氏、前橋氏、江戸氏のほか、作曲家・石井眞木(1936-2003)もこの賞の推薦委員で、石井氏は西ドイツでの細川氏の生活ぶりを次のように語ったそうです。

「彼のような若い作曲家は収入の道がほとんどないから生活は苦しい。電車で行く所も歩いて行くというのが彼の生活ぶりだ。一度、家で盛りそばをご馳走してやったら、それこそ飢えた子のようにうまそうに食べていた。」

。。。いまや大作曲家である細川俊夫氏にアリオン賞を授けた人たちはエラい!

(フォーカス誌1984年11月16日号より)


ドヴォルザークが来日していた!?(冨田覚氏『音楽の世界』1987年)

2015-11-09 20:53:21 | 来日した作曲家

日本音楽舞踊会議の月刊誌『音楽の世界』1987年4月号から7月号までの4回にわたって、当時・日本楽友協会常任理事の冨田覚(さとる)氏による『ドヴォルザークは来日したのだろうか......』というエッセイが掲載されています。

↑ 冨田覚氏

「エッセイ」だということで、著者の妄想の中でドヴォルザークが来日して日本酒飲んで酔っぱらって「家路」をカラオケで歌った。。。みたいなバカげた作り話だと想像してたらノンフィクションだったのでドキドキしながら一気に読んでしまいました。


事実の指摘の部分だけ箇条書きでまとめてしまうと。。

◆冨田氏は1974年8月25日の午後1時半頃、栃木県日光市にあるK古美術店にて、同店所有保管のサイン帳に「ドヴォルザーク」というサインがあることを初めて知った。そのサイン帳は分厚いもので数冊あり、その中の一冊、1800年代後半から1900年代初期のものと思われるものの中にそれはあった。冨田氏はそれを1899年頃に「ドヴォルザーク」が日光に立ち寄ったときにサインしたものだと推測する。

◆その筆跡は、かつて同店を訪れた某外国人が作曲家ドヴォルザークのものであると言ったことがあった。

◆「ドヴォルザーク」のサインのほかに、三行ばかりの短い文章が書いてあり、何語だかわからないが「Schiff(ドイツ語なら船)」という文字だけは判読できた。

◆そのサイン帳には前後して、著名な歴史的人物のサインも散見された。例えばライト兄弟、電話のベル夫妻、近くはシンプソン夫人やチャップリン夫妻など。音楽関係ではもう一つ、 アーサー・フィードラー氏のサインもあった。

◆冨田氏の先生であるA氏に電話で相談したところ、そのサインとM音大所蔵のドヴォルザークの直筆資料と照合することを勧められた。さらにA氏にはサインのあるページ全体と、サイン帳全体の写真を送って見てもらうことにした。

◆それからいくら待ってもA氏から連絡がなく、待ちくたびれた冨田氏は「ドヴォルザーク」姓がチェコではありふれた名前なのか確かめるためチェコ大使館に電話した。「大変ポピュラーな名前」との回答に冨田氏は失望した。

◆他の人から「Schiff」を含む三行の文からはその「ドヴォルザーク」は艦隊に関係する人物であることを告げられ、冨田氏をさらにあきらめの境地に立たせた。

◆その後、調査の意欲をすっかり失ってしまった冨田氏は4年ほど、この件から遠ざかっていた。

◆ところが、1978年秋にまったくの別件で冨田氏が訪れた、日本弦楽指導者協会の理事長M氏が何気なく「あのドヴォルザークが横浜に来たことだって、みんなご存じないんだからねー 」と言ってのけて冨田氏はびっくり仰天。

◆すべての経緯を冨田氏から聞かされたM氏は、ドヴォルザークが来日したことが記されていた本は音楽関係の本ではなかったが、明治文明開化当時のことを詳述したもので、その中の数行に「音楽家ドヴォルザークは、アメリカへの途中、横浜に上陸し、約十日間くらい滞在した。その当時のわが国の楽壇は、それを知らなかったほど、まだ、その水準は低かったのである」と記されていたという記憶があると述べた。

◆その本はその時はついにM氏宅では見つからなかったが、M氏はさらに「その本はあの高名なH先生の名著、音楽明治○○年史の種本でもあったんだよ」と付け加えた。【堀内敬三氏の『音楽明治百年史』(音楽之友社、昭和43年)のことでしょうね】

◆冨田氏はヨーゼフ・ケーニヒ(N響の前身である日響の育ての親)がドヴォルザークの直弟子であったことを思い出した。果たして、ドヴォルザークはケーニヒを介して日本に立ち寄ったのだろうか。。。!?




。。。M氏のいう本ってなんて本?是非読んでみたいです。


それにしても日本人が大好きなドヴォルザークがもし本当に日本に来てくれていたとしたらすごくうれしいし、自慢できることですよね。