長い夏が終わり、今年も秋がやってきた。
時計の針が指す時間と日が暮れ始める時間に違和感を覚え始める。
きっと数週間、いや数日すれば慣れてしまうのだろうけれど。
秋の夜長とはよく言ったもので、夏から切り替わりあぐねている体内時計では
太陽の沈みの早いその一時間や二時間が心を鬱々とさせている。
さらには、夏という響きの開放感が終わりを迎え、
特に夏らしきことを何一つできなかった自分にとっては、
閉塞から閉塞への雲がかった変遷をただただを見つめるだけである。
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今日、用があって近所を歩いていたが、
時間があったので、なんとなくぐるりと散歩をしてきた。
散歩をした界隈は密集した住宅地で、
所狭しと家が建っている。
庭付きの大きな家があれば細長い区画に4階建てといった縦長い家もある。
そんな狭い区画の小さな家々をみて、
ふと仙台を思った。
仙台であれば、この狭い区画を買い家を建てるのと同等の金額で、
倍以上の区画に広い家が立てられるだろう。
この狭く小さな区画のために、
毎日電車で帰れるか帰れないか苦悩しながら働かなくちゃならんのか。
庭付き一軒が当たり前の田舎で育った自分にはその価値を理解することに時間がかかる気がした。
毎日毎日働き潰されて、退職後に残るものってなんなのか。
なんのために働き尽くすのか。
子どものため、家族のため。それはわかる。
それがあればきっと自分も頑張れる。
きっと何だって耐えられる。きっと何だって楽しんで生きていける
しかし、その先に何があるのだろうか。
そして果たしてそこに辿り着けるのだろうか。
諸行が無常ならば、今は何なのか。
考えたって何も始まらないけれど、あまり楽しくないイメージと
将来に対する唯ぼんやりとした不安という言葉しか浮かんでこない。
自分が思い描いていた自分ではなく、
エゴイズムの中に溺れどんどん醜く薄汚れていく自分を見ながら生きていくのは苦しい。
僕は芥川でもトルストイでもアウグストゥスでもないから、
何の答えも見つけられないし、ただ逃げているだけだし、勇気もない。
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それでもやっぱり、『明日は少しでもいいことがあるんじゃねぇか』なんて
淡い期待を胸に生きることにしがみついている。
きっとそんないいことなんてある訳はないんだ。
でも、小さな光を探さずにはいられない。
そうやって馬鹿げた小さな願いを信じて、
小さな願いを叶えようと努力し
明日も生き抜くのだ。
いつの日か、この悲劇の世界で私は喜劇を演じきる。そのときは私を喝采で送ってください。
-アウグストゥスの引用にて-
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