うつ日記復職編

うつ病により約1年半休職していました。
2006年3月より復職し、うつと付き合いながらの生活をおくっています。

亡き義父の思い出

2005-05-10 21:17:14 | 思い出
もう4年になるのかな、今は亡き義父(元義父になるのかな?)は教師でした。
教師という職業は民間との接点が少ないせいか、
清濁併せ飲むというか、融通と言う点で、ぼくのようなサラリーマンと考え方が違いましたが、
人格者というか、人が自然に集まってくる人でした。
何か問題が持ち込まれても、
「こうすれば良いじゃないか、大丈夫」
と言って人を引っ張れる人でした。
かと言って人を頭ごなしに押さえつける事はなかったし、自分と違う価値観も受け入れられる人でした。
元嫁家族ももちろん義父を中心に回っていて、義父の言う事なら間違い無いという感じでした。
良い事ばかり書いていますが、悪い所も、特に僕のような民間の人間から見れば、あったんですけどね。
でも、それを補って十分な人格者だったと思います。

最初は完璧な人なんている訳がないという思いと、家族が無条件で従う体制に反発しました。
○○(元嫁)の家って、○○(義父)教っぽいっすよね」とか言ってましたから(苦笑)
僕もまだ若く、建前を言わず、本音で話をしたい事と、自分も社会人でいる以上、対等な関係でいたいという、
少し肩の力が入りすぎで、本当に生意気な若造でしたが、
それでも、僕が一生懸命な事、意外とマジメな事(自分で書いててちっとイヤですが)を判ってくれると、
その生意気さに目をつぶって、かわいがってくれました。
元嫁が女二人姉妹という事もあり、本当の息子の様に扱ってくれました。
それに、義父は完璧を演じている訳でなく、悪いところや俗なところを隠している訳でなく、それでも人が集まってくる人でした。

そば打ちが一番の趣味でした。
いいそばが打てたから、娘夫婦に食べさせたくて、車で届けてくれたりしました。
一緒に釣りもいったなぁ。
もう少し長生きしてくれれば、僕の実父と一緒に釣りに行く事もできただろうし。

ブックマークの先に少し書いてありますが、元嫁がうつ病と診断された後、二人でうつ病を受け入れて、
治療を続けた結果、かなり改善されたんですよ。
日常生活に支障が出る事も少なくなっていたのです。
そんな時です、義父が意識を失って病院に運ばれたと、義母から電話で聞いたのは。
飛び起きて早朝、元嫁と二人、車で4,5時間かけて病院に向かいました。
車中、元嫁には「亡くなったって、連絡が来てないんだから、きっと大丈夫だよ」と話し掛けていました。
でも、病院についた時にはもうすでに亡くなっていました。
心筋梗塞でした。

色々なIFを考えても仕方無いのですが、数ヶ月前に肺がんの手術をしており、
知っている医師がいる病院に入院していれば、心筋梗塞の兆候がわかったかもしれないらしいです。
義父が肺がんの手術に選んだ病院は、僕ら夫婦の住まいに近いからという理由でした。
前日の夜から胸が苦しいと言っていたそうなんですよね。
「家庭の医学」とかをよく読む義母は安定剤を飲ませて寝かせたそうです。
その時に、きちんと病院で検査していれば。
これは、多分、義母が一番感じている事だろうし、誰にもいいませんけど、
それ以来、の医療関係の素人判断を憎んですらいます。
また、住んでいた所(赴任先)がとても田舎で大病院(旭川)まで時間がかかった事も
悪いめぐり合わせだったと思います。
後、2年で定年した。
定年後の生活設計を義母と話していたでしょうに。

元嫁にとっては、当然大きなショックでした。
それ以降、元嫁のうつはどんどん悪化していきました。
そして今の状況があります。
義父が生きていればうつ病も良くなって、離婚も無かったんじゃないかと、今でも女々しくそう思います。
義父は生前、元嫁にこう言っていたそうです。
「夫婦ゲンカをしたり、離婚したくなったら、二人で一緒に結婚式のビデオを見なさい。
そして、その時の気持ちを思い出せば大丈夫。」
義父としてではなく、人間として尊敬できる人でした。

お義父さん、あなたの娘を幸せに出来なくて、ごめんなさい。
お義父さん、あなたの娘を守れなくて、ごめんなさい。
お義父さんが居なくなった穴を埋める事はできませんでした。
でも、僕が一生懸命だった事だけは判ってください。

天気の良い日に墓参りでも行ってくるかな

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