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病気は治ったもの勝ち!膵臓ガンと宣告されて…

白峯神社にて 

天皇家の長い歴史の中には、
政権交代の戦いの中に巻き込まれた非業の皇族がいます。


*敬称の違いはありますが、名前が同じ場合は同じ人物です。

上皇 は天皇を引退した後に名乗る称号。

 法皇 : 引退した天皇や上皇が仏門に入ると名乗る称号 

院 : 法皇と同一ですが、仏教に帰依した天皇が崩御した後の戒名として使用する。 




第75代崇徳天皇もその一人。
崇徳天皇は、第74代鳥羽天皇と皇后藤原璋子の間に誕生した第一皇子。
しかし実際は、叔父の白河法皇と璋子が密通して生まれた子。
鳥羽天皇からは叔父子と呼ばれて嫌われといいます。

白河法皇が鳥羽天皇に譲位を迫り、わずか5歳にして第75代崇徳天皇となりました。ですが5歳では何もできず白河法皇の院政時代でした。
 大治4年(1129)に白河法皇が崩御すると、今度は鳥羽上皇が院政をふるいます。(そのため、崇徳天皇は、歌道に専念するしかなかったそうです)

崇徳天皇20歳の時に弟に譲位することを強いられ、無理やり退位させられ、鳥羽天皇の第9皇子である第76代近衛天皇が即位します。
病弱だった近衛天皇は17歳で崩御、その後は後白河天皇が即位しました。
この時、崇徳上皇や藤原忠実・頼長父子らの呪詛であるとの噂が流れたと言います。
後白河法皇は、鳥羽天皇の第4皇子。
後白河天皇の久寿2年(1155)の即位は、29歳で即位する異例のことでした。

崇徳上皇は、武も文も劣る弟の後白河天皇の即位に不満を募らせました。
その上、鳥羽院への病気見舞いも拒絶され、保元元年(1156)鳥羽院が崩御した後の初七日もできないようなことで、対立は一層深まって保元の乱へ進みます。

崇徳上皇は、藤原忠実と頼長や源為義に為朝などを味方につけて保元の乱を起こします。しかし、藤原忠通・源義朝・平清盛らが後白河法皇に加勢し、結局、崇徳上皇は敗れ、讃岐国に配流。
本来、高貴な人が流されるのは、特別な島のはずでしたが、崇徳上皇は違っていました。
林田の雲井御所(現在の松山の津)にて約3年間を過ごします。
その後、鼓ケ岡御所(坂出)にある木ノ丸殿(このまるでん)に移られました。
不自由な生活環境から、上皇は,一日中部屋にこもり,書物を読んだりお経を唱えたりしていましたが,一心に毎日お経を写し始め,三年もかかり多数の写経をし京都に送りました。

崇徳上皇としては,後の世のためを思い一心に写したお経(大乗経の写本)だったため,讃岐よりも都に近い八幡山か高野山か,もし許しが得られれば鳥羽法皇の御陵に納めたいと思っていました。
しかし,京都の朝廷は,罪人の写したお経はよいお経のはずがないと受け取らず,崇徳上皇のもとに送り返してしまいました。

以降,戦いの相手である弟・後白河天皇に恨みを募らせた挙句、自ら舌を噛み切って流れ出た血で、呪いの誓文「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」の一文、つまり我こそは魔縁の中の魔縁、天狗の親分になって、天皇を引き摺り下ろしてやる!と、宣言したそうです。
崇徳上皇は、食事をあまりとらず,髪もとかず,爪は長く伸ばし放題にしていて,
その様子は天狗のように恐ろしげだったと伝えられています。
 長寛2年(1164)、46歳で亡くなります。
埋葬の際、蓋を閉めたお棺から血が流れ出たと、鳥肌が立つようなおぞましい話も言い伝えられています。
そして後白河院は、崇徳上皇を完全に罪人として扱い、服喪もしなかったそうです。

しかし崇徳上皇崩御の翌年から次々と異変が起こります。
後白河法皇を取り巻く人々が、次々と亡くなっていきました。
妻・建春門院(平滋子 たいらのじし)をはじめ、二条天皇の中宮だった高松院(妹子内親王しゅしないしんのう)や近衛天皇の中宮だった九条院(藤原呈子・ふじわらのていし)、後白河法皇の皇子の二条天皇と次代の六条天皇の摂政など。
延暦寺の強訴、平家打倒の陰謀事件(鹿ケ谷の陰謀)等々、不穏な事件まで次々と巻き起こった。
安元3年(1177)、京都で太郎焼亡(安元の大火)が起こり、大極殿を含めた京都市内の三分の一が焼失。翌年にも次郎焼亡(治承の大火)が起こります。
このとき、2つの大火を崇徳上皇の怨霊と考えたのは、後白河法皇自身でした。

以降、崇徳院の鎮魂が進められます。
「崇徳」という諡号も、この年に贈られたもので、それまでは、讃岐院と呼ばれていました。

しかし、本質は、後白河法皇の欲によるものだと思います。
後白河法皇は、3年で天皇を退位した後も、5代の天皇30余年にわたって院政を行い、王朝権力の復興・強化に専念しました。
また、源平の争い・戦乱の陰の演出者です。

藤原氏も平家も天皇の外戚になることで、その権力を得ようとしてきた結果なのです。

ちなみにJR予讃線沿いに,小さな石碑の建っている柳田という地があり,崇徳上皇が殺害された所だといわれています。
江戸時代の地誌である『讃州府誌(さんしゅうふし)』には二条天皇が崇徳上皇の暗殺を命じ,三木近安(みきちかやす)という武士が鼓岡を襲撃したということが記されているそうです。
近安の襲撃を逃れた崇徳上皇は,大きな柳の樹の穴に隠れましたが,その隠れた姿が池の水面に映り,見つかって殺害されたとされています。
その後,この地に柳を植えても,枯れるばかりで決して育たなったという話があります。

皇室でさえ色々な欲にまみれ、災いの渦に巻き込まれてしまいます。
私たちは、こうしたデータを自分たちは受け継いできているのです。
「人」について勧化させられる旅でした。
この辺りを歩くと、何故だか足が痛くなってしまいました。
一足一足、カタカムナを唱えて歩き、すべての人の浄化を願いました。



白峰神社は、ご祭神の崇徳天皇は、讃岐の地で一切の欲を断ち切っておこもりされたことから、「断ち物のご利益」男女の縁、病気、酒、煙草、賭事など。、ストーカー行為などの悪縁を断つ御利益もあると言われています。
また、「まり」の守護神として祀られている「精大明神」は、蹴鞠・和歌の宗家である公卿・飛鳥井家が代々守護神として邸内にお祀りしてきたものだそうです。
「まりの神様」として、野球・サッカーを始めとする球技や新体操、また日々の習い事に至るまでの目的の上達を願う参拝者が多く訪れます。
けまりは、ボールを落とさない事・落ちない事から、勉学の神 白峯天神様のご利益が学力を落とさない・試験に落ちないなどと縁起が担がれています。


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