【静電気を除去。水性Ag-powerコーティング】で頑張るおじさん!

ラジエーター水、オイル、燃料、空気、電気、ガスは流れてますか?

世界一のピストンしか作らない(長崎県・ともえ精工)

2010年09月21日 08時15分27秒 | ニュースの感想
とにかくでかくどれだけのエンジンなんだろうと思っていました。
諫早の会社の部品だったんだ・・・久々の長崎の記事を見て嬉しくなりました・・・・

世界一のピストンしか作らない(長崎県・ともえ精工)
2008.11.04(Tue) 鶴岡 弘之
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/160
山あいの細く曲がりくねった道路を車で登っていくと、いきなり視界が開け、眼の前に工場が現れた。山の中の秘密基地のようなこの会社が、世界の造船業界で知る人ぞ知るエンジン部品メーカー、ともえ精工(長崎県諫早市)である。

地図データ ©2010 SK M&C, ZENRIN - 利用規約 ともえ精工が作るのは、ピストンやコンロッドといった大型船舶用の巨大なディーゼルエンジン部品だ。世界中の船舶エンジンメーカー、特に最近は中国、韓国、ヨーロッパなどのメーカーから製造の依頼が舞いこんで来る。「以前は2割くらい外国向けの仕事もしていたんですが、基本的にもう断っています。なにしろ国内の仕事だけで手一杯。手が回らないんですよ」(森本武弘社長)

 ここ数年、世界の造船業界は好況に沸いている。ともえ精工も工場をフル稼働させる日が続く。だが、それでも生産が追いつかない。受注は2012年までの分がすでに確定しており、2007年は創業以来、最高の売り上げと利益を達成した。

 この好調ぶりは、外的要因のせいだけではない。製造工程の効率化、品質の向上、コスト削減など、様々な経営努力を何十年と重ねてきた結果である。一時期は事実上の倒産にまで追い詰められた森本社長は「もう二度と失敗しない」という思いでここまではい上がってきた。

父親の会社を引き継ぎ、いきなり社長に
 森本社長は中国・北京で生まれた。戦前に父親が中国にわたり、北京で事業を起こしたのだ。それは船舶用ディーゼルエンジンの設置、補修や、鉄道の建設などを行う会社だった。日本の中国進出という波に乗り、事業は大成功を収めた。最盛期には約4000人の社員が働き、現在の金額に直すと1兆円くらいに相当する資産があったという。会社の敷地内には芸者が寝泊まりする部屋があり、門の外では日本軍の将校が常に見張りをしていた。


山あいの細い道路を抜けると本社工場が見えてくる
 だが太平洋戦争が勃発し、日本は敗戦。会社は解体されてしまう。森本家はすべてを失い、日本に引き揚げることになった。

 父親は妻の実家がある諫早に居を構え、改めて機械加工の会社を興した。一方、森本氏は東京の大学で電子工学を学び、卒業すると富士通グループの電子機器メーカーに就職した。

 だが東京で羽を伸ばす生活は長くは続かなかった。1970年代初頭、入社して5年も経たずに父親に呼び戻されたのだ。「病気にかかり、もう仕事ができない。会社を継いでほしい」とのことだった。諫早に舞い戻ると、ほどなくして父親は亡くなった。いきなり約60人の社員を率いる社長となった。30歳の時だった。

 森本社長を待ち受けていたのは、まさに辛酸をなめる日々である。父親から引き継いだ会社の経営は火の車だった。そこにオイルショックが直撃し、業績はさらに落ち込んでいく。

 森本社長は大学や富士通機電で身につけた電子工学の知識を生かして、画期的な新製品を作ろうと考えた。それで業績が一気に上向くはずだった。だが、様々な分野に手を伸ばしたが、どれもうまくいかない。やることなすことが空回りするばかりで、会社はどんどん傾いていく。社員への給料も払えない。60人ほどいた社員は、気がついたらほとんどいなくなった。森本社長は「人生の中でこの時ほど苦しかった時はない」と言う。

「ピストンだけでは話にならない」と追い返された
 最後に残ったのは数人の社員と工作機械だけ。それでも、森本社長の気力は完全に失われてはいなかった。「一からやり直そう」。残った社員たちと再建を誓い合った。それから死に物狂いで会社の立て直しに奔走する日が続く。何日も寝ないで、工場の機械油の中で作業を続けた。何日かぶりに家に帰って風呂に入ると、体から黒い油が浮かび上がるほどだった。

森本社長は必死に働きながら考えた。「このままではだめだ。今までと同じことをしていては、また失敗してしまう」。何かを根本的に変える必要があった。

 自分たちがどのような製品を作っているのかを振り返ってみた。そして気がついた。あれもこれもと様々な分野に手を出していたため、、扱う製品の数は多いのだが、一つひとつを見ると「品質、納期、コスト、どれを取っても他社に劣っていた」のだ。

 「人間は何でも器用にこなせるものではない。分野を絞って、それだけを徹底的にやり続けてみたらどうだろう」。森本社長は思い切って1つの製品しか作らないことに決めた。ディーゼルエンジンの心臓とも言える部品、ピストンである。「これだけをやり続ければ世界一にだってなれるかもしれない」

 早速、ある大手メーカーに売り込みにいった。すると先方の担当者からこう聞かれた。
「一体、何が作れるんだ」
「ピストンだけです」
「それじゃあ話にならん」と笑われた。商談にならずに追い返されてしまった。

 ところが何日かしてその担当者から電話がかかってきた。
「確かピストンしか作らないと言ったな。ピストンならば完璧にできるんだな」
「はい」
「あのあと、他のメーカーが売り込みにやって来た。そいつらは、溶接もできます、加工もできます、どんな部品も作れますと言う。何でもできると言うやつは信用できん。試しにピストンを作ってみてくれないか」

 大きなチャンスがやって来た。それまで培った技術をすべて注ぎ込んでピストンを作り上げた。結果は、一発合格だった。またとないチャンスを見事にものにしたのだ。そのメーカーとの間で大口の取引が始まった。

 「限られた製品を完璧にやっていれば道は開ける」。森本社長は確信を持った。たった1つの製品でもそれだけをずっと作り続けていれば品質、納期、コスト、すべての面で他に負けないものができる。だから、今でもともえ精工の製品は5種類だけだ。これ以上、手を広げるつもりはないという。

自作の工作機械で加工時間を大幅短縮
 競争力を高めるために、森本社長がさらにこだわるものがある。加工時間の短縮である。海外メーカーとの低コスト競争に打ち勝つためにも、加工スピードの向上は欠かせない。


フル稼働が続く工場
 その最大の武器となるのが、自作の工作機械だ。ともえ精工で使用している工作機械は、そのほとんどがスペシャルチューニングを施した世界でたった1つのマシンである。

 森本社長はスクラップ同然の工作機械を安く手に入れてきて改造する。NC(数値制御)の電子回路を自分たちで作って、その機械に載せてしまうのだ。電子回路を載せ換えるのは高い技術が必要とされる。だが、森本社長はもともと電子工学が専門。電子工学と工作機械の両方が分かるからこそ可能な技である。「そうやって改造すると、1000万円の投資でも2億円の機械に相当するような性能を手に入れられるというわけです」

 また金属を削るバイトやカッターには、通常の工具と比べて数倍の速さで削れる特殊な工具を使う。価格は、通常の10倍以上はするという。「大企業はいろいろな機械を使って何千点、何万点という部品を作る。でも、うちが作るのは5点だけ。それだけのために投資すればいいんだから、大企業よりも密度濃くお金を使うことができる」

時間管理の大切さは、社員にも徹底して教えている。例えば、社員が頻繁に出入りする事務所の壁には、「さびどめ1秒、手直し5時間」と大きく書かれた紙が張ってある。「さび止めなんて、1カ所につきほんの1秒もあればさっと塗れる。でもそれを忘れて錆が出たら、直すのに5時間はかかってしまう」。森本社長は「時間のことが分からない人間に経営はできない」と言う。「昔から “時は金なり” と言うでしょう。それですよ」

職人を育てる秘訣は「教えない」こと
 製品の品質は、機械を操作する職人たちの熟練した技によっても支えられている。船舶エンジンの部品は、身の丈以上もある大きなものばかり。しかし加工には100分の1ミリの精度が求められる。「船はエンジンが止まると向きを変えられなくなる。その時に真横から波をかぶると、船はひっくり返って沈んでしまう。エンジンの部品には人の命がかかっているんです。だから材料は発注主がそろえた特殊な金属を使うし、加工には100分の1ミリの狂いも許されない」


加工中の巨大なコンロッド
 職人たちは、そうした難易度の高い加工をスピーディーにこなしていく。一体どのような教育によって、高い技能を持った職人を育てているのだろうか。だが、森本社長は「何も教えていませんよ」とにべもない。実際、入社したほとんどの社員は、「誰も、何も教えてくれない」と不平をもらすらしい。

 その代わり、森本社長は若手に対して、同じことを徹底的に繰り返させる。最低でも3年間は同じ作業だけを延々とやらせ続ける。「それだけやると “型” ができてくる。1つの型ができればあらゆることに応用できるようになる」という。

 むしろ森本社長が力点を置いているのは、技能教育よりも人間教育である。入社した社員にまず教えるのは、「人間は一人で生きているんじゃない。世の中に感謝しなさい、両親に感謝しなさい」ということだ。それを理解させることが何よりも大切だという。そのうえで「人間には無限の可能性がある。お前は必ずやればできるんだ」と言い聞かせ続ける。加えて、自ら社員の家に家庭訪問に行ったり、毎年、一人ひとりと時間をかけて面談をするなど、生活面、精神面でのケアも怠らない。

 森本社長にとっては、社員に「この会社で頑張ろう、この仕事で頑張ろう」という気持ちになってもらうことが一番重要なのだ。それができれば、周りが何も言わなくても、若手は見よう見まねで先輩社員の技を学び取るようになる。一度やる気に火がつけば、勝手にどんどん成長していくのだという。森本社長はじっくりとそれを待つ。だから「安易に教えてはいけない」というわけだ。

引き揚げの港で見た原風景
 山のように捨てられた百円札の山──。森本社長は、子供の頃に見た光景を、今でもよく覚えている。

 中国での栄華の日々を失い、引き揚げ船に乗るために港に行くと、乗り場近くの便所の前に大量の紙くずがあった。何だろうと思って近づいてみると、それは山のように積もった百円札だった。敗戦によって無価値となったお札を、日本へ引き揚げる人たちが次々と捨てていったのだ。中には便所で尻をふく紙として使う者もいた。

 一瞬にして紙くずとなった百円札の山。その光景が忘れられないという森本社長の口ぶりは、自らが辿った人生の起伏と重ね合わせているようにも思えた。森本社長が常日頃、社員に語る「人間は何か大きな力に生かされている」という言葉。それはまさに、失意と繁栄の日々を行き来した森本社長ならではの実感であるに違いない。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿