大国聖・日蓮聖人のお言葉

日蓮聖人のお言葉を抜粋し、達意的に解釈して紹介していきます。日蓮門下のみならず、一人でも多くの人に見ていただきたい。

師子王の如くなる心

2005-07-27 | 佐渡御書
師子王の如くなる心をもてる者必仏になるべし。例せば日蓮が如し。これおごれるにはあらず。正法を惜む心の強盛なるべし。

師子奮迅の広宣流布。
日蓮聖人のなんと自信にあふれた言葉であろうか。
不自惜身命の金文を身に読めば、我々も必ずや仏となれる。
しかし恐ろしいのは、上掲文に続く「おそるゝ心」である。
不退転の信心でありたいものだ。

法華経の行者

2005-07-24 | 教機時国抄
此等の本文を見れば三類の敵人を顕はさずんば、法華経の行者に非ず。之を顕すは法華経の行者也。而れども必ず身命を喪はん歟。

伊東へと流罪となった日蓮聖人。
そこで仏滅後の法華弘通者の心構えたる「教」「機」「時」「国」「序」の五義を記された。
日蓮聖人の結論は、「伝道すれば、必ず三類の強敵が現れる」。
ご自身への問いかけと、後に続く弟子檀越に対しての心の叫びに聞こえる。
三類の強敵が現れたならばしめたもので、その人は「法華経の行者」と言えるのである。
しかし、まだ私はそのような行者を見たことはない。

その人の所住のところは常寂光土なり

2005-07-23 | 当體義抄
正直に方便を捨ててただ法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩、業、苦の三道、法身、般若、解脱の三徳と転じて、三観三諦即一身にあらわれ、その人の所住のところは常寂光土なり。

法華経の身読の功徳を明かされた日蓮聖人。
弟子檀越に対して、その功徳はすでにお前たちの心に存在していると断言された。
我々は常寂光土の中に身をおいているのである。
寺院経営は方便という言葉を聞くが、それでは師の言葉を脇に置いていることになりはしないか。
そろそろ方便を捨てて、正法の旗を掲げて街にでようではないか。

難信難解

2005-07-21 | 秋元御書
御経の文に難信難解と説かれて候が、身にあたりて貴く覚へ候ぞ。

正法を広める時には、大難小難が身に襲いかかってくる。
その為に、日蓮聖人の弟子檀越の中には、退転者が続出した。
だが法華経を身に読まれた聖人は、それ故に法悦を覚え、新たなる行動力を得るのだ。
行者しか語ることができない一文であると拝する。

いづれの宗の元祖にも非ず

2005-07-19 | 妙密上人御消息
日蓮はいづれの宗の元祖にもあらず、また末葉にもあたらず。

日蓮聖人を「一宗の高祖」と讃嘆しすぎていないだろうか?
法華経を広める活動を始められたのだから、これを祖と言う事には言葉ははさまない。
ただし、一宗一門あるいは一団の祖として満足しているかぎり、日蓮聖人のお言葉が生きてこない。
いろいろと宗派の祖という高僧はいたが、日蓮聖人を並列にして相対的に尊崇すべきものではない。
唯一絶対の崇敬の存在なのである。
そう、時について言えば「末法の大導師」。
処についていえば「閻浮の一聖」。
並ぶべきものはなく、比べるひつようもないのである。

法門と申すは

2005-07-18 | 報恩抄
親疎となく法門と申すは、心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ、おん心得候へ。

法門を論ずる法華の論者は、日蓮聖人滅後、数え切れないほど現れた。

しかし、「法華経の行者」はどうだろうか?

聖俗問わず、口で法を論じ耳で聞く、紙に法門を記し目でそれを見る。
しかし、心に法門を入れた人があまりにも少ない。
法門は、聞くために話すものではなく、行なうために説くものだとつくづく思うものである。

三世諸佛の大事を持つ

2005-07-17 | 四條金吾殿御返事
受くるはやすく持つはかたし、さるあひだ成佛は持つにあり。

日蓮聖人は四條金吾に一つの心得を示された。
成仏とは『法華経』を持(たも)つことである。
しかし、そこには必ず難が襲いかかってくるから、心して持つべきであると。

逆説を述べると、現代の日蓮門下にそのような法難が降りかかっているだろうか?
難なければ、我々の持っているものははたしてどのようなものであろうか。
単なる法華経の受け取りで終わっているような気がする。

日蓮聖人は、さらに教示された。

三世の諸佛の大事たる南無妙法蓮華経を念ずるを、持つとはいふなり。

国家を祈る

2005-07-16 | 立正安国論
まず国家を祈つて、すべからく佛法を立つべし。

文永元年の今月今日は、日蓮聖人が鎌倉幕府に『立正安国論』を上呈暁諭された日である。
現代の日本において、正しい「国家」観念を、果たしてどれだけの日本人が持ち合わせているだろうか。
外憂内患の危機に立たされている日本。
今こそ日蓮聖人の国家観を学び、行動しなければ亡国の途をたどるであろう。
ぼんやりとはしていられない。
門下はすべからく「立正」の御旗をあげて、国諌運動に取り組まなければならない。
そろそろ祖廟に掲げられた「立正」を、世に解放しようではないか。

一善に帰せよ

2005-07-15 | 立正安国論
汝早く信仰の寸心を改めて、速かに實乘の一善に帰せよ。

日蓮聖人の生涯を貫いた『立正安国論』の一節である。
私たちの信仰のおとしどころを、明確にうたわれている。
権實の中でも實をとり、さらに絶対的な善に的を絞った信でなければならぬと言われている。
一日一善の話ではなく、久遠にわたる絶対善への信仰が国土に根付かねば、安国は夢のまた夢。
三約離法の実践。
そこに正法は立つのである。

慈悲廣大

2005-07-14 | 報恩抄
日蓮が慈悲廣大ならば、南無妙法蓮華経は萬年のほか未来までもながるべし。

日蓮聖人の教え。
聖祖滅後7百数十年を経ても、お題目は私たちの前に息づいている。
ならば、すでに日蓮聖人の慈悲は廣大であり、お題目は萬年にわたり大河となり、この地球上を流れていくのである。

日蓮聖人は、ここでも釘をさされた。
季節の流れのようにお題目は広まらない。
門下が人為的にその流れを、濁世において清く正しく受け継いで、そして広めていかねばならぬ、と。
現代の濁世の泥沼に、私たちは蓮の華を咲かさねばならないのだ。
それが慈悲に対しての報恩行だと考える。

我身宝塔

2005-07-12 | 阿佛房御書
もし然れば貴賎上下をえらばず南無妙法蓮華経と唱ふる者は、我身宝塔にして我身また多宝如来なり。

佐渡において日蓮聖人の弟子となった阿仏房は、師に質問した。
「宝塔とはいかなるものか」と。
師は答えた。
「阿仏房よ、まさにそこもとは宝塔なのだ。また宝塔も阿仏なのだ」

阿仏房と千日尼の男女和合したお給仕の姿勢に対する、最たる讃美のお言葉であると拝する。
ここには男女同権などという言葉は入り込む余地はないだろう。
なぜなら、境智は冥境なのだから。

仏性必顕

2005-07-11 | 法華初心成佛抄
我が己心の妙法蓮華経を、本尊とあがめたてまつりて、我が己心中の仏性、南無妙法蓮華経とよびよばれて、顕われたもうところを仏とはいうなり。

「法華初心成仏抄」の一節であるが、人の持つ仏性は、ひとたびお題目を唱えることにより十界の仏性と感応すると言われている。
身口意の三業に受持したところのお題目を唱えることにより、仏は現在前するのである。

日蓮聖人はさらに言われる。
口に妙法をよびたてまつれば、我身の仏性もよばれて必ず顕われたもう。

城者破城

2005-07-10 | 生死一大事血脈抄
あまつさえ日蓮が弟子の中に、同体異心の者これあれば、例せば城者として、城を破るが如し。

生死一大事血脈抄よりのお言葉であるが、引用されるお言葉としては、この前段が多い。
生死を超えた生命に託された一大事の血脈、それが異体同心で唱えるお題目と聖人は断言されたその部分である。
しかし、掲出した部分をないがしろにすると、門下は内部崩壊の危機をたどる。
そこを日蓮聖人は危惧され、釘をさされたのである。

今の日蓮聖人の門下は、「門下」と称しながら、何ゆえ同心できないのか。
破城の門下ではなく、堅固な城を築かねば、広宣流布もままならないと感じる。

無明煩悩の闇をてらすべし

2005-07-09 | 寂日房御書
斯人行世間の五つの文字は、上行菩薩末法のはじめの五百年に出現して、南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして、無明煩悩の闇をてらすべしといふことなり。

寂日房御書の一節であるが、末法における上行菩薩としての日蓮聖人の使命が明確にうたわれている。
この後の御文には、弟子に対しての厳しい誡めの言葉が続く。

かかる者の弟子檀那とならん人人は、宿縁ふかしと思うて、日蓮と同じく法華経を弘むべきなり。

まさに私たちが宿縁を身に読んだのならば、日蓮聖人の歩んだ法華弘通の活動を、「不自惜身命」の金文のごとく続けなければならない。
門下たるもの、その志を持ち実行に移す時を迎えている。

九識心王真如の都

2005-07-08 | 日女御前御返事
この御本尊全く余所に求むることなかれ、ただわれら衆生の法華経を持ちて、南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉團におわしますなり。
これを九識心王真如の都とは申すなり。


文永10年の7月8日は、日蓮聖人が佐渡・一の谷で十界互具の妙法曼荼羅をはじめて図顕された日である。
この御本尊こそ、私たち門下にとって、否、人類にとって最終的な帰依の対象である。
日蓮聖人を「国聖」と仰ぎ、「末法の大導師」と称するのは、この一事だけでもこと足りる。

わが身が即ち妙法であり、曼荼羅御本尊は『信心』の二文字におさまるのだと聖人は喝破された。
本日の聖なる日を迎え、あらためてこのお言葉を心に刻むものである。