ゆうさんの自転車/オカリナ・ブログ

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浅川伯教・巧兄弟資料館を訪ねて

2010-04-02 19:56:53 | 旅生活



浅川伯教・巧兄弟資料館を訪ねた。

むくげ通信239号(20103.28)にその訪問記を書いたので、本ブログにも再録させていただく。印刷したものは以下のアドレスでみることができるが、少々?きたない・・・。
http://ksyc.jp/mukuge/239/hida.pdf

<以下、本文です。>

2月、職場の神戸学生青年センターも属しているキリスト教施設長会の会合が清里・清泉寮であった。学生センターとちがって?環境のいい広々としたステキなところだ。ことに、施設内の牧場搾乳されたジャージー牛乳のソフトクリームが有名だ。真冬だがやはり食べてきた。

プログラムに私が希望して近くにある浅川伯教・巧(のりたか・たくみ)兄弟資料館訪問を入れていただいた。そして、初めての訪問が実現したのである。

浅川兄弟は、現在の山梨県北杜(ほくと)市出身で「朝鮮の美に魅せられ世界に伝えた」ことで知られている。資料館は、北杜市立高根生涯学習センター内にある。郷土資料館・図書館と併設されている。以前より図書館があり、その一角に浅川資料館が設置されたのかとおもっていたら、そうではないようだ。逆に、浅川資料館をつくるために、このセンターがつくられたとのことだ。

当地に生まれた浅川兄弟は、幼少期にそこを離れており、浅川兄弟のことは全くと言っていいほど忘れられていたのである。が、高崎宗司さんの『朝鮮の土となった日本人―浅川巧の生涯』(草風館、)がきっかとなって、地元で浅川兄弟のことが評判となり、「浅川伯教・巧兄弟を偲ぶ会」が結成された。さらにその会と浅川兄弟のことを考えている韓国のグループとの交流も後押しする形で資料館が建設されることになったのである。

兄伯教は1884年、弟巧は1891年、山梨県北巨摩郡甲村(現北杜市)に生まれている。伯教は、山梨県師範学校卒業後、教師として働くが、朝鮮への思いが高じて1913年一家をあげて朝鮮に渡り、「朝鮮民族美術館」設立運動などに尽力する。1914年には千葉県我孫子の柳宗悦を訪ねるがその訪問が柳をして朝鮮の美にめざめさせたといっても過言ではないようだ。巧とともに窯跡調査等を行い『釜山窯と対州窯』(1930)、『李朝の陶磁』(1956)、『白磁・染付・鉄砂―李朝』(1960)などの著作を残し、1964年に亡くなっている(享年80歳)。1920年、朝鮮人像《木履の人》が帝展に入選した時、伯教は「京城日報」のインタビューに「朝鮮人と日本人の親善は、政治や政略では駄目だ・・・芸術で相通じるのではなくては駄目だと思ひました」と答えている。

巧は、山梨県立農林高校卒業後、秋田県大館農林署に勤務するが、1914年に退職して朝鮮に渡り、朝鮮総督府農商工務部山林課に勤務する。巧は、植林のための苗育成技術確立したことでよく知られており、現在も韓国の林業関係者では知らない人はいない、と言われている。仕事のかたわら朝鮮全土の窯跡調査を行い、伯教とともに朝鮮民族美術館設立運動に奔走している。また、「泰西絵画展会」(1921)、「李朝陶磁展覧会」(1922、1923、いずれもソウル)を開催し、『朝鮮の膳』(1929)を刊行し、1930年『朝鮮古窯跡調査経過報告』を執筆していたが、1931年肺炎のため亡くなっている(享年40歳)。没後、『朝鮮陶磁名考』(1931)が出版されている。

巧はソウル市立忘憂里墓地に埋葬されているが、亡くなって55年後の1986年に韓国林業試験場職員一同がソウルの巧の墓地に建てた追慕碑には「朝鮮の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」と刻まれている。

「1931(昭和6)年4月、風邪をこじらせた浅川巧は京城(今のソウル)の自宅で急逝しました。40歳の若さでした。巧の死が近くの村々に知らされた時、朝鮮の人々は次々と別れを告げに集まりました。/彼が愛したパジ・チョゴリを着た巧の棺は、応じきれないほど多くの人々の申し出により担(かつ)がれ、朝鮮人共同墓地に葬られました。/「日鮮(ママ)の反目が暗く流れている朝鮮の現状では見られない場面であった」と巧が大きな影響を与えた民芸運動のリーダー柳宗悦(やなぎむねよし1889-1961)は回想しています」(資料館HPより)

 巧は、1923年から日記をつけ始めているが、その一部は、亡くなる前に友人の朝鮮人に託された。その日記を友人は大切に保管し、朝鮮戦争時にも守りぬかれたが、その日記の公表が浅川兄弟資料館建設の大きなバネになったのである。
 
今回の訪問、多くのことを学んだが、もっとも感動したのは学芸員・Aさんの案内だ。自身も浅川兄弟のことを知らなかったというが、よく勉強され、心から浅川兄弟を尊敬し、この資料館の活動が未来の日韓の交流に大きな働きを果たすことに確信をもっておられた。その姿に感動したのである。

もうひとつの感動は、地元の中学生・椙村彩さんが卒業論文に浅川兄弟をとりあげ、それが『日韓交流のさきがけ-浅川巧』(2004、揺籃社)として出版されていることだ。帯で永六輔は「柳宗悦を知っている中学生がいたら脱帽したい。柳宗悦を支えた浅川巧の評伝を書いた中学生がいるなんて信じられない。この本は奇跡だ!」と書いている。

是非、訪問していただきたい。

■浅川伯教・巧兄弟資料館
所在地:北杜市高根町村山北割3315
電話:0551-47-4784/休館日:月曜日
asakawa-muse@city.hokuto.yamanashi.jp


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