ゆうさんの自転車/オカリナ・ブログ

飛田雄一の個人的なブログ、オカリナ、登山、自転車のことなどを書こうかな・・・

ツアコン生活<2>連載1

2007-05-11 08:32:57 | ツアコン生活
「ツアコン生活」もいろいろあるのだが、なかなか書けない。そこで、一挙にドカーンとすでに発表したものを再録しようと思う。お許しあれ。
これは2005年10月、京都の北白川教会で開かれた基督(キリストと読む)共助会主催の講演会で私がお話したものである。『共助』599号(2006年3月)に掲載されたものである。(本ブログは1万字までなので、分割してアップします。2007年5月11日、飛田)


「アジアの中の日本―韓国・北朝鮮・中国への旅から-」(1)飛田雄一

 昨日は題が「日本の中のアジア」ということで若干法律のややこしいことも含めて話しさせていただきました。それで今日は、「アジアのなかの日本―韓国・北朝鮮・中国への旅から―」というテーマです。私が旅の話をするとなったら、どこに行っておもしろかった、あそこに行って面白かったという話しになってきりがないのですけど、レジメにそってできるだけ要領よくいくつかの話ししたいと思います。
●初めての韓国
 私は大学時代からの親朝鮮派というか親韓国派というか、この韓国朝鮮は南北の国家という意味ではありませんので、今でいえばコリア派でした。大学時代からむくげ会という朝鮮語と朝鮮の文化を学ぶサークルを作って勉強もしていました。在日韓国人の裁判などにも関係していました。その後は、学生センターの関係やキリスト教の関係などで現在まで合計したら40回か50回ぐらい韓国に行っていると思います。でも一番長くても10日ぐらいのものです、大体いつも短い期間なのですが、初めて韓国に行きましたのは1978年です。それは第一回の日韓NCC-URM協議会でした。NCCというのは日本にも韓国にもありますけども、キリスト教協議会のことです。日本には日本キリスト教協議会、韓国には韓国キリスト教協議会があります。
 URMというのは都市農村宣教、Urban Rural Mission です。韓国の方は力をもっているのですが、日本にもURMのグループがあり、韓国にもあります。その日本と韓国の第1回目の交流会が1978年にありました。
 日本のURMは、同志社大学の竹中正夫先生の世代が第1世代だと思いますけども、日本で社会活動・農村活動に関係するクリスチャンのネットワークあるのですが、その日本のURMと韓国URMが交流することになったんです。その頃の韓国は受難の時代で、朴キョンギュ先生らも何度も逮捕されている時代です。教会が使えなくなって教会の前で礼拝をしているとか、そういう一番の受難時代ですね。そして韓国のキリスト教グループが労働組合でも地域住民運動でも最先端でがんばっていた時代です。最近の韓国は政権がかわりそのようなことはありませんが、昔は教会の中でしか社会的な活動が出来ないという時代だったものですから、労働組合の指導的な人はノンクリスチャンも含めて教会をベースに活動をしているという時代でした。
●「YH紡績人糞事件」
 私たちが韓国大使館にビザ申請をしても問題になる時代でした。最初我々は15人ほどでこの申請を、東京大使館と大阪・神戸の領事館にしましたが、大阪領事館関係の人は、別に申請をしていた荒川純太郎さん以外は全部ビザが出なかったのです。主要メンバーである小柳伸顕先生とか三好博先生とか行けなくなったのです。私は神戸の領事館の関係ですが、神戸領事館の関係および東京の大使館関係の6、7人だけが行けるようになって韓国にでかけました。韓国では監視つきでアカデミーハウスの会議場をうろうろしていますし、最後の夜はソウル市内で泊まろうと言って、小さなラブホテルのようなホテルに泊まったりしたのですけども、調査員みたいな人が尋ねてくるというような緊張した交流会でした
 ちょうど有名は労働組合の事件ですがYH紡績事件のときでもありました。趙和順という元気な牧師さんが、工場に女工として入って労働組合を組織するとかそういうことをしておられました。それが発覚したというのもあって組合が弾圧を受けて、暴力団みたいな人を経営者が雇って糞を篭城している所に撒くという「YH紡績人糞事件」というのがあった時期です。僕等が行った時は、その1ヶ月後とか近い時期で、直接そういう人の話を聞いたり、工場地帯のアパートを借りてそこで40名ほどの労働者が座り込んで勉強している、そういうところを回ったりしました。非常にいい経験でした。
 この78年の訪韓以降3年間、私は韓国のビザを取れませんでした。そのころは韓国側ではブラックリストきっちりしているのです。わたしたちが特に何とかしたと言うのではなくて、協議会の帰りに当時の金浦空港でメンバーの3人が捕まったのです。それは先ほどお話したYH紡績事件のビラを持ち出したという事でした。最初にソウルを出発した4人のうち、どういうわけか最初のひとり・荒川先生はパスしましたすけど、残りの3人が捕まりました。1人は神戸にいたジョニ-ウオーカーという宣教師、もう1人はNCCの幹事をしていた楠利明さん、もう1人は現在国会議員をされている土肥隆一さんだったと思います。金浦空港で捕まって留置所には入らなかったのですけど、その日の夕方の飛行機に乗れなくて、ソウルまで戻されて、一定の取調べを受けて次の日に帰ったのです。それで日本に帰って、YH事件の支援の意味もあって、我々は交流のために訪韓したのであって不当に一時拘束されたと記者会見もしました。
●「トビタ」はどこだ?
 私は、その頃すでに旅行癖が始まっていたのでしょうか、2,3日ひとりでぶらぶらしてから帰りました。そしてその間、拘束のことを全くしりませんでした。後でメンバーに聞いたら金浦空港で、「トビタはどこにいるのか」と何回も聞かれたそうです。韓国人は漢字が出来ますけども、私の名前はヒダと読むのが4割ぐらいで、トビタが6割くらいなのです。運良く韓国の係官がトビタと読んでくれたのですね。ですから私は、ヒダとう名前で何のチェックもなく帰ってきたのです。事件があったことは日本に帰ってから知ったのです。
 日韓NCC-URMの2回目の協議会は、韓国から来られて1981年に関西セミナーハウスで開催し、1983年には第3回の協議会でソウルにまた行くことになります。まだキリスト教が弾圧されている時代ですが、韓国のキリスト教は力持っているのですね。KCIAと交渉して私たちのビザをOKにしてくました。韓国の教会の政治折衝のお蔭で参加するメンバーをブラックリストから外してくれたのです。OKになったという連絡があってから、我々は領事館にビザ申請しました。今は事前のビザは不要ですが、当時はビザが必要でした。
 ビザを貰ってちょっと不安でしたけど、またソウルに行きました。金浦空港でのことですが、リストは外れたけどまだ名前としては残っているみたいですね。パスポートをみてコンピュータで入力したら、なにかマークが出たようです。本部(?)に電話で問い合わせているのですね。マークのついている人物が入ってきたということなのでしょうが、「飛田」といっているのです。「飛」の漢字を韓国語では「飛ぶピ」「ナルピッチャ」と言っているのです。結局OKということで、無事入国することができました。
 最近はツアコンとしていろんな人を連れて行ったりしますけど、大分この事件からは時間がたっているのに、いまでも過去のマーク(?)のために、少し時間がかかることがあります。ツアー参加者が不安になったらいけないので、最近は韓国の入管手続きはトップをきって出るようにしているのです。

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