いきなりブルーハーツとはちがう話題ですが、第49回グラミー賞でディクシー・チックスが最優秀レコード賞など5冠に輝いた、というニュースがありました。
ディクシー・チックスは、テキサス州出身の女性3人組カントリーバンド。2003年、イラク戦争を批判したとしてカントリーファンから反発を受け、カントリーラジオ局からボイコットされるなどの騒ぎが起きた経緯がある。今回、シングル曲が対象の最優秀レコード賞、作詞作曲者に贈られる最優秀楽曲賞、最優秀アルバム賞と、主要3部門を制した。(2月12日 産経新聞の記事から)
ことの発端は、イラク戦争開始直前、ロンドンでのコンサートでメンバーのひとり、ナタリー・メインズがブッシュ大統領を批判する発言がイギリスの新聞に載ったからだ。
「「みんな分かってると思うけど」シンガーのナタリー・メインズが言った。「私たちはアメリカの大統領がテキサス出身なのを恥ずかしいと思っているわ」。観客からは歓声が上がった。カントリースター達がこぞって戦争支持の曲をリリースする中でのこの発言はまるでパンクロックだ。」(イギリスの新聞The Guardianに掲載の記事の部分)
アメリカのカントリー&ウェスタンというのは、日本で言えば「演歌」みたいな音楽ジャンルだから、保守派のリスナーやファンが圧倒的だ。それでなくてもアメリカ中に星条旗が掲げられ、異様な愛国熱にあふれているという状況だった。ディクシー・チックスはメディアから排除され放送禁止にされただけでなく、全米から猛烈なバッシングを受ける。下品な誹謗中傷から命を脅かすような脅迫状までが殺到したという。
そのディクシー・チックスがグラミー賞を受賞するというのは、アメリカの変化を象徴する出来事だと思う。
ディクシー・チックスは脅迫や中傷にも屈することなく音楽活動を続けて、今回の受賞曲となった「ノット・レデイ・トゥ・メイク・ナイス」(まだ、いい子になんかなれないわ)に自分たちの気持ちを表現している。
「許す、それもいいわね
忘れる、私にできるかしら
時がくれば傷は癒えると人は言うけれど
その日が来るのをまだ待ってるの
もう疑ってさえいないわ
何もかもわかってしまったの
私は代償を払わされて
今も払い続けている
(中略)
まだ、いい人なんかにはなれない
まだ、引き下がるわけにはいかない
まだ、私は本当に怒っている
まわりくどいことをしてるヒマはないの
元の鞘に戻すには遅すぎる
できたとしてもやらないわ
だって私はまだ怒っているんだから
あなたたちの助言になんか従えないわ
許す、それっていい言葉ね
忘れる、私にはまだできないわ
時がすべてを癒すというけれど
私の痛みはまだ消えはしない」
(この訳詩は町山智浩氏のブログから引用しました。)
(ディクシー・チックスのPV動画はこちら。)
自分たちを魔女狩り裁判にかけられている姿に擬した映像も凄いが、この歌詞の内容もすごい。こんな風に個人の怒りが世界の状況にコミットしているような歌をわたしは知らない。
なぜブルーハーツの解説に長々とこの話題を取り上げたのかというと、イギリスのガーディアン紙がディクシー・チックスのことを「まるでパンクロックだ」と表現していたからである。日本では、ど派手なファッションや過激なパフォーマンスばかりがパンクロックだという印象が強い。しかし、イギリスでは反体制・反権力の政治的な表現をする音楽がパンクなのである。
ブルーハーツにも影響を与えたイギリスのパンクグループの「クラッシュ」の中心メンバー、ジョー・ストラマーはどこかで「パンクはファッションじゃない、アティチュード(態度)だ」というようなことを言っている。そのクラッシュは、イギリスの下層階級やマイノリティの貧困移民層への共感と体制批判の政治的な主張をしていた。このころイギリスでは不況で若者の失業が増え、怒れる若者の声を反映していたのがパンクロックだったのである。
ブルーハーツもたしかに反体制・反権力といったパンクの精神は受け継いでいる。「劣等生でじゅうぶんだ はみだし者でかまわない」(「ロクデナシ」)といった社会から疎外される者の位置に自らを置いて、世間の価値観に反抗する。しかし、ブルーハーツの全盛期、日本経済はバブルの真っ只中にあった。
ブルーハーツの曲には、イギリスのパンクのような直接的で過激な政治的主張は見られない。Mステの「リンダリンダ」の演奏シーンでは、甲本ヒロトが歌いながら舌をペロペロさせたり、上体を激しく揺さぶって飛び跳ねるパフォーマンスが見られるが、過激なパンクグループのライブパフォーマンスとしてはおとなしい方だ。
メジャーデビュー曲「リンダリンダ」では、「ドブネズミ」は美しい、「ドブネズミ」のようにやさしく、と歌う。いきなり世間の価値観をひっくり返して、どうして「ドブネズミ」が美しいのかは語らない。同じことは「情熱の薔薇」の中でも見られる。「見てきた物や聞いた事 いままで覚えた全部 でたらめだったら面白い」とか、「なるべく小さな幸せと なるべく小さな不幸せ なるべくいっぱい集めよう」と歌う。それはなぜなのか説明はしない。しかし、「そんな気持ち分かるでしょう」というのだ。こういうところに彼らのシニカルで諧謔的なスタンスがよく表れている。
だいたい「ドブネズミ」が美しいとはだれも思わない。そういう当たり前の常識を覆してみせることで見えてくる真実がある。みんなが価値だと思っていることや正しいと思っていることが実はそうでなくて、反対に、無価値であったり、無意味であるようなことが真実であったりする。そういう真実と虚偽の、価値と無価値の転換こそが、ブルーハーツのスタンス、世界観なのだ。
しかし、ブルーハーツが若者のこころをとらえたのは、こういう価値転倒や体制批判的なメッセージではない。
ブルーハーツ初期の名作「人にやさしく」(一説によると、甲本ヒロトが高校生のときに作った曲らしい)で、「人にやさしく してもらえないんだね 僕が言ってやる でっかい声で言ってやる ガンバレって言ってやる」と歌っているように、世間からはみ出し、受け入れられない者への共感と励ましのメッセージが若者のこころをとらえたからだ。世間はバブル景気に浮かれ、ディスコサウンドがはやり、DCブランドやトレンディドラマが流行した。異様な高揚と繁栄の中でも、そういうムードについていけない者も多かったはずである。今で言えば「負け組」、流行に乗り遅れた敗残者のこころをブルーハーツはとらえたからだ。
「死んじまえと罵られて このバカと人に言われて
うまい具合に世の中と やって行くことも出来ない
…
誰かのサイズに合わせて 自分を変えることはない
自分を殺すことはない ありのままでいいじゃないか」
(「ロクデナシ」作詞 : 真島 昌利)
「誰かのルールはいらない 誰かのモラルはいらない
学校もジュクもいらない 真実を握りしめたい
僕等は泣くために 生まれたわけじゃないよ
僕等は負けるために 生まれてきたわけじゃないよ」
(「未来は僕等の手の中」作詞 : 真島 昌利)
これはそのまま「負け組」への応援歌である。世の中の流行には乗れない、トレンディドラマともDCブランドとも無縁な、繁栄の中で取り残されている者たちの思いをブルーハーツは代弁している。しかもそのままの自分でいいと肯定してくれるのだ。「ドブネズミ」でも美しいのではない。「ドブネズミ」だから美しい、目には見えない美しさがあるのだ。
たしかにブルーハーツははみだし者や落ちこぼれ、社会から疎外されている者に共感し、それを肯定する。しかし、現実を一方的に否定したり、社会や体制に反抗を呼びかけることはしない。あくまでも世の中の支配的な価値観をシニカルに批評して見せるだけだ。
それは、それぞれの「自己」を肯定しながら、彼らもまた自由を求めて生きる道を探しているからだろうか。
「うまくいかない時 死にたい時もある
世界のまん中で生きてゆくためには 生きるという事に 命をかけてみたい」
(「世界の真ん中」作詞:甲本ヒロト)
だから、ブルーハーツの歌は、はみだし者でも落ちこぼれでも、自由を求めて自分の運命を切りひらこうとする者への応援歌として、多くの若者に熱狂的に支持されたのである。
ディクシー・チックスは、テキサス州出身の女性3人組カントリーバンド。2003年、イラク戦争を批判したとしてカントリーファンから反発を受け、カントリーラジオ局からボイコットされるなどの騒ぎが起きた経緯がある。今回、シングル曲が対象の最優秀レコード賞、作詞作曲者に贈られる最優秀楽曲賞、最優秀アルバム賞と、主要3部門を制した。(2月12日 産経新聞の記事から)
ことの発端は、イラク戦争開始直前、ロンドンでのコンサートでメンバーのひとり、ナタリー・メインズがブッシュ大統領を批判する発言がイギリスの新聞に載ったからだ。
「「みんな分かってると思うけど」シンガーのナタリー・メインズが言った。「私たちはアメリカの大統領がテキサス出身なのを恥ずかしいと思っているわ」。観客からは歓声が上がった。カントリースター達がこぞって戦争支持の曲をリリースする中でのこの発言はまるでパンクロックだ。」(イギリスの新聞The Guardianに掲載の記事の部分)
アメリカのカントリー&ウェスタンというのは、日本で言えば「演歌」みたいな音楽ジャンルだから、保守派のリスナーやファンが圧倒的だ。それでなくてもアメリカ中に星条旗が掲げられ、異様な愛国熱にあふれているという状況だった。ディクシー・チックスはメディアから排除され放送禁止にされただけでなく、全米から猛烈なバッシングを受ける。下品な誹謗中傷から命を脅かすような脅迫状までが殺到したという。
そのディクシー・チックスがグラミー賞を受賞するというのは、アメリカの変化を象徴する出来事だと思う。
ディクシー・チックスは脅迫や中傷にも屈することなく音楽活動を続けて、今回の受賞曲となった「ノット・レデイ・トゥ・メイク・ナイス」(まだ、いい子になんかなれないわ)に自分たちの気持ちを表現している。
「許す、それもいいわね
忘れる、私にできるかしら
時がくれば傷は癒えると人は言うけれど
その日が来るのをまだ待ってるの
もう疑ってさえいないわ
何もかもわかってしまったの
私は代償を払わされて
今も払い続けている
(中略)
まだ、いい人なんかにはなれない
まだ、引き下がるわけにはいかない
まだ、私は本当に怒っている
まわりくどいことをしてるヒマはないの
元の鞘に戻すには遅すぎる
できたとしてもやらないわ
だって私はまだ怒っているんだから
あなたたちの助言になんか従えないわ
許す、それっていい言葉ね
忘れる、私にはまだできないわ
時がすべてを癒すというけれど
私の痛みはまだ消えはしない」
(この訳詩は町山智浩氏のブログから引用しました。)
(ディクシー・チックスのPV動画はこちら。)
自分たちを魔女狩り裁判にかけられている姿に擬した映像も凄いが、この歌詞の内容もすごい。こんな風に個人の怒りが世界の状況にコミットしているような歌をわたしは知らない。
なぜブルーハーツの解説に長々とこの話題を取り上げたのかというと、イギリスのガーディアン紙がディクシー・チックスのことを「まるでパンクロックだ」と表現していたからである。日本では、ど派手なファッションや過激なパフォーマンスばかりがパンクロックだという印象が強い。しかし、イギリスでは反体制・反権力の政治的な表現をする音楽がパンクなのである。
ブルーハーツにも影響を与えたイギリスのパンクグループの「クラッシュ」の中心メンバー、ジョー・ストラマーはどこかで「パンクはファッションじゃない、アティチュード(態度)だ」というようなことを言っている。そのクラッシュは、イギリスの下層階級やマイノリティの貧困移民層への共感と体制批判の政治的な主張をしていた。このころイギリスでは不況で若者の失業が増え、怒れる若者の声を反映していたのがパンクロックだったのである。
ブルーハーツもたしかに反体制・反権力といったパンクの精神は受け継いでいる。「劣等生でじゅうぶんだ はみだし者でかまわない」(「ロクデナシ」)といった社会から疎外される者の位置に自らを置いて、世間の価値観に反抗する。しかし、ブルーハーツの全盛期、日本経済はバブルの真っ只中にあった。
ブルーハーツの曲には、イギリスのパンクのような直接的で過激な政治的主張は見られない。Mステの「リンダリンダ」の演奏シーンでは、甲本ヒロトが歌いながら舌をペロペロさせたり、上体を激しく揺さぶって飛び跳ねるパフォーマンスが見られるが、過激なパンクグループのライブパフォーマンスとしてはおとなしい方だ。
メジャーデビュー曲「リンダリンダ」では、「ドブネズミ」は美しい、「ドブネズミ」のようにやさしく、と歌う。いきなり世間の価値観をひっくり返して、どうして「ドブネズミ」が美しいのかは語らない。同じことは「情熱の薔薇」の中でも見られる。「見てきた物や聞いた事 いままで覚えた全部 でたらめだったら面白い」とか、「なるべく小さな幸せと なるべく小さな不幸せ なるべくいっぱい集めよう」と歌う。それはなぜなのか説明はしない。しかし、「そんな気持ち分かるでしょう」というのだ。こういうところに彼らのシニカルで諧謔的なスタンスがよく表れている。
だいたい「ドブネズミ」が美しいとはだれも思わない。そういう当たり前の常識を覆してみせることで見えてくる真実がある。みんなが価値だと思っていることや正しいと思っていることが実はそうでなくて、反対に、無価値であったり、無意味であるようなことが真実であったりする。そういう真実と虚偽の、価値と無価値の転換こそが、ブルーハーツのスタンス、世界観なのだ。
しかし、ブルーハーツが若者のこころをとらえたのは、こういう価値転倒や体制批判的なメッセージではない。
ブルーハーツ初期の名作「人にやさしく」(一説によると、甲本ヒロトが高校生のときに作った曲らしい)で、「人にやさしく してもらえないんだね 僕が言ってやる でっかい声で言ってやる ガンバレって言ってやる」と歌っているように、世間からはみ出し、受け入れられない者への共感と励ましのメッセージが若者のこころをとらえたからだ。世間はバブル景気に浮かれ、ディスコサウンドがはやり、DCブランドやトレンディドラマが流行した。異様な高揚と繁栄の中でも、そういうムードについていけない者も多かったはずである。今で言えば「負け組」、流行に乗り遅れた敗残者のこころをブルーハーツはとらえたからだ。
「死んじまえと罵られて このバカと人に言われて
うまい具合に世の中と やって行くことも出来ない
…
誰かのサイズに合わせて 自分を変えることはない
自分を殺すことはない ありのままでいいじゃないか」
(「ロクデナシ」作詞 : 真島 昌利)
「誰かのルールはいらない 誰かのモラルはいらない
学校もジュクもいらない 真実を握りしめたい
僕等は泣くために 生まれたわけじゃないよ
僕等は負けるために 生まれてきたわけじゃないよ」
(「未来は僕等の手の中」作詞 : 真島 昌利)
これはそのまま「負け組」への応援歌である。世の中の流行には乗れない、トレンディドラマともDCブランドとも無縁な、繁栄の中で取り残されている者たちの思いをブルーハーツは代弁している。しかもそのままの自分でいいと肯定してくれるのだ。「ドブネズミ」でも美しいのではない。「ドブネズミ」だから美しい、目には見えない美しさがあるのだ。
たしかにブルーハーツははみだし者や落ちこぼれ、社会から疎外されている者に共感し、それを肯定する。しかし、現実を一方的に否定したり、社会や体制に反抗を呼びかけることはしない。あくまでも世の中の支配的な価値観をシニカルに批評して見せるだけだ。
それは、それぞれの「自己」を肯定しながら、彼らもまた自由を求めて生きる道を探しているからだろうか。
「うまくいかない時 死にたい時もある
世界のまん中で生きてゆくためには 生きるという事に 命をかけてみたい」
(「世界の真ん中」作詞:甲本ヒロト)
だから、ブルーハーツの歌は、はみだし者でも落ちこぼれでも、自由を求めて自分の運命を切りひらこうとする者への応援歌として、多くの若者に熱狂的に支持されたのである。