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Nicomachusの園 Ⅱ

2006年度総合倫理演習の問題とコメント 

第十四回 Cocco「Heaven's Hell」についての解説

2006-11-05 10:17:34 | Weblog
Coccoについて、実は大ヒットした「強く儚い者たち」くらいしか知らなかった。この曲にしても10年くらい前になるから、そのころは歌詞の意味など考えてもいなかった。
美しいメロディと力強いポップな曲調にどことなく哀愁がただよう歌だと思っていたが、この歌詞がなんとも意味深なのである。
「宝島が見える頃 何も失わずに同じでいられると思う?」「宝島に着いた頃 あなたのお姫様は 誰かと腰を振ってるわ」そして最後に「人は強いものよ そして儚いもの」と歌う。
20歳そこそこの女性の言葉としてはあまりに早熟しすぎている。
これも初期の曲である「Raining」には、「髪がなくて今度は 腕を切ってみた 切れるだけ切った」と思わずギョッとするようなフレーズが出てくる。
(毎日新聞に連載の「想い事」の中に、「近しい人の死を通して学んだこと“死ぬときゃ死ぬ”だから“やりたいように生きる”自傷行為も喫煙も恐れなかった。目に映るもの全てをぶっ壊して。」と書いている。)
彼女ははっきりとは書いていないが、この曲の歌詞は、学校の中で「イジメ」があったことを連想させる。「未来なんて いらないと想ってた 私は無力で 言葉を選べずに 帰り道のにおいだけ 優しかった 生きていける そんな気がしていた」
この曲に限らず、初期の作品は、憎しみや哀しみ、絶望といった情念が噴出している。自分の傷や痛みが曲になって表現されていると言っていいだろう。
もっと言うと、Coccoの初期の詩は、たんなる哀切や悲哀というものではなく、精神の境界性を越えてしみでてくるような危機的な感情だ。
おそらく彼女は、思春期に精神のバランスを崩すような苛酷で絶望的な体験をしたのだと思う。それは失恋なのか両親の離婚なのか「イジメ」なのかははっきりとはわからないが、歌詞の中にそれとなく表現されている。むしろそうした感情や情念を歌に表出することでかろうじて精神のバランスを保っていたのかもしれない。

さて2001年にCoccoは突然、音楽活動を中止する。沖縄に戻って、しばらく海岸でひとりでゴミ拾いをしていたという。そして2003年に「ゴミゼロ大作戦」という啓発イベントを企画するのである。(DVD「Heaven's hell」には、Coccoが自分から学校に出向いて生徒に参加を呼びかけ、沖縄じゅうの学校を回って歩く姿や当日のイベントを成功させるまでの一部始終が記録されている。)
きっかけは幼いころ見たきれいな沖縄の海を取り戻したい、ただそれだけだったのかもしれない。しかし、それだけでないものが彼女を突き動かしていることがわかってくる。ステージで共演するボランティアの生徒たちの前で、彼女は沖縄に住む「アメラジアン」について説明する。それについて、みんなは知るべきであって、知らないことは罪だとまで言う。(「想い事」の中で彼女は、愛した男性がアメラジアンだったこと、沖縄の基地を否定することは、その人の存在を否定することだと思っていたと言っている。そして、そのアメラジアンの彼が沖縄の人たちにひどい仕打ちを受けたとも書いている。)感動的だったのは、子どもたちの前で次のように語る場面だ。「大人になることを怖がらないでほしい。(大人になっても)持っておこうと思ったら持っておけることがいっぱいあるから。忘れないでおこうと思ったら、忘れないでおけることもいっぱいあるから」そう言って15歳からの持ち歌である「Raining」を歌って聞かせる場面である。「髪がなくて今度は 腕を切ってみた」というあの歌である。

「ゴミゼロ大作戦」のイベントを通じて、Coccoはいろいろなメッセージを発信している。愛する沖縄が基地を抱える矛盾、観光のために破壊されていく景観や環境などなど、それを彼女は何とかしたい、自分のできることから変えていきたいと訴える。

だから「Heaven's Hell」の歌詞も、単純に環境保護を訴える歌ではない。出だしからして、ぶっとんでしまう。「今 やっと首に手を掛け やさしい話を手繰ろうと(英語訳では、Now I'm ready to die and I want to look for some sweat stories.)」である。わたし(Cocco)は「死ぬ覚悟ができている」とでも言うのだろうか。

「想い事」の文章に、「私達の美しい島を、“基地の無い沖縄”を見てみたいと 初めて、願った。 じゃあ次は誰が背負うの? 自分の無責任な感情と あまりの無力さに 私は、声を上げて泣いた。 誰か助けてはくれまいか? 夢を見るにもほどがある。 私は馬鹿だ。 ぶっ殺してくれ。」とある。この言葉が歌の冒頭部分に照応しているのなら、(神様!)わたしの想いが間違っているのなら、いつでも「死ぬ覚悟はできています」ということになるのだろうか。もうここには、初期の歌詞に見られたドロドロとした情念や個人的な感情の屈折は見られない。「Heaven's Hell」の歌詞は、Coccoの個人的な情念の言葉が普遍性を持つものに昇華してしまったかのようだ。

「Heaven's Hell」のタイトルは、だから基地やゴミに象徴されるものが「Hell(地獄)」だというのではない。そういうものを産み出している人間の心の地獄を指しているのだろう。沖縄から基地をなくしても、どこか他のところに新たな地獄を作り出すことになる。ではどうしたらいいのか。そうした矛盾に引き裂かれる沖縄の人たちの苦悩もまた地獄なのである。
少女の頃、絶望の淵をさまよったCoccoが、いま、沖縄の痛みを自分の痛みとしてひきうけて歌う。そうすることで自らの個人的な傷を癒すように。それは「大人になっても持っておける」「忘れないでおける」ものを見事に昇華させた姿でもあると思う。そう思って聞くCoccoの歌はより一層美しく感動的ですらある。




2 コメント

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そっか…。 (伊藤)
2006-11-10 13:20:50
人の心にある「地獄」だったのか…。思いもつきませんでした。
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Unknown (ふるかわ)
2006-11-10 13:24:15
すごい難しい
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