高浜虚子の句に
去年今年貫く棒の如きもの
というのがある。
虚子の代表作のこの句について解説している大岡信によれば、「私は久しいあいだ、ここにいう『去年今年』が新年の季語であることを知らずに愛誦していた。去年から今年にかけて、長い歳月を貫いて、一本のぬっとした棒の如きもの――たとえば、鬼の金棒のような――が貫いているというイメージを思いうかべ、それに打たれたからである。ところが、『去年今年』という言葉は漠然たる一般概念としての去年および今年ということではなく、旧い年が新しい年にあらたまる特定の瞬間をさす季語だった」というのである。
えっ、そうだったんだ!
ボクも大岡信同様、何か漠然とした1本の棒のようなものをイメージして疑わなかった。
それが「特定の瞬間を指す季語」だというのだから、新年早々、びっくりさせられるとともに、目からうろこが落ちる思いを味わった。。
解説には続きがあって「このような季語は、約束の上に成り立った特殊な述語という条件のもとで、自然界という、いってみればのっぺらぼうに広がっている多様性の世界を、特定の尺度によって切り取り、鮮やかに一新してみせるのである。虚子の句はその意味で、自然界の類型的な分類語としての季語を新鮮に生かした一例といえよう」と指摘している。
そうだったんだ……新年早々大いに勉強になった♪
勉強ついでに目についた新春の句を三つ四つ並べてみむとする。
百合根煮て冬日のごとき妻たらむ 石田あき子
いざや寝ん元日はまたあすのこと 与謝蕪村
除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり 森澄雄
化粧(けは)ふれば女は湯ざめ知らぬなり 竹下しづの女
春立(たつ)や新年ふるき米五升 松尾芭蕉
鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春 榎本其角
竹馬やいろはにほへとちりぢりに 久保田万太郎
寄る計(ばかり)引く事のない年の波 武玉川
咳の子のなぞなぞあそびきりもなや 中村汀女
鯛焼やいつか極道身を離る 五所平之助(映画監督)
蕪村や芭蕉はさすがだし、万太郎もいい。そして「冬日のごとき妻」って、すごく魅かれる。
ボク? まだ一句たりとも詠んでないんだよなぁ……
近所の池と森の公園の陽だまりではスイセンが満開になって、辺りに芳香を漂わせている
わが家のスイセンはあと一息
中にツボミがいくつか透けて見えるが、開花まではまだ時間がかかりそう