平方録

「初日の出鍋」

元旦の早朝にシーカヤックで相模湾に漕ぎだして初日の出を拝むというような酔狂をしてきたのだが、あれはいつごろ止めてしまったのだろうか。

振り返ってみるとカヤックを手に入れたのが1990年である。
神奈川県が主催した1年間にわたるイベントで使われたシーカヤックが払い下げられることになり、30万円するフネが5万円で手に入ったのである。
最初の2、3年は車の屋根にカヌーを積んで移動していたが、ひょんなことから葉山に友人ができ、その友人が庭にカヤックを収納するラックを鉄パイプで作ってくれたおかげで随分と楽チンになった。
そこは玄関を出れば波打ち際みたいなところに家が建っていたので、これ以上ない条件だったのだ。

手に入れたのはポリエチレンで出来た全長5メートルほどのフネで船体は重くて持ち運びに難点があるのだが、耐久性と安定性に優れていて初心者向けだった。
波打ち際に建つ家の庭を艇庫に出来たのだから、その重量はほぼゼロになったと言えたのである。
それ以来実に気軽にカヤックで遊べたのだ。

体一つ持っていけばよかったので、休みの日には一人で相模湾に漕ぎだすことも少なくなかった。
会社組織で群れ、広いはずの社会にあっても何となく何かに縛られているような暮らしをしてきた身には、休みの日くらい群れから抜け出して自由に呼吸すべしと思っていたのだ。
広い海原に出て、ほぼ水面の高さから眺める陸地と海原の広がりは格別で、日がな一日、のんびり海を漂っていたものである。
男は群れから抜け出す時間が必要なのだ—―くらいにイキがってもいたのだ。

ニンバス社というアメリカかカナダの会社のパフィンというまっ黄色の船体をしたフネだった。
このフネに「ロバジェベパ」という名前を付けた。
カヤックを手に入れる直前にロンドン、バルセロナ、ジュネーブ、ベルリン、パリの順に回る出張があったので、その日本語の頭文字を順に並べただけのものだが、気に入っていた。

最初の内は2人で、すぐに同好の士は増えて3人で元旦の海に漕ぎだしていたのだが、そのうちわれらの酔狂はほかの友人たちにも知られるところとなって、行きつけのレストランバーの亭主に至っては「よし、浜で火を焚いて『初日の出鍋を』やろう! 支度一切は任せろ! 」と言ってくれ、それ以来数年は元旦の「初日の出鍋」はボクらの欠かせない行事となったのである。
波の荒い日や風の強い日、曇り空の日なんかもあったんだろうと思うのに、今思い出す当時の元旦は波のない海越しに富士山がきれいに見える穏やかそのものの元旦ばかりで、その静かな相模湾に漕ぎだして冷え切った空気を切り裂いて数百メートル沖まで行って戻ってくるころには鍋が出来上がっていて…

あの頃は本当に楽しかった。
仕事の上でもオレが会社を背負っているんだくらいに思っていたし、体からもそんな匂いがふんぷんと立ち上っていたはずである。

1人は後ろ指を指されるようなことをして仲間から離れて行ってしまった。
寄る年波と言うほどでもないのに、それぞれに体に不具合も抱えるようになってきて、そのうち2人は元気がない。
同じことをもう一度してみたいと思っても、そんな体力も気力もないぞという声が聞こえてきそうで、そうはっきり口にしないまでもあいまいな薄笑いを浮かべるだけが関の山かもしれない。
遠い日の思い出になってしまったようである。胸の奥にしまっておくほかはないのだろうか。

ジジイになると昔を懐かしむものだというけれど、今朝のボクはその典型かもしれない。




円覚寺黄梅院の松飾のっ松竹梅にスイセンがあしらわれ、ウメはロウバイが使われている




昨日もびっくりするくらい大きな月が昇ってきた=17:18
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