人はいかに生きるべきか――なんてことを常日頃から考えているわけではないが、「ああ、そういう具合に過ごせたらいいな」と思わされるような話や文章に触れる時がたまにある。
――その和尚は還暦にまだ少し間がある年齢だったが、末期がんを患っていた。
1月中旬のこと、自分の寺で知り合いの芸術家らが集った「五人会」なる催しが開かれたが、案内状には4人の名前しかなかったそうだ。
そして催し物当日、法話に臨んだ和尚は冒頭、叫ぶような大きな声で「なにがあっても大丈夫。今日1日 笑顔でいよう」と言って法話を始め、無事に話を終えたという。
その晩、様態が急変した和尚は病院に担ぎ込まれたが、本人のたっての希望で翌日寺に戻り、結跏趺坐を組んで坐禅をしながら45分経った頃、そのまま静かに息を引き取ったんだという。
この話を披露した円覚寺の横田南嶺管長によれば、五人会の5人目はまさに和尚自身であって、自らの命をかけた法話から入滅に至る経過、そして生き方そのものが出品作品だったのだろう、なかなかしゃれた味なことをするものだと感心していた。
横田管長は釈迦が亡くなった2月15日の「涅槃会」に関した話をしたのだった。
「諸々の事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させなさい」
この言葉がお釈迦様の最後の説法だとされている。
最後まで付き従った弟子が釈迦の最後が迫っていることを察知して嘆き悲しんでいるのを見て慰め、道を説いたのだと解釈されている。
しかし、この釈迦の態度と「今日1日 笑顔でいよう」という言葉で法話を始め、翌日坐禅をしながら息を引き取った和尚を並べて「夕日が静かに美しく沈んでいくように亡くなっていく」…これこそが言葉を超えた最後の教えだったのだと、最近気づかされるようになりました、と言うのである。
この和尚に関しては、横田管長の著作である『祈りの延命十句観音経』(春秋社)の中に出てくる文章を座右に置いていたという。
この本は2014年の東日本大震災後に出版されたもので、多くの犠牲者や被災者の姿を念頭に書かれているのは間違いない。
明日どうなるか 分からないけれども 今日一日 笑顔でいよう
辛いことは 多いけれども 今日一日 明るいこころでいよう
嫌なことも あるけれども 今日一日 やさしい言葉をかけよう
なるほどなぁと思う。
でも、こういう一見簡単そうなことが、実際には難しいんだってことを経験的に知ってもいる。
心がけてはみるつもりだけど…
円覚寺の総門前の踏切を横須賀線の電車が通過していく
通り過ぎる電車、遮断機の手前でじっと待つ人…踏切が好きである
佛日庵のハクモクレンのつぼみは順調に膨らんできている
このモクレンは中国の作家・魯迅から贈られた
居士林の庭のフクジュソウが咲きそろいだした
(* 横田管長の説法は円覚寺のホームページを開き「管長のページ」から「令和2年2月の日曜説教会 映像」をクリックすると見ることができる)