昨日の日曜座禅会で横田南嶺管長が「無心」の意味について説明するのを聞いて、これまで自分が思ってきたことと食い違っていたことに気付かされた。
曰く「無心というのは、あれこれ考えることを止めて心を空っぽにしまったり、心の働きをすっかり止めてしまったりしてしまうことではありません。むしろあれこれと周囲に気を配り、注意を払いながら何か必要とあれば、気がついたままを行動に移す。間違ったことに気付いたならそれをただし、手助けを必要としていることに気付けば、サッと手を差し伸べるようなことを、躊躇なく自然にふるまえる心をいうのです」と。
何物にも囚われない心で、周囲に影響されることなく、少々のことでは動じないような、いわば心を空っぽの状態にしておくことが無心だと思い込んでいた。
だいぶずれているではないか。へぇ~、そうだったのか! という思いである。
どうやら、何物にも囚われない心、というところは合っているいるようなのだが、心を閉ざしたり、心の働きを止めて周囲から隔絶してしまうような態度とは違う、という事のようである。
あいつは少々気に入らないから、この際手助けは控えておこうとか、こんなことで自ら手を出して汗をかくこともないだろうとか、誰かほかの人がやるのを待っていればいいのだ、などなど思ってはいけないんである。
恥ずかしながら、こういう心の働きは、振り返ってみれば少なからずあったように思う。
教えられたことを反芻してみると、これは口で言うほど簡単なことではないような気がする。
自分自身に置き換えてみれば、これは相当に難題だと言ってよい。
気付けば自分に近いところにもあると思い込んでいた「無心」は、単に心を空っぽにして心を閉ざしていただけに過ぎない、という事が分かり少なからずショックである。
「無心」が遠ざかって行ってしまったか、霧の彼方に消えてしまったような気分である。
無心の意味を参加者に伝えるためか、初めて管長が世話役の雲水を叱る場面に遭遇した。
座禅会では最初に般若心経などのお経を唱え、ついで配られる古い禅の教えをまとめた教本を見ながら管長の説明を聞くのである。
この時、管長はページを告げず、いきなり「第十四…」とやったのである。
参加者は当然戸惑う。何ページに第十四があるのか皆目見当がつかないのだ。
一同がまごまごしていると、後ろから座禅会の責任者の和尚の声で「○○ページを開いてください」という声が飛んだんである。
満座ではお経を主導する役目の雲水だけがページを開き、参加者がまごついている中で涼しい顔をしていたようである。
「周囲がまごついているのを気付かないのか。自分だけページを開いて涼しい顔をしているとはどういうことか。どうしてすぐに声を出して知らせないのか」と一喝したんである。
あたかも、お前さんだって無の心を得ようとして修業を積んでいるのではないのか、というところから「無心」の話に入って行ったのである。
なるほど、こういうのも無心なのか…
厳しさでは群を抜くといわれる円覚寺僧堂での修行の一端を垣間見た気分である。
この叱られ雲水は最後のお経を読む際、経典のページ数を口にしてからお経を唱え始めた。
禅に興味を持つようになって50年になる。少々本を読んだり、最近では日曜日に短時間座るようになったが、そんなことくらいでは何も分からない、というのが正直なところだが、まぁ、この日のように勘違いを正されたりして目からうろこが落ちるのが嬉しくもあり楽しくもあるのだ。

山採りしてきたニリンソウが今年もわが家の庭で可憐な花を咲かせ始めた