元リンパ腫患者の日常

リンパ腫関連 と 日々の暮らしを書いていきます。

Cartier No.6 「9歳の私が4、5クールを終えるまで」

2021-08-04 07:33:00 | 未分化大細胞型リンパ腫体験談
ここまで来ると途中からでは 理解が難しくなってくると思います(@_@;)


Cartier No.1から読んでいただけるとここまでの状況が分かると思いますので宜しくお願い致します。


さて ムーンフェイスで体重増加....
抗がん剤を投与しさらに自由にならなくなったカラダに鞭を打ち 骨髄移植 外泊へ。 なんか 家に帰ってくると元気が出るんですよね。

この時期から異変が起こるんです。

病院 病棟の匂いを嗅ぐと安心する自分もいるんですよね。

さぁ4クール目の始まりです。

ここでまた カラフルな抗がん剤。
アセロラジュースなんですよ(笑)
「ダウノマイシン」
ダウジングとタイムマシンを混ぜたような名前しやがって。
これも もちろん抗がん剤なので凄く気持ち悪くなりますね。


もう4クール目なんて 気持ち悪くて 気持ち悪くて。起きては いますが 水分すらのどを通りません。

そんなんで4クール目が終わりました。
やっと半分超えたのか。
もう意味のわからない辛さ。


5クール目です。
副作用が最大に出てきました。
この頃からでしょうか?
戻したモノが赤くなり始めたのは。
副作用で胃潰瘍になっていたのです。
もうここまでくると起きているのか寝ているのかわからない状態です。

友達は ベットと天井。

投与の初日以外ほぼ目を開けて閉じる。トイレその繰り返しで。

目を開ける 。12時。目を閉じて また開ける6時。 私のベットに置いてあった時計はアナログだったので 今が昼なのか夜なのかは 病室の証明の点灯で判断していました。

そして
5クール目終わりました。
この頃になると病院食ではなく 食べられるものを食べてください。と医師から指示がありました。
コンビニ テイクアウトなんでも良いです。
とりあえず食べて体力を戻してください。

とんでもない状況です。

本当に治るの?と思ってしまうほどボロボロでした。


骨髄抑制 外泊です。

この次で あの世を見に行くことになるとは。還ってきましたけどね(笑)

Cartier No.5 「9歳の私が3クールを終えるまで」

2021-08-03 08:26:00 | 未分化大細胞型リンパ腫体験談

2クール目にはリプトン レモンティー(メソトレキセート)にボコボコにされたわけですが 骨髄抑制でまた 外泊が可能になりました。
もう 2004年2月です。
頭が寒いです。全て髪の毛が抜けてしまいました。

楽しかった外泊から病院に戻る日。
あんな思いをするために病院に戻るのか。9歳の私は泣いていたそうです。

母は言いました。
あと5回で元気になれるんだよ! 大丈夫大丈夫!と。
大人からしたら 抗がん剤を体験したことないやつが口先だけで「大丈夫大丈夫!」なんて口にするな。とぶちギレると思います。
でもそこは 子供と大人の違いで

いつも
底抜けの明るさと
プラス思考の母に言われると なんだか本当に大丈夫な気持ちになり 頑張れました。
後から思えば幼き私には
母と言う存在が心を治せる一番の薬でした。


なんだかんだで....3クール目です。

いつもの お守りみたいな吐き気止めカイトリルと 攻撃部隊 抗がん剤さん投与です。

ここでまた不思議なお薬登場です。
「プレドニン」
強いステロイドです。副作用は
満月様顔貌(ムーンフェイス)
はい? 副作用が出るまで全く何のことか分かりませんでした。
副作用がでて 「あっ。このことね。」直ぐにわかりました。
私は 幼いときから痩せ型だったのですが顔が 満月のようにパンパンに....
浮腫ではなく脂肪です。なんせお腹が空くのです。
食べても食べても何か食べたくなる。昔から納豆が大嫌いで匂いでダメになるくらいなのですがその時は 普通に食べましたね。
調味料ですら食べちゃうくらいで....
(トマトケチャップとかマスタードなど)
その爆食も副作用なのです。

ただ抗がん剤投与の5日間は プレドニンの負け。抗がん剤の吐き気には勝てず 口にできたのは飲み物だけです。


服用しているときは太りすぎて体を支えられなくなり車イス移動でした。

今回の治療は
重い体と 明らかに強くなってきた抗がん剤の副作用で 心が圧迫されつつも乗り越えました。

3クール目終了です。
先が見えてきた....と思った矢先
本当の辛さはここからでした。





Cartier No.4 「9歳の私が2クール目を終えるまで」

2021-08-02 07:45:00 | 未分化大細胞型リンパ腫体験談
最初の1クールが無事に終わり 抗がん剤は大したことないと 心の中で思い始めていた頃。


最初の骨髄抑制は とても回復が早く直ぐに血液の値は ほぼ元の状態に戻りました。

2クール目を行うため 病室に戻ります。
病棟の入口へ向かう通路に売店がありました。 そこで まちがい探しの雑誌とお菓子をたくさん買って貰った記憶があります。
何気無いことですが 母子家庭の私には 売店やコンビニで 今まで雑誌やお菓子をたくさん買ったことがなかったからです。


治療 は月曜日から始まり金曜日で終わる。 なので 病院に戻るのは 日曜日の夕方~夜です。

病室に到着。

次の日。
検温をし CVカテーテルからの採血。CVカテーテルが通っていると 血管に針を射さなくても血液が採取できるのです。
なので朝 寝ているときに採取されていることも しばしばありましたね。

10時前後
採血の結果が出て 値がOKな数値であれば治療開始です。1クール目同様にソリタという水みたいなモノからスタートします。
抗がん剤 も吐き気止めの薬もほぼ 同じに見えました。

抗がん剤スタート。ん?なにか違う。ダルいような....なんだろ。
投与は何事もなく午前中に終わりました。
昼食になったのですが食欲がないんです。
そして若干 気持ちが悪いような....でも 気のせい?程度でしたね。
(後から思えばこれが副作用だったのですね)

そして 体に目に見えて副作用出てきました。髪の毛が抜け始めたのです。
2クール目が始まる頃に現れました。
寝転がったりしていて数本抜ける程度でしたが....異変が起きた最初の日から数日後には手で触れただけででもごっそりと抜けました。
抜けているのに 抜けている感覚がしないのです。腕についている埃を払う感覚で髪の毛が抜けます。

抜けた髪の毛の根元は毛根では
なく子猫の毛より細くなり 抜けている と言うより切れている?に近いのでは と思いました。冗談抜きで そよ風で飛んでいきます。


医師からは細胞の成長が早いところから症状は出る。と聞いていましたが 抗がん剤治療をしている方のほとんどが 髪の毛から抜けるそうです。

私は
髪の毛→眉毛→まつげ
の順で抜けていきました。髪の毛、眉毛は完全に全て抜けましたが まつげ だけは少し残っていました。

髪の毛は抜けてしまうよ。と事前に医師から伝えられていましたが
いざ抜け始めるとなんとも言えない気持ちになりますね。
髪の毛 眉毛 まつげ もない。抗がん剤で顔の血色も悪い。(青い) 痩せている。鏡に写るのが自分の知っている自分ではない。
悲しみに潰されそうです。

それでも私は明るくいることができました。
いつもプラス思考の母が側にいてくれたから。

2クール目最後の抗がん剤。

これは?(笑)
リプトンのレモンティー?
と言うような抗がん剤でした。
いや。私 比べてみましたがリプトンのレモンティーでしたね 。
「メソトレキセート

そして
めちゃめちゃ気持ち悪くなるのです。
胃腸炎かな?と思うほどに。
ダウンしながらも リプトン レモンティーを打ち終わり
その日の夕飯....なにも食べられません。なにも食べたくないのです。ただ目を閉じていたい。
記憶にはないですが その日は 麦茶しか口にしなかったそうです。


こうして 抗がん剤が牙を向き始めた2クールが終わりました。
あと5クールあるなんて。



Cartier No.3 治療内容の説明と初めての抗がん剤

2021-08-01 07:58:00 | 未分化大細胞型リンパ腫体験談

まず CVカテーテルを挿入に治療の準備が完了した私ですが 具体的な治療説明はまだ聞かされていませんでした。
(母は説明を受けていたのだと思いますが私は全く知りませんでした)

そして なんと2004年の時は
まだ私の病名が確立されていない様で
病名はリンパ腫の一部の変化しているものとされていたようです。

まず医師からは
真面目な顔で強い薬を 7クールやります。と言われました。1クールは 抗がん剤投与 休養を含めたもので それを7回繰り返すのだとか。

治療5日間→休養15日間(骨髄抑制のため)
休養の15日間で 血液の値を元の状態に近づけ また抗がん剤で叩く。その繰り返しです。


私の治療は①、②、③のグループに分かれていて
①→②→③→②→③→②→③
と言うサイクルでした。

まだ あれほど恐ろしい副作用が待っているなど 夢にも思いませんでした。 細かな説明は幼い私の記憶には残りませんでしたが薬の前は 結構覚えてしまっていました。

説明を受け 次の日。ついに始まりました。
抗がん剤は 体にかなり悪いため直ぐに排出させるため常に点滴を打ち続けます。
「ソリタt1」ってやつだったか「ソリタt3」ってのだったか....
を常に打ちます。なので本当にトイレが近くなります(@_@;)
二時間に一回はトイレですね。

そして
抗がん剤「エンドキサン」
吐き気止め「カイトリル」←注射器で打つタイプですね。

投与終了。....
あれ?辛くないぞ?
医師に聞きました。思ってたより辛くないのですが....?
医師は 優しく私には言いました。
「抗がん剤は 使用すればするほど副作用が強くなっていく傾向があるから辛くなったら直ぐに言うんだよ」と

使えば使うほど副作用が強くなる?....たまったもんじゃない(..)

看護師さんからは
コップにお水を少しずつ足していくのをイメージしてもうと分かりやすいと思うんだけど ずっと足していくといつかコップから水が溢れてしまうでしょ?その溢れたときが副作用のでる時かな。 と

幼い私は その説明で納得できました。
私は覚えていないのですがその答えに
「そのコップは大きくできないの?」など子供らしい質問をしていたようです。

最初の1クール目は ほぼ副作用がなく終了しました。
治療を終えて1週間くらいすると抗がん剤で叩かれて弱った骨髄も徐々に回復し白血球、血小板、赤血球が一定の数値まで回復すると外泊が許され家に帰ることができました。

入院の日から約3週間 外に出れませんでした。
久々に外に出た9歳の私が思ったこと。

「外の世界はこんなに輝いているんだ。」

と 嬉しくなった反面 外泊で外にでれているだけなので 数日後には またあの病室に戻らなければいけないことを思いだし悲しくもなりました。

家に帰ると 退院したのではないか?と勘違いする位 に 祖父祖母や 従妹 家族総出でお迎えしてくれました。
子供ながらに家族の温かさが
身に沁みました。


以上 初めての抗がん剤まででした。


Cartier No.2 「9歳の私が入院からCVカテーテル挿入まで」

2021-07-31 19:52:00 | 未分化大細胞型リンパ腫体験談
2004年1月中旬

母の運転する車で病院へ到着。
(埼玉県立岩槻小児医療センター)

12月に検査入院で1泊したあの病室にまた戻ってきてしまった。

私は1人その部屋に残され母は医師と看護師に連れられ別室で話をしていました。

結構待った記憶がありますが1時間くらい待ったでしょうか?
母が戻ってきて 私にこう言いました。
「病気になってしまったから少し入院して治さないといけないんだって!」
と言いました。
普段から明るくプラス思考の母 がいつもの調子で言うもんだから何も気にならず ましてや自分が死ぬかもしれない病に犯されてるなんて知る余地もなかったです。

今思えば 母は私が心配しないよう 自分の中で必死に押し殺していたんだと思います。

→1月下旬
入院してから数日間 病院食を食べ薄味に飽きてきました。食べ続けるのかなぁ....と少し悲しくなっていました。

この数日間で様々な検査を行いました。凄く簡単に説明すると

・CT検査
→体を輪切りにして断面を見る。

・MRI検査
→磁力を使って体の血管などを立体的に見る。

・心電図
→心臓の検査。

・様々な項目の血液検査
→普通より多く採取される。

骨髄穿刺(マルク)
→ボールペンの先程の太さの針を腰辺りに刺して骨髄腔内に穿刺し骨髄液を採取する。

※凄い適当な説明で失礼します。


上記の検査を終えて 待ち構えていたのは
CVカテーテルの挿入手術です。
CVカテーテル挿入と共に首の茹で卵程のガン細胞の摘出のため 全身麻酔をするようです。
手術台に移り 麻酔をするため酸素マスクのようなものを付けられました。
優しい笑顔で看護師が言いました。
1から数を数えてみようか(*^^*)
数を数えている「1…2…3………。」記憶が無くなりました。
かなりの速効性がありますね(・・;)

目が覚めると8時間は経過していて昼に手術室に入ったのにもう外は真っ暗でした。
右の首 右の胸に痛みがありました。
でも麻酔がまだ残っているようで 違和感のある痛みと言ったらいいのでしょうか?不思議な痛みでした。

夜中になり麻酔が切れて痛み出しました。痛み止めをもらい その夜は眠りました。


ようやく治療の準備ができました。
ここから6ヶ月の長き戦いの始まりです。