岐阜県関市、迫間大雲寺の十六善神祭へ…。
7月16日、お天気がよく、暑い日となりました。
迫間大雲寺では、一年に一度、この日だけ、
本堂に寺宝の十六善神、十六善神曼荼羅の
掛図が掲げられます。また、霊験あらたかな
”雷除け”のお守りが授与されています。
”十六善神図”と”十六善神曼荼羅図”は、
普段非公開…。公開されるのは、毎年7月に
開催される”十六善神祭”の日だけでした。
誰でも本堂に上がって自由に拝観できます。
申し込みも不要ですし、拝観料も無料です。
雷除けのお守りは、昔は山歩きする人や
ゴルフをする人達の間で人気でしたが、
最近では、受験生さんに人気だそうです。
つまり、「落ちない…!」、からでしょうね…。
さっそく大雲寺本堂に上がってみましょう。
十六善神の掛図がずら~っと掲げられ、
その前には甲冑が3つ展示されています。
右の2つは甲冑づくり同好会の方の作品です。
一番左は、関市の文化財に指定されている
江戸時代の甲冑…。当時、迫間の領主だった
旗本大嶋家のお殿様着用のものだそうです。
そうなんです…!このお寺の寺宝の甲冑は、
93歳で関ヶ原の戦いに参戦した伝説の武将、
大嶋雲八の子孫の方が愛用したものでした。
なぜ旗本大嶋家の甲冑がここにあるのか…?
実はこの大雲寺は、戦国武将、雲八さんが、
天正11年ごろに建立したお寺なのです…!
天正10年には”本能寺の変”がありました。
お寺が建てられたのは”本能寺の変”の頃、
激動の戦国時代、真っただ中のことでした。
また、お寺を建立したのは、雲八さんの三男
雲四郎光俊さんだった、という説もあります。
どちらにしても、旗本大嶋家ゆかりの寺です。
雲八さんの三男、雲四郎さんは、関、迫間の
初代領主でした。この地の領主となったのは
関ヶ原の戦いの翌年のことだったそうです。
甲冑師の先生による、雲四郎さんの甲冑の
説明がありました。この兜、梅の花の飾りが
印象的です。実戦用ではないようですね。
この甲冑は江戸中期のものでした。今でいう、
”ブランド品”だそうです。江戸時代の有名な
甲冑師、早乙女家忠さんの作品だそうです。
髭のあたりにうっすらと線が描かれています。
これって、ちょっと珍しい細工だそうです。
家紋の揚羽蝶と梅の飾り金具も繊細な感じ。
さすが、”ブランド物の甲冑”なのでしょうね。
この日、お寺ではいろいろな企画が目白押し。
子供向けの体験学習や、昔話”十六善神”の
紙芝居などもあって、盛り上がっていました。
和尚さんによる法要は、15時からでした。
参拝者さんの災難を除けるための読経や、
お盆のお施餓鬼供養の読経がありました。
本堂での読経が終わると、次はお墓へ…。
本堂裏に旗本大嶋家代々の墓があります。
もちろん、雲八さんのお墓もありました。
雲八さんのお墓で和尚さんが読経します。
旗本大嶋家、先祖代々の供養だそうです。
あれ~っ? お墓の立札に注目を…!
「うっそ~!雲八さん、56歳没になってる…。
確か、93歳で関ヶ原の戦いに参戦した後、
97歳まで生きたハズ…。これ、おかしい…。」
「本当だ…。56歳で没になっている…!」
「しかも。関 藩”主”が関 藩”王”に…?」
「雲八さん、関の”キング”なのですか…!」
雲八ファンとしては、ツッコみたいところです。
何といっても雲八さん、ご長寿武将で知られ
歴史小説”93歳の関ヶ原”の主人公だから…。
ちなみに雲八さんは56歳の時に、すべてを
失い、敵だった信長に仕えるようになります。
雲八さんの第2の人生スタートの年でした。
さて、法要が終わると、”餅投げ”でした。
参詣者全員に、丸いお餅が配られます。
昔から、”餅投げ”と呼ばれていますが、
今の時代、お餅は投げないですよ~。
ポリ袋に入れて参拝者に手渡されます。
無病息災のご祈祷をしたお餅だとか…。
”餅投げ”が終わると”十六善神祭”は終了、
本堂では、掛け図の後片付けが始まります。
”十六善神祭”、地元の方々の手により、
長い間、ずっと伝承されてきました。
ご苦労も多かったことでしょう。でも…、
これからもずっと、お祭りの伝統を
後の世に伝えて欲しいものですね。