八障連ブログ

八障連(八王子障害者団体連絡協議会)運営委員会より、情報提供を行っています。(「八障連について」カテゴリーを参照)

八障連通信332号をアップします。

2018年02月24日 21時32分08秒 | 八障連通信
八障連通信332号をアップします。


八障連通信332号【PDF版】はこちらから。


通信mp3音声版です。下にテキストで本文を掲載しています。
事務局通信 Vol.45(mp3音声はこちら)
お知らせ掲示板(mp3音声はこちら)
投稿 閉ざされない関係の中から 結の会 代表理事 脇田 泰行(mp3音声はこちら)
連載コラム 『日々のなかから、』 <寒い日に...> Vol.41 八障連代表 杉浦 貢(mp3音声はこちら)
連載コラム B 型肝炎闘病記 パオ 小濵 義久(mp3音声はこちら)
編集後記(mp3音声はこちら)




ここからは通信本文です。


【事務局通信 Vol.45】
1月 25 日開催の運営委員会において、通信前号でお知らせしたとおり 2 月、3 月の活
動の詳細が以下のように決まりましたのでお知らせいたします。

<2/17 市議懇談会開催します>
毎年恒例の、八王子市議の皆様との懇談会をクリエイトホール5F の展示室にて午後 1 時半~3 時半で行います。今回の議題は1【交通バリアフリー:音響式信号機および変則的信号機の設置のあり方について】、2【障害福祉サービスと介護保険の統合について】、3【富士森体育館ジムの障害者団体の利用について】などとなっています。多くの会員の皆さんのご参加をお待ちしています。また本号に「市議懇談会の主要テーマ」を参考資料として同封しておりますのでご一読ください。
<3/17 福祉フォーラム開催します>
こちらも恒例ですが、今年は映画上映「DX な日々―美んちゃんの場合―」と映画に出演されている、砂長美ん氏をお迎えしてのトークライブを行います(八王子労政会館2F 午後 1 時半~4 時 15 分)。今回はディスレクシアという障害(知的に問題はないものの読み書きの能力に著しい困難を持つ症状を言います。)を中心にした企画となり、当事者の砂長美ん氏をお迎えしての時間を持つこととしました。3 月 17 日ですので、もしかしたら、春を感じられる陽気になっているかもしれません。市議懇談会同様に、皆さんの参加を期待しております。(文責/事務局 後藤)
<病棟転換型居住系施設を考える会拡大寄り合いに参加して>
2 月 8 日、参議員会館 B107 会議室において、「病棟転換型居住系施設を考える会・拡大寄り合い」が開催されたので参加してみました。昨年の国会では、相模原やまゆり事件を契機にして政府より「精神保健福祉法改正案」が提案されましたが、国会の解散・総選挙により廃案となりました。しかし今国会で再上程が予測されており、日弁連が障害者権利条約を踏まえ、「精神保健福祉法の改正」の法律案を提出すべきではないとの意見書を発表した、との報告が日弁連・高齢者障害者権利支援センターの幹事である佐々木信夫弁護士より報告がありました。ここでは紙面の関係で詳細は報告できませんが、今国会の動きをしっかりウオッチしていきましょう。(文責/編集部 山田)


【お知らせ掲示板】
★市議懇談会は 2/17(土) クリエイトホール5F の展示室にて、午後1 時半~3 時半、福祉フォーラムは、3/17(土) 八王子労政会館2F にて、午後 1 時半~4 時 15 分となります。(運営委員会)

市議懇談会 2 月 17 日(土) 13:30~16:00 クリエイト展示室
八障連運営委員会 2 月 22 日(木) 18:30~20:30 クリエイトホール試食コーナー
八障連主催 福祉フォーラム 3 月 17 日(土) 13:30~16:00 八王子労政会館ホール


【編集後記】
前八障連運営委員・現顧問の脇田氏より投稿がありました。30 周年を迎え、「結の会」の現状を結成当初の状況を振り返りながら、今後の方向性を探っていくという内容となっております。会員間の現状を共有するという観点からも、ぜひ「八障連通信」を利用して情報発信をしていただきたい。投稿熱烈大歓迎で~す!! (Y)



【投稿 閉ざされない関係の中から 結の会 代表理事 脇田 泰行】
新しい年を迎え、寒さが身にしみる昨今、みなさまいかがお過ごしでしょうか。結の会は様々な課題を抱えつつも、今年もていねいに向き合って歩んでいこうと考えております。
さて、結の会は今年で 30 周年を迎えます。30 年のお付き合いのある方も、最近出会いが生れた方も、この積み重ねた土台の上に今立っています。30年前「若者」と呼んでいたメンバーは 40 代、50 代を迎え、職員や理事も年をかさねてきました。
当初、学校卒業後、「共に働く場」をつくろうと、蓄えも助成金もなく会員の会費と寄付のみで出発し、その後市の通所訓練補助金を取り、NPO法人としました。障害者総合支援法が施行されると、その枠の中に入るか否か検討を重ね、結果として現在はこの支援法下の「障害福祉サービス事業所」として活動しています。
また、2人から始まったメンバーも今は 20 人、職員も 10 人を超えました。仕事は創意工夫を重ねながら、生協のチラシの帳合いは大きな収益源になっています。農園で採れたブルーベリーなどを加工するジャム工房もでき、和紙づくりも軌道にのっています。また、建物も頂いた飯場のプレハブを皆で移築し使い始め、7年前には大幅な増改築をおこない新作業棟と生活棟ができました。これらのことは、出発当初は全く予想できなかったことです。会員の皆様の
ご支援を始め、多くの方々との繋がりを得て、今があると思っております。
結の会は創立当初から、ずっと「共に働く場」はどうあったら良いのかを模索してきました。しかし、その「お手本」は無く、「共同連」の事業所に何回も出向き交流を重ねました。また歩き出したばかりの「八障連」や三多摩の仲間と作業所の在り方を話し合いました。一方で都や市の福祉課に、補助金の増額や制度の在り方の交渉を何度も行ってきました。それは切実なものでしたが、今思えばある種の新鮮さと活気があったように思います。
今、障害者は生れた時から、いや生れる前から、「特別な支援の場」が用意されています。そして、教育の場においても卒業後も、生産性によって類型化されてきています。この流れは今後、更に強力に加速していくように思います。八王子市の隣、相模原市で起きた「津久井やまゆり園事件」は社会全体が歪み、軋み、悲鳴を上げている表れのように思います。根は深い。「結の会」では障害の「重い人」も「軽い人」も混在し、みんなでそれぞれの役割を工夫し担ってきました。そして、そこでの関係性のおもしろさや難しさを味わいながら歩んでいます。しかし、制度は利用する手段だと思うしかありません
が、矛盾とジレンマを常に抱えています。こうしたつくられた「特別な支援の場」では、結局外の世界に目を向け繋がらなければ、限りなく煮詰まり、閉塞していきます。その日常が当たり前になり、くりかえされていくことを危ぐします。とはいえ、答えのでない事が、これからも沢山起こるでしょう。
「老い」や「病い」や「障害」は実に人様々です。また、人とは不可解で不思議な存在です。だからこそ、自分を労(いたわ)り、自分を労わることが他者と共感し合い連帯していく、そんな想像力を持ちたいと私は思います。「結」は閉ざされない、閉ざさないで歩んできた多くの人との、多様な関係を財産にしていきたいと思います。そして、そこから進む道筋、共に生き合える可能性の芽を模索していきます。
先日、「結の会」に工事で来た水道屋のオジサンが、たまたま玄関でメンバーの北原孝志さんと出会い、しみじみと呟きました。「同級生だったんだよ~」「ちっとも変わらねえな~」と。その言葉と眼差しが何とも優しく、温かい! 北原さんは思い出したのかどうか?・・「おーおー」とうなずきました。その日、私はとても幸せがいっぱい!だったのはいうまでもありません。では、皆様、今年もよろしくお付き合いください。(「結の会通信」 NO84より抜粋)


【連載コラム 『日々のなかから、』 <寒い日に...> Vol.41 八障連代表 杉浦 貢】
ラムとして原稿を書かせていただくのは新年最初になりますね。改めましてみなさま、新年あけましておめでとうございます。今年も八障連通信をよろしくお願いします。
多分に社交辞令も含んだ上でお声かけをしてくださっているものと思うのですが...市内のいろいろなところに出向くたびに『杉浦さんの原稿、いつも
読んでいますよ』と、言っていただいているのが、執筆の上でいつも励みになっています。本当にありがとうございます。
この原稿を書いている時点『平成 30 年 1 月 24 日(水)』では...月曜から降り出した、最高積雪 20 センチもの雪がなかなか溶けず、自宅アパートの周りの道にしぶとく残っています。まだまだ雪が残る路面を車いすで走るには危険が多いということと、あまりにも低い外気温が体力を奪い健康面に悪影響が及ぶのを避けて、この 3 日というもの『積極的引きこもり』の状態です。ただでさえ寒い上に足元も悪い中、それでも時間通りに遅延もせず家に来てくれるヘルパーには頭が下がります。
家の中にいて暖房を全開にしているにもかかわらず、なかなか室温が上がらず、コタツから這い出るのもおっくうになりますね。4 年前の大雪ように玄関前が真っ白になったのには驚きましたが、4年前のように水道管までは凍り付いていないようです。
悪天候で家から出られず...さぞかし時間をもてあますかと言えば、実はそれほどでもなく、昨年末に訪問した学校さんから、後日届いた追加の質問状に回答したり、やはり年末に、立教大学の新座キャンパスで講演した時に、学生さんから送られてきたリアクションペーパーに目を通し、来期の講演の参考にしたり...引きこもりは引きこもりなりに忙しい、というか、引きこもっていなければなかなかできないお仕事に没頭できているので、これはこれでありがたいです。
ただ...文章を読んだり考え事をしていると、ついつい甘いものが欲しくなるのが悩みでしょうか。東大和から八王子に移り住んで 20 年が過ぎ、雪が降って外に出られなくなるという事態も、記憶にある限り 3回目か 4 回目くらいになりました。
初めの頃は『雪が降った。どうしよう!』などと、えらく驚いて慌てたりしたものですが、いいかげん歳を取ったせいなのか、あるいは場数を踏んだせいなのか...我ながら妙に落ち着いているだけでなく、外出不能でどうにもならない今の状態を、心のどこかで楽しんでいる自分を発見して、ちょっとだけ喜んでいるところです。
障害者として生活していれば、雪の日だけでなく普通の日でも、生活の中で不便や不自由に行き当たることは多いもの。そうした、なかなか自分の思い通りならない状態を、いかに上手に受け止めてさばいていくか。というのは、ずっとつきまとう課題です。
全ての不便さ不自由さを笑って受けられるようになるのはなかなか難しいことですが、できる事ならば...困難にクサクサするだけでなく、目の前に不便や不自由がある状態だからこそ、そこにやり甲斐や楽しさを見つけられるようになりたい...ゆっくりとでも、そういう余裕を備えた自分を作っていければいいなあ。と思っています。
最後に...個人的なことですが、今年は年明けから縁起のいい出来事が続き、好スタートを切ることができました。2018 年は私にとって変化の年になる予感がしています。願わくば読者のみなさまにとりましても、本年がよい年でありますように、心よりお祈り申し上げます。


【連載コラム B 型肝炎闘病記 パオ 小濵 義久】
ゲシュタルトセラピーと似ていると思われた竹内レッスンであるが、「からこと」のスタッフには大学の同級生
(心理学科)である三好哲司がいた。しかし、私が通い始めた頃には竹内さんの元を離れ、文章を書いたり、自分でワークショップを主催したりして、竹内さんからの自立を目指していたようである。「からこと」のワークショップは不定期に行われていたが、三好がいなかったこともあり、そちらには参加しなかった。
演劇コースとしての 3 か月の講座に、私は参加した。週 3日夜にレッスンがあり、1 日は竹内さんと研究所スタッフ(主に演劇コース・スタッフ)、1 日は野口体操の講師として池田淳子(後程「イケダ自然体操」と称するようになった)さん、1日はダンス講師として葉桐次裕さん、月に 1 日は発声講師として増井禎紀さんが来られていた。3 か月後には発表会として芝居の公演をアトリエで行った。発表会の前の 1 週間は毎日稽古なので、普通の勤めをしていてはできない話であった。公演は 1985 年 3 月 23,24 日の 2 日間あった。準主役のダブルキャストとして、私は 24 日だけに出演した。私の人生でこれほど充実した時間を過ごしたことはないという日々だった。水上勉の「ブンナよ、木からおりてこい」を研究所で脚本化したもので、私はブンナに食べられるネズミを演じた。
勤めていた病院の給与体系が 20 日締めになっていた為、20 日が退職日になっていて、その前の数日間は残っていた有給を当てさせて貰い芝居に集中した。前回書いたもう一つの魂胆というのが、この芝居をやるということ(役者として舞台に立つ)だったのである。竹内さんの処に通えば、治療的な研究と芝居の両方ができると考えたのだ。大学進学時の進路は、一つは医学部、もうひとつは心理学科と芝居のどちらかの選択だったが、最後まで決めきれずに医学部と文学部の両方を受験することにした。その経緯に触れるとこれまた本が 1 冊くらい書けそうなので、端折らせて戴く。ハラショー!
最終的に、心理学と芝居の両方ができると思われた大学に入学して、自由舞台という劇団に入り、芝居をやり始めた頃は全共闘運動の揺籃期であった。政治運動に半ば絶望していた私は、学生運動に背を向け芝居にのめり込んでいた。
初めて関わった公演は、清水邦夫の「あの日たち」という脚本で、キャスティングの為のエチュードが繰り返されていたが、私は一度もエチュードに参加できなかった。とてもじゃないが、人前で演じるという行為が恥ずかしくて、恥ずかしくて、稽古場の舞台の上に立てなかったのである。音響効果の裏方と
して生まれて初めての公演に関わった。
この次の公演では、清水の舞台から飛び降りる覚悟で役者に挑戦しようと考えていた。ところが、公演終了後「あの日たち」の演出を担った先輩が全共闘運動に巻き込まれ(自分から参加したのかもしれないが)、指導部に入り込んでしまった。その為、劇団全体が全共闘運動に巻き込まれることになり、本部校舎のひとつの建物(屋上にあったプレハブ小屋を稽古場として利用していた)を芸術・表現系サークル数団体で占拠し、バリケードを築いて籠ることになった。
最終的に、全共闘運動の大きな柱の一つである「自己否定」の論理で劇団活動も否定し、解散という暴挙(今から考えると)に出てしまったのである。その時点で舞台の上に立つという夢は消し飛んでしまった。ただ舞台の上に立つという事で言えば、他の劇団に行けば可能な事であり、戦列を離れて行った人たちもいる。風間杜夫はそのひとりであった。ただ、私は巻き込まれる中で、政治運動にない高揚感と使命感を一時は感じ、デモ指揮をしたりしていて、芝居に戻る精神的ゆとりは当時持ち合わせていなかった。舞台に立てなかったという悔しさはその後もずっと抱え続けていた。だから、竹内演劇研究所のチラシに巡り合えた時、千載一遇のチャンスと考えたのである。転職の時期と言い、ベストタイミングであった。この時を逃せば、舞台の上に立つという事は二度とできないだろうと思った。




通信本文はここまで。

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