はせがわ鍼灸院 院長の『ハリハリ日記』 http://www.shinkyu.in/

ちょっと変わった経歴の、鍼灸院・院長による
こころがホットする日記です。

尾道ラーメン

2010-07-23 23:58:33 | Weblog
ラーメンほど、
その土地の味がするものはない。

「広島ラーメン」のスープの色は
コーヒーのように茶褐色だ。
これは、醤油味のタレに豚骨、鶏ガラ、
そして、、、
瀬戸内の小魚による「いりこだし」を加え、
濁るまで煮出したものだから。


しかし、その味は驚くほどあっさり、さっぱりしている。のど越しも胃にも優しいラーメンだ。

ここで写真を載せる。

予定だったが、写真撮るのを忘れた。
つーか、カメラをバッグに置いてきた。


太平洋戦争後、
広島では原爆の被爆による
全市壊滅状態から復興していく過程において、
ラーメンの果たした役割は大きい。

お好み焼き同様、
安価でボリュームのある粉モノは、
人々の空腹を満たし、虚無感を和らげた。


せっかく広島まで来たのだから、
日本三大ラーメンの一つにあげられている
「尾道ラーメン」を求めて
アッチをうろうろ、
コッチをうろちょろ。

見つけた、広島市内で食べられるメチャうまのお店。

ここで写真を載せる。

ふふふ、こんどはちゃんと持ってきた。






広島ラーメンにくらべ、
尾道ラーメンは背脂をチャチャチャッと
スープに乗せるコッテリ系。

戦前、
中国福建省から尾道へやってきた人物が
考案したと言われている。

戦後は雨後のタケノコのごとく
アチコチに屋台が出現したそうだ。


で、いま書いたように
尾道ラーメンは「コッテリ系」だと思い込んでいたが、
実際は軽く裏切ってくれた。
実にあっさりしている。









なるほど、歴史といい、味といい、
文句のつけようがない完成品だ。

で、ラーメンでこんなに字数とっていいのか?
たぶんダメだと思う。

このにやけた顔はどーだ?
やっぱりダメだろう。


広島焼き

2010-07-21 20:07:47 | Weblog
食ったぞい。
初めての広島で
初めての本格「広島焼き」。







お好み焼きのルーツは、
安土桃山時代の
千利休が作らせていた「扶焼き」。

この扶焼きが
明治時代に「もんじゃ焼き」に変化し、
昭和になるとウスターソースの普及により
「一銭洋食」と呼ばれるようになった。

一銭は文字どおり「安い」
「洋食」とは、当時、モダン。

それが大阪に伝わって
「チョボ焼き」になり、
戦後には関西方面や広島において
「お好み焼き」と呼ばれるようになった。


大阪と広島のお好み焼きの違いは、
タップリの小麦粉の生地と
キャベツを混ぜ合わせるのが「大阪」式。

「広島」式は、
クレープ状に敷いた小麦粉の生地に
野菜や肉を乗せて焼く、
そのコテコテさ加減だろう。








どうせ食うなら「元祖」だろう。
広島市内にあるお好み焼き村の「みっちゃん」に行った。

そもそも、「村」って。
たしかに、まわりは、お好み焼き屋さんだらけだ。








「なんなんだ?このあっさり味は!」。
普段、のどに張り付くようなお好み味が、
まるでお茶漬けを食べているように
あっさりとのどを通る。
そうか、これが食文化というヤツか。
などは考えずに食った。

一枚じゃおさまらん。
山盛りの「ネギ焼き」も食った。








やだあ、センセイ、こんな幸せそーな顔、見たことない。
そうなのだ、幸せだったのだ。

遠く250キロも走った甲斐があった。
3時間近く、クルマを走らせた。
広島に着いたときはヘロヘロだったが。
疲れもぶっ飛んだ。



お店によってソースも工夫されているとか。
この店のソースは甘味があり、
ラピュタのように
天空に浮いていた。








工夫だな、ものごとは。

広島市内にはお好み焼き屋さんは数千軒あるそうだ。


原爆が投下された昭和20年、
一面焼け野原と化した広島を救ったものの一つが
「お好み焼き」だ。

主食の米もない戦後、
戦争や原爆で夫を亡くし、
自宅の土間を改造して店を始めた女性も多かったそうだ。


てなことを考えたのは一瞬で、
食い終わった頃には
次の日の
広島ラーメンのことを想っていた。
不謹慎だ。オレって。




広島太郎

2010-07-18 04:46:16 | Weblog
私たちは「広島」を語るとき、
どうしてもお行儀よくしてしまう。
机に足を乗せて広島を語ることはできない。
世の中に、そんな雰囲気ができてしまっている。

ずっと、広島に行こうと思っていた。
ちゃんと向き合おうと思っていた。
だから足が遠のいていた。

今回、軽いノリで、
そう、普段着で行った。
そして、楽しめた。
緑豊かな美しい文化都市、広島。
七月の広島。






     山の中腹にある美術館。ドーム型エスカレーター。
      なぜか「しぇー!」


現代美術館へむかう途中の自動階段。
山の中腹まで運んでくれる。

そう、目的地は広島現代美術館。
通称 MOCA。←珈琲じゃないよ。






      巨大ポスター前で


今回、広島へ行って色々見てやろう、食ってやろうと思ったのはこの展覧会を知ったからだ。

都築響一さんは雑誌の歴史を変えた
『popeye』などの創刊に携わった編集者だ。
編集の傍ら写真家として、
日本に散在する秘宝感や悪趣味な珍スポットに焦点をさだめ
続々と写真集を出版し物議を醸し出し、
小説における芥川賞に匹敵する
「木村伊兵衛写真賞」を受賞した天才なのだ。



その都築響一さんの広島現代美術館での展覧会で、
人々の目を釘付けにしたのが「広島太郎」。
広島市民なら誰もが知っている人物だ。
私はいま、ホームレスと書きそうになった。
しかし、ちょっと違う。
彼は過剰に飾り立てた自転車に乗り風のように生きている。
そう、自由人なのだ。







    広島市内のアチコチに出没する



彼の腕にはたくさんの時計が巻かれ、
上着もズボンも無数の安全ピンが留められ
、そのカラフルな装いは独創性にあふれている。

広島太郎は現在62歳。
広島大学政経学部を卒業後、東洋工業(現マツダ)に勤め、
失恋の痛手から離職し、
以来、職に就かず自由気ままに生きている。

私などは「ちょっとアブナイ人」と思ってしまうが、
広島市民の彼に向けるまなざしはやさしい。
彼を特別扱いするでなく、
モノを与えるでなく、
「そこに在る」者として接する。

四十代以下のの広島人にとっては、
生まれた時から
広島太郎はすでにそこに「在った」。








     こんかいのメインキャラクターになってしまった
     会場内の立体パネルで、「広島太郎」とツーショット



広島太郎に
「なぜそんなに時計をしているのか?」と問えば、
彼はこう答えるのだそうだ。
「時間は裏切らないから」と。




プリン

2010-07-14 23:59:07 | Weblog
サーバーがなんとかで
ようするにネットできなくて
ブログ更新もままならぬ状況が続き
天候もこのありさまで
湿気95パーセントの生活が
もう、しんどくて。

こういうときは絵でも描こうか。







一歩も外へ出なかった。
いいなあ、孤独な時間。
けっこう夢中になれる。

5じかん、6じかん、すぐに経っちゃう。
自分時間、久しぶりだなあ。

とおもっていたら。
来ちゃった、友人。
「え~~~、来たのぉ」と言っちゃった。
「マズイ?」と友人。
「もう来ちゃたから」と。
さらに「しょーがねーなー」と。

おみやのプリン。
これ食ったら帰れ、と言って一緒に食った。





けっこう、うまかった。
こころも疲れているときは
スイーツだな。

おかげで
いいかんじの絵が
甘くなってしまった。