赤塚不二夫さんが亡くなった。
72歳だった。
赤塚先生とは私が二十代のころ、放送作家をやっていた頃、一度だけ仕事をご一緒した。
貴重な体験をさせていただいた。
当時、私は最年少放送作家として注目されたこともあり、ラジオ番組だけでも週に26本のレギュラー番組を担当していた。
若くて、元気で、才能があって、生意気だった。
担当番組のなかでも一番の楽しみは文化放送の「セイ・ヤング」という深夜の1時から3時までの2時間の生放送の番組。
深夜というフリーな時間帯だったので自分の好きなことができた。
そしてこの番組は半期(6ヶ月)に一度スペシャルゲスト枠があり、担当のNディレクターと気があっていた私はそのスペシャルゲストの人選をたのまれた。私は即答した。
「赤塚不二夫さんと仕事したい!」。
Nディレクターはギョッとして言った。「マジかよ?!」。
超売れっ子の赤塚先生はすでにアル中でマトモな話はできないという噂があった。
ラジオは話ができなければ成り立たない。
しかも、その2時間番組は生放送、ぜったいに放送禁止用語はダメ。
ラジオは放送禁止用語が使われたり、10秒間の素(す)、つまり声や音がない状態が続くと「緊急事態」とみなされ「放送事故」として処理され、担当者は厳罰処分される。
赤塚不二夫にDJをやらせることは私とNディレクターにとってはハイリスクである。
で、そもそも赤塚先生は極度のシャイ。
ひとまえじゃマトモに喋れないのだ。
Nディレクターは言った。「まず、ぜったい、無理だね」。
怖いもの知らずの私は赤塚先生のフジオプロに電話で直接出演交渉をした。
電話の相手は赤塚先生のアシスタント兼マネージャーの長谷邦夫(ながたに・くにお)さん。
すでにギャグ漫画家としても有名で何本も連載を抱えている人物だった。
出演依頼の旨を伝えると、長谷さんはおっしゃった。
「赤塚先生はこどもです。いや、赤ちゃんに近いかもしれません。それでもいいんですか?」。
崖っぷちに立った人間には二種類の行動パターンがある。
一つは危険を承知で崖から飛び降りる人間。
二つめは崖から逃げ出す人間。
私は三つ目だった。
崖から飛び降りるが死なずに済む方法を考える人間。
ズルイぞ。
「とにかく打ち合わせをしましょう」。
これが私と長谷さんとの共通意見だった。
赤塚先生ひとりにDJをさせるにはあまりに無謀、それゆえなにかいい方法を考えましょう。
打ち合わせは某日深夜、場所は赤塚先生の事務所であるフジオプロの近くのバー「NADJA(ナジャ)」。
このバーの噂は知っていた。
新進アーティストや雑誌編集者の溜まり場で魑魅魍魎が跋扈している、というもの。
行ってみるとカウンターだけの10人も入れば一杯の狭くけっして綺麗とは言いがたいバー。
ウワッ。
マスコミにもたびたび登場している写真家と狂犬みたいな男がケンカ腰に口論している。
篠山紀信と加納典明だった。
入り口近くで小さくなってひとり飲んでいるのは「限りなく透明に近いブルー」で芥川賞をとったばかりのアイツじゃないか。
村上龍だ。
あとは雑誌編集者らしき人物たちが口角泡を飛ばし議論している。
その雰囲気に圧倒されつつバーボンをオーダーすると、カウンターの中からグラスを出してくれたのが長谷さんだった。「へへへ、座る場所がないんで、なかにいるんですよ」。
三杯目のバーボンをたのんだ頃、赤塚先生が現れた。小柄な男をひきつれて。
長谷さんが私を紹介しようとすると、さえぎるように赤塚先生はさきに連れてきた小柄な男を私に紹介した。「オレはね、こいつが好きなのよ」。
赤塚先生は小柄な男の顔を舐めながら言った。
もう一度書く。舐めながら。
「コイツの芸をみたら気にいっちゃってね。コイツ博多から出てきたんだけど気に入っちゃったから帰さないの。だから、オレんちにずっと泊めてんの」。
赤塚先生はグデングデンに酔っている。
「だから、ナントカさん、コイツの芸、見てあげてよ」。
私は赤塚先生のあたまの中では「ナントカさん」になっているようだ。
で、その小柄な男が芸を始めた。
よく見ると、その男は片目に黒い眼帯を捲いていた。
眼帯の小柄な男の芸はすさまじく狂気に満ち、おもしろかった。
カウンターに飛び乗るやいなや、イグアナのものまね。
ワシが舞い降りる。四カ国マージャン。
NADJAにいる客が圧倒されていた。
「どう。ナントカさん、コイツおもしろいでしょ」。
赤塚先生は上機嫌だ。
そして、気絶するように倒れこみ床に寝てしまった。
これが打ち合わせだった。
黒い眼帯の男はまだイグアナを演じていた。
後の、タモリさんだ。
生放送当日、私はあらゆる策を講じた。
大の寂しがり屋の赤塚先生のために5人編成のバンドを組み、スタジオ入りのときにマーチングで出迎えた。先生は大喜び。「今日は楽しませてもらうぞ~!」
って、アンタが楽しませるんだよ~!
ポラロイドで撮った写真なのでちょっと不鮮明だ。
タモリさんのものまねは無音のものが多いので、その実況をしてもらうため局アナの吉田照美さんにきてもらった。
左がその照美さん。盛り上げるためハッピを着てくれている。トロンボーンを吹いているのが私。
グデングデンに酔っている赤塚先生が気楽に喋れるように両隣に長谷さんとタモリさんを配した。
ハチャメチャなラジオ番組だったが、反響は大きかった。
あのナンセンスな赤塚ワールドが、音だけの世界のラジオで展開されたのだから。
深夜の3時に番組が終了したあとも、場所をNADJAに変えて「宴会」は続いた。
終始、赤塚先生は上機嫌で、「ナントカさん、コイツをよろしくね」とタモリさんを気遣いつつ私の顔も舐めてくれた。
うれしかった。
天才バカボン、おそ松くん、イヤミ、ニャロメを産み出した人。
私の昔の写真の多くは「シェー」をしている。
あんなにシャイで、やさしくて、かわいい人を知らない。
こどものような人だった。
さっきのテレビのニュースで赤塚不二夫さんの葬儀の模様が流されていた。
タモリさんが赤塚先生に送る辞を捧げていた。
「赤塚先生は多くのギャグを世の中に送り出しました。
わたしもそのギャグのひとつでありました」
タモリさんも最後のほうでは涙声になっていた。
私は最後まで「ナントカさん」だった。
でも、いかにも赤塚先生らしくていい。そう、それでいいのだ。
あのあざやかな私の青春の記憶がセピア色にかわってしまった。
はせがわ鍼灸院
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