アラビア語に興味があります。

 イランはペルシア語の国です。トルコはトルコ語で、現代トルコ語はローマ字で表記されます。

煙草屋兼門番だった薬屋ムハンマドおじさんの思ひ出

2007年01月16日 09時08分54秒 | 夏休みの旅
 一昨年、チョコレートを1キロ買って、شَرَّابِيَّة に隠居している、ムハンマドおじさんの家を訪ねた。正確に言うと、訪ねようとした。ムハンマドおじさんは、私の常宿である某安ホテルの煙草屋兼門番であったが、老齢につき、20世紀末に引退してしまった。引退時、既に80歳前後ではなかったかと思う。

 留学時代は、授業が終わってからムハンマドおじさんを訪ね、おしゃべりしたり、ムハンマドおじさんの仕事や礼拝を眺めたりして、午後のひとときを過ごした。ムハンマドおじさんは、私のアラビア語のぶち壊れ具合をこっぴどく叱りながらも、
「ちゃんと食ってるか?」
と言って、パスタやらお米やらをくれるのである。
「いいよ、いらないよ、おじちゃん」
と言っても、私が受け取るまで譲らない。

 東京外大アラビア語学科の元客員教授の先生(既に定年退官。エジプトにご帰国されて久しい)には、
「そんなにムハンマドおじさんから、物を貰ってはいけません」
と叱られた。もっともである。決して裕福とはいえないムハンマドおじさんから、金満大国日本からの留学生が、タダで物を貰うのは、どう考えてもおかしい。
「でも、私が受け取らないと、おじさん、怒るんです」
と私が訴えると、先生は「うーん」と少し考え込まれ、そしておっしゃった。
「では、なるべくムハンマドおじさんのところから、物を買うようにしなさい」

 それは良い考えだった。ムハンマドおじさんの商売の主流は煙草であるが、他にもボールペンやら駄菓子やらマッチやらを売っている。ボールペンは色々な色があったら楽しい。マッチは、お台所でガスに点火するときに必要である(日本のガス台と違って、栓をひねってもガスが噴き出すだけで、火花が散らない)。私はそうしたちまちましたものを、ムハンマドおじさんから買うことにした。

 しかし、私が「マッチちょうだい」と言うと、ムハンマドおじさんは、私をギロリと睨みつけて曰く、
「むむ、煙草を吸うのか」
「違うよ、ブタ・ガスだってば、おじちゃん!」
「煙草じゃないだろうな」
「お台所で使うの!」
押し問答の末、やっと一箱のマッチが買えるのだった。

 私が帰国する前には、何やかんやと言って、お土産を持たせてくれた。紙袋にいっぱいお菓子を詰めて、
「飛行機の中で食べろ」
と渡してくれたこともある。

 飛行機では、機内食が出るのだ…とは、私は言えなかった。ムハンマドおじさんの生涯唯一の海外旅行は、昔々のメッカ巡礼であった。友人の床屋さんと一緒に行ったそうだ。船でサウジアラビアを目指したが、サウジは物価が高く、ハンバーガーが20ポンドもした(話をしていた当時だと、1ポンド=30円弱だったか?)と言っていた。きっと、飛行機の乗客は、機内のサンドイッチ売り場で高い食べ物を買うのだと、思っていたのではないだろうか。

 私は、ありがたく、その大量のお菓子をいただいて帰ってきた。帰国後しばらく時差ぼけで、夜中に冴え冴えと目が覚めて空腹を感じたとき、そのお菓子をつまんだものだ。

 別のときにも、お菓子を箱に詰めてくれたことがある。
「ほんとにいいよ、おじちゃん!」
という私に、
「お前のためじゃない。ママにだ」
というので、それも有難くいただいて帰った。帰国後、母にその箱を渡したら、
「まあ、精一杯…!」
と言って笑った。ほんとに、箱の中に精一杯のお菓子を詰めてくれてあったのである。

 あと、象さんのアップリケの付いた枕カバー、大きなハート・マークの入った足拭きマットなど。これらも母は「かわいい」と喜んだ。

 引退後、しばらく、消息不明であったが、20世紀最後の年に、やっと隠居先が次男坊のフラットであることがわかり、やっとやっと再会することができた。すっかり足を悪くしていて、フラット内の移動にも難儀している様子だったが、椅子に腰掛けて喋る分には問題ない。

「おじちゃん、おじちゃんに手紙を書くときは、どの住所に送ればいいの?」
と聞いたが、ムハンマドおじさんは、住所を教えてくれなかった。
「手紙よりもな、来てくれた方がずっといい」

 ほんとにもっと沢山、遊びに行くんだった。そしてもっと沢山、ムハンマドおじさんと話せばよかった。

 一昨年の夏休み、チョコレートを1キロお土産に買って、ムハンマドおじさんの家を訪ねようとした。おじさんの家の近くで、
「ムハンマド・エル=アッタール(薬屋ムハンマド)の家はどこ?」
と聞いてみたら、そこらへんのエジプト人のおじさんが、
「そこの建物だよ」
と見覚えのあるビルを指差した。
「でもな、今は留守だよ」
おかしい。ムハンマドおじさんは足が悪くて、とてもじゃないけれど出歩いたりできない。どうも向こうは、ムハンマドおじさんの息子のことを言っているらしく、話が混線してきた。一人のおじさんに聞かれた。
「彼は何歳だ?」
「うーんと、90歳くらい」
「…亡くなったよ」

 あんまりに突然の話だった。
「どうして?」
って聞いたけど、アッラーの思し召しだって言われるだけ。
「いつ?」
って聞いても、良くわからない。涙が滲んできて、言葉が出なかった。

 おじさんたちは、すぐ横にあるマクハー(珈琲店)の席に誘導してくれて、座らせてくれた。ここで待ってろと言われた。ぐしゅんぐしゅん言いながら座っている私に、マクハーの親父さんが、ファイルーズとセブンアップの瓶を持ってきて、どっちにする?と聞いた。セブンアップを頂いた。

 しばらくすると、男の子がやってきた。一緒に行こうという。ムハンマドおじさんの孫(=長女の息子)だった。セブンアップのお代を払おうとしたら、いらないと言われた。エジプシャン・ホスピタリティに、悲しい心が温まった。

 ムハンマドおじさんの長女ご一家の家では、長女のナディアさんが、
「あなたが来るとわかっていたら、もっと準備していたのに」
と言いながら、どっさりと、食べきれない量のお昼御飯をご馳走してくれた。お腹ぱんぱん。悲しむのは一時中断である。

 ムハンマドおじさんのことを聞いたら、前の年のラマダーン月に亡くなったと言われた。だいたい、2004年10月だ。

 写真を持っていきなさい、と言って、ムハンマドおじさんの写った写真を何枚かくれた。ナディアさんが今のご主人と婚約したときの写真だ。ムハンマドおじさんは、ほんとうに嬉しそうに笑っている。私の思い出の中のムハンマドおじさんと同じだ。

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