雑感記録所

内容の制約を一切せず、その時書き留めたいことを記録していた。

研究計画、現代文参考書

2008-10-21 23:45:57 | かんがえ
 実は大学院試験の出願締切が今週金曜必着なんだけども、まだ願書を出してゐません。明日中に本郷郵便局から出せば大丈夫の筈だが、研究計画書を書くと云ふ段階で随分と足踏みをしてゐるやうな気がしますね。まあ気の所為でも何でもなく、厳然たる事実なんですけども。
 これつて本當に情けない話で、だつてさうでせう、学部で「飽き足らずに」院にまで行つて勉強を続けやうつてからには、究めたい自分の課題つてのが確固としてあると云ふのが本来當然なんです。だからそれを書けと言はれて悩むと云ふのはちやんちやら可笑しい訳です。研究計画書には次のやうにあります。

現在考えている入学後の研究の主題及び内容:
 入学を許可された場合に取り組みたいと考えている事項について記入すること。
 (中略)

題目(関心をもって研究しようと考えている内容を適切に表すタイトルを記入すること。)

この欄には、研究目的、研究計画・研究方法、この研究の特色等を簡潔に記入すること。

 かう指示があつて、使つて良い欄がA4約一枚半。
 まあね、大きな課題に繋がる下位の小さなテーマを卒論に設定したので、その続きと云ふことで書いて書けないことはないのですがね。何か、かう云ふ事で良いのかなと云ふ気持ちが頭の片隅から抜けないのですね。この二年ほど矢鱈浮き沈みの激しい私ですが、ついきのふ、と云ふかけふの4限までは可成りアゲアゲの状態だつたんだから、きのふの内に研究計画書を書いて仕舞はなかつたことが悔やまれます。でもまあ、過ぎた事はしやうが無い。何しろ明日出さないとちよつと心許無いので、心を鬼にして、と云ふより心を無にして、やつつけて仕舞ひたいと思ひます。



 けふの帰り、ふと思ひ立つて熊谷駅のくまざは書店(店名まで律儀に旧假名にしてるとさすがにしつこいな)に立寄り、現代文の参考書を立読みしてみました。我々の頃以前から広い支持を受けてゐた出口氏の本です。私は、現在に至るまで現代文の参考書と云ふものに全くと云つて良い程触れて来ませんでしたので、実質初めて手に取つたのです。
 ざつと読んだだけですが、抱いた感想が二つあつて、一つは、これだけの「名著」が(しかも色んな著者のが)世に在り乍ら、どうして未だに現代文を苦手とする高校生・もしくは受験生がゐるのかなと云ふこと。書いてあることは実に當り前のことだらけで、異論を差し挟むやうな餘地の殆ど無いものです。しかも使い方の指示から解説まで非常に親切。どれだけ現代文を苦手とする生徒でも、黙つてこの(類の)本を読み指示通りに訓練をすれば、別に宣伝をする訳ぢゃありませんけども、厭でも或る程度の、即ち大学入試で出て来る程度の評論文くらいばつちり読めるやうになると思はれる、と云ふかなるとしか思へないのです。特に他が出来て現代文が出来ない子の場合深刻です。他が或る程度以上出来ると云ふことは、或る程度の論理力は持ち合わせてゐる筈で、にも拘らず現代文が出来ないと云ふのは、一体どう云ふことなんでせう。塾や予備校で現代文の授業を受けると云ふのも、結局講師が伝へる事は究極では一致して来るのであつて同じ事です。一定の論理力を持ち乍ら、活用する術を知らず、或は論理力を発揮する以前に、硬い文章を読み通す忍耐力に欠けると云ふことなんでせうか。元進学塾の国語教師と云ふ立場から言へば、矢張り国語、特に現代文つてのは、そこそこ出来る人からも苦手な人からも蔑ろにされてゐるのだな、と自嘲するしかないですが。
 感想の二つ目は、逆に、こんな當り前のことに、態々人から言はれないと自分で気付けないのかなと云ふこと。偉さうな事を言ふと思はれるかも知れませんが、しかし乍ら論理を把握する力と云ふのは、頭を使はないと理解出来ない文章を何とか理解しやうとして、色々と苦しんで失敗を重ね、偶に成功してゐる内に何だか身に付くもんだと思ふんですよね。現代文の参考書と云ふのはその論理力を要素に分解して、テクニツクとして箇条書きに纏めたものですが、だからこそ書いてあることは、「そりやさうだらう」と肯ふ他ないシンプルな事ばかりです。変な話、これはきつと苦手な子にも同様に映る事でせう。ここが落とし穴で、「んなこた分つてるんだよ。で、どうやつたらさうやつて上手い事読めるやうになるんだよ」とか思つて仕舞つたらアウト。名参考書(名授業)と雖も、そればかりは自力で文章を読んで会得するより無い。要素に還元されたテクニツクは、自分の頭で実際にそのやうに思考してみて漸く実感出来るのであつて、それを怠つてゐるにも拘らず、「参考書を幾ら読んでも(授業を幾ら聞いても)出来るようにならない」と嘆いてゐる子達の如何に多い事か。それは措くにしても、参考書を一読して別の問題を頭を使つて幾つか解いてみて、今一度参考書を見た時に、「こんなことにも自分で気付けなかつたのか、恥かしいな自分!」と思へるくらいでないと、理解したとは言へないでせう。矢張り、このレヴェルであつても自分で気付かなくちや駄目なんです。で、結局参考書なり予備校なりの授業の力を借りなきやならないと云ふのは、余程頭を使はないで良い文章にばかり囲まれて来たのだな、と思つて仕舞ふ訳で、それつてやつぱり憂慮すべき事だなと思ふ訳です(勿論、頭を使はなくて良い文章に囲まれて生きる事それ自体を否定するものではありませんよ。ただ、塾・予備校にまで通つて難しい大学に入らうつて奴がさう云ふことだと、どうしたつて限界があるよな、と言つてゐるんです)。



 研究計画書をやつつける、筈が、つひ横道に逸れて随分と筆を走らせて仕舞ひました。しかもふと思ひ付きで旧假名遣ひで通したりして、一旦新假名で変換してから旧假名で送假名を入力し直すだけで可成りの時間を浪費してゐる筈です(苦笑。間違ひがあつたら指摘して下さいね)。ああばかばかばかばか。反省して、研究計画書をば書きます。さすれば、御免。

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