報道番組のスポーツコーナーにおいて不適切な発言があったとして、元プロ野球選手で野球評論家の人物が謝罪した。しかしこの人物に限らず似たような事例がずっと以前から続いている。
いわゆる「団塊(の)世代」とその少し前の世代の一部には、おそらく本人たちが「人生の確信」として信じて疑わない「激しい思い込み」が存在している気がしてならない。
と同時にそこには、それなりの事情があるのではないかとも考えている。
「復興世代」とは
世の中に「団塊(の)世代」という言葉がある。
厚生労働省の白書によれば昭和22年(1947)~昭和24年(1949)生まれを「団塊世代」としているようだ。
しかし今回の話に限っては、この3年間に生まれた人々だけに限定してある世代の象徴とするのも無理があると考え、「団塊世代とその前の10年間ほど」という、ちょっとあいまいだけれどもその範囲を対象として考えたい。 そしてそこに「復興世代」とネーミングさせていただき、以下話を進めていく。
あたりまえのことだが「○○世代」といったレッテルを貼って一括りにものを語ることには限界がある。
また筆者が本稿で定義する復興世代の人たちの中にも、多くの人々から慕われ尊敬され、また多くの人が私淑(ししゅく)している人物もいる。著名人であれ市井(しせい)の凡人であれ、社会や家庭の中でしっかりとその役割を果たしている(果たしてきた)人たちもたくさんいる。
しかし筆者は、復興世代の一部の人々はその世代を良くない意味で象徴する性質を、自ら体現してしまっているのではないかと考えている。
その性質とは何か。
それは、本人たちがおそらく自分がつかんだ人生の確信と信じて疑わない、激しい思い込みである。
もし人生の確信という言葉が大げさすぎるなら、「世の中とは、人生とはこんなもんだ」と彼らが無意識のうちに整理・理解している世界観、世の中の見え方と言い換えてもいい。
ただし本稿ではそういった人々を単純に非難しようとか、ましてや排除すべきだなどといった幼稚な話をしたいわけではない。
この世代にはこの世代を特徴づけるものを強烈に体現している一部の人々がいて、その人々が共通して持っている性質、そしてそうなるに至った理由を、別の世代の日本人が知っておいてもいいのではないかという提案なのである。
謝罪の姿勢(1)
令和3年を生きている少なくとも60歳以下ぐらいの人は、女性蔑視発言で辞任したオリンピック組織委員会前会長の謝罪や、金メダルを咬んだ自治体首長、冒頭挙げた野球解説者(と番組司会者)が謝罪する様子に、違和感を持ったのではないだろうか。
それは一言で言えば、「あれが謝罪する者の態度だろうか」ということである。揚げ足をとる気がなくとも、話す言葉の端々には「他人事(ひとごと)感」がにじみ出ているのである。しかし本人たちは「心から謝罪している」という。いったいこの落差はなんだろうか。
やや大げさに言えば筆者はそこに、決して小さくない世代間の段差があるように感じている。
冒頭に触れた昭和15年生まれの野球解説者は件(くだん)の番組中、リモート出演で謝罪の言葉を述べていたが、筆者としてはなにか他人を叱りつけているようなその口調と表情だけが印象に残った。
またこの番組を進行する昭和18年生まれの司会者は「私も、会話の途中でも間違いをただせばよかったかと反省させられました」と述べていた。
社会や組織の上層に位置する人々、影響力の大きい人々の不始末などに毎週批判的な言葉を添えてきた司会者である割には、なんだか事務手続き的に流されたような気分が残った。
じつはこの司会者は、同系BS局で近現代史を解説する番組を、その分野に詳しいノンフィクション作家と二人で担当している。
好むと好まざるとにかかわらず、自分もその時代の残滓(ざんし:残りかす)が残る社会の空気を吸って成長してきたのだという自覚に乏しく、単に番組素材をお届けするオペレーター的な意識でいたのだろうか。
ちなみに筆者はこの司会者にもその息子にも好感は持っている。
やや話はそれるがTV番組というものに関して言えば、出演者など表面に見えているものだけを取り上げて論じることはよくない。
そこには画面に姿を現さない番組制作者、特にプロデューサー(NHKは制作統括)の意思が反映されており、さらには放送局、そして(日本の民間放送局では)関係する新聞社の意識が影響しているといえるからだ。特に報道番組制作ではそれらの思想的なカラーが出やすい(ただしBS局では新聞社とのシバリはゆるいようだ)。
あたりまえだがテレビ番組は時間的制約の中で音と映像を作り込まねばならないし、民放はスポンサー企業への忖度も働く。その制作・編集作業に一定の意思が働いてしまうことは必然である。
したがって我々はせめて、ふだん見ない報道番組やふだん合わせないチャンネル、さらにはYouTube等のノーカット記者会見などを見比べる努力をして、背後にある意思、空気を考えてみることが大切だ。
ちょっと面倒かも知れないが、これも一つの民主主義の姿なのではないだろうか。信じるものしか信じないという姿勢は、思考を停止して言われるがままの世界に身をゆだね、ただ祈り続けるだけの人生と本質的に変わらない気がする。
謝罪の姿勢(2)
いっぽう金メダルを咬んだ昭和23年生まれの自治体首長は会見で、(こんなことをしているようでは)コロナ対策が浸透しなくなるのではないかという記者の質問に対し、体を揺らしながら
「...申し訳なかったと繰り返して言うよりしょうがないでしょ、これ。」
「今回のことは申し訳ありませんでした!と。」
などと答え、また関連するセクハラ発言については問題ないという感覚なのかと問われると、
「大丈夫というか、感覚がそれ違うでしょ」
などとよくわからない言葉を返しつつ面倒くさそうな苛立ちをにじませた。
こういった彼の様子は、なにやら「外来の不正な力によって自分がこの状況に置かれてしまったのだ」と主張する態度にしか、筆者には見えなかった。
さらに、記憶が薄れた人も少なくない気がするオリンピック組織委員会前会長の「謝罪」も、やはり他人事感がありありと感じられた。
謝罪するその様子には、「なんでこんなバカな世の中に変わってしまったんだ」とでも言いたげな雰囲気を筆者は感じていた。
悲しき復興男子
ではなぜ復興世代、特に男性はこうなのだろうか。
その理由は生まれ育った時代背景、そして日常、謝ることや感謝するということを言葉や態度にして表明する経験、習慣をほとんど持てなかったところにあるのではないかと筆者は考えている。
そうだとすれば、公式的な場において「申し訳ありません」といった言葉を発したりそれにふさわしい態度をとったりすることは、ほとんど経験がないことをやらされていることになる。
彼らは「謝り慣れ」「感謝慣れ」していないし、ましてや公式的な場でそのような言葉を口にすることも、真摯な態度を見せることも「超苦手」なのである。それゆえ照れ隠しのように体を揺さぶったり、余計な言葉を付け加えてしまったり、さらには誤解を招く言い回しをしてしまったりして、事態をよりこじれさせてしまう。
「いやいや、彼は日常ちょっとしたことでも『ありがとう』とか『ごめんね』といった声かけをしてるよ」
という意見もあるはずだ。
だがそれはほとんどの場合、自分に与(くみ)する者に対して、あるいはそのような状況にある場合に限られてはいないだろうか。つまり自分を相対的に強者であると承認してくれる、あるいはそういう雰囲気づくりに参加してくれている人や集団に対しては優しい態度を見せるのである。
ただしその裏返しとしてこれらの人々につらくあたる場合もある。お抱え運転手や若い秘書を怒鳴りつけたりするような例である。これは、本来自分を盛り立てるべき人間が期待に反して役に立たたないと感じた時、「コイツはオレのことをわかっていない!」と感じて苛立つという、心理的な幼さをむき出しにする現象と言える。
自信のない「強き父親」たち
昭和14年ごろから24年ごろの約10年間といえば、日本が中国・ソ連(現ロシア)・東南アジア・南洋諸島・ハワイなどで戦争をしていた時代であり、沖縄の地上戦をはじめ日本各地の都市に空襲を受けるなど「本土決戦」に怯えた時代である。
そうして原子爆弾を2度も落とされ、敗戦の悲嘆と屈辱の中に日本滅亡の恐怖を予感した時代でもある。
しかも終戦によって大人たちは、その態度を180度転換する。
それまで胸を張り人々を鼓舞しながら国家を主導してきた人物たちが、外国人によって死刑にされる事態にも立ち会った。
さらには7年ちかく、アメリカという国に占領された状態の母国で過ごすことになり、いったいこれからどうなってしまうのかと日本中が混乱していた時期であった。
そんな時代を駆け抜けてきた人々が、昭和後期以降に生まれた世代とは「この世の見え方」が違うであろうことは想像に難くない。
さて、ここからは筆者の想像である。
おそらく復興世代は「固定化された正解」を探し求めた世代だったのではないだろうか。人生とは何なのか、自分にとって生きるとはどういう意味があるのか、国家とは何なのか...。それを説明する明快な回答と思想にあこがれていたのではないだろうか。
そうして「探し物」をしている復興世代の目の前には、「物質的豊かさをその人生においてどれだけたくさん獲得できるか」という価値観がアメリカから押し寄せてきた。あまりにも魅力的なその価値観は彼らを虜(とりこ)にした。
それが幸せの尺度となり、生きる意味となっていった。しかしそれは資本主義が絶対的に必要とする、市場としての役割を担うことでもあった。
電化製品を揃え、クルマを買い、家を建て、貯金と生命保険を残して子どもたちに引き継いでいく。なんてすばらしい人生なのだ。
人間はこの(物質的)豊かさに向かって一直線に進まねばならない。そのためには競争だ。競争こそが幸せへの唯一の手段だ。
そうして家庭もほとんど顧みない仕事一筋の姿勢であることが理想の家長(父)の姿とされ、社会もそして女性たちすらも、きっとそうであると信じていた。
そんな社会の空気の中で父親たちは、好むと好まざるとにかかわらず「強くて優しい父」であることを期待された。
だが「強くて優しい父」とは、アメリカそのものであった。自分が圧倒的に強い立場にある時は弱者に対して優しさを見せる。しかし自分の優位性を脅かすような存在が出て来たならば途端に態度を変え、それまでの主張と矛盾しようが理屈をつけて徹底的に「敵」を叩きのめそうとする。そして常に強くあろうとするがゆえに、結果として「負けを認めない」という姿勢になってくる。謝罪をしていても腹の底では「オレは悪くない。社会が(悪い方へ)変化してしまったのだ」と整理する。
「お国のため」から「個人の物質的豊かさ獲得のため」に目標を転進しただけの父親たちの精神は、相変わらず気合い、勢い、精神力といった世界観であった。そしてそれを実現するために必要だったのは、戦時と同じ「強く激しい思い込み」であった。
父は、他者に対して正しい言葉で説明する必要などなかった。これがあるべき姿なのだと多くが信じていたからだ。そして息子や娘はそんな父(とそれを支える母)を見て育っていった。
「固定化されたあるべき姿」に向かって一直線に進むのが正しい人間であり、柔軟性をもって臨機応変に生きていこうなどという「のらりくらり」とした浮き草人生はダメ人間のすることなのだ。そしてダメ人間のイメージすら彼らにとっては固定化されている。経済合理性にそぐわない、生産性の低い人間である。
だから「一人前に生産せず」に消費ばかりしている子どもや老人、障がい者(つまりは家事・育児・介護・社会福祉に関する理解)、そして子を生(な)さない者たち、さらにはニート、引きこもり、オタクといった、彼らの価値範囲に捉えきれない人たちを理解することができない。
「母親ならポテトサラダぐらい(スーパーで買わずに)作ったらどうだ」という言葉が以前話題になった。作り話だったのかどうか知らないが、少なくとも固定的なイメージに支配された復興世代の世界観をうまく表している。
経済的成功が人生のすべてであり、かつどれだけたくさんの他人を見下ろせる(見くだせる?)ポジションにたどり着くか。そんな価値観が重要な復興世代にとって、女性と同等に接するということがどういうことなのかイメージできないし、ましてや態度にも表せない。
まとめ
飲食店や小売店舗など、不特定多数の客を相手にする仕事を現場でした経験がある人ならわかるだろうが、復興世代の一部にお金(現金)などを投げ捨てるように出す人がいる。「ホラよ」とでも言わんばかりのしぐさである。
しかし彼らは自分のしていることが相手にどう伝わっているのかを分かってはいない。それは悪意がないというよりも、「世の中そんなもん」という固定化された世界観が、もう無意識のレベルに蒸着してしまっているのではないだろうか。
謝罪をするときでもまるで他人を叱りつけているようになってしまうのは、オレはこんなに「気合い入れて」真剣に反省してんだ!、とでもいう気持ちを込めているつもりなのかもしれない。まるで叱責する上官に対する決意の弁である。
逆に、謝罪をするという自分が極度に照れくさくて、体を揺らしてみたり演台に腕を突っ張ってみたり、余計な力や余計な言葉を挿し入れてしまうというパターンもある。
いずれにしろこの「余計なチカラ」は、謝罪などという不慣れなことに挑戦する弱い自分を、精いっぱい鼓舞しているあらわれなのかもしれない。
こういった一部の復興世代の人の世界観と行動様式は、他の人から見ればまったく不可解だ。腹が立つこともある。
しかし、そうならざるを得なかった人生なのかもしれない、という見方もできる。
戦争が残した残滓の時代を精一杯生きてきた世代。いまさらその人々を「矯正」しようとしても徒労に終わるだろう。
しかしこれからも一部の復興世代が様々な困りごとを引き起こす。そんなとき、問題は問題としてきちんと指摘しながらも、その片隅に「ある時代を抱え込んで生きてきた人々なのだ」という思いがあっても悪くはないと思う。
ふと、アイルランド出身の詩人オスカー・ワイルドの言葉が浮かんだ。
「老人はすべてを信じる、中年はすべてを疑う、若者はすべてを知っている」