今日は、父が眠る寺での「施餓鬼」 供養だった。
「施餓鬼」とは・・・宗派によって微妙に違うようだけど・・・真言宗では・・・下記のように説明している。
お施餓鬼の由来は、『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経(ぶっせつぐばつえんくがきだらにきょう)』に説かれます。
このお経の主人公は、お釈迦さまの身の回りの世話をし、お釈迦さまのそばで一番多くの教えを聞いたので「多聞(たもん)第一」といわれる、
「十大弟子」の一人、阿難(あなん)尊者です。
その阿難尊者が一人修行している時のことでした。「焔口(えんく)」という餓鬼が現れ、「阿難よ、お前の寿命はあと三日で尽きる。
死んだ後は餓鬼となり、私と同じような醜い恐ろしい姿になるだろう」と告げました。びっくりした阿難は餓鬼に、
「どうしたらその苦をのがれることができますか」と尋ねます。すると餓鬼は答えました。「明日の朝、無数の餓鬼とバラモン(司祭者)に、
多くの飯食(おんじき)を布施しろ。そうすれば、その功徳によってお前の寿命は延び、私も餓鬼の苦を離れ、
天上に生まれることができるだろう」。しかし、そんなに多くの飯食を一晩で用意することはできません。
困った阿難はお釈迦さまに助けを求めました。するとお釈迦さまは、施餓鬼の陀羅尼(だらに)を示し、「心配しなくてよい。
この陀羅尼を唱えながら食物を布施すれば、無数の餓鬼、そしてバラモンに心のこもった施しをすることになるだろう」と教えました。
そして阿難は、この教えのとおり餓鬼に布施をして、無事に死をのがれ、餓鬼は地獄の苦しみから救われたのでした。
ここに出てくる餓鬼とは、地獄・餓鬼・畜生という「三悪趣(さんあくしゅ)」の一つで、飢えと渇きに苦しむものをいいます。
餓鬼は、水を飲もうとしても水が血の膿となって飲むことができず、喉が針のように細いので食べ物をお腹一杯食べることもできない、
そして口から火を吐いているので食べ物が燃えて食べることすらできないのです。
ところで、阿難尊者の目の前に現れた、この餓鬼は何を意味しているのでしょう? 小さな子どもを例に考えてみましょう。
子どもは目で食べるといわれています。食事が済んだばかりでもお菓子を見つけると食べたがります。
大人からみれば十分食べて満腹なはずなのに、目の前の食べ物に心を奪われ、自分のお腹の具合を考えません。つまり、満腹を知らないのです。
このような限りない物欲(ぶつよく)を象徴しているのが餓鬼です。子どもを餓鬼(がき)と呼ぶことがあるのはこのためです。
阿難尊者が見たものは、自分の心の中にある物欲にほかなりません。物欲に支配されていると、自分本位に走り、人を差別したり、
傷つけたりします。そこでお釈迦さまは、物欲に支配された醜い心を洗い、清らかにしていく手だてとして、布施の修行を示したのです。
自分のお腹が一杯になれば、それはそれで幸せでしょう。しかし、それではどこまでいっても物欲に支配され、
自分で自分を縛ることになります。他人の腹具合も考え、ものを分かち合う時に、
初めて自分に縛られない大きな安らぎがあることに気がつきます。このように、私たちが生きていく上で避けて通れない「食欲」をたとえにして、
人間らしく生きていく道を教えてくれるのが、お施餓鬼という法要の意味なのです。
今回は僧侶が四人来てお経をあげて、その後に新しい塔婆をもらい、その足で墓に供えた。
この施餓鬼は、いつもは八月の最終日曜日のはずだったが、突然、変更されたんだ。
この施餓鬼が終われば、八月も終わり・・・でも、まだ残暑は続きそうだね。
・:∵(;´∀`A汗、汗、汗