goo blog サービス終了のお知らせ 

Apostrophes アポストロフ

ほとんど日記、時々、映画、たまにはニュースというランダムなブログです。

コンコルドの誤謬

2013-12-09 | 日記
JR東海が突然、中央リニア新幹線(?)の発表を行ったのは○月○日のこと。

1997年から山梨実験場で試験的にはじまったリニアカー、400㌔が出た、500㌔が出たと紙面に載ってはいたし、一時、途中駅の選定にからむ政治的な思惑なども報道はしていたが、それも忘れかけていたころだったので唐突に聞こえた。

「2027年に品川―名古屋間を47分で運行、2045年には東京―大阪間を67分で結ぶ。途中下車駅は「品川、相模原、甲府、飯田、中津川、名古屋。2014年から着手する。」

最後に「これにかかる全費用はJR東海が負担する」と言い切った。
新幹線のドル箱JR東海、さすがやるなと思った。

一方、主に技術的な視点から異を唱える人たちもいる。

例えば、南アルプスの岩盤を長いトンネルのために掘削するのは可能か、勾配は30/1000以内に抑えるのが安全だが40/1000はかなりきつい。何より電気が切れた場合はどうなるのか等々。

何より、人口減少の将来、果たしてこれ以上の輸送手段は必要なのか、投資費用は取り返せるのか、というもの。

そこで折衷案ではないが、現在、限界に達している山陽新幹線をさらに技術アップしたり、浜松、名古屋間をもう少し山側に移設したりというリニューアル案もあると聞く。

「技術的には○○キロまで可能」というのと、「乗り入れや利用しやすさ、交通ネットの便利さなど、現実にマッチするかどうかは別物。

そのよい例がコンコルド。マッハ2.04で、未来の乗り物、NY、パリ間が○時間と鳴り物入りだったが、乗客100人、高額、長距離は不可という条件下で細々と空を飛んでいたがついに何年か前に消えてしまった。
果たしてあの巨額の投資はどうなったのだろか。

もう無理ではないか、ここで止めておこうとはならず、「始めたからには止められない」(前の戦争も、原子力問題も同じ根っこ)と、勝つ見込みがないのに突き進む、、、それを皮肉をこめて「コンコルドの誤謬」と言う。

果たして、リニアはどうなるだろうか、

情報公開と地元説明などしっかりしたらいかがだろうか。
************
*正確には、リニアモーターとは言わず、磁気浮上式、と呼ぶ。

里山資本主義

2013-12-09 | 日記
先週の金曜日だったか、報ステにコメンテーターとして藻谷浩介氏が出ていた。

元○○銀行で現在はシンクタンクに属し、地域経済が専門。

しゃべり出したら止まらない、いや、コミュニケーション能力が高い人で、最近、よくメディアに出ている。

将来は、ニュース解説で人気の池上彰氏のような番組に起用されるのではと勝手に注目している人、何より、全国津々浦々を足で回った結果の解析力にはリアリティがある。

その彼の手に近著、「里山資本主義」が置かれていた。

内容はざっと以下のとおり。

この50年、ごく一部の人によって世界経済は翻弄され、グローバル化、市場原理という名のもとに一方では繁栄、他方では取り残された弱者を生んだ。それを「マネー資本主義」と呼び、その対極に位置づけたのが掲題の「里山資本主義」である。

何かおかしい、もっと身丈にあった安らかな生活があるはずだ、日本人は自然と折り合いをつけながら、自然の中で生きてきた、そう感じつつも団塊の世代の働き盛りはマネー資本主義に飲み込まれていった。

同時に起きているのが少子化だ。

歪な人口構成となり、次々に新たな社会問題が生じている。
「少子化と高齢化」のトップランナーである日本、それに続く東アジアの国々ははたして軌道修正できるのだろうか。

彼の解はこうだ。
「団塊世代存命期間の今後約3、40年を乗り切りさえすれば、2060年頃には日本の人口分布はバランス良く構成され、約8000万人程度の総人口で安定した日本になるだろう。」

問題は今だ。
と、そこに3・11の東日本大震災が襲った。
一時的にせよ、電気が止まり、食糧の不安と水の確保に急いだのは記憶に新しい。
「平時」が続いた団塊の世代には、「非常時」を始めて経験した瞬間でもあった。

「エネルギー、食糧、水」、、人の生活は最低これさえあれば生存できる。
ここに、フィールドワークが専門の彼の持論が展開する。
―林業が主な産業である中国地方のある町。製材のごみだった木くずをペレットと呼ぶ燃料を利用した地域エネルギー、食糧は家の周りの、ありあまる畑の野菜、水は自然の恵みの美味しい湧水、そこには土地に根をおろした豊かなコミュニティがあるるという。同様なエネルギーでまかなっているオーストリアも例に挙げている。

3・11を機に、首都圏では不安になり、バックアップとして、サブシステムとして田舎の生活を視野に入れ始めた人は多い。
貨幣さえ介在しない(年金が余るほどの)田舎生活、「東京砂漠」と呼ばれるような無縁社会から、手ごたえのある生活に代わる田舎生活、そういう人が増えれば地域の再生、ひいては日本の再生につながるという。

久しぶりに明るい未来を提示した本であった。

「duo life」を始めようとする我が家の後押ししてくれそうな本でもある。



シリングル草原

2013-12-09 | 日記
今夏は内モンゴルの草原に遊んだ。夢のような風景が帰国した今も離れない。

子育ての経験がある方は、赤羽末吉の名作、「スーホーの白い馬」の絵本、馬頭琴の話を想い浮かべる方もいるだろう。

モンゴルに一度は行きたい、いや、それさえ忘れかけて30年以上が過ぎた。


7月下旬に友人のモンゴル女性が再来日した。

「私は来週帰国します。一緒に内モンゴルに行きましょう」といきなり誘い、こちらは即刻、好機に乗った次第。

「春に雨が降ったので今年の草原は美しいはず」と、誘った本人も楽しみにしている様子。しかし、モンゴル語はロシア語に似て聞き取りにくく、何度聞いてもその草原の名前がわからない。

とうとう、彼女は笑いながら、「「カルピス」で検索すると出てきますよ」と教えた。

カルピスと草原? 謎解きができないまま、帰国して調べると、草原の地名が「シリングル草原」であることがわかった。

カルピスの創業者三島海雲は、日清、日露の勝利で沸く明治の末、青雲の志をもって、まだ見ぬ大陸、中国に渡った。小さな貿易会社を作り、ビジネスをはじめたが、馬の調達のため訪れたシリングル草原で瀕死の病に倒れた。

幸い、地元の人の手厚い看病で生還したが、その時、供された乳製品が命を救ったと海雲は確信し、帰国後、日本人の健康に乳製品を提供すべく商品開発に没頭する。そして漸く、喉越しさわやかな夏の飲み物、あのカルピスができあがった。

友人の専門は栄養学、両国はほぼ同じDNAを持ちながら、健康の質が違うことに注目し、そのテーマでドクターを取得した。

「モンゴル人は乳製品と羊、牛の肉をよく食べる。羊や牛は200種はあるという草原の薬草を食べ、太陽のもとで放牧、生態系がうまく循環し、栄養価も高く美味しい。日本人は医学の力で長寿ではあるが、長寿の質が違うのではなかろうか。」という。

確かに、みな、歯は真っ白で丈夫そう、肌は焼けてはいるが張りがあり、艶もある。

モンゴルの人たちを観察していると、健康へのヒントがいたるところにあるような気がした。

モンゴルに助けられた海雲。時を経て、その海雲の財団から研究助成をもらった彼女。

そして、仏教徒でもある両者、ともに「健康」に関わった二人、この結びつきを仏縁というのだろうか。

その研究は両国の共有財産になると専門家は期待している。

彼女の情熱が長く続くことを祈りたい。

今年の山梨

2013-12-09 | 日記
熊谷といえば、暑さ番付横綱格を保持してきた地名だが、今年は梅雨明け早々、山梨の甲府が日本一になった。

「山梨は暑さ日本一」と一気に刷り込まれてしまった。

今年の正月すぎのあるパーティで、企業の方と立ち話をしていたときのこと。

「スカイツリーにはもう行かれましたか? やはり一度は行っておくべきですよ」と言われた。

貴婦人のように腰高でスレンダー、薄い紫色のライトアップ、あたりを払い、君臨している姿は高貴で美しい。

「あれはね、山梨出身の建築家なんですよ」と話が続いた。ゼネコンと設計は公表しているが名前までは知らなかった。

「実はね、東京タワーも山梨出身の構造家だったんですよ」と、まるで県人会のように「山梨」を連呼した。

東京タワーといえば昭和33年、高さ333メートルの塔、とだけゴロ合わせで覚えている。

地震と台風を念頭においた構造は早稲田大学名誉教授の内藤多仲だった。

彼の設計した旧歌舞伎座や日本興銀は関東大震災でもびくともせず、設計・構造の確かさを世に知らしめた。

時代は過ぎ、スカイツリーは高さ634メートル、その間の日本の技術力で3.11も無事乗り越えて、5月に完成した。設計は甲州人、土屋哲夫氏という。

タワー談義をした方は山梨県人会の会長とあとでわかり、合点がいった。

先日、富士山が世界遺産となり、その登録効果で登山者が3割増したという。
山梨は世界からもライトが当たった。

「山梨は梨とブドウとほうとう」、それだけではなかった、

世界一の電波塔、日本一の富士山、そして日本一高温の「山梨」、今年の前半は「高く、より高く」がキーワードの山梨情報で熱かった。

公園の父、本多静六先生

2013-12-09 | 日記
夏以来のブログ、、、です。

話題を探して書き綴り、発信する作業を間断なく続けることは(毎日でなくても)大変なことです。

気を抜くとすぐに間が空いてしまいます。

無沙汰が続いている友人、、忘れたわけではないけれど、きっかけがないまま、だんだん疎遠になって、いつか消える関係に似ています。

さて、ご無沙汰のお詫びにいくつか掲載します。

あるところから原稿を頼まれ、タイムリーな話題を拾いながらいろいろ書きました。

採用されたのは3割ぐらいかと思います。

通信社なのでどこに掲載されたかわからないし、オリジナルはかなり変更されたと思うのでしらなくてもいいと思っています。

「公園の父、本多静六先生」からつづいて9篇、「倍返し」までです。

***********

公園の父、本多静六先生

本多静六氏をご存知だろうか。

日比谷公園や福岡の大濠公園の名は知られているが、「それを設計、デザインした人」まで言い当てる人は少ないであろう。

明治の中頃、日本ではじめて林業博士となり、ドイツへ留学、林業への造詣と保養地の存在などを学んで帰国。

その後は各地に多くの公園を設計された。と、ここまでは学者の業績であって普通の学者とさして変わりはない。

ユニークなところは、学者でありながら当時では珍しい「投資」をし、大きな財産をつくったことで、今なお、東大の農学部の先生方は、本多先生といえば「学者をしながら株で大金持ちになった人ですね」と伝説のくだりをいわれる。

しかし、そこで終わらせると先生の全貌には至らない。
先生を偉大ならしめたのは、生前、そのほとんどの財産を匿名で、公的な機関や森林保護、奨学金などに寄付されたことである。(詳しくは「私の財産告白」参照)

とかく、子供のためにと財産づくりに励みがちだが、「子孫に財産を残していいことはない。親がすべきは、自分で生きる力、努力できる環境をつくること」と考え、「美田を残さず」の言い伝えを率先垂範された。

では、何故、本多先生は「学問と投資」が矛盾なく自然に受け入れられたのであろうか。

それは、ドイツへ留学中のこと、担当教授から「学者は「精神の自由」が大事。それには財産が必要」と教えられたという。そして、晩年はまたもとの質素な生活に勤しまれ、85歳の生涯を閉じられた。

公園だけでなく、自分の人生をも見事に設計、デザインされた人であった。

本多・藤島効果で名高い光触媒の権威、直孫の故本多健一先生は、「いやぁ、ただの植木屋ですよ」と柔かな表情で祖父を語られていたが、静六先生に最も可愛がられたという健一氏もまた、祖父と同じ85年で豊かな生涯を終えられた。

Sia

2013-12-08 | 日記



クリスマスオーナメントの売り場が目につく。

デパートの小さな催事コーナーに、ちょっと目を引く人形たちが散在していた。

ぱっちりお目めの人形ではなく、形やおどけ方がすっとぼけて、かわいい。

店員さんが寄ってきて、「Siaの作品はほんと、かわいいんですよ」と、ワイヤが入っている手や帽子に表情をつけ、

座らせたり、よっかからせたり、、、。

迷った挙句、とりあえず、二つの人形を家に連れて帰った。


写真にとって、お嫁さんに送ると、「絵本にでてくる小人か、妖精のようですね」と返事がきた。

今日の午後、お嫁さんはお茶の稽古、帰りに寄って、飾っている人形をしげしげ、、、。

「この子たちなんですね」と見つめていた。


「どちらかいいほうをどうぞ。クリスマスプレゼントよ」というと、

毛皮のベストを着た女の子を選んだ。



「、、ちょっと散財した一目ぼれのツリーもそろそろ届くはず、この子はどこに飾る??、窓際かなぁ。。、、

クリスマスだろ、忘年会だろ、仕事納めと大みそか、そしてお正月、、、今から楽しいことがずぅっと続くねっ!、、、」

と、お子様亭主は目を輝かせ、大人の妻は目を細めて大きくうなづいた。。。









世界一美しい本を作る男ーシュタイデルの旅ー

2013-12-07 | 日記
週末は珍しく来訪がないので、紅葉を見るか、遠出をするかで迷ったが、結局、近場のプランで落ち着いた。

一つは映画、その帰りに外苑の銀杏並木をみるコース。

映画は「世界一美しい本を作る男ーシュタイデルの旅」を選んだものの、、、映画館が近づくにつれ、、いやな予感がした。

まず、入場者が少ない、、、あぁ、やっぱり、、とだいたい、予想がついた。

夫は始まるや、もう、うとうとうつむき、

前の男はぐうぐうと椅子の背もたれに仰向き、、、

そういう私もおっとっと、、、記憶が飛んだシーンがあった。


ドキュメンタリー映画だが、山あり谷ありもなく、シュタイデルの本へのこだわりを描いたもの。


何より、シュタイデルがカルロス・ゴーンに似ていたのに、びっくり!した。

顔もそうだが、話しぶりも似ていた。


シュタイデルはこう言っている。

「金儲けに関心はない。利益があがれば、さらに上質な本を作りたい」と。

日産さん、この映画を社内上映したらいかが。

建築家訪問

2013-12-03 | 日記

土地は手に入れたものの、この歳で、duo lifeが果たしてできるだろうか、、、

まだ、大いに迷っているが、片や、「生きてるうちにやりたいことはやっておこう」という思いもある。

今はケセラセラの心境。


今日、新宿御苑の前にアトリエを構える建築家を訪ねた。


実は、この方が建てた家が近くにあり、どなたの建築か尋ねたところ、ここを紹介された次第。

人柄もやりかた、考え方も一応聞いていたので大体の想像はできたし、HPもしっかりみて、準備はできたつもりだが、

できるだけ、初回から実り多い内容になるよう、紹介人のことや考えていることをメールで送った。

すると、翌日、電話がかかってきた。

「私は施主さんの第一声というか、声を大事にしています。直接話すと、声から生活スタイルなど大体の想像ができるのです」と言われた。

テンポのいい話しぶりについつい長話になり、「聞き上手、のせ上手」にはまってしまった。

最後に、「会う時までに「わがまま要求」を一杯、だしてください、とにかく羅列でいいから希望を書いてください」と言われ、さらに関係が近くなった気がした。


ドアの奥から出てきた人は、想像通り、地味で飾らない人柄の「おっさん」だった。

建築家はともすれば、芸術家と勘違いして、距離をおきたくなる人もいるが、この方は真逆だった。

A4に2枚、脈絡もなく箇条書きにしたこちらの書類を、席に着くや、それを見ながら話が始まった。

「いやぁ、無理なものは何もないようですよ、ほとんどできそうですが」と第一声。

うっそぉ!! うれしぃ。。と思わず言ってしまった。

それから3時間、話にはなして、アトリエをでたときはもう陽は落ちて、新宿は夜の町になろうとしていた。


ほんとに大丈夫?? 

毎日、何かがささやくけれどこの先は本人にさえわからない。

ただ、幕はおりてしまった、、、

それは確か。。。




旅に出る

2013-08-01 | 日記
今日から8月、先週、息子夫婦が夏越の祓を届けに行ったら、今日、熊野からお札が届いた。

これで後半も恙無く過ごせるだろう(と信じよう)。


明日、旅に出る。西域へ。。

願えば通ずというが、まさか西域の大草原に身を置くなんて。。

子育てのとき、赤羽末吉の『スーホーの白い馬』を読み聞かせる度に、いつか行こうと決めていた。

そもそも私達はモンゴリアン、同じ血が流れていることは歴史を知ればすぐわかる。

10年来の友人は地方の日本人という感じ。

情が深く礼を重んじる、母世代のメンタリティですぐに打ち解ける。

暖かく、強い。

「お世話になったのだから当然」と帰国のときに一緒に行こうと誘ってくれた。

すぐに二つ返事をした。

そして「今が好機」と直感した。

一つは夫のこと。いつまで元気か、いつまで(旅行に出る)エネルギーがあるか、

この年になると半年後はわからない。

私だって同じ。

いつ以来だろう、新品のようなパスポートを眺めながら夫に聞いた。

「シドニー以来じゃないか」。


「私がいるのだから大丈夫」「少し夜は寒いのだから薄いセーターを」「夫はとても忙しいのだから友人が迎えにきます」
「お土産はいらないのだから」、、、

彼女はいつも「の」を入れる。


「いつまで元気かわからないのだから明日から行ってきます」

ランデブー

2013-07-31 | 日記
2月でブログが止まっていた。

京橋OLのことを何回か書いてそのまま放置されている。

あぁ、もったいないことをした、

この後、どんなにエキサイティングなことが続いたか、

書きとめておけばよかったと後悔した。

おいおい、覚えているところだけでも埋めていきたい。


連続しているのは、今日も京橋OLだったこと。

明後日から旅にでるのでどうしても行かなければならない。

さして暑くもなく、陽射しもない朝、傘か日傘か、一瞬迷った。

このところのゲリラ豪雨が頭をよぎり、傘をバッグにつっこんだ。


オフィスでの作業が終わったころ、お嫁さんから、ipadを届けますと連絡があった。

便利なツール、息子に貸したままでもよかったが、旅行のときだけは必要。

ちょうど休みをとっていた彼女は京橋まで来てくれた。

お互い、ランチがまだだったので銀座の静かな和食屋でおしゃべり、

気づいたら周りにはだれもいなくなり、遠くで仲居さんが丸いお盆を抱いたまま空をみている。

慌てて、カフェに場所を移してまたそこでおしゃべり、、

時計をみると歯医者の予約30分前、いけないっ、もうこんな時間になっている、

駅まで急ぎ足で歩き、

「じゃぁ、旅行から帰ってからねっ」

「気を付けて行って下さいっ」

手をまっすぐあげて、さよならのポーズをした。

優しい笑顔を後ろに感じながら改札口に向かう。

残像がなかなか消えない。







久しぶりにスイッチが。。。

2013-07-31 | 日記
いつが最後だったか、記憶にないほどご無沙汰でした。

文章って、とても悲しいとき、とても大変なとき、書けません。

逆に、最高にうれしい!とき、とても幸せと感じるとき、これも書けません。

ここ半年は、揺さぶりの多い日々だったということでしょう。

昨日、急に原稿を頼まれて、久しぶりに書きました。

また、書こうかな、とスイッチが入りました。

どうぞよろしく。


OLボランティア

2013-02-27 | 日記
いきなり、「OLボランティア」の要請があったのが先週、

いきなり、学会と二つかけもちで多忙な日々になった。

日記とは言えない、一行ぐらいのメモをエクセルファイルに書いているが、

ここまで忙しいとあっという間に1週間、10日が過ぎてしまい、空欄のまま。

このブログのように、19日で止まり、さて、20日は?21日は?と記憶を辿るが、全く覚えていない。

「多忙」という「単調さ」ゆえかもしれない。

アクセントをつけなきゃだめだ、、と焦る。

今週の土・日、両方、楽しみな外出予定が入り、漸く単調さから抜けられそう。

銀座が日常に、、、

2013-02-21 | 日記
パリに移住した友人が、「一番素敵なところはアレクサンドル3世橋」、

「16区からバスに乗り、セーヌ川に沿ってすっと現れる瞬間が好き」と言った。

はじめて住んで、その風景に感動した時、バスの運転席の真後ろに紳士が乗っていた。

その紳士は外には目もくれず、ずっと新聞を読んでいた。

「ことさら窓外に眼を向けることなく、この紳士のように風景が日常になりたい」と思ったそうだ。


銀座に週に1度から2度行くようになった。

夕方、銀座を歩く足取りはまだ重い。

当時、夫は毎日、銀座の1丁目に通っていた。

いいな、私だったら銀座をくまなく制覇するわ、と思っていた。

しかし、まだその余裕はない。

銀座がいつ私の日常になるだろう。

リビング? オフィス?

2013-02-20 | 日記
今日は学会の定休日、

1月末から夫の入院、バタバタとしてるうちに2月4日の歯医者の予約をまったく忘れた。

今日はその名誉回復とばかり、緊張して歯医者に行くと、

「あのぅ、予約は10:30ですが、、、ちょっとお待ちいただけますか」と受付嬢。

30分早まった。

忘れたのと記憶違いと、、やはり、名誉挽回とはならなかった。。

それから友人の会社に「OLボランティア」として出向く。

小さな会社だが、オフィスは一等地の最上階で、バルコニーには庭もあり珍しいつくり。

調度品といい、雰囲気と言い、普通のメカニックなオフィスと違う。

それもそのはず、最初の借り手はは大手企業、サロンとして使っていたそうだ。

なるほど、大きな広いリビングという感じがする。

それが友人の女性社長の雰囲気にぴったり、、「優しい、柔らかなオフィス」となっている。

しっかし、設立して13年、フロアにはあちこちに大山、小山の書類の山々。

私があるコーナーを片付けると、「あらっ、すっきり!」と友人。

「そろそろ、(書類を)捨てられる心境になった気がする」。

彼女が「いい社会にしたい」という志は今から少しずつ広まるだろう。

しばらくは「雑用係」として手伝おうと思った。

老後もいろいろ

2013-02-19 | 日記
新年早々、生活のリズムとパターンがかなり変化してきた。

1月5日から、息子ががらりと生活を変えた。

続いて1月末に夫の入院があり、その後、養生も兼ねてリズムを変えた。

息子は一日の時間が2時間早まった(スライドした)だけのことだが、夫は在宅が多くなった。

逆に、私はこの歳でヘッドハンター!(えっ!)、そして週2のOLへ。

我が家のハウスマネージメントは主婦から主夫へ。

(世の中に結構、ついていってる。)


今朝、外出の支度をしていると、夫が朝食の洗い物をして、コーヒーを淹れ、天気が悪くなりそうだと、慌てて洗濯物の取り込みに降りていった。

今日の夜は(私の)スイミングレッスン、男衆二人は「おさしみ定食」で決まりらしい。

今、5時すぎ、そろそろ味噌汁のだしをとり、商店街の魚屋に刺身に買いに出かけたようだ。


「こんな老後が来るとは思いもしなかった!」とある先輩夫婦が言われた。

妻は65歳からある名門校の校長、理事長になられ、12年無事勤め上げられ、今80歳。その12年の間、夫婦は現役の共働き、、かなり高齢で厳しい生活となり、無理が高じて少し弱られた。

「こんな老後が来るとは思いもしなかった!」

変化大好き人間にとって、それもいい。

無理せず、やってみようと思っている。