★★★ 伯 太 藩 (伯太陣屋) ★★★

伯太藩は、江戸時代和泉国泉郡伯太周辺を領有した藩。
藩庁は伯太陣屋(現:大阪府和泉市伯太町)
藩主:渡辺氏(譜代)

渡辺 綱

2100-08-31 | 概要1
渡辺 綱(わたなべ の つな)、天暦7年(953年) - 万寿2年2月15日(1025年3月17日))は平安時代中期の武将。嵯峨源氏の源融の子孫で、通称は渡辺源次、正式な名のりは源綱(みなもと の つな)。頼光四天王の筆頭。
武蔵国の住人で武蔵権介だった嵯峨源氏の源宛の子。摂津源氏の源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の養子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺(現大阪府大阪市中央区)に居住し、渡辺綱(わたなべ の つな)あるいは渡辺源次綱(わたなべ の げんじ つな)、源次綱(げんじ つな)と称し渡辺氏の祖となる。

摂津源氏の源頼光に仕え、頼光四天王の筆頭として剛勇で知られた。大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻り橋の上で鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話で有名。謡曲『羅生門』は一条戻り橋の説話の舞台を羅城門に移しかえたものである。
その子孫は渡辺党と呼ばれ、内裏警護に従事する滝口武者として、また摂津国の武士団として住吉(住之江)の海(大阪湾)を本拠地として瀬戸内海の水軍を統轄し、源平の争乱から南北朝にかけて活躍した。九州の水軍松浦党の祖の松浦久もまた渡辺氏の出である。
先祖の源融は『源氏物語』の主人公の光源氏の実在モデルとされたが、綱も美男子として有名であった。
大阪市北区の梅田界隈には源融ゆかりの太融寺があり、その近くにある露天満宮(近松門左衛門の『曽根崎心中』で有名な「お初天神」)の宮司家や、渡辺姓発祥の神社とされる座摩神社の宮司家は渡辺綱の子孫である。

徳川譜代の「渡辺守綱」にはじまる【伯太藩】渡辺氏もまたその子孫を称する。


徳川十六神将の一人(渡辺守綱)



野本藩

2100-08-01 | 概要1
野本藩(のもとはん)は江戸時代前期、武蔵国比企郡野本周辺を領有した藩。
藩庁は野本陣屋(埼玉県東松山市)。

藩祖は徳川家康に仕え「槍半蔵」の異名をとった渡辺守綱の嫡子・重綱の五男で、武蔵国比企郡に3000石を領有していた吉綱である。
吉綱は4代将軍家綱の側衆として仕えていたが、寛文元年(1661年)大坂定番に昇進し1万石を加増され大名に列した。
ここに野本藩が成立した。なお、渡辺宗家は、尾張藩 徳川家の家老として1万4000石を領している。

藩領は比企郡、河内国志紀郡・古市郡、和泉国大鳥郡・泉郡に分散していた。
2代方綱には嗣子が無く、尾張藩家老である宗家より養子として基綱を迎えた。
基綱は元禄11年(1698年)武蔵国内の所領の一部を近江国に移されたのを機に、
和泉国大庭寺に陣屋を移したため廃藩となった。

歴代藩主
渡辺(わたなべ)家
譜代 13,000石 (1661年~1698年)

1.吉綱(よしつな)
*渡辺 吉綱(わたなべ よしつな、慶長16年(1611年)- 寛文8年6月19日(1668年7月27日))は、武蔵野本藩の初代藩主。伯太藩渡辺家初代。

尾張徳川家の家老・渡辺重綱の五男。母は杉浦盛嗣の娘。正室は高木正成の娘。子は渡辺近綱(長男)、渡辺利綱(次男)、渡辺方綱(三男)、渡辺則綱(四男)、娘(内藤信通正室)、娘(山田常紀室)。官位は従五位下。丹後守。

幼名は大学。半丞。元和9年(1623年)から徳川秀忠に仕え、3520石の所領を与えられた。後に中央詰、御書院番士、小姓組番頭、書院番頭を歴任する。寛文元年(1661年)11月8日、大坂定番となり、河内国内に1万石を与えられて1万3000石の大名となった。幕臣として、その後も重用された。寛文8年(1668年)6月19日、58歳で死去し後を三男の方綱が継いだ。法号:浄閑吉綱院。墓所:愛知県豊田市寺部町の守綱寺。

2.方綱(まさつな)
3.基綱(もとつな)

重臣
*今井弥一右衛門
*向山利右衛門

伯太藩 譜代 

2100-08-01 | 概要1
 【参勤交代道中供立】(渡辺家文書)





伯太藩 譜代 13,500石

伯太藩(はかたはん)は、和泉国泉郡伯太周辺を領有した藩。藩庁は伯太陣屋(大阪府和泉市伯太町)。立藩当初は大庭寺藩(おばでらはん)。

略史
武蔵国野本藩で1万3千石を所領する渡辺基綱は元禄11年(1698年)武蔵国内の所領の一部を近江国に移されたのを機に、和泉国大鳥郡大庭寺(大阪府堺市)に陣屋を構え、大庭寺藩が立藩した。その後、享保12年(1727年)には、陣屋を伯太に移し伯太藩が成立した。表高は野本時代と同じく1万3千石である。
基綱は大坂定番となり、「善将」と称せられる名君であった。以後、9代にわたり在封し、明治4年(1871年)廃藩置県により伯太県となった。その後、堺県を経て大阪府に編入された。なお、尾張藩重臣の渡辺家(寺部陣屋)の方が宗家にあたる。
藩主家は明治17年(1884年)子爵となり華族に列した。

歴代藩主

1.基綱(もとつな)〔従五位下、備中守 大坂定番〕
2.登綱(のりつな)〔従五位下、越中守〕
3.信綱(のぶつな)〔従五位下、豊前守〕
4.伊綱(これつな)〔従五位下、丹後守〕
5.豪綱(ひでつな)〔従五位下、越中守〕
6.春綱(はるつな)〔従五位下、大学頭〕
7.則綱(のりつな)〔従五位下、越中守〕
8.潔綱(きよつな)〔従五位下、備中守〕
9.章綱(あきつな)〔従五位下、備中守〕

重臣

長坂家
今井家
白鳥家
佐竹家
野々村家
中村家
武元家
小林家
*1870年(明治3年)貢進生となり、開成学校・大学南校(後の東京大学)に入学した小林有也(こばやし うなり)がいる。
幼名は小林 卯之助(こばやし うのすけ)。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。明治17年7月農商務省と東京物理学校を辞し、中学校教則取調委員となり、長野県に赴任する。9月長野県中学校を長野に創り、学校長と教諭を兼務。明治19年9月長野県尋常中学校校長として、松本へ赴任。明治維新後、松本城天守閣は住む人も、修理する事もないため荒廃していた、この時天守閣を修理、再建することに心血を注いだのが小林有也である。小林校長は天守閣保存を主張する地元町民、町議会および旧家臣団の六星会などの意志に深く思いを致し、天守修理を決心したと言われている。
杉浦家
小瀬家
向山家
*伯太藩向山(むこうやま)家は 武田勝頼の側衆(跡部昌忠・向山出雲守・小田切孫右衛門・安部宗貞・竹内与五右衛門・小原継忠・同下総守・秋山紀伊守)八人のひとり向山出雲守の子孫。伊兵衛、利右衛門、儀右衛門、儀右エ門、勝秀、勝高、勝良、勝/(廃藩)、秀二、健 、敏之、諒 。 天正10年(1582年)武田家滅亡後徳川氏に従った保科氏に仕えた。保科正貞が大坂定番の際、利右衛門は大阪へ入る。 寛文元年(1661年)保科正貞の後、渡辺吉綱が累進し大坂定番になり、利右衛門は吉綱の家臣となりその子孫は廃藩まで渡辺氏に仕えた。
伊庭家
*伊庭家は源氏佐々木氏の支流であり、経方の代より佐々木宮の神主になる。 経方の孫出羽権守重遠は、彼の宇治川の先陣として、戦記にある、四郎高綱と従兄弟の間柄であって、保元の乱に白川殿で戦没した。 この重遠の代に神崎郡伊庭邑に居住し、初めて伊庭氏と名乗る。 重遠の後、貞資、貞平、貞光、公貞、時高、氏貞、基貞、高貞、貞安、實貞、貞職、貞信、貞勝の14代を経て貞勝は蒲生郡桐原郷に身をよせ、後中小森で慶長12年没。 伊庭氏は吉綱に仕えて代官に挙げられ、江州における伯太藩の飛び地(西宿、虫生、峰前、竹村等5ヵ村三千石)を支配するようになった。 佐々木源氏が伊庭氏を名乗ってから25代の後裔にあたる伊庭貞剛は明治12年裁判官から、住友本社に入社、33年2代目総理事として住友財閥の基礎を築いた 煙害で荒れた四国別子銅山への植林や精錬所移転は、環境問題の先駆者として評価される。 企業の進歩発展は青年にあるとして、トップ就任わずか4年で引退してその後、表舞台には立たなかった。