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駒澤大学「情報言語学研究室」

URL https://www.komazawa-u.ac.jp/~hagi/

さしふのき【烏草樹】→しゃしゃんぼ【南燭】

2023-01-16 11:15:18 | ことばの溜池(古語)

さしふのき【烏草樹】

和名抄』卷廿、木類草木部百四十七

 廿巻本の古写本および〔温故堂本〕→那波道圓本〔元和版〕は、真名体漢字「佐之之紀」で「天」字で記載、此を十巻本の「佐之之紀」「夫」字に補整し、慶安元年板『倭名類聚抄』棭齋書込宮内庁書陵部蔵からあとの版本類(~明治二年版まで)全て補整記述する。
棭齋が『倭名類聚鈔箋注』の当該語の語注記のなかでそのことを説く。
 江戸時代の谷川士清『倭訓栞』中卷に「さしぶのき」「なんてん」の項目にて、此の「さしぶのき」を引用するが、漢名「南燭」(しやしやんぼ)と「南天竺」→「南天」(ナンテン)の語とを同一の植物と位置づけてしまっている。現代の小学館『日国』第二版では、見出語「しゃしゃんぼ【南燭】」のなかに「わくらは」と云う別名を記述するが、見出語「わくらは」は立項されていないので、ここで頓挫してしまう結果で終わってしまう。
以下、詳細は別項(チームルーム「情報言語学研究室」の「さしふのき【烏草樹】」PDF版)添付資料を参照されたい。萩原義雄識


かなづなゐ【金綱井】地名

2022-12-22 13:37:24 | ことばの溜池(古語)

【語解】『倭名類聚抄箋註』「井附桔槹
    13 天武紀(テンムキ)に、地名(チメイ)「金剛井(かなづなゐ)」有(あ)り。
    ※実際、『日本書紀』12805「更還屯金綱井、而招聚散卒」○更(さら)に還(かへ)りて金綱井(かなづなのゐ)に屯(いは)みて、散(あか)れる卒(いくさ)を招(を)き聚(あつ)む。〔卷廿八・天武紀上、元年七月〕に見えるとし、「金綱井」と「金剛井」の「綱」と「剛」字の表記差異があり、この箇所については、前述した契沖編『和名抄釋義』から棭齋自身が依拠した内容と見ていて、そこには書紀記載の「金綱井」と記載していることから、棭齋の思い込みの記載となっていて。茲に「金剛井」と記載したと推断した。その後、棭齋から引き継いだ渋江抽斎や森立之らも『書紀』記載内容について再検証せずに編集刊行してきたということにもなる。と同時に、此の地名が『和名抄』の郡名にも未収載となっていることを消えた地名と見るとき不詳とせざるを得ない。奈良県橿原市小綱の辺りの地名だったのかと?
    慶長八年版『日本書紀』卷廿八天武紀上(元年七月)
     「更テイハム金䌉(カナツナ)ノ而招(ヲキアツム)(アカレル)(イクサ)ヲ於是

とあって、「金䌉(カナツナ)ノ井」としている点を見定めておく。
    ※HNG(漢字字体規範史データ)に、日本写本『續高僧傳』(五月一日經)[日本寫刊典籍文書]七四〇(天平一二)年「䌉」字を見る。


はねつるべ【桔槹】

2022-12-19 12:14:27 | ことばの溜池(古語)

 はねつるべ【桔槹】キツカウ・ケツカウ
                                                                          萩原義雄識

 白井静『字通』【桔】「桔槹」
【字書】
〔新撰字鏡〕桔梗 加良久波(からくは)、又、酒木、又、阿知万佐(あぢまさ)、又、久須乃木(くすのき) 
〔新撰字鏡、享和本〕加良久波(からくは)、又云ふ、阿佐加保(あさがほ) 
〔名義抄〕桔槹 カナツナヰ/桔梗 アリノヒフキ/梗 ヤマシム
〔篇立〕桔 チカシ、加良久波(からくは)
【熟語】
【桔梗】ききよう(きやう)・けつこう(かう)  ききょう。秋の七草の一。〔戦国策、斉三〕今、柴葫(さいこ)・桔梗を沮澤に求むるも、則ち累世一をも得ず。
【桔隔】きつかく  楽器を撃つ。
【桔槹】きつこう(かう)・けつこう(かう)  はねつるべ。〔荘子、天運〕且つ子獨り夫(か)の桔槹なる者を見ずや。之れを引くときは則ち俯し、之れを舍(はな)つときは則ち仰ぐ。
【桔桀】けつけつ  高く峻しい。

  『字通』の字書引用の『名義抄』を見てもお判りになるように、『日国』『字通』と云った日本の誇れる字典・辞典は、当該語の標記字を三熟字「桔槹」で表記する。だが、此は書記者の「桔梗」の語と「桔槹」の語における同音異字による衍字表記であり、語注記「結高二音」とあることからすれば、二字熟語と見て、やはり茲では「梗」字は消去すべき文字と見ている。すなはち、『名義抄』も「桔槹」のところに定置することが望ましいことになる。

 和語「はねつるべ」だが、初出用例としては、平安時代末期の橘忠兼編の三巻本『色葉字類抄』〔前田本〕となっている。次に示すと、
三巻本『色葉字類抄』〔前田本〕
    桔槹(ケ[キ]ツカウ)  カナツナヰ ハ子ツルヘ 搆機汲水具 〔卷上加部地儀門九二オ(一八七頁)2〕

として、字音の付訓は「ケ(キ)ツカウ」とし、「キツカウ」と「ケツカウ」両用の訓みを添え訓みとして示し、此の点を現行索引では見落としていることになる。いま小学館『日国』第二版には、見出し語「キッコウ【桔槹】」の語例を取り上げていて、「「桔槹(けっこう)」の慣用読み」として収載はするが、此の前田本『字類抄』の「ケ」の右傍らに添えた「キ」文字を見逃した結果、此の用例を活かしきれていない。
そして、注記和訓の「ハ子ツルヘ」の語についてだが、次の観智院本『名義抄』には未収載になっていることからして、此語がより通俗性の高い「日常語(=通俗語)」和訓語だということになろう。此の證明も容易ではないが、初出語としてその聯関性の資料を見過ごさずに見定めて行くことが求められてくる。更に、このあとの内容注記説明の「機を搆へ、水を汲む具」の意義注記だが、何に依拠するのかについて考察してみて、『增修互註禮部韻略』〔宋・毛晃〕
     桔橰以機汲水桔音戛/又謂之橋橋音居妙反〔卷二・【槹】二四オ4〕
    
とあって、此の注記内容が聯関しているのかと見ている。今後の資料稽査が俟たれる。
 三巻本『色葉字類抄』〔前田本〕の意義注記の「機を搆へ、水を汲む具」に対校する箇所をこのあとも探し求めていくことになるのだが、現時点では、この中国字書資料との整合性を明らかにせねばなるまい。
 その上で、『字類抄』の編者橘忠兼は、『和名抄』には見えていない新たな説明として、此の意味注記をどうみてきたのかを知るためにも、その通俗性の高い「日常語」のひとつの語と見ておきたい。茲で通俗性の高い日常語としたことは、此の院政期前後のことば表出に基づくものであり、例えば、「鳰」を「かいつぶり(獲(か)い+つぶりと水に入る意から)」の通俗和語表現などと関わる語として、此の字音「桔槹」で「かなづなゐ」と言うほかに「はねつるべ」と云ったことばの関係性がどうであったのかと此の語解について展開することにもなろう。『字類抄』が求めた記述意識が後継の十巻本『伊呂波字類抄』などの古辞書改編資料にどのように継承されていくのかもそのことばの性格を知る上で丁寧に見定めていく必要がある。実際、十巻本では、    桔槹  カナツナヰ  結高二之棒機汲水具 〔卷三加部地儀門(一四二頁)2〕
としていて、此の「ハ子ツルヘ」の語は採録を見ない語となっている。云うまでもないが、波部の地祇門、雑物門などにも未収載語としている。また、二卷本および七卷本『世俗字類抄』も然り、「ハ子ツルヘ」未載録語となっている。言わば、三巻本特異な語訓となっている。次に「はねつるべ」の語訓が古辞書に登場するのは、室町時代の『運歩色葉集』波部に、
    桔槹(ハ子ツルヘ)キヤウカウ〔元亀二年本二九頁1〕
となっていく。此のことばの狹間とも言える用語例を埋めるのは容易ではないが、南北朝時代の軍記物語『太平記』卷第三九・自太元攻日本事に、
    其陰(ソノカゲ)ニ屏(ヘイ)ヲ塗リ陣屋ヲ作テ、數萬ノ兵並居(ナミヰ)タレバ、敵ニ勢ノ多少ヲバ見透(スカ)サレジト思フ處ニ、敵ノ舟ノ舳前(ヘサキ)ニ、桔槹(ハネツルベ)ノ如クナル柱ヲ數十丈高ク立テ、横ナル木ノ端(ハシ)ニ坐ヲ構((かま)ヘ)テ人ヲ登セタレバ、日本ノ陣内目ノ下ニ直下(ミオロ)サレテ、秋毫(シウガウ)ノ先ヲモ數((かぞ)ヘ)ツベシ。
と見えていて、『日国』第二版も此の用例を採録する。


くら【倉・廩】から「あぜくら【校倉・叉倉】」「ほくら【寳倉】」

2022-12-05 14:25:56 | ことばの溜池(古語)

くら【倉・廩】から

くら【倉】54語『今昔物語集』

和語「くら」について調査しています。

平安時代の醍醐天皇の御代の梨壺の五人の編者の一人であり、源順『倭名類聚抄』または『和名類聚抄』、略して『和名抄』という古辞書を編纂しました。

このなかに、くら【倉廩】の語が見えています。

この平安時代の末頃に編纂された説話文学『今昔物語集』のなかでどのように描かれていたのかを見定めています。

とくに、あぜくら【校倉】の語例は、注目に値します。

このことに、最初に気づいたのは、江戸時代の国学者谷川士清です。その著『倭訓栞』に記載が見えています。

〔卷第二十七〕在原業平中将女、被 鬼語第七
△今昔、右近ノ中将在原ノ業平ト云フ人有ケリ。極キ世ノ好色ニテ、世ニ有ル女ノ形チ美ト聞クヲバ、宮仕人ヲモ人ノ娘ヲモ見残ス无ク、員ヲ盡シテ見ムト思ケルニ、或ル人ノ娘ノ形チ・有樣世ニ不知ズ微妙シト聞ケルヲ、心ヲ盡シテ極ク假借シケレドモ、「止事无カラム聟取ヲセム」ト云テ、祖共ノ微妙ク傅ケレバ、業平ノ中将力无クシテ、有ケル程ニ、何ニシテカ構ヘケム、彼ノ女ヲ蜜ニ盗出シテケリ。
△其レニ、忽ニ可将隠キ所ノ无カリケレバ、思ヒ繚テ、北山科ノ邊ニ舊キ山庄ノ荒テ人モ不住ヌガ有ケルニ、其ノ家ノ内ニ大ナルアゼ倉有ケリ、片戸ハ倒レテナム有ケル。住ケル屋ハ板敷ノ板モ无クテ、可立寄キ樣モ无カリケレバ、此ノノ内ニ疊一枚ヲ具シテ、此ノ女ヲ具シテ、将行テ臥セタリケル程ニ、俄ニ雷電霹靂シテ■ケレバ、中将、大刀ヲ抜テ、女ヲバ、後ノ方ニ押遣テ、起居テヒラメカシケル程ニ、雷モ漸ク鳴止ニケレバ、夜モ■ヌ。(古典大系参照)


くら【倉・廩】から「あぜくら【校倉・叉倉】」「ほくら【寳倉】」

2022-12-05 14:25:56 | ことばの溜池(古語)

くら【倉・廩】から

くら【倉】54語『今昔物語集』

和語「くら」について調査しています。

平安時代の醍醐天皇の御代の梨壺の五人の編者の一人であり、源順『倭名類聚抄』または『和名類聚抄』、略して『和名抄』という古辞書を編纂しました。

このなかに、くら【倉廩】の語が見えています。

この平安時代の末頃に編纂された説話文学『今昔物語集』のなかでどのように描かれていたのかを見定めています。

とくに、あぜくら【校倉】の語例は、注目に値します。

このことに、最初に気づいたのは、江戸時代の国学者谷川士清です。その著『倭訓栞』に記載が見えています。

〔卷第二十七〕在原業平中将女、被 鬼語第七
△今昔、右近ノ中将在原ノ業平ト云フ人有ケリ。極キ世ノ好色ニテ、世ニ有ル女ノ形チ美ト聞クヲバ、宮仕人ヲモ人ノ娘ヲモ見残ス无ク、員ヲ盡シテ見ムト思ケルニ、或ル人ノ娘ノ形チ・有樣世ニ不知ズ微妙シト聞ケルヲ、心ヲ盡シテ極ク假借シケレドモ、「止事无カラム聟取ヲセム」ト云テ、祖共ノ微妙ク傅ケレバ、業平ノ中将力无クシテ、有ケル程ニ、何ニシテカ構ヘケム、彼ノ女ヲ蜜ニ盗出シテケリ。
△其レニ、忽ニ可将隠キ所ノ无カリケレバ、思ヒ繚テ、北山科ノ邊ニ舊キ山庄ノ荒テ人モ不住ヌガ有ケルニ、其ノ家ノ内ニ大ナルアゼ倉有ケリ、片戸ハ倒レテナム有ケル。住ケル屋ハ板敷ノ板モ无クテ、可立寄キ樣モ无カリケレバ、此ノノ内ニ疊一枚ヲ具シテ、此ノ女ヲ具シテ、将行テ臥セタリケル程ニ、俄ニ雷電霹靂シテ■ケレバ、中将、大刀ヲ抜テ、女ヲバ、後ノ方ニ押遣テ、起居テヒラメカシケル程ニ、雷モ漸ク鳴止ニケレバ、夜モ■ヌ。(古典大系参照)

くら【倉】其の二

狩谷棭齋『倭名類聚抄箋註』の居宅類の「くら【倉廩】」

 40「本居氏曰」と45「谷川氏曰」の同時代の先学者が記述した資料を各々の箇所を引用して、己が立証註記の拠り所となしていくのだが、何処から何処までを援用したのか、その境界線が明確になっていないという点を棭齋『倭名類聚鈔箋注』の記述から見通しておくことが後学の研究者には必要となってきている。
 というのは、此の標記語「倉廩」の語註記で明らかにしておくと、    
    40 本居(宣長)氏(『古事記傳』)に曰く「倉」を「久良」と訓み、「久良」與に、「座鞍」、與に竝べ同じき語を以って置く所の物の〈之〉名とす。」
    45 又、「倉」は、谷川(士清)氏(『倭訓栞』)に曰く、「阿世」にて、交はるなり〈也〉。
    46 搆材を交はせ、以て壁に爲る。
    
 時代順に見るのであれば、『倭訓栞』谷川士清が先学で、『古事記傳』本居宣長が後学となるのだが、棭齋は、直接対面談に預かった「倉」字の宣長説を挙げている。継いで、宣長自身が師の一人と仰いだ、士清(棭齋は直談はない)の説を引く。その後者の士清が記述した『倭訓栞』は、宣長も校閲に参加している訣だが、士清自身がその参考引用している文献書物が取り分け目を惹きつけてならない。既に前述した『倭訓栞』の当該語「くら【倉】」、「あぜくら【叉庫】」を再度用いて見ておくと、
45 又、「倉」は、谷川(たにかは)(士清)氏(『倭訓栞』)に曰く、「阿世」にて、交はるなり〈也〉。
  ※『倭訓栞』〔上卷六八三頁~六八四頁〕
    くら 物置處をすへて「久良」といふ、「倉」「廩」「庫」「蔵」の如き、みな物置處なり、それより「枕」は目を置處、「鞍」は人の馬上に在處、「千座置戸」の如きみなその意は同しく、詞は次第に轉移るなり、たとへは『文選』射雉賦に、「越レ壑凌レ岑、飛鳴薄レ廩」と有り、注に徐爰曰、「廩翳中盛二飲食一處、今俗呼レ翳名曰レ倉」と見えしか如きも、雉に喰はする餌を置處を、「久良」といふなり、「倉廩」は穀物なと置より、假ていへるなり類名  
    くら 倉也、萬十六、枳うはらかりそくら立む、同九、かりてをさめむくらなしのはま、
    ※『倭訓栞』〔上卷四八頁〕
    あぜくら  『和名抄』に「校倉」をよめり、『今昔物語(集)』『宇治拾遺(物語)』にも見ゆ、「あぜ」は「交」の義なるへし、「方なる木」を打違て「井樓」の如くにくみあげて木の角を外ヘあらはすよて『下學集』には「叉庫」と書り。『新猿楽記』にも「叉庫甲蔵」とみゆ。俗に「あぜり」ともいふといへり。○姓には「畤籠」とかけり。○「山陵」に用ゐし事『貞信公記』に見ゆ。○『北山抄』に「校屋、あぜや」とよめり。
    【自筆本】〔二三オ〕
    あぜくら  『今昔談』(=今昔物語集)にみゆ。『倭名抄』に「校倉」をよめり。然に「まぜ」を「あぜ」ともいへる「交」の義にや。/『下学集』に「あぐら 胡床」をいふ義。「叉庫」を上座の義也。○俗に「平踞」を物如く「角やぐら」とかくといふ此義にや。木を打違へて井樓の如くに組あげて木の角を外ヘ見はす故に「叉庫」といふ。俗に「あぜる」をもいふといへり。
とあって、棭齋は士清の『倭訓栞』をふんだんに活用していて、此の箇所を記述していることが見てとれる。とりわけ、『下學集』『新猿楽記』は、棭齋自身、他の標記語注記には用いていないことからして、此処の註記を後世の吾人たちが見るとき、谷川士清『倭訓栞』からの孫引きと見て良いのではあるまいか。
 棭齋は、室町時代の古辞書『下學集』(古写本乃至元和古活字板、江戸版本類)を本統に手に取って、自らこの「叉庫」の箇所を記述したのだろうか、稍吾人には疑問視する箇所となっている。敢えて、彼の如き蒐集力の規模にあれば、茲に引用した文献資料の二書については、僅かな時間であっても手許に備え置き、且つ引用したという立場も決して捨てきれない。此を證明する棭齋が参考使用した書物の実在とその発見を願うばかりなのだが・・・。
 とあれ、棭齋が使用した『倭訓栞』が清書きされた以後の資料なのか、その写しの校訂素稿書だったのかは、今は触れないでおく。ただ、『下學集』『新猿楽記』の両書を此の部分に転用し、士清が説いた、他の『文選』射雉賦や、本邦説話資料『今昔物語集』『宇治拾遺物語』、録書の『貞信公記』、歌学書の『北山抄』まで、全て爰の註記語に用いていたのであれば、当に援用となることは誰の目にも明らかとなってくるのだが、敢えて此の「叉庫」の語において、二書に留めて註記説明した棭齋の執筆姿勢だけが茲には見えてきている。爰は、棭齋自身の検証と云うより、谷川士清の博捜力に助けられた註記説明である点を強く述べておきたい。
 餘談になるやもしれないが、士清が見出した他資料の箇所を次に精確に検証しておく。
    ⑴『文選』射雉賦
    「越レ壑凌レ岑、飛鳴薄レ廩[徐爰曰廩翳中盛二飲食一處、今俗呼レ翳名曰レ倉]
    ○越壑凌岑、飛鳴薄廩。〈鷩性悍憋、聞媒聲便越澗凌岑、且飛且鳴、逕來翳前也。廩、翳中盛飲食處、今俗呼翳名曰倉也。〔卷第九《射雉賦》六〕
    
    ⑵『今昔物語集』鈴鹿本・卷第廿七「在原業平中将女、被レ鬼語」第七
    ○△其レニ、忽ニ可将隠キ所ノ无カリケレバ、思ヒ繚テ、北山科ノ邊ニ舊キ山庄ノ荒テ人モ不住ヌガ有ケルニ、其ノ家ノ内ニ大ナルアゼ倉有ケリ、片戸ハ倒レテナム有ケル。
    
    
    
    
    
    ⑶『宇治拾遺物語』巻八・三「一〇一 信濃国(しなののくに)の聖(ひじり)の事」
    ○大(おほき)なる校倉(あぜくら)のあるをあけて、物取り出す程に、この鉢飛びて、例の物乞ひに来たりけるを、「例の鉢来にたり。
    
    
    
    
    
    
    
    
    ⑷『貞信公記』〔藤原忠平の日記〕卷一・二八二
    ○延長八年十月十日、南北十丁〔町〕、穴深九尺、方広三丈、校倉高四尺三寸、従広〔縦横〕各一丈、一説
    
    ⑸『北山抄』
    
    
    ○貞観三年十一月十七日倉壱宇〈大破〉板校倉壱宇〈大破〉五間収屋壱宇〈大既収 
    133 東大寺文書四ノ八十六1/114
    
    ○延応元年四月 日 屋検非違使屋酒殿御油校倉直会殿舞殿御宝蔵既収〔5422春日社恒例臨時神事記8/40〕