ゆううつ気まぐれふさぎ猫

某ミステリ新人賞で最終選考に残った作品(華奢の夏)を公開しています。

向日葵 断片5

2009-04-15 19:09:29 | 小説
向日葵の花は、とうに枯れていた。

真昼にもしっかりと首筋を起こし光をあびるその姿が、水寿子は好きだった。けれどもう、こんなに花弁も萎れ茎も干からびてしまっては、引き抜いて処分するしかない。長い裾の足元をふんばって、彼女は力を込めた。雨が少なくすっかり乾いてしまった大地に食い込んだ根は、意外なほど深くしぶとかった。
作業の手を止め、腰を伸ばし、視線を遠くに投げる。入り組んだ海岸線にそって家々の屋根が見下ろせる。山の中腹にある田嶋の屋敷に向かって急な坂道をのぼってきた何人もの女たちのことを、彼女は知っていた。自分を産んだ女も、そうだった。
あともう十数本、のこっている向日葵を抜きおえるまでだれが泣き叫ぼうと放っておくつもりだった。奥の座敷に閉じこめてある母は今のところおとなしく眠っているらしい。

作業を終え、水寿子は屋敷へともどった。
背表紙の赤と紫、そして水色が斜めに細く切り込まれた薄い本を、彼女は用心して書棚の端から抜き取る。赤い色は血ではなく、水色の皮膚に合わせて紫色の血しぶきが全身を彩っている群衆の、その背景を描くために使われている色だった。
背景は、すべての葉を落として枝だけがあちこちに突き出ている針葉樹なのか、それとも爆破され骨組みだけとなってしまったビルの残骸なのか、どちらとも受け取れる造形になるよう腐心のあとがうかがわれた。
この場面が好きで、それが表側にきっちりと納まるよう少し斜めに文庫本を紙の上に置いて、水寿子は本を包んだ。
洗濯機が回りおわるまでの時間、目に留まった背表紙の本を抜き取り、無作為に開いたページの文字を拾うのが水寿子の毎朝の日課になっていた。
奥の部屋でうめき声が聞こえる。やがてそれは長く語尾を伸ばし、悲鳴とも嬌声ともつかぬ叫び声に変わる。けれど彼女は本の頁に目を落としたまま立ち上がろうとはしなかった。

遠慮がちに廊下を踏む足音が、部屋の前で止まった。
「苦しそうにしてるよ、あの人」
長い髪の女が、すらりとした手足をもてあまし気味にふすまにもたれている。いっしょに暮らし始めて一週間あまり、水寿子もぞんざいな口調で応じた。
「ほっとけばいいのよ。そのうち静かになるから」
広々とした座卓に両肘を乗せたまま、文字から目を離すことなく彼女は言った。
「そんなに気になるんだったら、あなたが相手をしてやってくれる」
「いやよ。あたし、そんなことのために、ここに来たんじゃないもん」
女は、間髪を入れずに拒絶した。
「だって、あたし」と、彼女はだらしなくふすまに寄りかかったまま続ける。
「ほかの人に見つかったら、まずいんでしょ。外に出ちゃいけないって言ったの、あんたじゃない」
水寿子の頬に、うすく笑いが浮かんだ。
「髪の毛、切らなきゃいけないわね」
そうして強く、胸元まで流れるまっすぐ伸びた女の髪を、首筋のあたりで摑む。
「ほら、こうすると背格好が似てる」
そう言いながら彼女は力を込めて髪の毛を引っぱった。
女は眉を寄せたきり、じっとしていた。
「あたし、どっちに似てるの」

水にもぐる

2009-04-15 17:46:04 | 雑記
クラムボンを見た。
小学校に上がるまえ、家族で行った別府の温泉で。
湯船にポチャリと落っこちて、沈んでいくほんの数秒のあいだに。
クラムボンが、私の体の腕や腰や足首のあたりから次々と湧き上がっていった。
空気の泡のつぶつぶを、六歳の私は見入っていた。
きれいだったからだ、とてつもなく。
こんなきれいなもの、初めて見た。もっとずっと見ていたい、そう思った。
なのに残念、意識を失ってしまった。

文章を書くことと水にもぐることは似てるような気がする。
といっても、私は素潜りもダイビングも経験したことはありませんが。
幼児期の別府温泉での臨死体験だけで。

もぐって自由に手足を動かせる広くて青い水。
長く呼吸を止められる強い心臓、豊富な肺活量。
ほしいですね。