城北文芸 有馬八朗 小説

これから私が書いた小説をUPしてみようと思います。

雲間の月明かり

2022-07-26 15:49:53 | 小説「沖縄戦」

 一九四五年五月二七日夕闇の迫るころ、首里城址の洞窟に陣取っていた沖縄軍司令部将兵は梯団を組んで次々と首里山を後にした。アメリカ軍の砲撃はやむことなく、首里山を揺るがし続けていた。
 アメリカ軍は日本軍が最後の一兵まで首里山で抵抗するものと予想していた。が、第一海兵師団の司令官デル・バッレ少将は五月二六日に日本軍がいろいろな洞窟に蓋をし始め、兵を撤退し始めていることに気がついた。彼はその日の午後すぐに空からの偵察を要請し、戦艦ニューヨークのカタパルトから偵察機を打ち上げさせて首里山の裏側の繁多(はんた)川谷地周辺を空から偵察させた。彼には日本軍が撤退するという直感が働いていたのだった。厚い雨雲の下で、折からの豪雨の中、日本軍はアメリカ軍に気づかれないように忍び足で逃げ出しているに違いなかった。
 案の定、偵察機からは、日本軍が首里山の裏側の道路を戦車やトラックを伴って移動している様子が報告されてきた。道路に溢れるように銃を持って移動していた。その数は数千人と報告された。
 雨で視界は極めて悪かったが、アメリカ軍はすぐに沖合の戦艦が砲撃体制に入り、占領した沖縄の飛行場に駐機していた海兵隊のコルセア五十機も加わって、首里山裏側の谷地に砲弾を打ち込んだ。攻撃態勢に入っていた海兵隊も射程圏内にいる者は谷地に向けて迫撃砲を打ち込んだ。
 それらの素早い攻撃の結果、撤退中の日本軍には数百人の被害が出た。谷間には日本軍のトラックや戦車も破壊されて散らばった。日本兵の屍が谷間の道端にいくつも転がっていた。
 この撤退劇の二日前の夜には日本軍の義烈空挺隊が熊本の基地から重爆撃機十二機に乗り込み、北飛行場(読谷)と中飛行場(嘉手納)に決死の殴り込み攻撃を敢行していた。
 これら双発の九七式重爆撃機一機には十四名の隊員が乗り込んでいた。そして、爆撃機が北飛行場と中飛行場に着陸すると、隊員が飛行機を飛び出し、手榴弾や小銃を使い、白兵戦を展開し、なるべく多くの米軍機や軍需物資集積所、司令部などを破壊する手筈になっていた。
 五月二五日夜に熊本の健軍飛行場を飛び立った九七式重爆撃機十二機はレーダーの探知を避けて、超低空飛行を続けた。飛行の途中でそのうち四機がエンジンの不調を理由として熊本に引き返した。
 夜七時ごろ熊本を出発した特攻隊は三時間半後の十時半ごろに沖縄上空に到達した。五機が北飛行場に、二機が中飛行場に突入した。米軍の激しい対空砲火によって、そのうち六機が撃ち落とされた。撃ち落とされた一機は高射砲の陣地に突っ込み、高射砲を操作していた八名のアメリカ海兵隊員をなぎ倒した。
 撃ち落とされなかった九七式重爆撃機一機が対空砲火をかいくぐって、北飛行場に胴体着陸をした。日本軍の爆撃機は管制塔の近くで停止した。米軍は日本軍の大胆な攻撃に不意討ちをくらい、大慌てで対空砲火を打ちまくった。アメリカ軍は自軍の弾によって駐機場に停めてあった自軍の飛行機にかなりの損害を与えることになった。
 胴体着陸した爆撃機からは十人くらいの兵隊が手榴弾や自動小銃を持って駆け降りてきた。後に米軍が点検してみると、三名は爆撃機の座席に座ったまま死亡していた。
 北飛行場の滑走路に降りた十人ほどは雄たけびを上げて、四方八方に散らばり、駐機している飛行機に爆雷を仕掛け、破壊していった。手榴弾を次々と投げ込んだ。航空燃料を貯蔵した六百本のドラム缶集積場に火の手があがり、赤々と燃え上がった。管制塔にいた中尉ら二名が死亡し、十八名が負傷した。中には片足を吹き飛ばされて防空壕に逃げ込むなど、米軍にとっては悲惨な状況となった。
 飛行場を守っていた米軍の海兵隊は白兵戦の経験がなく、敵の部隊が多人数だと取り違え、防空壕に避難してやたら目ったら弾を撃ちまくった。この流れ弾が駐機中のアメリカ軍の飛行機に当たり、損害が大きくなった。飛行場を守備していた部隊は近くの海兵隊部隊に至急援軍を要請したが、援軍がきたのは明け方だった。後の米軍の調べでは、コルセア戦闘機三機、長距離偵察用に用いられていたB二四爆撃機二機、C四七輸送機四機が破壊され、コルセア機二二機、ヘルキャット戦闘機三機、B二四爆撃機二機、C四七輸送機二機が損害を受けたとなっている。義烈航空隊の目標であったB二九は沖縄に配備されていなかったので被害はなかった。
 明け方にアメリカ軍の援軍が到着し、飛行場に潜む日本兵の掃討作戦を行った。最後の日本兵が次の日の昼過ぎに海岸沿いの雑木林に隠れているところを発見され、米兵に撃ち殺された。北飛行場は一時的に使用不能となった。

 五月二七日の日暮れ時、「第四梯団は第五坑道に集合」という号令が日本軍の首里山洞窟司令部に響き渡った。いよいよ首里山をあとにする時がきた。八原大佐は二ヵ月ほど過ごした蒸し暑い洞窟生活を思い出していた。三宅参謀が起案した各部隊に向けた感謝状を牛島司令官が忙しく清書していた。数十名いた若い女性たちは二十日前ごろに後方に撤退させた。彼女たちは、「私たちは自分たちをもう女とは思っていません。最後まで一緒にいさせてください」と言って泣いて抗議した。
 沖縄は雨季に入り、普段でも水が流れている坑道の足元は小川のように水が流れていた。第四梯団は牛島軍司令官、八原高級参謀ら五十名ほどであった。第五梯団は長参謀長や参謀たちなどやはり五十名ほどの梯団であった。
 牛島軍司令官は地下足袋に巻き脚絆のいでたちで、扇子を片手にジャボジャボと水浸しの坑道を歩いて行った。八原たちも司令官に遅れまいとついて行った。第五坑道との分岐点には水が滝のように流れ落ちていた。第五坑道には重武装の将兵がところ狭しと泥水に足をつかりながら出発の命令を装備品や糧秣の重さに耐えながらじっと待っていた。八原は「高級参謀だ。通せ、通せ」と叫んで、鮨詰めの坑道を無理やり坑口に向かった。
 第五坑道は百五十メートルほどの長さだった。坑口が見えてきた。牛島司令官らが洞窟から飛び出す頃合いをうかがっている様子が見えたが、坑口付近は兵隊たちが密集していてこれ以上進めそうになかった。八原が坑口近くの側室を覗くと、長参謀長や参謀たちと独立部隊の鈴木将軍たち幹部らがいて、乾パンをたべながらなにやら話をしていた。
 坑道の出口付近には砲弾が盛んに炸裂していた。米軍の照明弾が次々と投下され、夜空を明るく照らしていた。
 やや砲弾が途切れたころ、牛島司令官は決然と洞窟を後にした。四、五十名の兵隊が後に続いた。八原大佐もその後に続こうと駆け寄ろうとしたところ、出口付近に爆弾がいくつもさく裂して、二、三十人の兵隊があわてて戻ってきた。
 残った兵隊たちはまた砲弾の雨が小やみになるころを待っていた。一時間ほど経ったころ、砲弾が下火になり、長野参謀を先頭に八原大佐や長参謀長らが出発した。彼らは谷地の緩斜面を登っていった。後には縦隊が続いた。緩斜面を登り切ろうとすろころ、また、耳をつんざく迫撃砲の集中砲火が右斜面前方に落下した。八原大佐はすぐに左斜面の灌木中に身を伏せた。坂口副官は参謀長の手を取って斜面を引き上げ、「閣下早く」と声を掛けた。長参謀長はうつむき加減に八原大佐の傍らを通り過ぎて行った。密集した兵隊がそれに続いて行った。
 八原大佐は縦隊が通り過ぎるのを待って、洞窟に戻った。また一時間後、砲弾が途切れたころを見計らって出発することにした。三名が八原大佐にはぐれずについてきていた。側室に入って時期のくるのを待った。鈴木将軍は八原が戻ってきたのを見て、「怖気づいたか」と言わんばかりのあきれ顔をしていた。
 一時間後、やはり、思った通り砲弾の勢いが弱まった。今回は何があっても八原は戻れなかった。八原たち参謀部の四名は洞窟を飛び出した。鈴木将軍たちは深夜遅くに出発する予定のようだった。米軍の照明弾が広範囲に次々と打ち上げられ、八原たちの足元も照らし、足元にはっきりと影ができていた。粘土質の土が連日の雨で滑りやすくなっており、前進するのも容易ではなかった。一行ははぐれそうになるので、声を掛け合って前進するしまつであった。しばらくすると、重武装の日本兵が一人、俯せに倒れていた。ピクリともしなかった。艦砲射撃の砲弾が行く手に数発散らばって落ちた。米艦隊は日本軍が仕掛けた機雷を除去し、西側の東シナ海側と東側の中城(なかぐすく)湾に戦艦や重巡洋艦を配置し、海兵隊と合わせて、三方から砲弾を撃ち込んでいた。兵隊の心理で八原には自分たちが追いかけられているような気がした。谷地を登り、首里方面からやって来る迫撃砲の射程外に出たところで、八原たちはやや安心した。顔の汗が雨に流されて、心地よかった。二ヵ月ぶりに腹いっぱい吸った外気がこれほどうまいと思ったことはなかった。通り過ぎる兵隊の群れもあった。そんな中で参謀部の下士官二人と出会い、一行は共に行動することになった。
 将兵はまず、津嘉山(つかざん)の洞窟に撤退し、それから摩文仁(まぶに)に向かうことになっていた。繁多川谷地を登り切る手前で、八原は工兵連隊の洞窟を見つけた。しばし休憩をするために洞窟に入ると、連隊長がお茶を淹れてくれた。壕内は蒸し暑い上に煙草の煙が充満し息苦しいことこの上なかった。 
 八原大佐たちは繁多川谷地を登り切り、一日橋を避けて国場(こくば)川の上流方向に向かい川を渡った。一日橋は南部から首里に行く道路が集まる要衝で、米軍の攻撃目標になっており、日本兵数十人の死体が収容することもできずに横たわっているところだった。遠くの与那原(よなばる)方面で激しい戦闘音がはっきりと聞こえてきた。それが近づいてきている様子だった。八原は増援部隊が行っているはずだからこの辺はまだしばらくは安全だと自分自身に言い聞かせていた。
 八原たちは低いなだらかな丘が幾重にも連なっている地帯を歩いていた。道が小さな窪地につながっていた。窪地の底には一軒の農家が奇跡的に無傷で残っていた。砲弾がパラパラと低地の縁に落下していたが、一行は比較的安全と見て、農家の石垣の影に伏せて休憩を取った。雲の隙間に月が覗いて見えた。タバコを一服して出発のつもりが、皆が先を急ごうとしたが、八原はなかなか動く気になれず留まっていると、一行の目の前の斜面に砲弾が三発着弾して轟音とともに赤い炎が舞い上がった。幸い砲弾の破片は頭の上を通り過ぎたらしく、誰も怪我はなかった。
 八原たちはまず津嘉山の日本軍用に手掘りでつくられた洞窟に行き、そこから最終目的地の摩文仁の丘に到着する算段であった。津嘉山に近づくにつれ、砲弾が激しくなってきた。西から東から艦砲が飛んできた。北からの銃弾もやってくる。どこに着弾するかもわからないので、避けようがなかった。津嘉山の付近は丘が重層的に連なっており、どこが津嘉山の洞窟なのかも定かではなかった。暗闇の中を歩いているうちに一行はバラバラになってしまった。薄明りの中、八原がようやく地上の様子に気が付くと、日本兵の死体はかたづけられているらしく、あまり見当たらなかったが、銃器や装備品がそこいら中に散らばっていた。
 八原は人影を追いかけて、丘を駆け下り、また次の丘を登ると、途中に洞窟の穴が見えた。八原はそこが目的の津嘉山の陸軍洞窟かどうかわからなかったが、入って行った。洞窟には武装した日本兵が充満していた。
 津嘉山の陸軍洞窟は沖縄で一番大きな手掘りの洞窟で、端から端まで歩いて三十分もかかるほどだった。元々はここを司令部として構築を進めていたが、後に首里山の洞窟に司令部を置くことになったため、津嘉山の洞窟は食料や軍需品の後方集積地となっていた。軍の土木作業には住民の協力が欠かせなかった。飛行場の建設に成年男性の大多数が動員されたため、津嘉山の洞窟には残った地元の少年や女性たちが動員されることになった。八原には「勝つまでは頑張ります」と言った少年のけなげな姿が思い出された。
「高級参謀」と呼ぶ声があった。部下の薬丸参謀だった。別行動になった牛島司令官や長参謀長もすでに到着していることがわかった。暗闇の中はぐれてしまった長野参謀や参謀たちの身の回りの世話をしていた勝山伍長たちとも再会した。八原は下士官の案内で司令部に割り当てられた洞窟の部屋に向かった。
 暗くて長い洞窟を歩いていくと、八原は洞窟の片側の寝棚の上に半身を起こして八原をジッと見ている男好きのしそうな大柄の年増女性の存在に気が付いた。暗いランプの灯火の中で、蒸し暑さで眼鏡が曇っていたが、確か、あの女性は昨年末まで首里にいた辻町の女将ではなかったかと、八原は思った。八原は気が付かないかのように無言でその女性を通り過ぎたのだった。
 曲がりくねった坑道をしばらく歩くと、八原たちは割り当てられた部屋についた。八原大佐はすぐに部下の長野を連れて、隣の軍司令官の部屋に挨拶に行った。
 軍司令官の部屋には牛島司令官と長参謀長と経理部長がいて、上機嫌に食事をしている最中だった。「無事到着おめでとう。お前たちがなかなか顔を見せないから心配していたぞ。万一おまえたちが来なかったら命令起案も自分でやらなければならなくなると冗談混じりに話していたところだ」と長参謀長が言った。
 八原は将軍たちに挨拶を終えると隣室に戻り、汗と泥にまみれた軍服を着替えた。兵隊靴も新品をもらい、室外の坑道に揃えて置いた。津嘉山の陸軍洞窟は物資の補給基地となっていたため、必要なものは何でもあり、食料品もまだまだ豊富に貯蔵されていた。缶詰や酒もあった。割り当てられた部屋は四畳間ほどの広さの部屋で、両側に寝台が置いてあり、真ん中に机が一つあった。蝋燭の灯が結構明るく、本も読むことができた。
 津嘉山は軍の後方補給基地で、食糧は前線部隊より豊富に備蓄されていたが、前線部隊の兵士たちが一日二食で頑張っているのに自分たちが三食食べるわけにはいかないと前線と同じ一日二食であった。八原たちは経理部長による心づくしの赤飯をご馳走になった。長野はパイナップルの缶詰と酒をどこからか調達してきた。しばらくすると綺麗な娘さんがやってきて、接待をしてくれた。八原が聞いてみると、その娘さんはある銀行の支店長の女中の娘さんで、焼け跡になった部落の防空壕で母と二人で暮らしていたが、支店長の口利きで軍の洞窟に収容されることになったとのことである。数年前にはアルゼンチンにいたとの話であった。
 沖縄特有の豪雨によってアメリカ軍の戦闘力が阻害され、日本軍の退却はやりやすくなっていた。軍の退却を支援する体制として、残留部隊の他に、第六十二師団をもって米軍に対し退却攻勢に打って出ることを八原は考えた。また、那覇にある海軍洞窟の戦いも陸軍の退却支援には重要であった。しかし、第六十二師団の様子がおかしかった。攻勢に出るどころか、少しも自分たちの居場所から動こうとしなかった。なぜ動かないのか図りかねて、八原はイライラしてくるのだった。それどころか、あろうことか、那覇の海軍部隊は沖縄軍司令部からの命令を取り違え、重火器を自ら破壊して、海軍洞窟から南部へ撤退を始めてしまったのだった。
 八原が部下の参謀に意見を求めると、
「元気だった昔の六十二師団はもういません。数も少なくなり、攻勢は不可能です」
 と彼の部下は答えた。いつもは元気のいい八原の部下の参謀だったが、救いがたいくらい元気のない声だった。
 重火器を破壊して撤退を始めた海軍部隊にどういう命令を出すかも八原の頭を悩ませた。海軍部隊を重火器を破壊した海軍洞窟に戻らせることにすると、部隊を丸腰で米軍に向かわせるようなことになる。それは問題が起きそうな案だった。
 その部下の参謀の起案は、海軍部隊を洞窟に戻すという命令であった。それは問題が起きそうな案だったが、八原はやむなく起案に同意して参謀長に提出した。ここまでくると命令は参謀長による字句の修正を経て、司令官の名で発令される。いつものパターンである。責任は牛島司令官が取ることになるのだった。
 海軍部隊を海軍洞窟に差し戻す命令が発令されると、海軍部隊の参謀として派遣された後津嘉山洞窟に戻っていたある参謀は、自らを武装して海軍洞窟に向かおうとして、参謀長に止められるということが起こった。海軍部隊を海軍洞窟に差し戻す命令を出した数日後、間もなく牛島司令官は海軍部隊に撤退せよという命令を出したのだが、その時海軍司令官の大田少将はもうその命令には従わなかった。もう彼は撤退をすることはなかった。その後、大田少将は有名な「沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」という決別電報を発し短銃自殺を遂げたが、彼が命令に背いたものか、米軍が迫っていて撤退できなかったものかは、永遠に彼の胸の中に閉まったままになっている。
 沖縄軍司令部の津嘉山からの出発は五月三十日午後九時と決まった。将軍や参謀たち幹部は二台の木炭トラックに乗っての出発だった。その他の兵隊たちは持てるかぎりの食料品を肩に背負い、日没とともに徒歩で摩文仁へと向かった。
 木炭トラックが津嘉山陸軍洞窟の麓に到着したのは真夜中の十二時を過ぎていた。兵隊たちはすべて摩文仁に向かってすでに出発しており、洞窟内はがらんどうであった。八原には暗くさびしいかぎりであった。ヤモリのようなトカゲが洞窟の壁に吸い付いていた。坑道の縁に八原が揃えて置いておいた新品の軍靴はだれかが持って行ったらしくなくなっていた。こんな時にも盗む者がいるのかと八原は暗澹たる気持ちがした。八原は以前の汚い靴を履いて出発することとなった。出発の隊列を整えてから牛島司令官を案内しようと八原が思っていると、牛島司令官は案の定、自分からさっさと洞窟を降りて行った。八原は遅れまいと司令官の後を追って行ったが、途中で足を滑らせ、深い窪みに落下し、時計を失った上に顔や手にかすり傷を負うというありさまだった。暗く寂しい末路を暗示しているようなめぐり合わせだった。ようやくの思いで麓の自動車のところに到着したが、それは古いトラック二台で、トラックは一向に動かなかった。砲弾が周りの山頂あたりにひっきりなしに落下していた。やっと動き出した一台に首脳部が乗り込み出発した。トラックを運転する兵隊は暗闇の中をヘッドライトも点けずに器用に運転した。
 東風平(こちんだ)街道にさしかかると、歩兵の部隊が小集団ごとに見事に整然と行進していた。八原が聞いてみると、彼らは最前線に配置されていた部隊だった。この部隊がこの地点を歩いているということはすでにほとんどの部隊がここまで撤退したに違いないと八原は思って安堵した。
 東西を結ぶ道路と交差する交通の要衝の山川橋付近は大小の砲弾がさく裂した跡の穴だらけであった。死体が散乱し、死臭が漂っていた。橋の左右前後にひっきりなしに砲弾が落下していた。
 司令部首脳らが乗ったトラックは、ちょうど山川橋手前付近で、兵站輸送を担当する輜重(しちょう)兵部隊のトラック数台とすれ違った。道路がえぐれていて、八原たちはハラハラしながら辛うじてすれ違った。ようやくの思いで山川橋を通過すると、古い木炭トラックは急にエンストを起こして立往生した。「司令官殿とここで死ねるなら自分は本望であります」としおらしいことを言う者もいた。すぐに修理をして、トラックはまた動き出した。
 しばらく行くと、地元の少年らを召集した防衛隊の一団が軍需品を担いで北進してくるのに八原はトラックの上で出会った。前線への補給物資だった。鼻の下に産毛を生やしたような少年たちが担いでいるのだった。八原は故郷に残した息子たちのことを思い出した。八原は自然と頭が下がる思いがしたのだった。
 山川橋から東風平に出る丘陵の手前で、トラックはまたエンストを起こした。ここも米軍の砲撃目標地点だった。八原たちはすぐにトラックから飛び降りて、窪地を降りていくと、日本軍の砲兵隊が十数人砲弾を避けて休んでいた。その付近には黒焦げの死体がいくつも転がっていた。中には腰かけた姿勢で黒焦げになっているものもあった。
 また、修理を終えてトラックが動き出した。八原たちはトラックに飛び乗り、再び南下を始めた。トラックは先に津嘉山を出発していた娘たちの一群を追い越した。東風平部落は焼け跡になっていた。東風平部落を右折してトラックは志多伯(したはく)に出たが、そこは日本軍の砲兵隊の陣地のあったところだったが、集中砲火を受けた惨状となっていた。死臭が漂っていた。風呂敷包を抱えた避難民とおぼしき死体が多数見受けられた。八原は日本軍が退却を決めた時に住民は知念半島に避難するように命令を出したはずなのにどうしたことかと思った。まだ四百人の警察隊も県知事含め県職員も県民を守るために配置して健在だった。だが、実のところ陸軍の命令は遅すぎたのだった。知念半島はすでに米軍に占領されていた。住民は怖くて「鬼畜米兵」のいる半島にいく気にならなかった。日本軍が撤退する南部に住民も移動したのだった。
 製糖所を過ぎるころには首里方面からの砲弾は届かなくなっていた。代わりに糸満沖から米艦船の砲撃が激化した。それは大型の砲弾が多く、すさまじい轟音を伴って火を噴き炸裂した。路傍には軍需品が散乱していた。トラックも二両ひっくり返ったまま放置されていた。米軍機の機銃掃射でやられたようだった。荷を背負った子馬が主を失ったらしくあてもなく彷徨っていた。
 流れる雲の合間に月が顔を出した。遠くにはひっきりなしに照明弾が打ち上げられていた。トラックはゆっくりと走っていた。この戦場に子供の泣き声が聞こえた。八原が目を凝らしてよく見ると、七、八歳の女の子が荷物を頭の上に載せて歩いていた。八原は女の子に「どうした?」と問うたが、女の子は泣きじゃくるばかりだった。八原は女の子を助けようと女の子に手を伸ばしてトラックに乗せようとしたが、「高級参謀殿、戦場に情けは禁物であります」と丁寧だが大声で叱責する部下の声が聴こえた。ここで女の子をトラックに乗せて最期の洞窟に連れて行ったところでだれも助かるわけではない。女の子の親や知り合いが近所にいるのかもしれない。戦場に情けは無用とついに八原は悟るのだった。                               (初出2021年「城北文芸」54号)
 
 
 

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