城北文芸 有馬八朗 小説

これから私が書いた小説をUPしてみようと思います。

米軍住民救出班

2022-05-07 14:32:59 | 小説「沖縄戦」

 1945年4月1日に沖縄本島に米軍が上陸してから、一ヶ月以上が経過していた。以前聞かされていた話と相違して米兵は意外と親切であることが山中に避難していた人たちに知られるようになり、半信半疑ではあっても、次第に米軍の収容所に収容される人たちが増えていった。
 そのような中でマイケルは収容所にいる沖縄人を連れて南部戦線に行くことになった。任務は、各地洞窟にいる沖縄住民を安全に救い出すことであった。
 ガールフレンドとはうまくいかなかったので考えることもなかったが、国に残っている病弱の母親は自分のことを心配しているのではないかと気になった。マイケルには弟が一人いたので、万一のことがあってもその分気が楽であった。彼はヘルメットの内側に母親からの手紙を折りたたんで貼り付けてあった。そこには、無事に任務をまっとうして帰還することを皆で神に祈っていると書かれてあった。
 マイケルは収容所にいる沖縄人の中から、米軍に協力的な者を選んで、住民救助隊に組み込んだ。そして、彼らはいくつかの班に分けられた。その中には片言の英語をしゃべる者もいた。その片言の英語をしゃべる彼は避難者用の堅パン製造を委託されていた食品加工工場の職員だった者で、山中に避難している最中に米軍と遭遇し、片言の英語で話しているうちに米兵が避難民に危害を加えないということが分かり、集団で投降したのであった。
 救出班に選ばれた沖縄人たちは海兵隊の本部に軍用トラックで移動した。海兵隊本部への移動に要した道路はブルドーザーで道幅が拡張され、蒲鉾状に整地されていた。短期日のうちにすばやく整地してしまう米軍の能力に彼らは目を丸くした。海兵隊の本部で、彼ら沖縄人には海兵隊の青い制服が与えられた。一番小さいサイズの服が支給されたが、それでも、袖や裾がだぶだぶであった。マイケルは彼らの服の袖や裾を捲り上げてやった。彼らには米兵と同じ給料が支給され、米軍の売店において肉や果物、菓子類など避難生活では考えられないような豪華な食事にありつくことができた。だが、南部戦線では食うや食わずで戦っている幾万人もの軍民がいることを思うと、目の眩むようなとまどいを彼らは覚えるのだった。
 マイケルが所属した住民救出班は隊長のスミス中尉以下米兵8名、そして通訳のマイケル、沖縄人3名のつごう13名であった。海兵隊と一緒に南部に向けて出発した。南部戦線では日本軍の粘り強い抵抗と、沖縄独特の激しい雨のため、米軍の制圧作戦がなかなか思い通りに進まなかった。しかし、米軍は激戦の末、嘉数高地を制し、日本軍の司令部のある首里に迫っていた。
 マイケルら救助班は海兵隊と一緒に、軍用トラックに乗り、数日間を過ごした海兵隊本部の瓦葺民家を後にして、牧港へと移動した。そこはもう首里から数キロの地点で、日本軍の射程距離内に入っていた。散発的に迫撃砲の落下する音が聞こえた。運悪くそれに当たれば死ぬかもしれなかった。
 マイケルたちは牧港近くの丘のふもとに穴を掘り、テントを張って露営した。米軍兵士は夜間はテント内に閉じこもることになっていた。暗がりの中、テントの外で生き物の動きがあれば、問答無用で撃ち殺される手はずになっていた。日本軍の得意とする夜襲攻撃対策のため考えられた作戦であった。日本軍はテントに忍び寄り、背後から米兵に襲い掛かり、口をふさぎ、音をたてずにナイフで命を奪っていく。米軍は南の島々で経験済みであった。時折、日本軍の砲弾が炸裂する音が聞こえ、マイケルはテントの中で夜眠れなかった。真夜中の2時ごろ、海岸方面で銃撃戦の音が聞こえた。日本軍の逆上陸かと緊張した。
 翌日、日本兵が海兵隊に捕らえられたという一報が救援班に入った。マイケルは救助班の一人の沖縄人をつれて、その捕らえられた日本兵に会いに、海兵隊の本部に行った。その日本兵は糸満出身の漁夫で、応召された一兵卒だった。数日前に読谷沖の米艦船攻撃を命じられ、那覇港から爆弾を積んだ小舟を数人で漕ぎ、夜陰にまぎれて体当たり攻撃を敢行する予定だったが、米軍監視船に発見され、撃沈されてしまった。泳ぎのうまい彼だけが海岸にたどりついたのだった。それから捕虜になるまでの間、彼はなにも食べていなかった。マイケルたちが面会に行くと、最初は二世が尋問にきたのかと思っていた日本兵も、何を話しているかマイケルには聞き取れなかったが、沖縄人同士で話をするうちに、食事も堰を切ったように食べるようになった。あまり急に食べ過ぎるなと心配になったほどであった。米軍は日本人捕虜を戦車のキャタピラで轢き殺し、婦女子は片っ端から陵辱されるというのが、沖縄で流布していたもっぱらの噂であったが、マイケルたちのおかげで、彼は安心して、収容所に送られていった。
                      (2011年「城北文芸」44号)