下馬・上馬・野沢・三軒茶屋のまち歴
上馬、下馬、野沢、三軒茶屋は馬引沢村という一つの村であった。
旧石器、縄文時代の遺跡として、下馬1丁目から野沢3丁目の境一帯に鶴ヶ久保遺跡が、下馬1丁目55番と上目黒5丁目にまたがる蛇崩遺跡がある。
源頼朝が奥州征伐で平泉に赴く際に、当地を通過しようと馬を引いていたところ、近くの沢に馬が転落して死んでしまったことから馬引沢という地名になったという伝承がある。下馬にはその馬を埋葬したと伝わる葦毛塚がある。また、駒繋神社は頼朝が戦勝祈願した際に馬の手綱を繋いだとする松があったことから社名としたという。
駒留八幡神社の記録に境内から徳治3年(1308)の銘がある経筒が出土し、「最明寺時頼公守本尊経塚駒留八幡宮、北条左近太郎成願」と刻まれていたという。その北条左近太郎は上馬の宗円寺を開基し、文保元年(1317)に亡くなったとしている。
戦国時代、領主吉良頼康が駒留八幡神社に若宮八幡を相殿したという。その神社からほど近いところに、頼康の側室常盤姫を埋葬したという常盤塚があり、区の史跡に指定されている。また京極高吉の裔という縫殿助、桑原右近、新堀左近はいずれも戦国時代から続く旧家である。なお、天正年間には上馬、中馬、下馬に分かれていたと考えられる。
慶長14年(1609)、旗本大久保甚右衛門の所領となり、その後、大久保六右衛門、内藤治左衛門、内藤岩五郎の三人に分け与えられた。大久保六右衛門は下馬の西澄寺を中興開基した。西澄寺の武家屋敷門は旧徳島藩蜂須賀家中屋敷の門で、東京都の文化財に指定されている。
野沢は下馬の秣場(まぐさば・馬の飼料を刈る原野)であったが、17世紀半ば頃に六郷沢田の田中七右衛門、葛飾郡東葛西領の野村次郎右衛門の二人が当地を開墾し、野村と沢田の頭文字を取って野沢村とした。のちに龍雲寺が創建された。また先の宗円寺には明暦4年(1658)に造立された区内最古の庚申塔がある。江戸時代後期には、下馬から三軒茶屋(信楽屋、田中屋、角屋)が立場(たてば・休憩所の茶屋など)として分離される。三軒茶屋の交差点には、寛延2年(1749)に建てられた大山道の道標がある。
明治4年(1871)に中馬引沢村を上馬に合併した。ついで明治14年、三軒茶屋に駒沢医院開業。明治32年に砲兵営が下馬(現都営下馬アパート)太子堂(現昭和女子大)の一帯にできた。大正14年(1925)駒沢町に編入。昭和7年三軒茶屋に世田谷消防署ができる。
昭和25年に創建された下馬の世田谷山観音寺には、国の重要文化財である康円作の不動明王を初め多くの文化財を所蔵している。
駒留八幡神社
宗円寺
西澄寺
世田谷観音寺