世田谷城跡保存会

世田谷城跡保存会は平成17年に設立し城跡の保存と復元の活動を行っています。
 

歴史探訪-守谷城と史跡を巡る-

2021年06月02日 09時42分46秒 | 歴史探訪
歴史探訪 -守谷城と史跡を巡る- 参加者募集
守谷城主は下総相馬氏でしたが戦国時代に市河合戦で足利成氏らと戦い戦死しています。この時、蒔田殿という人物も相馬氏と共に戦死した記録があり、この蒔田殿は武蔵吉良氏ではないかと言われています。戦国時代に思いを馳せながら緑豊かな守谷の自然や守谷城址、今城址などをごいっしょに巡りたいと思います。ご参加お待ちしています。当ブログからはコメントでお申し込みをしてください。

日時7月17日(土)全日
参加費1000円
集合つくばエクスプレス線守谷駅中央東口改札8時30分
主なコース 守谷駅→守谷城跡→守谷陣屋跡→今城跡→昼食→守谷駅→アサヒビール茨城工場→守谷駅17時頃解散
昼食については参加者に通知いたします。
現地集合現地解散になります。当日雨天が予想される場合は前日に開催の有無を連絡します。

世田谷城跡保存会アーカイブ 御所通信5

2021年06月02日 09時35分53秒 | 世田谷城跡
平成21年4月15日発行「御所通信5」


世田谷まち歴 下馬 上馬 野沢 三軒茶屋編

2021年05月30日 04時42分20秒 | 下馬・上馬・野沢・三軒茶屋
 下馬・上馬・野沢・三軒茶屋のまち歴
 上馬、下馬、野沢、三軒茶屋は馬引沢村という一つの村であった。
 旧石器、縄文時代の遺跡として、下馬1丁目から野沢3丁目の境一帯に鶴ヶ久保遺跡が、下馬1丁目55番と上目黒5丁目にまたがる蛇崩遺跡がある。
 源頼朝が奥州征伐で平泉に赴く際に、当地を通過しようと馬を引いていたところ、近くの沢に馬が転落して死んでしまったことから馬引沢という地名になったという伝承がある。下馬にはその馬を埋葬したと伝わる葦毛塚がある。また、駒繋神社は頼朝が戦勝祈願した際に馬の手綱を繋いだとする松があったことから社名としたという。
 駒留八幡神社の記録に境内から徳治3年(1308)の銘がある経筒が出土し、「最明寺時頼公守本尊経塚駒留八幡宮、北条左近太郎成願」と刻まれていたという。その北条左近太郎は上馬の宗円寺を開基し、文保元年(1317)に亡くなったとしている。
 戦国時代、領主吉良頼康が駒留八幡神社に若宮八幡を相殿したという。その神社からほど近いところに、頼康の側室常盤姫を埋葬したという常盤塚があり、区の史跡に指定されている。また京極高吉の裔という縫殿助、桑原右近、新堀左近はいずれも戦国時代から続く旧家である。なお、天正年間には上馬、中馬、下馬に分かれていたと考えられる。
慶長14年(1609)、旗本大久保甚右衛門の所領となり、その後、大久保六右衛門、内藤治左衛門、内藤岩五郎の三人に分け与えられた。大久保六右衛門は下馬の西澄寺を中興開基した。西澄寺の武家屋敷門は旧徳島藩蜂須賀家中屋敷の門で、東京都の文化財に指定されている。
 野沢は下馬の秣場(まぐさば・馬の飼料を刈る原野)であったが、17世紀半ば頃に六郷沢田の田中七右衛門、葛飾郡東葛西領の野村次郎右衛門の二人が当地を開墾し、野村と沢田の頭文字を取って野沢村とした。のちに龍雲寺が創建された。また先の宗円寺には明暦4年(1658)に造立された区内最古の庚申塔がある。江戸時代後期には、下馬から三軒茶屋(信楽屋、田中屋、角屋)が立場(たてば・休憩所の茶屋など)として分離される。三軒茶屋の交差点には、寛延2年(1749)に建てられた大山道の道標がある。
 明治4年(1871)に中馬引沢村を上馬に合併した。ついで明治14年、三軒茶屋に駒沢医院開業。明治32年に砲兵営が下馬(現都営下馬アパート)太子堂(現昭和女子大)の一帯にできた。大正14年(1925)駒沢町に編入。昭和7年三軒茶屋に世田谷消防署ができる。
 昭和25年に創建された下馬の世田谷山観音寺には、国の重要文化財である康円作の不動明王を初め多くの文化財を所蔵している。
駒留八幡神社
宗円寺
西澄寺
世田谷観音寺



世田谷まち歴 池尻編

2021年05月28日 15時51分02秒 | 池尻

 池尻まち歴
 世田谷の町の歴史(略世田谷まち歴)を編修している。第1回は池尻。目黒区との区界に位置し、大山道(玉川通り)が東西に横断し、目黒、渋谷、青山、赤坂など江戸東京文化の影響を受けて発展した町。原始古代から近代までを概説する。
 旧石器、縄文、弥生、古墳の各時代が複合する東山遺跡があり、池尻2丁目の一部がその遺跡に含まれている。
 弘安6年(1283)には目黒の碑文谷に法華寺が開かれた。池尻には日蓮上人が彫ったとされる剣難除日蓮上人像を本尊とする祖師堂が、さらに法華寺の塔頭の一つ常光庵があったことから、法華寺の影響を古くから受けていたことがわかる。
 室町時代には武蔵吉良氏の支配するところとなり池尻の有力者である橋本氏は吉良氏の家臣となり「世田谷12将」の一人だと言われている。
 天文17年(1548)、吉良氏は目黒の碑文谷にあった法華寺に対して諸税の免除をする代わりに池上本門寺との争論をやめるよう仲裁し、天正11年(1583)には掟書を出して僧侶らに保護を加え、さらに同13年には門前七町四方の寄付をしている。
 江戸時代になると一時期旗本領となったが、元禄8年以降幕末まで天領となり幕府代官の支配する地となった。
 承応年間(1652~1654)に池沢村が池尻村から独立開村した。明暦年間(1655~1657)に火伏の稲荷、子育ての稲荷の名でも知られる池尻稲荷神社①が創建された。境内にある薬水の井戸は枯れたことがなく、大山道②を行き来する旅人の乾いた喉を潤した。池尻庚申堂③(池尻2丁目23番付近)には延宝8年(1680)と元禄5年(1692)に造立された庚申塔と宝永元(1704)に建立された地蔵の石仏がある。
 明治12年(1879)、池尻、池沢両村が合併して池尻村となった。明治24年(1891)、旧池沢村の飛地を陸軍省が買収し、騎兵第一大隊、翌年には近衛輜重兵第一中隊が移転してきた。さらに明治30年には上目黒村と旧池沢村の土地を買収して駒沢練兵場④ができた。同32年には池尻に目黒郵便局が開設され、同37年に世田谷郵便局と改名された。明治43年(1910)、品川警察署世田谷分署が池尻に出来た。
さらに詳しく知りたい方は池尻の歴史
①池尻稲荷神社
②大山道旧道
③池尻庚申堂
④駒沢練兵場倉庫(現存)

ご関心のある方は池尻の歴史


世田谷城跡保存会アーカイブ 御所通信4

2021年05月23日 05時23分25秒 | 世田谷城跡
平成20年9月15日発行「御所通信4」