花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

太閤道

2009年04月24日 | 徘徊情報・摂津国
 写真は太閤道から眺めた三川(桂川・宇治川・木津川)合流地です。JR島本駅から高槻駅までの間、西側の車窓は山が迫ったり少し離れたりという景色が続きますが、その山の尾根道が太閤道です。1582年の山崎の合戦の際に豊臣秀吉が進んだ道ということでその名が付いていますが、合戦時の秀吉の本陣はJR高槻駅のすぐ北の上宮天満宮にあり、山崎方面への移動は既に明智軍を撃破した後ですから、秀吉自身は西国街道を進んだと考えられます。この尾根道を進んだのは、秀吉北上時は奇襲に備えた警戒部隊だったと思われます。但し、実際に戦った武将達が進む折には西国街道だけでは多くの部隊を進めることはできませんから、黒田如水や羽柴秀長等はこの尾根道を通り、現在の島本町東大寺辺りから天王山に登って布陣したものと考えられます。それでも色々と伝説は生まれるもので、太閤道には秀吉に睨まれて自ら動いて軍を通過させたとかいう岩が残っています。
 西条八十作詞、服部良一作曲の名曲「青い山脈」のイントロの部分は、服部良一氏が今でいうJRに乗っていて、この辺りを通過するときに西の山々を見、列車のガタンガタンという音と相俟って生まれたという話もあります。もし氏が東の方の窓から景色を眺めていれば、また違った曲になったかも知れませんね。
 阪急高槻市駅を少し北に戻ると八丁松原です。能因塚の碑を建てた初代高槻藩主永井直清という人はなかなか偉い殿様だったようで、この松原を整備したのもこの人だと下の碑には書いてあります。高槻城跡の永井神社には、この殿様も祀られています。

          

 この碑から少し西に進み京大の農場を抜け、JRを渡ったところが西国街道です。京大の農場は城陽市の方に移転するようですが、移転先の土壌に問題があるとかいうことを聞きました。もし移転するとしたら施設も全部つぶしてしまうのでしょうか?農場一帯は弥生の安満遺跡です。今現在はグラウンドの横に「安満遺跡やでー」という看板が立っているだけです。京大農場が移転した跡地に史跡公園を作る計画があるそうです。

          

 西国街道から北安満の落ち着いた集落を抜け、磐手橋付近から山道に入ります。この奥には、金竜寺というかなり大きな寺があったそうですが、今は一宇も残っていません。金竜寺までの丁石はしっかり残っていますが、下の写真は、磐手橋付近にある丁石の由来を記したものです。延宝年間(1673~1681)のものらしいのですが、山中にある丁石と比べると随分新しい感じがしますので或いは作り直したものかも知れません。けど、失敬な本物ぢゃと怒られるかも知れません。金竜寺址まではささやかな登りが続きます。道はよく整備され、この時は老夫婦と多く出会いました。

          

 金竜寺址からは水無瀬の山側にある若山神社を目指して尾根道を行くことになりますが、眺望の利くところは僅かに2箇所のみです。さすがにそういうところでは、ハイカーが休憩をしたり食事をしたりしています。少しけぶっていますので、眼下の淀川が蛇のように見えます。正面は生駒山ですが、ちょっと解りづらいですね。

          

 若山神社に下りるまでの森は見事な椎木の森です。祭神は牛頭天王(神仏分離後は素戔嗚尊)ですから八坂神社と同じ神様です。宇佐八幡から石清水八幡に八幡神を勧請した際に神輿が泊まったところには、やはり八幡神が祀られていますから、或いは姫路市郊外の広峰神社から八坂に牛頭天王を勧請した時に神輿が留まったところかも知れませんが、もともとは三輪山などと同じように若山(尾根道沿いに三角点あり)の神霊を祀ったところだと思われます。

          

 この神社からは天王山もよく見えます。

          

 今からあの山の頂上に登って陣を張るのですから戦国武将はやはり勤勉です。勤勉ではない我々は阪急水無瀬駅の方に下りて酒を飲む場所を探すことにします。ただ酒なら、このまま西国街道を歩いて、大山崎のサントリーの見学がよいのですが、最初の小一時間は工場を見学しなくてはなりません。またウィスキーの試飲をしているときに「ビールを出してくれ」とも言えないので、まあ今回はパスです。この太閤道、阪急高槻市駅から、あちこちふらふらと寄り道をしても水無瀬駅まで約3時間の行程です。

 (09年2月記)


5 コメント

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背割堤のこと (gunkanatago)
2009-04-26 13:10:02
 mfujino様、コメントをありがとうございます。背割堤、いつの間にか桜の名所になりました。4月19日に石清水八幡宮にお参りしたのですが、2週間前ならば駅前はごった返していたはずですが、その狂奔がウソのようで八幡市駅前も閑散としていました。石清水八幡宮では、展望台の八重桜が満開でしたが、もう散ってしまうころです。
 この地域の水運ですが、巨椋池の存在も大きいと思います。平城京から奈良阪を越え、木津川を下れば結構縦横無尽に各地に行けたようです。飛鳥から難波宮なども大和川の水運を利用したようですね。長岡京が僅か10年で放棄されたのも早良親王の怨霊+洪水説が有力なようです。山国からの筏流しについては、角倉了以以前の大堰川の状況がポイントとなりそうですね。
 太閤道の入り口をちょっと外れたところに安満宮山古墳があります。魏の青龍3年の銘入りの鏡が発見された古墳です。周りに市営墓地を市が造ってしまいました。何を考えているのやらというところです。
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背割堤 (mfujino)
2009-04-25 22:21:47
山崎の三川合流地点はたしか背割堤というのですね。先日我が大阪の呑み友達からメールが入りまして、今背割堤で呑んでるよ~、桜吹雪が最高だ~と。こちとら勤務中でしたが、お~い料理残しといて、2時間後には行くから、なんて返信したり電話で話したりしました。
私は道に興味があるのですが、太閤道ですか。折しも昨夜、本能寺の変の番組をやっていまして、あの秀吉の大返しは事前に仕組まれていて、本能寺の変の黒幕は秀吉だという説も説明していました。
歴史上この三川合流地点は戦略上重要な地点ですよね。にも関わらずあまり歴史の節目に登場しないのはどうしてでしょう。お城も少ないように思いますが。
我が山国荘の木材が筏で桂川を下りここから木津川を北上し木津で陸揚げされて平城京方面にも運ばれたのではないか、という説を述べる人がいます。長屋王の木簡には山国から米を運んだ記録が出て来ますが、木材の記録はありません。
道と言えば陸路が思い浮かびますが、水路というのはすごく重要な意味を持っていたのだと思っています。人が行き来するには峠道を越える最短道、物資は水路だったのですよね。
もう一つ、平城京建設のためには琵琶湖南部の宇治川近辺の木々が利用されたが、伐採により淀川が荒れたのも、平城京から平安京への遷都理由の一つに上げる話を聞いたことがありますが、成る程と頷いたものです。我が北山の里の話になってしまい、太閤さんの話から逸れてしまいました。ごめんなさい。
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京都・大阪間 (gunkanatago)
2009-04-25 16:29:52
 道草様、コメントをありがとうございます。京都と大阪の間は、時間ではJRが有利ですが、運賃では阪急と京阪が得ですね。あの呑んで午前様というのも高度経済成長及びその余波が続いたころには多かったようですが、最近の人は小利口と言うか、けちくさいというか、余りやらないようですね。以前はタクシーに乗るのに1時間待ちは当たり前だった高槻や茨木の駅前も今はタクシーが長蛇の列を作っています。
 三川合流地からすこし下ったところで、大阪市水道局が上水道の取水を行っています。遠い宇津の里も大阪市民も飲む水は同じ淀川水系と思うと不思議な感じがします。
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青い山脈・・・。 (道草②)
2009-04-24 16:31:50
それと書き忘れましたが、服部良一が「青い山脈」作曲のヒントを大山崎辺りから得たと、言うのは初めて聞きました。彼は大阪の出身ですから、当然あり得る話ですネ。偶然ですが、拙ブログ「ふらり道草Ⅴ」にこの映画の記事を載せていますので、つい戻って来ました。
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京都三川の合流地点が・・・。 (道草)
2009-04-24 16:20:47
京都~大阪間の3本の鉄道では通勤の京阪以外には、阪急やJRはやはりそれ程馴染みは無いものの、懐かしい地名や名称に出逢えて遠い昔を思い出しております。西国街道はバイトでよく行った摂津富田の松下電器(旧)がその際にあって、交通の激しい道路だった印象があります。
話は反れますが(いつものコトで済みません)JRの京都行き最終が12時15分で、淀屋橋京阪の最終に乗り遅れたバアイに時々利用しました。京都駅からは勿論タクシーです。カプセルホテルなど無い時代でしたから、苦労して帰宅しました。それにも乗り遅れるとサウナで過ごしました。風呂の入り放題は有難いのですが、広間にある籐ベッドが満席で床でごろ寝です。それでも800円ですから文句は言えません(自業自得ですから当然です)。淀屋橋からタクシーだと1万円を超えましたので、賢明な方法だったかと・・・(よく考えればアホですが)。
京阪も京都三川の合流地点を通過します。いつでしたか、京都新聞の「窓」に投稿した記事です。季節は違いますが。

「ダムに沈む」    02・11・05
             
 通勤の途中に、三本の川が合流して淀川となる地点がある。電車の窓から眺めるだけですぐに通り過ぎてしまうが、今は日差しも和らぎ真菰や葦に秋色が濃い。その一つ、桂川の上流に私の古里がある。名称も大堰川となって川幅はずっと狭くなる。古里は、その流れに沿って二百戸ばかりの農家が点在する静かな山村だった。 
私たちの小学生のころは、大堰川に筏流しが見られた。嵐山の渡月橋付近に貯木場があって、伐採した木を繋いで清流に乗せて運んでいた。見事に竿を操る法被姿の筏師に、学校帰りの道端から手を振ったのも昨日のことのようである。              
 一九九八年に日吉ダムが完成した。もちろん筏流しは既に姿を消していたが、川の流れはダムで分断された。そして、その底には下流の在所、天若地区のおよそ百五十戸の民家が沈んでいる。私たちが今ごろ秋の遠足で訪れた天若分校も無い。     
当時の遠足は、戦国武将の安倍貞任にゆかりのある貞任峠を歩いて越えた。今はバイパスが通って、峠を行く人はいない。水没した友人の家や学校を見ることも、もう二度とないだろう。 

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