花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

高麗橋辺り

2008年12月08日 | 徘徊情報・浪花
 かつては大阪城のお堀であった東横堀川、西横堀川というのは既に消え失せていますから、単に横堀川でよいと思うのですが、この名を聞けばすぐに商家の甍が幾重にも連なる古き良き大阪を思い浮かべるのは、やはり昔のテレビ等の影響でしょうか。『横堀川』原作者の山崎豊子さんはご健在ですが、花登筺氏が亡くなってからは懐かしくて懐かしくて今すぐにでもその世界に入り込みたくなるような大阪を舞台にしたドラマは少なくなったように思います。
 かつて「けったいな人々」という靫の海産物問屋を舞台にしたドラマがありましたが、茂木草介氏原作のこのドラマにも何とも言えぬ品がありました。今やテレビで素っ頓狂に大声を張り上げるばかりの漫才師がイコール大阪と思われているのは甚だ残念なことです。そういう漫才師たちは言葉も汚い、大阪文化を代表しているという自負があるならば、本当の大阪言葉を喋るべきだ。てっとり早いところだと、織田作の小説など少し読めば、昔の品のよい大阪弁の一端を感じ取れるのに(但し、織田作が言うには自身の作品は下品下劣なものであるそうです。)等と愚痴を述べていても仕方がないので、ひとまず横堀川に沿って南下しましょう。
 写真は、高麗橋の里程元標です。大阪から何里という各地の表示はこの高麗橋がもとになっていました。泉州の徘徊で述べましたが、実際に「高麗橋から何里」などと記してあるものを見つけると「ああ古いものがまだまだ残っているなあ(詠嘆)」と嬉しくなります。
 この高麗橋にはかつては「でぱぁと」でも屈指の格を誇った三越があったのですが、天満の松阪屋同様に今はなくなってしまいました。中元・歳暮など、ここ一番はやはり三越から、阪急百貨店や阪神百貨店は随分と格が落ちるというムードは少なくとも昭和40年代までは残っていたような気もしますが、三越はかつての「何故だ!」の岡田社長で自滅し、そごう等はまもなく無くなろうとしていますし、阪急・阪神の努力もあってか、そういう格を聞くことは無くなったように思われます。が、同じ百貨店であっても格の違いというのがあるそうで、近所のおばちゃん曰く、「わたしなあ、ここ一番の贈り物の時はやっぱり梅田の阪急に行きますねん。千里や川西の阪急からものを送ったりしたらやっぱり失礼や。」と。品物は同じ、包み紙も同じだと思うのですが…。デパートの格、但し芦屋の社交界など小生の全く知らぬ世界ではどうなのかは解りません。
 今は、このような店が目を引くのですが、残念ながら閉まっています。是非とも平日に徘徊せねば。

       

 ここを西に行けば道修町ということになりますが、それはまたの機会にご案内することとしてさらに南下すれば、平野橋や本町橋などいずれの橋もライトは独特の意匠となっていて、色々と楽しむことができるのですが、何といっても川の上を通る阪神高速が景観の邪魔となっています。まあそうです中之島の水晶橋なども阪神高速のために台無しですから。大阪市がやるべきことは、新しい道路を造ることではなく阪神高速の地下化でしょう。
 本町橋は、市内最古の橋だそうです。

       

 この橋の両側に川に突き出た出っ張りが8つほどあるのですが、いずれの出っ張りも自殺防止のためか、あるいは出っ張りから川にゴミをほかすのを防ぐためか「天地人」にかたどった3つの石が置かれています。この天地人という配置、お花のお師匠(おっしょ)はんから教て(おせて)もろうたのですが、確かにあちこちで見ることができます。といって無粋なる小生が華道を学んでいるわけではありません。

       

 この本町から、船場、島之内と懐かしい響きの町が続くのですが、ごくごく一部に古い建物がありますが、往年の商家らしきものは見ることができず、いとさんやこいさんの嬌声また遠しというところです。御寮さん(ごりょんさん)等という言葉と共にこれらのことばも死語になっていくのでしょうか。確かこの近辺に浪花そばという知られた店もあったはず、そこで一杯やるぞと川筋を少し離れれば、ありゃーここも閉まっとる。ということで、大阪の市中を徘徊していながら近江の田舎と同様に食い物屋を一生懸命に探さなくてはならないのです。 


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