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「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

「残花亭日暦」  21

2021年12月22日 09時06分40秒 | 「残花亭日暦」田辺聖子作










2002年(平成14年)


・1月20日(日)

今日、初七日だが、法要は葬式の時に併せて済んでいる。
近来はどこも、そのようになさるよしである。

十五日が通夜、十六日が葬式、
日記なんて書いてるひまはなかった。

自宅と西宮山手会館、あとはタクシー、
そして来て下さった方々への挨拶ばかりで、
埋め尽くされた時間。

十五日の新聞に死亡記事が出たので、どっと弔電が届く。
二百八十通あまり。なつかしい名もあった。

彼と共通の古なじみの名もあって、
「パパ、見て見て、〇〇ちゃんから来た!」と言いたくなり、
怱忙の中、笑いたくなった。

笑う、といえば、葬儀社との打ち合わせで、
決めないといけないことがあった。

葬儀のスタイルや飾りつけのクラス、
式の間じゅう流すBGM、
これは小学唱歌の「おぼろ月夜」「ふるさと」「冬景色」、
の三曲をメドレーで、などは指定してあったが、
祭壇に飾る写真がまだだった。

私は、あるパーティに際し、彼が呵々大笑している写真を選んだ。
自分が笑うのも、人が笑うのを見るのも好きな男だった。

いちばん小さなミッコに、
「お父ちゃんの好きなのは、笑い声」と教えた彼。

しかし、その笑いは、嘲笑や憫笑ではない。
優越感からでもなく、苦笑、冷笑でもないのは無論である。

赤と黒の格子のシャツ、青いセーターという若者風のいでたち。
彼は年相応の格好が似合わない男で、
ヨーロッパ紳士よりもアメリカ青年風で決めた方がぴったり。

着るものはみな、私が見立てている。

老来、いよいよ寛闊な身なりを好むようになり、
ネクタイなどは無用の長物となりはてた。

仕事も辞めてからは、腕時計、ライターなど、
ブランド品であれ何であれ、欲しがる人にみな与えてしまう。

そんな彼には、人生のしめくくりに、
格子縞のシャツと空色セーター、なんて軽装がぴったりだ。

五分刈りの短髪、太いまゆ、
ふだんはどんぐり眼が、大笑いしているので細められて、
口が大きく開いて、上下の白い歯といい配色。

こんな写真を葬式の祭壇に飾るなんて。
私も、世外人だから、いいか。
世捨て人ではなく、世間の決まりの外で生きてるもんな。

ミド嬢も弟もこの写真に賛成してくれた。
「義兄さんらしい」と弟も言う。

通夜に東京から出版社の重役さんがたが見え、恐縮した。

「明日、十六日は芥川賞、直木賞の選考会なので、
申し訳ありませんが、お葬式には参れません。
せめてお通夜に、と」

とねんごろなご挨拶。

「私こそ、直木賞選考委員の一人なのに、欠席になってしまって」

とお詫びする。仕事がらみの話も出て忙しい。

通夜は七時に終わり、二階で身内一同食事をとる。
宿泊施設になっているので、遠方のチュウやミッコは泊るという。

明日もあるから、と皆に言われて帰宅。
老母についていてくれるTさんが玄関を開けてくれ、

「お疲れさまですね。
おばあちゃまはもうお寝みです」

老母は疲れを案じて葬式に出席させないつもり。

(そうだ、喪主挨拶をしなきゃいけない)と思い出した。
葬儀社の人に、どのくらいの時間しゃべるのですか、
と聞くと、二十分くらいですね、と、そりゃ長い。

イスが足りなくて起っている人もいるだろうし、
短い方がいい。

まあ、何にせよ、呵々大笑の写真を掲げる以上は、
彼の懐抱する人生観くらいはしゃべらないと。

といっても、同業の医師(せんせい)や学友たちも、
来て下さるかもしれないから、あまりおふざけがすぎては、
(物書きはあんなものか)と思われ、
日本文芸家協会の品位を汚す、というものである。

「何を話すかなあ、おっちゃん」

私は葬儀場の棺の中の彼に言う。

「こら~。ちゃんと笑いとれよ~っ。
ワシの葬式じゃ。笑うてナンボ、ちゅう奴よ。
笑わしたらんかい」と彼。

笑わしたらんかい、というのは、
笑わせてやれの命令形を大阪弁風におちょくったもの。

「死者(死んだもん)がナニ言うとんねん!」

「うらやましかったら、早よ、来んかい」

ベッドで思い出したのは一茶の句だった。

<露ちるや むさいこの世に 用なしと>

まるでおっちゃんの心境じゃないか。

<生きのこり 生きのこりたる 寒さかな>

これは私のことを言ったみたいな一茶の句。

そして私の句は、司馬遼太郎さんに捧げた句。

<男みな なに死に急ぐ 菜の花忌>






          


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「残花亭日暦」  20

2021年12月21日 09時02分13秒 | 「残花亭日暦」田辺聖子作










2002年(平成14年)


・1月15日(火)

十四日、一日保った。
臨終は十四日深夜、十一時三十六分。

たちまち看護士さんたちが、
さまざまのキカイを取り払う。

かねて葬儀社にいわれた通り、
自宅リビングの庭に面した場所に戻される。
人手が多いので病室の整理もあっという間。

お坊さんの枕経、明夜は山手会館で通夜。
身内はそれに備えてひとまず家へ帰った。

あんまり、てきぱきと流れ作業で運ぶので、
感傷や哀感、慟哭の出るヒマもなかった。

ふと気づくと、彼の側には私とミドちゃんだけ。

「あら、いてくれたの?」

「よくおっしゃいますこと。
皆疲れているでしょうから、ひとまず帰って、
明日の通夜、明後日のお葬式と、大変だからって、
おっしゃったではありませんか。
だからあたくし、ご家族とご一緒にひとまず帰ったら、
電話なさって“アンタ、なんでここにいないのっ!”
とお叱りでしたから、急いでかけつけましたのよ・・・」

「へ~え、そんなこと言いましたっけ?」

「あたくしだって、クタクタですけど、
大先生(パパのこと)もお気の毒ですし、先生も気になって」

おぼえてなかった。
この私としたことが。
でも彼女がいてくれてよかった。

老母の部屋でも、
U夫人たちが代わる代わる寝ているらしい。

花とローソク、線香の匂い、
彼の顔は肉こそ落ちているものの、
とてもきれいですべすべしていた。

いかにも浮世の苦を脱し、安堵したみたい。
私はどこか壊れているのかもしれない。

悲しいとかうつろという気もなく、
ミド嬢が泣きながら彼に話しかけるように、

「あんなに帰りたがっていらしたおうちですわ、大先生。
やっとお帰りになれて、よろしゅうございましたこと」

と言うのにつられて少し涙が出たが、
それは釣られ涙、というものだった。

電話が鳴る。
夜は白みかかっている。
遠くの親戚たちに報せが届いたらしい。

今日は十五日。
朝から人が来てくれる。

出勤前に寄る友人ら、

「今夜の通夜の手伝いの打ち合わせもあるから、
今日は早退するよって」なんて。

直接、山手会館へ行く、と、電話FAX繁し。
弔電来る。

山手会館へ向かう。
タクシーの手配は男たち、印刷物の手配、新聞社からの連絡。

彼の略歴などはキタノさんが引き受けて下さっているから助かる。
喪主は私なので、喪主挨拶というものをしなくてはいけない。

通夜ご挨拶、ご会葬御礼、
これは葬儀社の印刷物があり、
葬祭産業はしごく機能的に運営され、
遺族にとっては便利だ。

納棺、彼の愛用していた冬のコーデュロイの上衣も入れた。
緊張しているからか、私は泣けない。

きれいなお顔、と言って女たちは泣き、
男たちはたまらず外で出るのもいる。

「楽になったぜぃ。アンタも早よこんかい」

と言わんばかりの彼の顔。

「う~む、だろうなあ。
けど、もうちょっと待ってよ」

と思うばかり。

通夜の室へ納め、お棺のフタが開けられて、
花で埋まった彼の顔を見ていると、
ずっとずっと遠い昔、
私がやっと売り出しかけたころのことを思い出す。

彼は近所のお医者さん仲間の集まりに出た時、

「カワノ先生(せんせ)、奥さん儲けはったら、
いよいよ男のあこがれの生活が待ってまっしゃないか」

とからかわれ、

「ヒモかい。
ボクはヒモ、ちゅう、可愛(かい)らしいもんやないデ。
ま、ワイヤーロープやろな」

と言って、一座を爆笑させた、と嬉しそうに言っていた。

ゴルフ仲間、酒飲み仲間、いいお友達ばかりで、
彼は楽しそうだった。

すると涙が出てきた。
しかし涙はすぐ引っ込む。

東京から続々、出版社の編集者たち、
社長さんらまで顔を見せて下さる。

喪服に数珠を手首に巻き、走り回っている私。

六時、通夜の受付が始まる。
女性編集者らも次々に。

ムラタちゃんはお棺に取りすがって泣いてくれた。
おっちゃんの可愛がった女性の一人だった。






          


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「残花亭日暦」  19

2021年12月20日 09時17分39秒 | 「残花亭日暦」田辺聖子作










2002年(平成14年)

・1月8日(火)

ミドちゃんと葬儀の手はずを決める。
葬儀社が来てくれて、いろんなことが決まってゆく。

キタノさんが丁度、来て下さっていたので、いろんな相談。

「マスコミ関係から問い合わせがあるはずやから、
そちらの手配はぼくが」とキタノさん。

M君やいろんな男友達が、
「いうてや、用事、何でもするデ」と電話やら病室への伝言。
M君は、彼のかわいがっていた子で、長いつき合いゆえ、辛そうだった。

彼はまだ保っている。


・1月9日(水)

彼はまぶたの上にガーゼ、点滴、
酸素マスクをつけられてあえいでいる。

右手は腫れぼったいが、脈拍は力強い。
しかし、もはや顔に生気はない。
私は側にいて、手を握ってやれるだけ。

まぶたのガーゼが外れたので、
元へ戻そうとすると、瞳が動いた。見えるのかしら。

私は少し頭がぼうっとしていたのか、病室へいつの間にか、
ぎっしり義妹や次女がつめているのにやっと気づき、
「ミッコちゃん、家が遠いんやから、早く帰んなさいよ」
などと言っていた。

「お父さん、聞こえてる?
ユウコです。みんなここにいるよ」と長女。

涙ぐんでる子はいるが、すすり泣きなんかは聞こえない。

「パパ。ハッピーエンドじゃない?これって」

と私は胸の中で彼にいう。

仔犬の群れみたいだったチビちゃんたちが、
みな中年になり、それぞれの子を引き連れて集まっている。

(しかも、あたしみたいなステキな女と一緒になってさ)

(うっせえ!)彼が言いそうだ。


・1月10日(木)

日経と朝日、一本ずつ出す。
私は書いてる最中は別人格になるので、
結構楽しく筆はすすむ。

今日、文芸春秋のヒワちゃんに電話して、
カモカシリーズの文庫本、どの巻でもいいから、
三百冊送ってもらうよう手配。

葬儀はもちろん仏式だけれど、供花、香典、一切ご辞退。
それよりむしろ、こちらが葬儀に参列して下さった方に、
夫(おっちゃん)の形見、というか記念を差し上げたい。

それには「カモカのおっちゃん」のイラストが、
ふんだんにあふれている、カモカシリーズの文庫本が最適、
と私は思いついたのだ。
弟もミドちゃんも賛成してくれた。

東京のヒワちゃんは、電話でも緊迫感が伝わったらしく、緊張した声で、
「わかりました。きれいな本を選ってそろえて、すぐ、お送りします」
と言ってくれた。

弔辞は藤本義一さんに、依頼した。
尤もギイッちゃんはとても多忙な人なので、
もしXディに大阪に居なければ、誰かが代読、
ということも電話で言う。

「よし、わかった」と藤本さんの力強い返事。

「ありがとう。お願いね。いつも頼りにしてごめんなさい」

持つべきものは旧い友。

病院から呼ばれて夕方行く。
意識はない。一両日中と思われ、
ずっと病院へ詰めるつもりで、荷物を取りに帰ったら、
またすぐ電話。午前二時にタクシーで行く。


・1月12日(土)

U夫人とハヤシさん、二人を頼んでよかった。
交代で家族控室(タタミ敷きの部屋と、ソファを置いた洋室)で、
休みつつ看護してくれる。

伊丹シティホテルにも、私は一室とっておいた。
義弟のカズオさんは家が遠いので、そこに泊ってもらったが、
今朝早く帰った。

自分の病院にも危篤の患者を抱えているので、と、
憔悴した顔でエレベーターを待つ間、私と話す。

「兄貴の臨終に会えなくてもしょうがない、と思います」

「そうね、よく来てくれたわね。
長いこと詰めて下さって、パパも喜んでいるわよ」

「タナベさんも体に気をつけて」

彼は私を、タナベさん、と呼び、
私は、カズオさん、と呼んで何十年。
それで何の不都合もなく、いがみあいもせず、来ている。

時々、カズオさんの奥さんも加え、パパと四人、
家で宴会をして、盛り上がり、パパはよく飲み、よく笑い、
カラオケで唄った。その楽しい写真がいっぱいたまった。
そんな間柄だ。

病室は人、人、人・・・で埋まってる。
長女一家、長男一家、九州の次男、チュウも来た。

見上げるような大男で分別くさい顔になっている。
昏睡状態のパパをのぞきこんで、私は言った。

「喜ぶのにね。チュウの顔を見たら」

「以前(まえ)に来たとき、話もしたから、ええよ」

チュウは落ち着いた声だった。

酸素マスク、体にいろんなチューブを装着されている彼の、
額の汗をぬぐったり、枕の状態を按配してくれるのは、
長女と長男の嫁で、働き盛り、分別盛りの女たち。

四十才代の年ごろの息子、娘、その連れ合いたちの頼もしいこと。
それこそ、私たちが風雪の歳月を生きのび、老いてきた、
生けるしるしあり、というもの。

バトンタッチできる次の世代がそばにいてくれて、
もう、心おきなく「あたしたちも去っていけるもんやわ」
などと彼に向ってしゃべっているうち、ウトウトした。

みんなは控室で寝たほうがいい、とすすめる。
でも私は病室を離れるのは心もとない。

そんなら、と長男と次男が二人で、
病室の隅にイスを二つ寄せ、即席ベッドを作ってくれた。

毛布を拡げたり、枕代わりのクッションを置いてくれたり・・・
昔、学校の先生からの電話で、私はこの子たちをつかまえて叱っていた。

「今日、中間試験なのに、なんで学校休んだの!」だの、
「お弁当代のおつり、ちゃんと返さなきゃ、ダメ!」なんて、
金切り声で叱っていた男の子らが、今は私のベッドを作ってくれて、

「セイコおばちゃん、寝なよ」と言ってくれる。

パパ、こんな世の中になったんだ・・・
彼に話していると涙が出たが、それは悲しいせいではなく、
クスクス笑いの代わりに出る涙だった。






          


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「残花亭日暦」  18

2021年12月19日 09時12分21秒 | 「残花亭日暦」田辺聖子作










2002年(平成14年)

・1月1日(火)

晴れたお正月。
お雑煮は私が作った。

ミドちゃんが来てくれて、母と三人で頂く。
私は大阪風の白味噌雑煮が好き。

子供のころから食べ慣れているので、
これでなければ、お正月、という気がしない。

もっとも、白味噌は最上級のもの、
そしてお餅は別なべにお湯を張って少し炊き、
とろりとやわらかくしておく。

それこそ、さまざまのお国ぶりがあるが、
結婚以来、私が作ったら、
子供たちも好んで三十何年、大阪風になった。

お雑煮をいただく席での話題ではないから私は黙っていたけど、
去年のお正月もその前も、彼の介護で悲惨だった。

人手のない時なので、すべて私の肩にかかってくる。
足が十分動かない彼は、ポータブルトイレがすぐそばにあるのだが、
間に合わず、結果的にベッドに敷いた大タオル、
身につけている衣類、ことごとく洗うことに。

去年の一月一日は、深夜に洗濯機を廻すこと二回、
明け方一回の仕儀となった。
(介護というのはこんなものだけど)

その前年の元日の夜は、
夜の十時半にミドちゃんを電話で呼ぶ始末。

ミドちゃんは快くかけつけてくれ、
漏れないパンツを彼にはかせ、パッドでぱんぱんにして、
「これで大丈夫ですわ」といって帰った。

しかし白内障の手術の直後ですら、
眼帯がわずらわしいと、むしり取ってしまう彼のこと、
たちまち、ミドちゃん苦心の装着も外してしまう。

二年続いての惨憺たる正月で、私はくたくたになり、
去年の一月一日の夜は「何が二十一世紀やねん!」
とぼやくより、ほかのことぞなきありさま。

それに去年は二日が雨だった。
洗濯物が多くて乾かしきれず、風呂場に吊ったり、
妹一家、弟一家が来、母は喜んでいたが、
一同帰ると私は疲労困憊してしまった。

わが家では毎年、一月四日が初出という慣例なので、
それまで私一人で、老母と彼をみなければいけない。

今年は彼がいないので、物忘れしたように静か。
彼は死病の床にある。

もはや、彼も解放され、私も解放されたい、と思うに至った。
ただ、彼の好んだお雑煮をもう一度食べさせてやりたかった。

病院は休日で閑散としていた。
今の彼は周りに顧慮する気はすりきれてしまったように、
傲然と寝ている。


・1月3日(木)

彼は今日もうつらうつらと眠るのみ。
今日はU夫人に暖かいごはんや焼きたてのお魚を持って行った。

私は風邪気味。
手をにぎってやるぐらいしか出来ない。


・1月6日(日)

私の風邪がひどくなって、二日間、病院へ行けず。
今日、やっと行ってみると、彼はびっくりするくらい憔悴していた。

なまじ、少しばかりの体力があるため、苦しいらしく、
ハアハアと息を吐く。

目はつむられる。
左の目に涙がたまり(生理現象)右目は閉じたまま。

体内で壮絶な死闘がくり返されているらしい。
かわいそうだが、どうしてやりようもなく、
誰かれを代わりばんこに食事に行かせたが、
私は食べる気もおこらなかった。

ミドちゃんもベッドの反対側にいてくれる。
弟たちが、「これからが大変、食べといた方がいいから」
と呼びに来る。

行きつけの寿司屋さんに、母と妹一家がいる、というので、
ミドちゃんと行く。

いつも心おどる寿司屋さんの店だけれど、
さすがに何を口にしても上の空。
「あたしって、こんなしおらしい女だったのか」と思ってしまう。

灯の明るい店内、ガラス戸棚の中の美しいネタをみて、
あれこれ注文したり、このお店は大好きなのだけれど、
さすがに今夜はしょげてる、と自覚した。

<死にかけの男持つ身は しおらしや>

香ばしいお酢の匂いの中、そんなコトバが心に浮遊する。


・1月7日(月)

大急ぎで仕事。
少年少女向きの「百人一首」

この仕事を頼まれたとき、
少年少女に「百人一首」を覚えてほしいと思っているので、
即座に引き受けた。

刊行の時期の関係上、執筆を急かされていたが、
彼の入院騒ぎで遅れに遅れている。

病院へ行くと、U夫人と看護士さんたちがただならぬさまで、
U夫人は彼の背を叩いたり、胸をさすったりしていた。

無呼吸状態になったという。

私の父は四十四才の若さで死んで、
それはもう五十年前になるが、
父の死に際の時と同じだ、と思った。

父の死期のありさまも苦しそうで、彼も全く同じ。
手を上下し、私の首へ、肩へかけ、
ベッドの柵や手すりをつかもうとする。

「しんどいねえ、しんどいねえ・・・」私は彼に言う。

その言葉も、母が父に言っていた言葉と一緒だと発見する。

医師(せんせい)に呼ばれて階下の医局へ行く。
レントゲン写真がある。左頬に出来た腫瘍が転移して・・・

私は聞こえなかった気がするので、

「三月ごろでしょうか?」とつぶやいた。

「とてもとても三月まで保ちません」

先生のお言葉は明快だった。

「今月のうち・・・か。と思われます」

「わかりました」これは私ではなく、ミドちゃんが言った。

一度家へ帰り、電話をあちこちへかけ、九時に病室に戻る。
長女一家、長男一家がかけつける。

危篤状態。

みんなが私をかばって、少し家で寝て来たら・・・と言う。
長女のユウコと長男のコウイチに任せ、十二時、私は家へ戻った。

緊迫した病室から帰ってみると、平安で静穏で、
何一つ変ったことのないわが家ののどけさが別世界のようだった。

「パパが死んじゃう」と思ったとき、
私は「平家物語」の木曽義仲と少年の時からの盟友、
今井四郎の話を思い浮かべた。

主君にして親友の義仲のため、奮迅の働きをする四郎。
義仲もついに討たれる。

「今は誰をか、かばはむとてか、いくさをもすべき」

そして壮絶な自害をとげる。

夫婦二人で生きるということは、
背中合わせになって、乱戦の中を戦い抜くことだ。

その片方が死んだとき、「今は・・・」と言って、
自害出来るのは、男同士だからだろう。

かばう相手が死んでも、女は生きなければならない。
女は今井四郎になれないように出来ているのだ。






          


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「残花亭日暦」  17 

2021年12月18日 09時49分48秒 | 「残花亭日暦」田辺聖子作










2001年(平成13年)

・12月26日(水)

今年の仕事のラスト、
FAXしてからいつものように病院へ行くが、
彼はいつものように“うつらうつら”である。

昨日、見舞いに来た義弟が持ってきた毛糸の帽子を着て寝ている。
やせて、口辺に巾着じわが出来ている。

私は昨夜も遅くまでゲラを見ていたので、
今日の疲労感は尋常ではなく、私の体も悲鳴をあげかけている。

(ああ、しんど・・・)と言いたいが、
彼が「ご苦労さん」と言ってくれるわけではなし、
彼の「神サン悪人説」に同調している私としては、
弱音を吐いたら神サンはせせら笑って、
いっそうえらい目にあわすと思われるので、
意地でも言えない。

そしてフト思った。
人は往々にして(ああ、もう死んだほうがましや)
と嘆じたりするが、なるほど、死は安らぎなのだ、
ということを発見する。

神サンに「はい、そこまで」と言われるのは苦役解放であろう。
今の私なら、「はい、そこまで」の声がかかると、
「待ってました」と躍りあがるかもしれない。

そして彼自身もそう言われたら、「やれやれ」というかも知れない。
現世はすべて苦役であろう。うれしいことも、得意なことも、
みな一種の苦役かもしれない。

しかし、彼といた時間の苦役の、なんと楽しかったこと。
(過去形になっている)

彼は半分死のトバ口へさしかかり、
すでに死者の面貌になって、意識もない。

付き添いのHさんが洗濯室から戻ったので、静かに病室を出た。
タクシーは出払っていた。
茄子紺の空、星が街路樹の間からこぼれている。
人の死にゆく夜の星は美しい。


・12月29日(土)

午後、病院へ詰めていたが、彼はずっと眠り続け。
このまま潮が引くように死ぬのかもしれない。

私は来年早々の仕事も一つかたづけた。
多分、来月は忙しくなるかもしれない。

そして思った。
こんな省察ができるほど、死までの時間が長かったのは、
神サンより上の超越者の思寵かもしれない、と。
突然の愛する者との死別ほど、悲惨なものがあろうか。

私は子供の頃、動転して慟哭する大人を見て、
深いショックを受けたことがある。
昭和九年、私は小学校一年生だった。

「関西風水害」と歴史書に記される、
風速六十メートルの台風が大阪を直撃した。

死者三千人、倒壊家屋は数知れず・・・
その台風で最も大きな被害を受けたのは大阪湾沿いの町だった。

高潮が襲ったのだ。
潮は自動車の走るのより早く来た、と目撃者の話。

私のウチに当時いた掛人(かかりゅうど)のおばさんの老親二人が、
北港に住んでおり、安否が気遣われた。

若い衆をやって見舞わせたが、一望千里、
町はかき消すようになくなっていたとのこと。

海鳴りがとどろいたかと思うと、
波しぶきが白い煙幕となり、海面がふくらみ、
あっという間にすべてを海はさらってゆき、
あとは泥の海に点々と二つの棒がつき出ていたのみ。
それは逆さまに埋まった人間の足であったと。

掛人のおばさんは、大声で叫び、
「ワタエも死ぬ!」と口走り、家内一同うろたえて、
水を飲ませたり、背中をさすったり、した。

曽祖母は泣きながら、「なんまいだ・・・」を唱え、
母はおばさんを抱きかかえ、一心になぐさめていた。

しかし、おばさんは耳に入らぬさまで、

「年とったふた親を、むごい目に遭わせてしもた。
ワタエも死にたい!」と絶叫するばかり。

大人たち、男も女も泣くのだった。
この時は、四天王寺の塔さえ倒壊したほどだから。

あの時のおばさんの惑乱ぶりは、
幼女の私の心にも深く掘りつけられた。

それに比べたら、
何ヶ月もかけて、死になじんでいった私の場合は、
まだしも幸せかもしれない。

今日、大掃除。年末気分になった。


・12月30日(日)

彼は今日も眠っている。

ずいぶん長く、三年ほど車イスであちこち連れ歩き、旅行もした。
また、誘うといっぺんでも「行かない」と言ったことはなかった。

楽しい旅の夢でも見ているといいな。
仕事仕舞いで机上の片づけ。


・12月31日(月)

彼は重病人だけど、ウチには老母もいるので、
みんな、手分けをして、お正月の用意をしてくれる。

お重も出して詰めてくれた。
鯛も数の子も。門松も玄関に。
私は額の絵を入れ替える。

紅白を見たのは私と老母とミドちゃん、
それに老母の世話をしてくれるSさん。

明日は早く病院へ、と思うが老母が機嫌よく話すので、
除夜の鐘までつき合って、やっと眠った。

八月からのあわただしさ、しみじみ疲れた。
私はベッドへよじ登りつつ、「疲れたよう、オジサン」と彼に言う。

「序の口じゃっ!これからじゃっ!」彼は面白がっている。

「こんにゃろ!」と言うと、彼は笑い、私も笑い、
いつか寝入った。






          


(次回へ)

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