田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫
・「そんなにからかっては、
かわいそうだわ」
中宮がいわれる
「からかっているわけでは、
ございません
これもあの男たちの、
いい勉強でございますから
殿方の勉強の第一は、
女性への返事がうまく出来ること、
と申します」
というのは、
少し意地悪で、
特異な雰囲気の、
右衛門の君である
もう三十近い年頃、
髪も少なくなっているが、
細身の体が美しい
背が高く、
ほそての顔に険があるのが、
難点だが、
美人といってよい
「でもあなたたちが先生では、
あの男たちの勉強も、
辛いものでしょうよ」
中宮は声をあげて、
笑われる
そういう楽しみは、
殿上の名対面でも、
味わうことができる
毎夜、亥の二刻(午後九時半)、
清涼殿の殿上の間で、
殿上の宿直人の点呼が、
行われる
ついで滝口の名対面がある
滝口の侍が東庭に並ぶ
「誰々か侍る」
という蔵人の問いに答えて、
姓名を名乗るわけであるが、
人数が少ないと点呼は、
とらない
「名対面いたしません」
と滝口の侍がいうと、
型のごとく蔵人は、
「なぜか」
と問う
侍は支障の理由をいい、
蔵人はそれを聞いて帰る
みな決まったことである
蔵人の中に、
源方弘(まさひろ)、
というのがいる
これが変人で粗忽者
ふざけるのが好きな、
若い公達は方弘が滝口の侍の、
名対面しない理由を、
型のごとく聞くのへ、
うしろから、
「もっと侍を責めろ、
なぜ人数が足らんのだ
怠慢じゃないか、
責任を取れと叱ってやれ」
などとささやいたりする
普通の蔵人なら、
こんなことはしないのだが、
方弘は真に受けた
「けしからぬ、
なぜ名対面の人数が足らぬのだ、
怠慢だぞ、
責任を取れ」
と叫んでしまった
人々はあっけにとられ、
滝口の侍たちは、
御前近いのも忘れて、
げらげら笑い出してしまった
いまだかつて、
規則以外のこんな無茶を、
いう人はいなかった
方弘の悪名が、
それでなお高くなってしまった
方弘のような、
突拍子もない人間が、
この世にいるなんて、
思いも染めないことであった
なんと私は世間知らず、
人間知らず、
物知らずだったのだろう
方弘という男は、
失敗談の限りもなく、
多い男である
まだ二十二でこうなのだ
色はのっぺりと白く、
目は頓狂に見ひらかれ、
鼻の下は長く伸びている
そうして唇は、
男にしては赤く、
口元の表情がしどけない
すぐゆるんでしまう
この男は前に、
御厨子所の御膳棚に、
きたない沓を置いていた
御厨子所は、
いやしくも主上の、
おめしあがりものを、
置く棚である
沓を置く棚は、
別の所にあるのに、
方弘は間違えて、
神聖な供御の棚に、
置いてしまった
「誰だ!
こんな無礼なことをした奴は!」
と内膳司の役人は、
かんかんである
「ひどい奴だ
犯人がわかったら大目玉だ」
女官たちはとりのけながら、
「知りませんわ」
「どなたのでしょうね」
といっていたが、
彼女たちは方弘のだと知って、
かばってやったのかもしれない
当の方弘は、
「ひどい奴だなあ」
とのんきにいっていたが、
取り除けられた沓を見ると、
自分のではないか
「やや!
私のだ
私の沓だよ」
とよけいなことをいい出して、
またまた大さわぎになった
男にも賢明でない男がいるって、
私も知らないではなかったが、
それにしても、
知識と実見とは雲泥の相違がある
この方弘は、
度肝をむくようなことを、
たびたびしでかして、
私の男性研究に、
奥行きを増してくれるのだ
世間は方弘を、
物笑いのたねにして、
退屈をまぎらしているが、
親御の身になれば、
何と思うであろう
こういう半ちくな人間を、
社会に送り出しても、
親にしてみれば、
人に愛され愛嬌よい息子、
と思っているかもしれない
しかし、
世間のあくどいことといったら、
方弘に仕えている従者にまで、
「おい、
なんと思って、
あんな主人に仕えているんだね?」
とからかう始末
(次回へ)
・里下りする度、
則光の邸は、
私との絆を一つ一つ、
解いていくように思われる
見なれた則光の顔は、
私をくつろがせはするが、
宮中の生活次元との違いは、
しだいに大きくなってゆく
私は三條の私邸で、
手足を伸ばしてくつろぐ方がいい
孤独の味が強くなるほど、
宮中暮らしの魔力に、
とりつかれてしまう
三條の私邸は、
全く人の訪れないところで、
左近という古女房と、
則光の邸からついてきてくれた、
爺やとその娘夫婦が、
留守をしたり用を足してくれる
それでもある時、
客があった
珍しい男客、
全く見知らぬ従者たち
使いの口上によると、
「藤原棟世と申します
お父君・元輔どのとは、
お言葉を交わした仲のもの、
もしやわが名も、
お聞き及びかと存じますが」
という
私はこの人の名を、
父から聞いたことはない
あちこち歴任した、
あまたいる受領の中の、
一人なのであろう
記憶にもないが、
何ごとだろうと招じ入れ、
御簾をへだてて会うことにした
棟世は意外に、
四十五、六の貫禄ある、
中年の男性だった
父と違い、
肉づきのどっしりした、
目鼻立ちのりっぱな男で、
太い声はのびやかに、
表情は卑しくなく、
笑みをふくんでいた
「突然、参上して、
申し訳ありませぬ
ただいま、若狭から所用で、
戻りましたところで、
塩干しでございますが、
生きのよいお魚を、
お召し上がり頂こうと、
存じまして
あちらの、則光どのの、
お邸にもおいてまいりましたが、
あなたさまがこちらに、
お住まいと伺いまして」
大きな櫃に、
魚や貝、茹でた蟹のたぐいが、
どっさり詰められてあった
「こんなにたくさんはとても・・・」
「どうぞ、
ご朋輩衆でお召し上がり下さいませ
寒い折でございますから、
日保ち致しましょう
途中まで若狭の氷を、
詰めて参りました」
「まあ、若狭から・・・」
「任地でございます」
棟世はしかし、
若狭の話より、
父とのかかわりの話をした
棟世の父は保方、
祖父の経邦(つねくに)の娘に、
右大臣・師輔の室になった人がいて、
伊尹(これただ)の君をもうけている
私の父の元輔が、
「後選集」の編纂をしたのは、
その伊尹公のもとにおいて、
であった
「お親しくして頂いた、
元輔の君ご遺愛のあなたさまを、
よそながらゆかしく、
思い続けておりましたが、
その気持ちをお伝えする折もなく、
このように急に思い立ったのも、
何かのご縁と存じまして」
私は父とのことを、
話題にできる客が嬉しかった
話が弾んだが、
彼は切りのよいところで、
「ではまた、
食べものをお持ちしての、
長居は感心いたしません
今度は手ぶらで参りましょう」
私のいおうとしていることを、
先にいった
そのへんも物なれて、
めやすい感じである
しかし彼は、
世故たけたずるさはなくて、
私に会って心から、
喜んでいる風だった
則光の妻という身分でいる時は、
会えないが中宮御殿に勤める、
少納言のおもとなら、
男客が訪問することもできる
要するに私にとっては、
感じの悪い男ではなかった
何度もいうようだが、
男というものは、
女もそうだけれど、
千差万別なのであろう
その千差万別が、
私には面白く興深い
内裏の登華殿の細殿、
私たちの局(部屋)がある
西廂の前は、
清涼殿へ通う男たちの、
通勤路である
局で女房たちがいっぱい集まって、
話に興じている前を、
小ぎれいな召使いの少年や、
青年の従者が通ってゆく
それらを見るのも、
心おどるものである
大きな包みや袋に、
主人の衣類などを包んでいる
その端から、
指貫の緒などが、
のぞいて見えたり、
弓矢、楯などを持ってゆく
「どなたのなの?」
私たちは声をかける
この答え方で、
主人の人柄やしつけ方が、
あらわれる気がするのも、
面白い
「〇〇さまのでございます」
と答えていくのは、
率直でくせがなくていい
変にひねって、
「お当てになってください」
などとキザにいったりする、
世間ずれ、女ずれした青年は、
いやらしい
彼らを使っている主人も、
大方、気取ってキザな男だろう、
と思われたりする
といって、
おどおどして、
真っ赤になって返事もできない、
という従者も面白くない
「あなたたちが集まっている前を、
通るなんて、そりゃあ、
若い人にしてみれば、
死ぬ思いなのよ、
きっと」
中宮はお笑いになる
(次回へ)
・それで何十日ぶりかで、
家に帰ったとき、
則光の顔を見て思ったのは、
(この男は、
夫ではなく肉親になった)
ということである
兄か弟か、
血のつながった従兄ぐらいの、
感覚で、則光の方も、
そうらしかった
「うまくやっていけそうか」
「ええ、うまくやっていけそう
あたし、やっぱり向いているのかも
ああいう職場に」
私は初めて出仕した日の、
気おくれや萎縮、
ひるみも忘れて今は、
挑む心地になっていた
「そりゃ、よかった
お前は口ほどもなく、
弱気のところがあるから、
泣き泣き帰ってくるんじゃないか、
と案じていたんだが・・・」
則光はまるで、
私の父か兄のような、
口ぶりでいう
小左京の君じゃあるまいし、
泣き泣き帰るはずは、
ないじゃないの
「いやわからない
お前は口でズケズケいうから、
気が強そうに見えるが、
案外、人がよくて、
気弱でもろいところがある」
「そうかしら」
「そうさ
だからおれなんかと、
十年もいた
それが証拠だ」
私は則光を、
正直なところ、
バカにしているのだが、
時々ふと耳を傾けさせる、
ようなことをいう
こいつはバカなのか、
かしこいのか、
よくわからない気に、
なるのである
「今度の新しい女は、
どうなの」
「これは全く、
なよなよとし目が離せない
そんなことはどうだっていい
ともかくお前の元気な顔を見て、
安心したよ」
子供たちは出ていて、
吉祥しか家にいなかった
新しく描いた絵を何枚も、
見せてくれた
虫や花、雀、鶏などの絵が、
多かった
虚弱な体質で、
頑健な兄たちのように、
外を走り廻れない彼は、
家の中で絵を描いているのが、
好きなのだろう
家にいると、
相変わらず人の出入りは、
多かった
日常の雑事が家にいる私に、
なだれ落ちてきて、
宮仕えの疲れを、
やすめるどころでは、
なかった
私はたまらず、
私自身の持ち物である、
三條の小さい邸へ行った
浅茅たちがきれいに、
掃除をしてくれていたが、
人住まぬ邸はどことなく、
荒廃のすがたになっている
もっともここには、
左近という古女房がいて、
留守を守ってくれている
私はそこでゆっくり、
横になった
一人きりで
(ああ、一人というのは、
なんといいものだろう
弁のおもとのような、
生活になったわ)
と思った
父母を亡くして、
一人になった弁のおもとが、
貴子の上のもとから、
里下りするとき、
こういう風に、
のびのびと手足をのばし、
身心をくつろがせているだろう、
と思われた
しかし、
私と弁のおもとでは、
条件が違う
私にはまだ、
則光や彼の家がある
そこにいようと思えば、
いつでも帰って身をすくめる、
穴がある
しかし、
弁のおもとは、
そういうものを持っていない
いろいろ秘密めかしい、
心そそる男たちを、
人知れず持っているかも、
しれないが、
それは決して、
安全な籠り穴ではないはず
そこへくると私は、
自分がその気になれば、
宮仕えをやめて、
安全な穴へもぐりこめるのだ
則光とは、
身内のような感じになって、
一生つきあっていけるだろうし、
死に場所はあるわけ
弁のおもとの、
孤独と裏合わせになった、
「死ぬほど強い自由感」は、
私にはまだなかった
三條の小さい邸で、
私はやっと自分を、
取り戻した
則光のもとでも、
御所の中でも、
得られない平静さを、
取り戻した
もはや私は、
宮仕えの疲れをいやすのに、
則光のところより、
三條邸の一人の時間を、
選ぶだろう
(次回へ)