照る日曇る日、また降る日

一生懸命、しかし平々凡々に生きて今や70の齢を超えた。今後も、しっかり世の中を見つめ、楽しく粘り強く生き抜こうと思う。

長い散歩

2010年04月29日 | あれやこれや思う

 雨上がり(郡上街道)  ローカル線(長良川鉄道)
  DVDで「長い散歩」を観ました。 
  2006年、モントリオール世界映画祭で3冠受賞した映画だそうですから、ご存知の方も多いでしょう。しかし、私はまったく知りませんでした。
  近くの貸しビデオ屋さんで、緒方拳主演に惹かれて、借りてきました。緒方拳は、私の好きな俳優の一人です。
  この映画が、私の忘れ得ない映画の一つになろううとは、借りてきた時には、思いもよらぬことでした。

  初めの方の画面で、あれ、と思いました。
  いつも見ている風景です。マンションの玄関を出ると、遠く北東の方に、煙を噴き上げている、赤白に塗られた数本の煙突が見られます。その煙の方向で、その日の天候を予想したりしています。その煙突が出てきたのです。
  そして、「長い散歩」の出発点となるテレビ塔が見えるベンチ。背景に、いつも出入りしている明治住友生命ビルと中日ビルが見えます。月に1~2回、自転車で通っている医院の帰り道、モーニング付きのコーヒーを飲んで、ふと景色を眺める、その場所、そのベンチです。
  そして、わたる君との出会いの場、「深戸駅」! 懐かしい駅です。かっては「越美南線」、今は第三セクターの「長良川鉄道」の駅の一つです。昔、列車に乗ったり、自転車で通ったりした駅です。そして、映し出される背景の風景の多くが、「あ、あそこだ」と実感できます。

  緒方拳の持ち味そのままの演技も、子役を務めた杉浦花菜ちゃんの透き通るような仕草も、私にとっては、もう映画の中の話ではなく、現実そのもののような感覚で見入りました。
  松田優作演ずるわたる君の姿には、今は亡き弟の面影が重なりました。

  ちょうど撮影されたと同じ頃、私もあの街道を通り、何枚も写真を撮って来ました。その写真をベースに、数枚のパソコン画を描きました。その内の何枚かが、映画に出てくる画面と、場所も、アングルもほとんど変わらないことに気付きました。このブログに乗せている私のパソコン画がそれです。
  遠くに霞むもや、小さな気動車が走る鉄橋、その下の長良川のせせらぎ。偶然の一致に過ぎないのでしょうが、何か不思議な因縁のようなものさえ感じます。
  私にとって、この映画は私の過去の体験そのもののようなイメージです。

  そう言えば、緒方拳演ずる、名古屋の高校の定年退職校長・安田松太郎は、仕事に熱中する余り、妻に寂しい思いを抱かせ、病死させてしまったやり切れない過去を持っています。
  私も、その昔、仕事に熱中し、病弱であった子供たちを家内に任せっ切りにしていました。幸い、家内は今もまずまず健康で、頑張ってくれています。松太郎と違って、罪滅ぼしができる幸せを持っています。
  感謝すべきことです。


悪夢?!

2010年04月25日 | 老いの一徹

   もう一年半以上も前のことになる。高知へ転居した友に、久し振りに合うことを楽しみに、大学の同期生8~9人で、四国旅行をした。楽しい旅行になった。

   その帰り、新幹線の4人掛けの席で、政治談議に花が咲いた。勿論、素人の井戸端会議程度のものである。しかし、一応、法学部法律科を卒業し、卒業後は大企業で中枢の仕事を勤め上げたものばかりの集いである。まずまずのレベルの話にはなる。

   「現在の自民党の政治は完全に腐敗している。自浄作用は期待できない。新しい政治にするために、今回は民主党に投票する。しかし、民主党に、とてもじゃないが、期待はできない。選挙後の政治は混乱するだろう。それでも、今の政治を継続させる訳にはいかない。問題はそれからだ。」

   この点については、話し合っている4人全員が一致した。今、現状を見ると、その時の話し合いとまったく同じ姿になっている。自慢する訳ではない。少し世の中の動きに関心を持っているものにとっては、訳なく見通せる状況であった。

   「さて、その後の問題。私は、残念ながら、日本に一度独裁政治が訪れると思う。」
   私の発言である。これには賛否こもごも。でも、一人は賛成してくれ、2対2となった。

   「日本の国民は、大多数の国民の文化レベルも知識水準も高く、貧富の差も世界水準的に見れば、酷くはない。民主主義の大切さも知り尽くしてきた。アフリカや中南米のような独裁政治は考えられない。」
   これが反対論であり、また、常識的で順当な意見であると思う。


   しかし、私は思った。「日本人は、付和雷同的。自己意識に乏しい。さらに、最近の若者は国や地域や近隣にあまり興味がなく、ひとりよがりなところがある。行き詰まり、やりきれない社会・政治情勢になったところへ、もし、強力でリーダーシップに富む人物が現れたなら、雪崩れ的になびく恐れなしとしない。そこに独裁的な権力を揮おうとする者が現れる隙間がある。そして、一応、世の中は安定する。」

   確かに一方的で、偏見の強い意見かもしれない。そして、あらわれて欲しくないことである。希望している訳ではない。現在の政治情勢をみていると、私のこの心配が強まりこそすれ、薄らぐことはない。
   「悪夢」であって欲しい!


一日町長

2010年04月10日 | 越し方を思う
  「春の全国交通安全運動」が実施されている。その一環として、オリンピック参加者、タレントや可愛いペンギンなどが一日署長に任命され、タスキをかけて交通安全運動に協力している姿が、テレビで報道されている。

  それを見て、思い出した。おそらく、それが「一日○○」のはしりだったのであろう。敗戦後まだ数年、私が「中学三年生」の頃だったと思う。今、75歳だから60年ほど昔の話だ。任命されて「一日町長」を勤めたことがあった。
  その日、町の中のいろいろな事業所の多くに同じ学年の友人たちが「一日署長」や「一日所長」に任命された。新しい役所の仕事をアピールする行事だったのであろうか。
  どんなことをしたのか、ほとんど覚えてはいないが、一つだけ、今でも強烈に印象に残っている事がある。それは、確か「一日地方事務所長」になったY・S君から電話がかかり、その受け答えにしどろもどろになったことだ。
  今では想像もつかないことであるが、当時は、電話などというものは一般家庭には無縁のものであった。個人の家に電話がある家など、ほんの数えるほどだった。わが家には、父親が電力会社の所長をしていた関係で、緊急用の業務電話があった。しかし、事業所とつながるだけで、一般電話ではない。電話機を見たことはあるものの使ったことはなかった。
  それでも、番号をダイヤルし、耳と口に合わせて受話器をとり、話ができることは知っていた。そんな程度でも、友達の中では、まだ電話を知っている方だったと思う。使い方を全く知らないものも多かった筈だ。そんな程度の普及率だった。
  Y・S君は、今ではその町の総合病院の、確か現役は引退し、名誉理事長になっていると思う。当時は、お父さんが大きな内科病院を経営しておられたので、自宅にも電話があった。本物の所長に進められて、「一日町長」へ仕事の電話をしてきたのだ。私は、本物の町長に教えられて、受話器を取り上げ耳と口に合わせたものの、聞き取りにくく、雑音も多く、話が相手に伝わっているかどうかもよく分からず、顔を合わせないで話す難しさに、どっと冷や汗をかいた。
  今でも、時にその夢をみて、ハッとすることがある。

  昨今は、小さな子供まで一人ずつ携帯電話を持ち、何処からでも誰とでも、何時でも話ができる世の中になった。正に隔世の感がある。情報過多とさえ言われる時代である。
  しかし、あの頃に比べて一人一人は何か孤立化し、家庭、近隣、地域、職場、どれをとっても連帯感に乏しい、味気ない世の中になってしまった。
  あれこれ思うことも多いが、一言で言ってしまえば、これも現代の大きな危機の一つであると思う。

時計

2010年04月08日 | あれやこれや思う
 わが家の狭いリビングに、掛時計が2つ、置時計が2つ、それに旅行時にも使える小さな置時計が2つ、何と6つの時計が時を刻んでいる。すべての時計の時刻を合致させることは至難に近い。それでも、凡その時刻は、注意して合わせるようにしている。結構、大変だ。 
 
  一つの掛時計は、このマンションに入った時に購入したものだが、後の五つは、いろいろな記念に頂いたものである。それぞれに、その時々の思い出が詰まっている。とても、納戸へお蔵入りさせるのは忍びない、という訳で、時計オンパレードになった次第。 一番新しくパレードに参加したのは、二つの中のもう一つの掛時計。丁度、1年半前くらいになる。大きくはないが、デジタルで、月日・曜日も出てくる優れものである。 
 
  もう30年も前のこと、勿論、現役時代。その頃、親しくしていたある専門商社の当時の専務K・Kさんから、電話が入った。10年振り位だろうか。当然、双方とも今では年金生活者である。 「○○会社の社長さんと一緒に、お会いしたい。お礼を申したい」ということである。○○会社?、思い出した。中部地区で、本社工場が全焼してしまった繊維関係の会社があった。その会社と深い取引があった元専務K・Kさんから「これからの採用難の時代、工場要員が採用できそうな土地に本社・工場を移したい。適地はないだろうか」との電話。たまたま私の郷里近くの土地を斡旋し、それが具体化した。 
 
  その会社が30周年を迎え、記念式典をしたのだそうだ。この不況期、特に繊維関係の企業の多くは、中国や東南アジア、東アジアの企業との価格競争に苦戦し、事業を外地へ移したり、事業から撤退したりしている。そんな中で、こじんまりとではあるが、しっかりと事業を続けている。黒字経営である。従業員は二十人ほど、全てその村の人たち。村の中に同化し、村の活性化にも役立っている。私は只、口をきいただけであるが、あの会社が今もこんなにも生き生きと輝いている。感激である。 
  あの真面目そうな社長さん、元気でおられるだろうか、そう思いながら、約束の場所へ赴くと、K・Kさんと一緒におられるのが、何と女性。社長は体調を崩され、今では奥様が社長をしておられるのだそうだ。でも、肩書きは会長で、頑張っておられるそうだ、良かった。
  その際に、記念に頂いたのがデジタルの掛時計である。 
 
  一つ一つの時計は、無心に時を刻みながら、こんな思い出を語り掛けて来てくれる。時計がオンパレードになるものやむを得ない。

明治は遠くなりにけり

2010年04月04日 | あれやこれや思う

名大教養部正門(旧八高)

  名大法学部(旧6連隊兵舎)

  先日、大学時代の同級生4人で「博物館・明治村」を訪ねた。有志の一部で、ビデオに撮ってあった同期の同窓会での各人の近況発表をDVDにして、各人へ配布しようという計画が持ち上がり、同窓会世話人の一人であった私のところへ相談を持ちかけてくれた。いろいろアイデアを持ち寄った結果、かっての学び舎の風景も取り込もうということになった。私たちが学んだ学舎は、古い焼け残りの施設を仮学舎にしたものであった。今はもう現存しない。

 「博物館・明治村」を訪れたのは、その施設の一部が、そこに保存されていることを知ったからである。教養部が置かれていた「旧制第八高等学校」の正門と法学部が使用していた「名古屋師団第6連隊」の兵舎の一部である。

 始めて「明治村」を訪れ、当時の素晴らしい建物や施設に深い感動を覚えた。

 黒船の来航から幕末の騒動、そして明治維新。明治の人たちが、遥かに先に進んでいる西洋文明に驚愕しながら、脇目も振らず、一心に、追いつき追い越そうと努力した姿が、まざまざと浮かび上がる。

 明治元年は1868年、そして明治の末年、明治44年は1911年、今から150年から100年前のことである。昨年末、私の伯母が109歳で身罷った。もう私の周辺には、明治人は一人もいない。

 「明治は遠くなりにり」。翻って、現代を見ると、何と「爽やかな男」が少なくなったことか!