照る日曇る日、また降る日

一生懸命、しかし平々凡々に生きて今や70の齢を超えた。今後も、しっかり世の中を見つめ、楽しく粘り強く生き抜こうと思う。

ふうらさん

2011年05月31日 | 越し方を思う

前回に続いて、13年前、平成10年の6月に書いた随筆の一稿。「ふうらさん」。
「ふうら」さんとは、現在でも金沢市にご在住の泉井小太郎さんの手になる陶製の羅漢像である。
ふとしたことから、泉井小太郎さんと出会い、「ふうら」さんと出会った。
現在、わが家には、握りこぶし大の陶像三体、親指より一回り大きい位の小さな陶像三体がある。
一人ひとり、いろいろな姿・形・色をしておられる。その中には、泉井小太郎さんが外出される時、いつもポケットへ忍ばせておられた小さな陶像もある。泉井小太郎さんから、直接、頂いたものである。

もうかれこれ20年、ずっと変わらぬお付き合いが続いている。
と書いたが、確かに「ふうら」さんは全く変わりなくさわやかに微笑んでおられる。
しかし、私は大きく変わった。当時は現役、だが今では特に是非しなければならない仕事というものに縁のない隠居の身分。仕事の上でいらいらすることは全くない。しかし、年老いて来ると、何だか気が短くなり、イライラしたり、またしょげ込んだりすることが多くなる。
そんな時、「ふうらさん」は、今も変わらず私の心の協力者である。

  パソコンで描いた「ふうら」さん


「ふうらさん」  (平成10年6月30日)

6~7年前に出会い、それからは「ふうら」(風羅)さんがいつも私と一緒にいる。「ふうら」とは風の如く飄々と過ごす羅漢さんという意味であろうか。金沢在住の泉井小太郎さんの手になる素焼きの陶像である。黒灰色で、大人の握り拳程の大きさだが、ずっしりと重い。いつも自然木を杖に、さわやかにほほえんでおられる。「ふうら」という名前もずんぐりした身体つきも温かい雰囲気で素敵だが、その笑顔がもっと素晴らしい。平板な顔形の上に鼻と目らしきものが刻み込まれているだけなのに、透き通るほどに澄み切った笑顔である。何の心配もない訳ではないだろうに、なんという安らかな心なのだろうといつも思う。

いらいらの募る毎日である。デフレ・スパイラルが避けられそうもない景気、常に後手後手に回る経済対策、この期に至っても利権優先の政治家の言動、相次ぐ政官財の不祥事。世界の大きな流れの中での業界の将来、その中での自社の生き残り策。厳しい受注不振、価格低下。私的なことでも頭を悩ますことが少なくない。

仕事のことでも、私的なことでも、いらいらし始めると、「ふうら」さんを前にして、じっと自省する習慣を持っている。と書くと、陰気で根暗な感じがするが、それほど深刻なものではない。ほんの僅かな時間、「ふうら」さんと一緒に遊ぶという位のものである。「ふうら」さんはなにもしゃべってはくれないが、いつも温かい笑顔で私の気持ちを和ませてくれる。「ふうら」さんを両の掌に包み込んでみる。ずっしりとした存在感を感じる。少しづつこころが落ち着いてくる。心が澄んでくる。そのうちに、自分の気にかかっていたことが実はたいしたことではないと自然に分かってくることもある。「ああ、そうか」と頷くこともある。時が解決することだと気づくこともある。どうにもならないことにとらわれ悩んでいたと分かることもある。時には、自分の未練たらしい、生な心に触れて一人赤面することもある。

悲観もせず楽観もせず、心にゆとりを持ち、冷厳な目で事実を直視することができれば、大抵の場合には最適とは言えないまでも悪くはない選択ができるであろう。しかし、分かってはいてもままにならないのが現実。そんな時、「ふうら」さんは私にとっての大切な心の協力者である。



*** 
こうして読んで見ると、いつも最低レベルなのが、日本の政治。
菅内閣の頼り無さ。それを責める政治家の、それ以上の無軌道ぶり。
今日も、この厳しい状況下で、政治家たちは私利私欲の錯綜する内閣不信任案の上程で騒いでいる。
国民と同じレベルでの目線で、というのが多くの議員たちの選挙時での公言ではなかったか?
震災地へ自ら赴き、被災者の方々の苦しみを自ら味わい、今何が一番の緊急時か、と考えた議員が何人いるか?
被災者に切ない気持を寄せ、今自分のできることはと考え、僅かばかりでも義捐金を出し、ボランタリーに駆け付ける一般庶民が、何が一番の緊急時と考えているか、それを知ろうとする議員が何人いるか?
思いはいろいろあるが、もう口にする気持も起きない。
しかし、そんな議員を選んだのは、実は自分たちなのだと思うと、情けない気持に陥る。
「ねえ、ふうらさん。」


平々凡々

2011年05月28日 | 老いの一徹

私のブログは、私の独り言である。その時々の私の思いを、あれこれ綴っている。誰に話すのでもない。
しかし、もし聞いて貰える人があれば、それはそれで嬉しいと思う。そう思いながら、書いている。

もう13年も前のこと、私がまだ仕事の現役の頃である。ある業界誌に請われて、一年間、月に1回、随筆を書いたことがある。
本棚を整理していると、その時の雑誌が出て来た。読んで見た。
結構、面白い。しかし、それ以上に、その時の思いが、今でもそっくり当てはまるな、と驚いた。
環境や状況が、その当時と少しも変わっていないではないか、そう感じた。

そこで、その稿を、ここに、幾つか紹介させて貰おうと思う。
まずは、第一回の稿である。
皆様は、どう感じられるであろうか?


「平々凡々」   (平成10年4月10日)


平々凡々。可もなし、不可もそれほど多くはなし。人に自慢したい特技もない代わりに、人に誘われれば大抵のことには付き合える。
長期海外勤務や特異な体験といった人に語れる経験もない。
正に、この厳しい世の中に翻弄されながら、何とか小さな希望を捨てず、精一杯生きている一庶民。平均中の平均人間。
一年間、この欄を汚す羽目になってわが身を振り返ってみて、そう気がついた。
「なるほどそう言う考え方や見方があるのか」と、何か新しいものを提供できてこそ、読んでいただく意味もあると言えようが、これではとてもそんな役には立ちそうもない。
平均人の平均的な思いを歯切れ悪くぼそぼそ繰り返すことになりそうであるが、お許し願いたい。

大変な世の中である。どう変わって行くのか、われわれ程度のレベルでは、全く先の予測もつき難い。
ただ、恐らく後世の歴史家は、この時代が世界の骨組みやものの考え方が大きく変わった「歴史の転換点」であったと記すであろう。そういう時代に生きているという実感はする。
後世の歴史家はこの時代を動かした人物として、一握りの、現在われわれが目にし、耳にしている人々の名を書き記すことであろう。そして、その時代に生きたほとんどの一般庶民の生き様は、歴史という大河の流れに、時と共に埋没してしまう。

しかし、最近の歴史学の研究の中には、例えば「百姓」と一縄でくくられ、全て農民と単純に解釈された実態の中に随分多様な職業に携わり、多彩な活動をした名もない庶民があり、その活動の集積が歴史を動かす原動力になったことを実証する、いわば平凡な庶民の力を掘り起こす研究が多い。
歴史を動かすものは、織田信長や徳川家康のような一握りの有名人の意志だけではなく、名もない庶民の、一人一人は小さいけれどもトータルすれば馬鹿にならない力の結集であると言う。

これだけ世の中が厳しいと、景気が悪い、政治が悪いと投げやりな気分に襲われることもあるが、その度、平凡でとるに足らない小さな庶民のバイタリティを信ずるようにしている。日本人の潜在能力は決して低くはないと思う。それは、政治家や世のリーダー達の優秀さではなく、まじめにコツコツ努力する一般庶民の力に起因する。
庶民の力を信じて、最も平均的な庶民の一人である自分や従業員を信じて、毎日を精一杯に生きようと思う。


BK稲羊会21回総会

2011年05月23日 | 過去は過去、でも・・・

5月21日、例年通り、稲沢市民会館小ホールで、総会そして親睦会があった。
例年通り、と言ったが、実際には市民会館で行われるのは、ここ5~6年前からである。
それまでは、工場の食堂を使用して行われていたが、会社が日本毛織と合併し、別会社に変わったので、会社外に会場を求めることになったのだ。
BK稲羊会は、元「尾西毛糸紡績」のOBによる互助会・親睦会である。

開会のことばの中で
「今、元の工場の建物は完全に取り壊され、整地作業が進められています。商業施設が建設されるそうです。そういう状況の中で、会社の玄関前にあった羊の銅像は、一宮で操業中の日本毛織の工場の玄関前に運ばれ、そこに飾られることになりました。また、食堂の前にあった藤棚の藤は、元は会社の運動場で現在アミューズメント施設があるところへ移植されることになりました。老樹なので、完全に根付くか心配。そのため、並行して若木に接ぎ木もすることになりました。かって隆盛を誇った紡績事業は、国内での採算が合わず、今やどんどん閉鎖し、海外へ移転しています。これはやむを得ないことです。でも、その中で、私たちが毎日目にしていた銅の羊や藤の老木が、かっての会社を思い出すよすがとして、関係ある場所に残されることは嬉しいことです。」
そう挨拶をされた。
  尾西毛糸紡績・玄関(前に2匹の銅の羊)・パソコン画


私は、稲沢市にあるこの会社の経営のため、平成6(1994)年9月に赴任した。そして、この会社は、平成11(1999)年6月、私が元在籍した会社「日本毛織」へ合併した。正味の在籍期間は5年弱に過ぎない。しかし、厳しかった業容を、社員一体となって努力し、合併時には、完全黒字経営へ立ち直っただけに、この会社に対する思い入れは深い。
多くの同僚たちが、当時を振り返って「苦しく厳しかったけれど、楽しく面白い仕事ができたね」と言ってくれる。
この稲沢の地にあっては、当時、最大の企業であり、多い時には1700人近くの人たちが、糸の生産に励んだ。そして、かってわが国の最大の毛織物産地といわれた尾州毛織物産地へ、その原料の糸の最大の供給者として、誇りを持って仕事に励んできた。

元々、BK稲羊会は、退職した男子社員の親睦会として発足した。しかし、いつ頃からか、当時の女子社員の中から、そんな会であれば、是非、私たちも出席したいという気持が寄せられ「そりゃいいね。どうぞ」ということになった。
当時、女子社員の多くは、岐阜の奥美濃や飛騨、更に富山や新潟からの赴任者が多かった。何棟もの寮があって、自治組織も、また学舎もあった。結婚して、故郷へ帰った人、社内結婚で稲沢の地に住みついた人、いろいろあるが、仲良し同志、今もいろいろ交流があるようだ。連絡網も密なようだ。

今年の出席者は、ほぼ80名。男女ほぼ半々だ。女性では、飛騨や奥美濃から参加してくれた人も多い。
何時ものように、会員の動静報告や会計報告が済むと、昼食会が始まる。しばらくすると、カラオケ大会になる。最近の女性は、積極的であり、また歌も上手い。恥ずかしがり、嫌がる男性を引っぱり出してのデュエットも少なくない。
ところが、今年は、その後、新しい趣向が加わった。何と、郡上踊りが加わったのだ。
マイクから、郡上踊りの「川崎」の歌が流れてくる。郡上市から来てくれた数人が舞台で踊り始める。直ぐに、多くの人が立ち上がり、踊りの輪ができる。私も、小さい頃から楽しんだ踊りだから、直ぐに輪に加わった。輪はぐんぐん広がり、小ホール一杯の輪に広がった。
曲は「春駒」に変る。
そう言えば、会社の頃は、いつも夏には盆踊り大会をやったものだ。地元の人たちも一緒に踊ってくれたものだ。他の歌と共に、郡上踊りもメインの一つだった。本場の郡上市のお囃子に来場して貰ったこともあったっけ。

5年弱の短い期間の勤務だけに、BK稲羊会で始めて知り合った人たちも多い。われわれが精魂込めて愛して来た会社を合併して、無くしてしまった張本人として、快くない思いの人もいるかも知れない。が、多くの人は、私が郡上八幡出身だということを知ってくれており、天下りで来た「よそ者」と考えず、親近感を抱いてくれて、仲間内と思ってくれている。踊りながら、嬉しさ・有難さに、つい涙ぐんでしまった。
郡上市から毎年来てくれる I さんたちは、私に郡上八幡名物の「肉桂玉」や「山菜」を持って来てくれた。今日あたり、お礼状を書かねば!

仕事の関係であった稲沢の人たちも、尾西毛糸紡績で一緒に働いてきた人たちも、皆、こころ暖かい。私は、稲沢が大好きだ。
暖かい人たちと触れ合って、また、命の洗濯ができたような気持。有難いことである。


知多半島へ-32年入社同期会

2011年05月20日 | 越し方を思う

32年入社同期会。今年は、中部地区に住む私たちが開催当番。
毎年、1回、関西・関東・関西・中部の順番で、全員が集い、楽しむ会を催している。
本社が関西であったため、関西居住者が多い。そこで、関西企画の回数が多いという訳だ。

もう、何年になるだろうか。随分長く続いている。今年の参加者は13名。何か特別な事情がない限り、欠席者は少ない。
ここ数年、ざっと、振り返って見ても、
2010年  大山崎・有馬・神戸
2009年  東京・上野・浅草・浜離宮
2008年  奈良
2007年  桑名・木曽三川・弥冨工場
2006年  山代温泉
などなど。その時々の当番の地区が、いろいろ知恵を絞って、楽しい会合を企画している。

面白いのは、入社後、途中退社しても、年賀状などで連絡があるものは、皆このメンバーに加えていることだ。H君やY君がそうだ。毎年、一緒に、精一杯楽しんでくれる。皆、仲が良い。

夕食時、それぞれ自分の近況を報告し、後はもう雑談したり、料理を楽しんだり・・。
また、碁を打ったり、カラオケを楽しんだり・・。何度も、湯を浴びたり・・。
翌日は、マイクロバスを貸し切って、知多半島を一周した。常滑の「やきもの散歩道」が面白かった。

  常滑「やきもの街道」を散策

どの同期会やOB会もそうだが、参加者は、何か一生懸命になれることを持っている者が多いようだ。と言うより、その何かが現在の元気の源であり、一泊旅行にも参加できる体力を維持していると言えるのではなかろうか。
版画を身に付け、県展や全国展に常時入選しているS君。毎日、午前中版画制作に没頭し、午後は2~3時間、散歩を日課にしているという。
農業委員を務め、自分もかなりの畑作をしているI君。いろいろ、農家からの相談事が多く、その解決に没頭しているという。
そう言えば、M君は、実家も奥さんの実家も、この東日本大震災で家屋の被害を受けたそうだ。でも、親族に被害はなかった。報道は、津波と原発のことばかりだが、地震による被害もかなり大きいようで、内陸部でも家屋の損傷が大きいのだという。今も、ゴルフに熱中している。娘さんが現在臨月、誕生が今日明日ということで、そわそわしながら、携帯電話を何回もかけていた。

最近の話題は「もう何年、皆が元気で集まれるだろう。最後の一人になるまで、続けようよ」。
大学卒入社も高校卒入社もいるので、年齢は80才から72才まで。
こんなに毎年かならず集まり、一泊旅行をしている同期会は、我々前後の年代でも珍しいようだ。
前後に入社したものたちが、珍しがり、羨ましがっている。

何故だろう、と考えて見る。

入社時、全員が同じ寮で合宿し、各職場を「見習い実習」して歩いた。ほぼ、1年間の実習。
この間に、今の絆が結ばれたらしい。
実は、1年間の合宿実習は技術系だけ。
事務系は2ヵ月ばかり同じ合宿をし、その後、各工場に別れて1ヵ月「計算実習」と称する事務の見習いをし、すぐ正式配属になった。そんな訳で、この会で、いろいろな事情があるものの、欠席は事務系に多い。事務系で常時出席しているのは、私とF君・I君の三人だけ。F君は、私と2人で、一番遠方の千葉県の工場で「計算実習」した仲間だ。特別親しい。
でも、この「見習い実習」をしたのは、私たちの入社時だけではない。

もう一つの大きな点は、関西組グループのまとめ役、M君の人柄だと思う。いつもニコニコ笑顔を絶やさず、包容力が大きい。彼を中心に、関西組ががっちりまとまっていることが大きな理由だと思う。

いつまでも続いて欲しい、楽しい会合である。
実は、いつも参加し、今年の企画をたてた一員でもあるK君が、今回、急に不参加になった。奥さんの病状が思わしくないらしい。早く良くなって欲しいと祈る!


鯱城学園に入学

2011年05月15日 | 趣味を楽しむ

鯱城学園。名古屋市の高年大学である。
2年制で、夏休み・冬休みもあるが、毎週、教養講座が週1回、専門講座も週1回、更に全員何らかのクラブへ入部することになっており、正規のクラブ活動が週1回。その上、いろいろな行事とその準備がある。かなりハードなようだ。
生活・文化・園芸・陶芸・地域・健康・美術・環境・国際・福祉の10学科がある。
今年は、第26期生、かなりの歴史も経ている。
たまたま友人のS・Kさんが、昨年度、町内会の推薦で入学された。
月1回の飲み会でその話を聞き、「面白そうですね」と話していたところ、今年の2月に「平成23年度入学案内」を届けて頂いた。
毎年、数倍の志願者があり、抽選で入学者が決まるのだそうだ。一年で籤に当たるのはまれで、2~4年ほど、申し込みを続けて入学される人が多いということ。

出願資格は
1 名古屋市在住の60才以上
2 健康で学習意欲があること
3 卒業後も地域活動に参加する意欲があること
そう、卒業者には地域での活動を期待し、地域での絆の核になって欲しいという期待が大きいようだ。
募集定員は568名。

最も希望者が多い学科の一つ、美術科を申し込んだ。4倍強の競争率。
何と、1回で当ってしまった。
4月5日から4月一杯、入学予定者説明会、入学式、クラブ説明会、クラブ登録と目白押しに行事が続いた。
クラブ登録の手続き最終日、何か因縁を感じさせるような出来事に出会った。
クラブは水墨画クラブを希望した。しかし、定員をかなりオーバー。抽選になった。
たまたま男性が3人並んでいた。その3人が皆「当り」。お互いに「良かったね」と挨拶を交わした。
話してみると、3人とも、学科は「美術科」!
話は弾む。すると、何と3人とも同郷(岐阜県)、M・Kさんは同じ村出身、もう一人のT・Kさんは峠を越すと直ぐ隣の町の出身。
一辺に、親しくなった。今まで会ったこともない同郷の3人が、同じ学科で同じクラブ、不思議な因縁だ。
嬉しくなった。通学するのが楽しくなった。実は、2年間毎週2日は大変だな、大丈夫かな、と思っていたところだった。

私は76才。お二人は60台前半。これからいろいろお世話になりそうである。
さすが、76才は高齢者の部類。卒業時には78才、もう80に手が届く老齢。
今になって、ちょっと年が行き過ぎてるかな、とも思うが、まあ乗りかかった舟、良き友を得て、頑張って見よう。

学生の頃から現役で仕事をしていた間、考えて見れば、ずっと左脳に寄りかかった人生であった。言語と論理の生活であった。理屈っぽく生きてきた。
でも、何か絵画や音声、感性的な創造性に郷愁のようなものを感ずる自分を見ていた。右脳の世界である。
今、パソコン画を描いて楽しんでいる。しかし、どうも自分なりに心に響く絵が描けない。絵を描く基本をきちんと習ってみたい、そんな思いもあった。

今度、美術科を希望したのは、このためである。
良き友を得て、楽しく通学できそうである。良きかな!


世の中のものごと、出来事には・・

2011年05月10日 | 過去は過去、でも・・・

この国の最近。
何だか不可解な話が多い。政府の発表を聞いても、関係者の説明や弁解を聞いても、その新聞報道やテレビを見ても、何だかよく分からない。
東日本大震災は自然現象で致し方ないとしても、福島第一原発の事故、浜岡原発停止の要請、居酒屋の生肉による食中毒などなど。
そう言えば、アメリカ・オバマ大統領(アメリカ初の黒人系!)のビンラディン殺害の発表も、何故今か、何だか不可解である。
世界中、不透明感が漂っている感じ。

あるいは、年を取って、私がボケて来たのかなとも思う。
でも、そうばかりではないようだ。何か、真実が正確に語られていないような感じがする。

平成16年4月。七年前。
本業の傍ら、ある経済大学の講師を引き受け、現代産業論やファッション・ビジネス論の講義を受け持っていた。あの頃は、よく勉強したと思う。
人を教えるということは、思ったより、大変なことである。
実務体験はそれなりに積んできたつもりであったが、その体験で得た思いを正確に伝えるためには、理論的な勉強が必要であった。
その頃の講義のメモを再読していると、その片隅に「世の中のものごと、出来事には・・」という表題で、次のような気持を書いていた。勿論、私の気持であって、講義で公表したことはない。
でも、今読んで見て、少し格好つけているが、現在の私の気持からも「なるほど」と思ったので、ここに転記してみようと思う。

「世の中のものごと、出来事には・・」     平成16年4月23日

世の中の全てのものごと、出来事には、がある。表と裏は、正に表裏一体である。
教科書は、基本的に、表だけの表現になる。「教科書的」という言葉は、表面だけの記述ということを意味する。
「腹を割って話す」という言葉がある。裏の部分の3~4割か、5~6割くらい、さらけ出して話すという意味であろう。
アメリカは、民主主義・自由主義・資本主義の徹底した国である、という表現は表だけの話である。WASPを筆頭に、厳然とした階級意識があるし、黒人に生れて上級社会へ入るのは容易なことではない。アメリカ社会を経済的に支配しているのはユダヤ系だとも言われている。裏では至極常識的な話である。
しかし、ものごとや出来事は表と裏で全てという訳ではない。実は、表と裏には、がある。
アメリカという国を経済的に支配しているユダヤ系は、経済を通じて、大統領を始め、主要な政治家と極めて密な結びつきを持ち、政治をも支配していると書かれた本が、書店にはいろいろ並んでいる。奥の話と言えよう。
それで全てかというと、まだまだである。奥には、がある。しかも、二重底もあるし、底なしもある。

表は明るいから、その表現はほぼ正確と言って良い。
しかし、裏は暗い。本当にそうなのか、何かの錯覚が含まれているのか、不明である。正確さ、という点から見れば、正確度が低くなる。
まして、奥になると、本当なのかどうか、簡単には判断がつかない。
更に、底になると、二重底なのか、底なしなのかすら、判然としない。

「直感が大切」と言われる。事実、そういうケースも少なくない。を素直に感じ取るからなのであろう。しかし、多くはを緻密に、論理的に考え抜くことにより、真実に近づける。
「ものの考え方」を身につける大切さがここにある。
学問の重要性の一つが、ここにある。

以上である。皆さんは、どう思われるであろうか。


岡山・倉敷旅行-名名会

2011年05月03日 | 趣味を楽しむ

名名会。ナナ会と読む。
昭和32年大学卒業の同期会である。主に名古屋近辺に住む14~15名のグループだが、
その内、1名は高知に、1名は岡山に住む。
通常は、名古屋近辺で昼食会を楽しんだり、日帰り旅行をしたりしている。
元々は、ゴルフの会であった。
が、今では、ゴルフもするが、ゴルフをしないものも含めて、食事を共にしながら近況を話し合うことも楽しみにしている。

名前の由来がふるっている。名古屋の大学卒業で、ゴルフの名人(本当は迷人!)揃い、そして新制大学第7回の卒業生。
そこで、「名古屋の名人」の名名と書いてナナと読むことにした。
発案者は、確か、現在は高知に住むM・T君。
でも、ちょっと格好悪くて、時々しか使わない。

もう3年前になると思う、M・T君の住む高知へ一泊旅行に行き、大変楽しかった。
そこで、今度はA・M君の勧めもあって、A・M君が住む岡山へ押しかけたという次第。

名古屋駅に集合したのは、11名。現地でA・M君と合流し、12名で、岡山・倉敷と2日間、たっぷり遊んだ。
A・M君とその奥さんが、事前にいろいろ検討し、素晴らしいプランを立てて呉れていた。

行ったその日は、岡山・後楽園と岡山城天守閣を散策。
後楽園では、A・M君の知り合いであるボランタリー・ガイドの方から詳細な説明を聞きながら一巡した。
延養亭・能舞台・御舟入跡・鶴舎・沢の池・廉池軒などなど。
以前にも行ったことはあるが、故事来歴・由緒因縁を聞きながらの散策は新鮮であった。
岡山城。黒塗りの壁から烏城とも言う。戦国期から、宇喜多家・小早川家・池田家と歴代城主は替わっているが、第二次世界大戦時空襲で喪失、現在の城は昭和41年に再建されたものだそうである。
屋根瓦には、小早川家の家紋・五三桐が輝いていた。
宇喜多でも、池田でもなく、何故かな、と思った。今思えば、宇喜多家の五七の桐だったかも。
夜は、市内の料亭で宴会、その後カラオケと盛り上がった。

翌日は、倉敷へ行き、大原美術館へ直行した。
大原美術館は、社会事業家であり、倉敷紡績の社長でもあった大原孫三郎が建てた日本初の西洋美術館。
ここへ来ると、美術鑑賞の目が高いH・M君の出番。
本館・工芸美術館・分館・児島虎次郎館と、いろいろ説明を受けながら、ゆっくり鑑賞できた。
そして、かっての私の同業者・倉敷紡績跡のアイビースクエアーで寛いで、帰途についた。
アイビースクエアーでは、のこぎり屋根、恐らく輸入品であろう橙色の煉瓦塀、昔の紡績工場や女子寄宿舎の名残りが残っていて、私は同行者とは異なる特別な感慨を持った。

このプランができてから、あの東日本大震災が発生した。
どうしようか、迷った。幹事役の私が、各人の東日本大震災との関わりをチェックしたところ、メンバーの一人、K・K君の娘さんが仙台に嫁いでおり、家は喪失したが、家族全員無事だったとのこと。その他の者には直接的な関わりは無かった。
K・K君も行くと言ってくれたので、予定通り行くことにした。
行って良かった、と思っている。
いつもよりは静かであったが、充分楽しめたし、「絆」の大切さを感じた旅行であった。
何かの縁でつながった者同志、この絆を大切にすることが、世の中をなめらかにする原点だと実感した。
かくして、岡山・倉敷旅行は、無事、幕を閉じた。

         追記:岡山・倉敷旅行は4月26~27日。この文章を書いたのは、少し前でした
             が、パソコンの故障のため、掲載が遅れました。