照る日曇る日、また降る日

一生懸命、しかし平々凡々に生きて今や70の齢を超えた。今後も、しっかり世の中を見つめ、楽しく粘り強く生き抜こうと思う。

今年もいろいろあった

2011年12月31日 | 越し方を思う

私は「昭和・平成を生きる」という表題の自分史年表を作っている。
昔から、日記を書いている。現役時代は、「業務日誌」と「毎日の生活記録誌」の二つに記していた。勿論、今は「毎日が日曜日」なので、一つしかないが・・・。
既に、数十冊になり、本棚一杯になっている。この年になると、「断捨離」ではないが、身辺を整理し、できるだけ持物を少なくしたい。日記も処分の対象になる。
そこで、生れてからこの方の「自分史」を年表にまとめることにした。最近は、「私・家族のこと」「会社・地域のこと」「世界・日本の出来事」の3項目に分け、年月日と出来事を年月日順に一件一行で記している。
午前中に、平成23年度の年表を作成した。

それを見ながら、十大ニュース風に、自分の今年を振り返って見る。

一番嬉しく楽しかった出来事は、家族が「喜寿のお祝い」をしてくれたこと。いつものように、7人の家族で食事をしたが、7人が健康なことが何より嬉しい。上の孫は、今年、高校の一年生。下の孫は小学校4年生。兄は、おっとりゆっくり型、妹はしゃきしゃき型で、性格はまるっきり違うが、これがすごく仲が良い。兄さんが妹を温かく包み込んでいる。妹はなんでも兄さんに凭れる。
この二人が、私たち7人家族の生き甲斐であり、守り本尊であるようだ。

今年は、母の三十七回忌。苦労が多かったであろう母の存命中を思い、あの時もっと助けてやれたなら、と今にして思う。最後に残った母の妹(叔母)も、今年、身罷った。10月のことである。近い親戚で残るのは、養護施設へ入院中の家内の母のみである。大切にしてやりたい。

高校時代の親友S・Y君も、亡くなった。3月。近畿の四条畷での告別式にお参りした。そう言えば、彼の長男へは、私達夫妻が仲人をやらせて頂いた。一昔前までは、友人・知人の親の死去の知らせが多かったが、最近は友人やその連れ添いの死亡通知が多い。私も長生きの部類へ入ったようである。

田舎には、父母が造った家が空き家になっている。もう30数年、兄弟たちの誰かが数度行く程度。年のことも考え、どうにかしようと諮ったが、特に妹たちのそのまま残したいという思いが強く、最終的な処理についての気持がまとまらず、保留のままになった。ゆっくり考えて行こう。

今年は、名古屋高年大学・鯱城学園美術科へ入学した。名古屋市が運営している60才以上を対象とする2年制の高年大学である。パステル画・水彩画・版画・水墨画などを、初歩から教えて貰っている。30~40年振りくらいであろうか、教えたり、指導したりの仕事から、教えて貰う生徒業をすることになった。視線が異なり、楽しく面白い経験をしている。
でも、想像以上に忙しい。

指導するということで言えば、私のかっての勤務先、ニッケから、今年の新入社員の新入者教育の一環である「温故知新塾」の講師を頼まれた。若く、将来に瞳を輝かしている者たちと交わると、私の中に潜んでいる活気がよみがえる。また、自分の経験談を話していると、現役時代のさまざまな出来事が思い出された。また、その塾の世話をする女性社員(M・Fさん)が素晴らしい人である。最近は、本当に爽やかなビジネス・ウーマンも多く見られる。

住む地域では、先輩でもある町内会長に要請されて、町内会副会長をしている。町内会副会長の中で、私は唯一人、マンション住人である。そこで、マンションへ入った新しい住民と古くからの住民との交流を密にすることが、私の仕事の一つと心得ている。
秋の山吹小学区体育祭の後の町内懇親会に町内会代表として参加し、多くの若いママさん達の知り合いになったのも、楽しい出来事だった。最近、道を自転車に乗っていると、時々、挨拶をしてくれる若いママさんに出会う。嬉しい。

今年は、何だか同窓会や同期会が多かった。会社関係では、社友会・掬水会・稲羊会・会社での同期会、そしてその中部支部の会など。学校関係では、大学や高校・中学の同窓会・同期会。それに、現業時代の勉強会の続きであるフォーラム21稲沢の会やF&A研究会思い出会など。春と秋に集中し勝ちで、出席に忙しかった。喜寿になったということが、一つのきっかけかも知れない。

自分の絵画のグループ展や友人の絵画展、グループ展に出席することも多かった。稲沢の荻須美術館へかっての仕事の同僚である遠藤画伯に連れて行って頂き、観させて頂いた「童子庵・高垣康平絵画展」の作家が、私の高校時代の一年後輩の高垣康平君であったという奇遇にも巡り合った。

最後に、昨年から始めたグランドゴルフ。今年に入って、いろいろな大会にも出場させて頂き、随分多くの元気な友を得た。楽しく、ワイワイガヤガヤ話ながら、スポーツを楽しめる。私の健康保持のための大切な運動でもある。

こうして振り返って見ると、忙しかったが、年齢の割にはなかなか充実した年を送ることができたと思う。これも、一病を抱えて行動に制限があるものの、まずまず元気で過ごさせて頂くことができたため。健康の大切さをしみじみと思う。来年も元気でありたい。

皆様も、お元気で、よいお年を!


あまり自慢にもならない自慢話

2011年12月13日 | 越し方を思う

「日本漢字能力検定協会」が、今年の漢字を「絆」と決定し、例年通り、京都・清水寺で発表した。

今年は、2月に、ニュージランド・クライストチャーチで地震が発生、富山から語学研修に出掛けていた日本人学生を始め、日本人を含めた多くの犠牲者が出た。
続いて、3月11日には東日本大震災。地震・津波・原子炉の崩壊と重なって、万人を超す大きな死者・行方不明者を出し、今なお仮設住宅で厳しい生活を送っている人たちも多い。
余震も、ずっと続いているし、最近は九州地区や北海道、あるいは長野などにも、大きくはないが、地震が頻発している。
さらに、紀伊半島の集中豪雨、タイの洪水と水害が発生し、その都度、大きな犠牲者と被害が出た。

そんな中で、近隣や肉親、縁あるものの「絆」が如何に大切かが、改めて認識され、最近の新聞やテレビでは、「絆」という言葉が何度も何度も繰り返されている。思えば、このところ、個人の自由の大切さが強調され、人と人との関わり合いが、ややもすると、自由を束縛され、息苦しいとすら意識される風潮が続いていた。個人情報の真の意味を取り違えているように見える人や現象もある。

実は、私は今年大切にしたい言葉として、

1  健康
2  絆

という二つを取り上げた。
このブログでも、1月1日付けの「「明けましておめでとうございます」の中で、この二つの言葉に言及している。
まだ「絆」という言葉が大きくクローズ・アップされる前のことである。

「健康」という言葉は、自分の病気のことを考え、自分のことは自分で処したい、周囲の人に大きな負担と心配をかけたくない、という一念を表したつもり。
そして「絆」については、世の中、あまりにも乱れ過ぎている。人間不信が蔓延している。しかし、人間、一人で生きてはいけない生き物。縁あるもの、お互いに助け合い、励まし合って生きて行きたい、と呼びかけたつもり。

このブログは2010(平成22)年2月3日から書き始めた。もう百項を超す随想を書き連ねている。
その中に、例えば「幸せに満たされた日」「少しずつ狂っている(その1)」「カレンダー」「マンションの新住人と古くからの住人」「嘘と不可解に包まれた国」「ちょつといい話を思い出した」など、肉親や地域、あるいは何か縁あって知り合った人たちとの「絆」を大切にしたい、そして「絆」が大切にされない現代の風潮を反省したい思いを述べている。

少しばかり「先見の明」があったかな、などと思う次第。でも、世間の風潮をみて「絆」の大切さを思った人はいくらでもおられたに違いない。それほど、「先見の明」などと自慢することではないのだろう。そう思う。でも、ちょっぴり自慢話がしてみたくなった次第。

さて、それでは新しく来る年は、どんな姿を見せるであろう。一文字で表現するとすれば、どんな言葉になるだろう。
じっくり考えて見たい。

           追記:今年の友人からの年賀状の中に、私が昨年の賀状の中で触れた「絆」という言葉について、いろいろコメントをくれました。
                  その幾つかを紹介させて頂きます。やっぱりこれも自慢話ですよね。
                  T・I君(高校時代の友人:東京在住)  昨年の漢字一文字は「絆」。貴兄の年賀状を想い出しビックリ。まさに「絆」が再認識
                  された年でした。
                  M・H君(元の会社の同僚:徳島在住)  昨年の「絆」の文字、ピッタリ当たりましたね。
                  T・K君(高校・大学の一年後輩:京都宇治在住)  絆が昨年の言葉に選ばれましたね。流石です。 
                  (平成24年1月2日追記)                 


懐かしい写真が出て来た

2011年07月28日 | 越し方を思う

古い書類の整理をしていると、思いがけず懐かしい写真が出て来た。日付は、1955年1月とある。この写真である。
7人の親しい友達が、私たちの故郷、郡上八幡城へ昇り、撮った写真である。

            

1955年、昭和30年。今から50年以上も前のことである。
7人並んで写っている写真の左から、Y・M君。高校を卒業して2年。家が薬局だったため、その後を継ぎながら、この地の信用金庫の社員になっていた筈だ。良く気が付き、よく動く人だった。
二人目が、T・Sさん。愛知県の中堅毛紡績会社へ事務員として入社、普段は稲沢市にある会社の女子寮で起居していた。いつもにこやかで、学生の頃は、いつでもM・Iさんと連れ立っていた。
次が私。名古屋大学2年生で、名古屋市瑞穂区で下宿していた。
屈んでいるのが、K・M君。戦時中、疎開で郡上八幡へ移って来ていたが、高校時には、疎開前の名古屋の家へ戻り、学校は名古屋の瑞稜高校を卒業、当時は市中銀行の行員だったと記憶している。優しい人柄。(そう言えば、今も時々行く肉料理のお店は、最初、私が出張で神戸から名古屋へ来た時、K・M君が連れて来てくれたお店だった)
5人目が、S・W君。愛知学芸大学へ入り、この頃は確か岡崎市の寮へ入っていた筈。几帳面で、誠実そのもの。
そして、M・Kさん。この地の大きなお寺の娘さんだった。凄い美人。この頃は、家で花嫁修行中だったろうか、ずっと郡上八幡の地に留まっていた。
そして、7人目。Y・O君。素晴らしい秀才だった。お父さんは、洋服の仕立て屋さん。高校は普通科でなく商業科だったが、一念発起して、一橋大学を受験、現役で合格し、東京で下宿生活をしていた。

全員、中学時代の友達である。二人を除いて、この頃は郡上八幡の地を離れて暮らしている。それが、おそらく正月休みで帰省したのであろう。そして、一家で名古屋へ移ったK・M君は、Y・M君と一番仲が良かったから、Y・M君の家へ遊びに来ていたのだろう。
誰が言い出しぺだったか、どのように集まったのか、どうして7人だったのか、全く記憶がない。が、小さな町の中だから、一人ひとりの家を訪ねて、7人集まり、郡上八幡城へ昇ろうということになったのだと思う。当時は、まだ険しい山道。ワイワイガヤガヤ言いながら登ったことだろう。男性は、皆、まだ充分には着なれない背広を着ているようだ。

櫓の5つの窓から、5人が顔を出している写真が面白い。女性の2人の内のどちらかがシャッターを押して呉れたのだろう。
5人とも、これから経験することになる実社会のあれこれを想像しながら、「青雲の志」を抱いて、意気揚々として写っている。時代は、敗戦の痛手を克服しながら、高度成長期へ突入しようとしている。5人の将来は、それぞれの心の中でバラ色に輝いていたことであろう。

故郷・郡上八幡は、今では中部地区有数の観光地となった。今は7月。9月の中頃まで、盆踊り・郡上踊りで、終夜賑わう。郡上八幡城も今では立派な観光資源とあって、城まで登る山道は整備されているが、入るには入場料を取られる。が、当時は、そのまま放置され、中へ入るのもまったく自由であった。だから、こんな写真も取れた次第。

あれから、50数年、青雲の志を抱き、お互いに肩を叩きあった7人にも、良きにつけ悪しきにつけ、その時には想像すらできない運命が待ち受けていた。
一橋大学を出たY・O君は、一流企業へ就職し、誰よりも早く取締役になったが、その後、社内の派閥争いに巻き込まれ、早期に退社せざるを得なくなった。一時、失意の時期があったが、今では、埼玉県の方で、語学の学習塾を主宰しているとのことだ。確か、何時かの同窓会の時、本人から直接に聴いたように記憶している。
T・Sさんと私とは奇縁である。T・Sさんが青春を送った毛紡績会社に、そのずっと後のことであるが、私が再建のための社長として赴任した。だから、同じ会社のOB・OGと言うことになる。その会社も今では現存しないが・・。T・Sさんは結婚され、今ではT・Iさんとなったが、ご夫君、それにご子息達が和楽の優秀な演奏者で、稲沢市の市民ホールで、その演奏を、私も聴かせて頂いたことがある。そして、私と同じ名古屋在住である。
S・W君。大学を卒業後、知多半島で中学校の先生・校長を勤め上げ、現在も知多半島・半田市に住む。この写真も、S・W君から頂いたものである。そう言えば、数年前、二人が幹事になって、南知多で中学校の同期会を開いたこともあったけ。
しかし、Y・M君、K・M君、M・Iさんは、3人とも、既にこの世にはいない。3人とも、社会人になり、結婚生活を送ったものの、早い段階でこの世を去ってしまった。
誰が良くて、誰が薄運だったかは問うまい。誰も、未来を見通すことなんてできない。それが自分に与えられた運命と納得するより他にない。

次々と思い出をかき立ててくれる写真である。
だが、こうして現在もなお、何とか元気を保ち、贅沢はできないが、平々凡々、穏やかに暮らしている自分を見て、有難いことだと神に感謝せずにはいられない気持である。

 


故郷:郡上八幡

2011年07月10日 | 越し方を思う

7月7日(金)、安城厚生病院へ行った。前立腺ガンによる全摘手術の予後定期検診のためである。3か月に1回、通っている。
もともと、名古屋の名城病院で手術をしたのだが、執刀して下さった先生が安城厚生病院へ移られたため、今は安城へ行くことになった次第。
ところが、この病院通いが、私にとって、一つの楽しみになっている。家内も一緒について来てくれる。
病院通いが楽しみ、なんて耳を疑う話であるが、実は、この日、刈谷市に住む弟夫妻が、診察が終わる頃を見計らって、車で迎えに来てくれ、家内も交えて、4人で昼食を共にすることが恒例になっているからである。
弟は、私たち兄弟の父が亡くなった時、まだ高校生。心の面からも、経済的な面からも、苦しい状態の中で、その苦しみを乗り越え、富山大学工学部に入学、中部電力へ入社、数年前定年を迎え、今は弓道をやったり、世界中を旅行することを趣味とした毎日を送っている。
弟の姿を見ると、よく頑張ったな、とつくづく思い、ついホロホロとする。
その弟も、今年、古希。子供や孫たちに祝って貰った時の写真を嬉しそうに、見せてくれた。

いつものように、昼食をしながら、いろいろな話をする。必然、故郷・郡上八幡での話もでる。そして、夏になると、思い出されるのが、「盆踊り」。でも、おそらく今年も、盆踊りのため、郡上へ帰ることはないだろう。
家は残し、いつでも泊まれる状態にしてあるものの、長男である私始め兄弟全員が都会へ住み付き、家に残っていた母も、病気療養のため家へ帰っていた一番末の弟も、30数年前に亡くなり、空家になり、今では悲しい思い出だけ山積している家へあまり帰る気になれない。まして、盆踊りを楽しむ気持が湧いてこない。

数年前、郡上郡の各町村が合併して、郡上市になり、郡上郡八幡町は郡上市八幡町になった。
市になる前は、「郡上八幡ふるさと会東海大使」という役職を委嘱され、郡上八幡の観光宣伝に一役買っていたし、郡上八幡へ帰ると、親身になって母や私たち兄弟のことをあれこれ世話してくれていた叔父や従弟を訪ね、また、郡上八幡に住み街の発展に寄与している同級生たちに会うという楽しみがあった。しかし、郡上市になって八幡町との関係も切れ、ここ数年の間に、ふと気がついて見ると、叔父も亡くなり、その息子である従弟も亡くなり、多くの友達も亡くなったり、ボケてしまったり・・・。
今では帰っても、正に一人の旅人として、郡上の町を散策するだけになってしまった。
街並みを歩いていても、まず知った人に出会うことはない。
淋しさだけが募る。

「ふるさとは遠くにありておもうもの、そして悲しくうたうもの・・・」という室生犀星の詩が思い浮かぶのみ。

何故、故郷は懐かしいのだろう、心をかきたてるのだろう。
しっかり頭に刻み込まれた山や川、そこで魚を釣ったり、チョウチョウや山菜を取ったりした思い出、すべて確かに懐かしい。
しかし、郡上八幡を訪ねても、一人の旅人になってしまった今、本当に懐かしい故郷とは、実はお互いに知り合い、懐かしみ合う人たちがおり、その人たちが迎えてくれる、ということなんだと気が付いた。
故郷が懐かしいのは、小さな頃から、自然自然に積み重ねられてきた人と人との絆なんだと・・・。
小学校の校庭で、取っ組み合いの大喧嘩をしたこと、級友数人と鍾乳洞を探検したこと。
父や母の傍で、兄弟一緒に、わいわいがやがや食べた夕餉、西瓜やかき氷。
しんしんと降る雪の夜、炬燵で暖を取りながら、皆で遊んだ双六。
故郷へ帰っても、その思い出を話し合えるものはもう一人もいない。

そう思うと、あの東日本大震災と続く原発事故で、今まで住んでいた場所に住むことができず、地域の人たちが、離れ離れになって、新しい住み場を求めなければならない苦しさが、並大抵のものでないとわかる。一緒に住んだ場所と共に、ゆっくりゆっくり築き上げてきた地域の人たちとの絆まで失われるのだ。

今日の新聞を見ると、大きな写真入りの記事が目についた。
「昨7月9日から、盆踊り・郡上踊りが始まった。これから9月3日まで、会場を八幡町の各町内に移しながら、三十三夜にわたって、繰り広げられる。そして、8月13日から16日の4日間は盂蘭盆会の徹夜踊りで賑わう」と。

  徹夜で踊り明かす郡上踊り

今はもう会うことができない懐かしいあの人、この人を思い出し、郡上踊りで夜が明ける郡上八幡を頭に浮かべて、もう10時過ぎ、さて、テレビでも見ながら、寝るとしようか。


「末弟」に教えられたこと

2011年06月15日 | 越し方を思う

前に勤めていた会社から、新入生や若手対象に、「先輩が会社にいた頃、どんな仕事をしていたか、を話して欲しい」と依頼があった。
「温故知新塾」という研修の場が設けられ、そこで新入社員や若手社員が、いろいろ話を聞く制度が設けられているという。
実務を担当されるのは、N・Sさんという女性。その専門知識を買われて、3年半前、別の会社から移ったのだという。
熱心だ。N・Sさんの情熱にほだされて、若い社員に役立つ話をしたいと思い、あれこれ過去の資料を、一生懸命、見直してみた。
海外出張報告や社内提出論文、業界紙に頼まれて書いた随筆や意見書、ずっと続けて書いていた業務日誌などなど。

作業をしていると、会社での出来事と共に、家族の中で起きた嬉しいこと悲しいことも、いろいろ思い出した。
そんな中で、今、思い出しても胸が張り裂けそうになることが、幾つかあった。
一つは、入社したその年の12月暮、父が死亡したこと。48才の母、入社したばかりの私、それに、まだ学生・生徒・児童であった弟妹5人を残して・・。私は長男である。その責任の重さで打ちひしがれそうになった。始めたばかりの父の仕事を引き継ぐため、会社を辞めるべきか、入社したばかりの会社に残り、仕送りをするべきか?
そして、もう一つは、母と末弟が共に、前後して不治の病に冒され、別々の病院へ入院したこと。結局、母がまず帰らぬ人となり、一年少し後に、弟もこの世を去った。弟は28才であった。私は神戸市に住み、大阪の市内に勤務している。母と弟は中部地区の名古屋と岐阜の病院へ入院している。看病の時間を創り出すことと、大阪と中部を往き来する交通費も含めてのお金の調達。今思っても、物心両面とも苦しい日々であった。
しかし、この二つの出来事は、その後の私の生き方を決定付ける大きな出来事でもあった。

前に何度か記載している、例の「尾州談議」という随筆の中で、末弟のことについて、記している。「尾州談議」を書いたのは、十数年前、愛知県稲沢市の会社にいた頃のこと。その時の末弟への気持も今の気持も全く同じ、変わっていない。大きなことを教えてくれた末弟であった。
このブログを読んで頂いている方々に、是非、一度お読み願いたいと思い掲載させて頂いた。

「末 弟」           (
平成10年12月22日)

「 限られた人生のなすべき事を教えて下さい。
  短い人生のなすべき事を教えて下さい。
  半人前の私にいったい何が出来るのでしょう。
  ただ生きるだけを生きるだけで良いのでしょうか。」
当時、中日新聞等で大きく取り上げられたことがあるので、目にされた方もおられるかも知れない。二年半の闘病生活の末、28才で一生を終わった私の末弟・保が死の2ヶ月前の日記に記した詩の一節である。
                           
今年も残り僅かとなった。戦後最大とも言われる厳しい不況に終始した一年であった。この先も未だ明るさは見えていない。社会構造・経済構造や文化構造が根本的に作り直される構造的な問題が介在する不況であるだけに、長期に亘る混乱は避けられない通過経路なのであろう。
しかし、そうした厳しい状況の中で、何とか今年も苦労しながらではあるけれども、無事、年を越せそうである。有り難いことと言わねばならない。周辺の関係ある多くの方たちの厚意により「生かされている」ことを実感する。と同時に、自分も関係ある多くの人達に、この一年間、「偽りなく誠実に、自分の限りを尽くし得たか」と反省する。
                      
「生きる」ことを強く求めながら、寿命を甘受せざるを得なかった末弟。丁度、空気や水のように、当たり前のことと受け止められている「生きる」ということが如何に貴重なことであることか、とすれば「どう生きるべきか」。
毎日、切った張ったの修羅のちまたに生きる自分ではあるけれども、少なくとも多くの人を傷つける存在ではありたくな
い、少しでも周囲の人に頼りにされる人間でありたい、と思う。
                      
年末になると、懇親会や忘年会と夜の会合が増える。そして「カラオケ」。へたくそではあるけれども、「カラオケ」は酒と気持ちが発散できて、楽しいし健康にも悪くない。
時に、興至ると、堀内孝雄の「遙かな轍」を歌う。難しい歌ではあるが、その歌詞の一節が大好きである。
「こうとしか生きようのない人生がある。・・・せめて消えない轍を残そうか」
                        
来年の3月には末弟・保の23回忌を迎える。


ふうらさん

2011年05月31日 | 越し方を思う

前回に続いて、13年前、平成10年の6月に書いた随筆の一稿。「ふうらさん」。
「ふうら」さんとは、現在でも金沢市にご在住の泉井小太郎さんの手になる陶製の羅漢像である。
ふとしたことから、泉井小太郎さんと出会い、「ふうら」さんと出会った。
現在、わが家には、握りこぶし大の陶像三体、親指より一回り大きい位の小さな陶像三体がある。
一人ひとり、いろいろな姿・形・色をしておられる。その中には、泉井小太郎さんが外出される時、いつもポケットへ忍ばせておられた小さな陶像もある。泉井小太郎さんから、直接、頂いたものである。

もうかれこれ20年、ずっと変わらぬお付き合いが続いている。
と書いたが、確かに「ふうら」さんは全く変わりなくさわやかに微笑んでおられる。
しかし、私は大きく変わった。当時は現役、だが今では特に是非しなければならない仕事というものに縁のない隠居の身分。仕事の上でいらいらすることは全くない。しかし、年老いて来ると、何だか気が短くなり、イライラしたり、またしょげ込んだりすることが多くなる。
そんな時、「ふうらさん」は、今も変わらず私の心の協力者である。

  パソコンで描いた「ふうら」さん


「ふうらさん」  (平成10年6月30日)

6~7年前に出会い、それからは「ふうら」(風羅)さんがいつも私と一緒にいる。「ふうら」とは風の如く飄々と過ごす羅漢さんという意味であろうか。金沢在住の泉井小太郎さんの手になる素焼きの陶像である。黒灰色で、大人の握り拳程の大きさだが、ずっしりと重い。いつも自然木を杖に、さわやかにほほえんでおられる。「ふうら」という名前もずんぐりした身体つきも温かい雰囲気で素敵だが、その笑顔がもっと素晴らしい。平板な顔形の上に鼻と目らしきものが刻み込まれているだけなのに、透き通るほどに澄み切った笑顔である。何の心配もない訳ではないだろうに、なんという安らかな心なのだろうといつも思う。

いらいらの募る毎日である。デフレ・スパイラルが避けられそうもない景気、常に後手後手に回る経済対策、この期に至っても利権優先の政治家の言動、相次ぐ政官財の不祥事。世界の大きな流れの中での業界の将来、その中での自社の生き残り策。厳しい受注不振、価格低下。私的なことでも頭を悩ますことが少なくない。

仕事のことでも、私的なことでも、いらいらし始めると、「ふうら」さんを前にして、じっと自省する習慣を持っている。と書くと、陰気で根暗な感じがするが、それほど深刻なものではない。ほんの僅かな時間、「ふうら」さんと一緒に遊ぶという位のものである。「ふうら」さんはなにもしゃべってはくれないが、いつも温かい笑顔で私の気持ちを和ませてくれる。「ふうら」さんを両の掌に包み込んでみる。ずっしりとした存在感を感じる。少しづつこころが落ち着いてくる。心が澄んでくる。そのうちに、自分の気にかかっていたことが実はたいしたことではないと自然に分かってくることもある。「ああ、そうか」と頷くこともある。時が解決することだと気づくこともある。どうにもならないことにとらわれ悩んでいたと分かることもある。時には、自分の未練たらしい、生な心に触れて一人赤面することもある。

悲観もせず楽観もせず、心にゆとりを持ち、冷厳な目で事実を直視することができれば、大抵の場合には最適とは言えないまでも悪くはない選択ができるであろう。しかし、分かってはいてもままにならないのが現実。そんな時、「ふうら」さんは私にとっての大切な心の協力者である。



*** 
こうして読んで見ると、いつも最低レベルなのが、日本の政治。
菅内閣の頼り無さ。それを責める政治家の、それ以上の無軌道ぶり。
今日も、この厳しい状況下で、政治家たちは私利私欲の錯綜する内閣不信任案の上程で騒いでいる。
国民と同じレベルでの目線で、というのが多くの議員たちの選挙時での公言ではなかったか?
震災地へ自ら赴き、被災者の方々の苦しみを自ら味わい、今何が一番の緊急時か、と考えた議員が何人いるか?
被災者に切ない気持を寄せ、今自分のできることはと考え、僅かばかりでも義捐金を出し、ボランタリーに駆け付ける一般庶民が、何が一番の緊急時と考えているか、それを知ろうとする議員が何人いるか?
思いはいろいろあるが、もう口にする気持も起きない。
しかし、そんな議員を選んだのは、実は自分たちなのだと思うと、情けない気持に陥る。
「ねえ、ふうらさん。」


知多半島へ-32年入社同期会

2011年05月20日 | 越し方を思う

32年入社同期会。今年は、中部地区に住む私たちが開催当番。
毎年、1回、関西・関東・関西・中部の順番で、全員が集い、楽しむ会を催している。
本社が関西であったため、関西居住者が多い。そこで、関西企画の回数が多いという訳だ。

もう、何年になるだろうか。随分長く続いている。今年の参加者は13名。何か特別な事情がない限り、欠席者は少ない。
ここ数年、ざっと、振り返って見ても、
2010年  大山崎・有馬・神戸
2009年  東京・上野・浅草・浜離宮
2008年  奈良
2007年  桑名・木曽三川・弥冨工場
2006年  山代温泉
などなど。その時々の当番の地区が、いろいろ知恵を絞って、楽しい会合を企画している。

面白いのは、入社後、途中退社しても、年賀状などで連絡があるものは、皆このメンバーに加えていることだ。H君やY君がそうだ。毎年、一緒に、精一杯楽しんでくれる。皆、仲が良い。

夕食時、それぞれ自分の近況を報告し、後はもう雑談したり、料理を楽しんだり・・。
また、碁を打ったり、カラオケを楽しんだり・・。何度も、湯を浴びたり・・。
翌日は、マイクロバスを貸し切って、知多半島を一周した。常滑の「やきもの散歩道」が面白かった。

  常滑「やきもの街道」を散策

どの同期会やOB会もそうだが、参加者は、何か一生懸命になれることを持っている者が多いようだ。と言うより、その何かが現在の元気の源であり、一泊旅行にも参加できる体力を維持していると言えるのではなかろうか。
版画を身に付け、県展や全国展に常時入選しているS君。毎日、午前中版画制作に没頭し、午後は2~3時間、散歩を日課にしているという。
農業委員を務め、自分もかなりの畑作をしているI君。いろいろ、農家からの相談事が多く、その解決に没頭しているという。
そう言えば、M君は、実家も奥さんの実家も、この東日本大震災で家屋の被害を受けたそうだ。でも、親族に被害はなかった。報道は、津波と原発のことばかりだが、地震による被害もかなり大きいようで、内陸部でも家屋の損傷が大きいのだという。今も、ゴルフに熱中している。娘さんが現在臨月、誕生が今日明日ということで、そわそわしながら、携帯電話を何回もかけていた。

最近の話題は「もう何年、皆が元気で集まれるだろう。最後の一人になるまで、続けようよ」。
大学卒入社も高校卒入社もいるので、年齢は80才から72才まで。
こんなに毎年かならず集まり、一泊旅行をしている同期会は、我々前後の年代でも珍しいようだ。
前後に入社したものたちが、珍しがり、羨ましがっている。

何故だろう、と考えて見る。

入社時、全員が同じ寮で合宿し、各職場を「見習い実習」して歩いた。ほぼ、1年間の実習。
この間に、今の絆が結ばれたらしい。
実は、1年間の合宿実習は技術系だけ。
事務系は2ヵ月ばかり同じ合宿をし、その後、各工場に別れて1ヵ月「計算実習」と称する事務の見習いをし、すぐ正式配属になった。そんな訳で、この会で、いろいろな事情があるものの、欠席は事務系に多い。事務系で常時出席しているのは、私とF君・I君の三人だけ。F君は、私と2人で、一番遠方の千葉県の工場で「計算実習」した仲間だ。特別親しい。
でも、この「見習い実習」をしたのは、私たちの入社時だけではない。

もう一つの大きな点は、関西組グループのまとめ役、M君の人柄だと思う。いつもニコニコ笑顔を絶やさず、包容力が大きい。彼を中心に、関西組ががっちりまとまっていることが大きな理由だと思う。

いつまでも続いて欲しい、楽しい会合である。
実は、いつも参加し、今年の企画をたてた一員でもあるK君が、今回、急に不参加になった。奥さんの病状が思わしくないらしい。早く良くなって欲しいと祈る!


帰雲城跡

2011年04月10日 | 越し方を思う

白川郷は、今では世界遺産として、世界の各地から訪れる観光客も多い。
近年、東海北陸自動車道が貫通したので、太平洋側からも、日本海側からも、簡単に行けるようになった。
しかし、一昔前までは、正に人影少ない「秘境」であった。
戦国期以前は、北陸側からの道の方がまだしも開け、美濃地方からは行き来すら困難であったらしい。
そんな地を支配していた領主がいた。内ヶ島氏。その居城が帰雲(かえりくも)城。

東日本大震災の余震が続く中、長野・飛騨地区でも、昨夜は驚いたことに九州地方へも飛び火して、地震が続く。
日本列島、揺れに揺れている感じがする。
しかし、歴史をひも解いてみると、昔から日本列島の各所で大小の地震がひっきりなしに続いている。
そういう地盤の上に乗っているのだから、やむを得ないことなのだろう。

白川郷にも、昔、大きな地震が起きている。その時、帰雲城はこの世から姿を消した。
天正十三年、時の城主は、内ヶ島兵庫頭氏理。
十一月二十九日、世にいう天正大地震が勃発、城のある山が大きく地滑りし、城主ともども城、さらに麓にある民家も巻き込んで、全て地の底へ埋没させた。
内ヶ島氏は、石高こそ少なかったが、その領地に上質な金鉱を持ち、その蔵には金の延べ棒が高く積み込まれていたという。
この地震で、内ヶ島氏の血脈は絶え、ただ、埋没金伝説のみが残っている。

帰雲城の跡地は、実は特定されていない。実際にどこに城があったのか、定かではないらしい。
三か所ほどの推定地がある。
パソコン画を描き始めた頃、この地を訪れ、景色を描いてみたことがある。
下手な絵だが、山崩れの跡がくっきり描かれている。
ここが、帰雲城埋没の推定地の一つだそうだ。

  
山肌が抉り取られている、帰雲城の埋没金伝説の一推定地(パソコン画)

旅行ブームの中、白川郷を訪れる人たちで、どれだけの人が帰雲城のことをご存じだろうか。
また、白川郷と少し場所が離れているので、観光バスも素通りするケースが少なくないようだ。
そこで、帰雲城とその埋没金伝説について、ショート・ショート形式の小説仕立てで、次に紹介させて頂く。


                                    埋没金伝説
    
 崩れた跡が今も鮮やかな山の前に、私はもうかなり前から立っている。日も暮れかかってきた。人影はまった                く見られない。崩れた跡は、小さな川を隔てて、すぐ目の前だ。
 「ここにたくさんの金の延べ棒が埋まっているのか。」 
 

 この地には戦国大名、内が島氏の城があった。 
 
城の名は「帰雲(かえりくも)城」。優雅な名だ。杜甫の詩「返照」という詩の一節「返照入江翻石壁 帰雲擁樹失山村」から取られたと言う。    

 この辺りは山また山で、内が島氏の石高も多くはなかったが、その内懐はかなり豊かであった。 
 
と言うのも、実はこの地には金を産出する鉱脈があったからだ。お城の倉には、金の延べ棒が積み重ねてあったそうだ。                                              

 天正十三年十一月二十九日、関白・豊臣秀吉の頃である。 
 
北陸から東海にかけて大地震が発生した。世に言う、天正の大地震。

 突如として崩れ落ちた山崩れで、城内に貯えていた金の延べ棒が、城や城下の周辺にあった数百戸の集落と共に、ことごとく埋没したと伝えられている。
 
埋没金伝説である。今も、埋没金を探すことに一生をかけている人が何人もいると言う。

  突然、雨が降り出した。当りは薄暗く、皆おぼろげだ。と、向こうの方から、蓑をつけた年老いた農夫が、鍬を肩に、こちらへ走ってくる。
 「助けてくれ。わしの息子と嫁と孫が埋まってしまった。一番年寄りのわしだけが残ってしまった。」 

 ハッと目が覚めた。立ったまま、うとうとしていたらしい。あたりは、もう真っ暗だ。金の延べ棒だけじゃない、多くの若者や働き盛りの者たちがこの中に埋まっている。子供も母親も、お爺さんやお婆さんたちも・・。 

 埋没金という金隗の光に眼を奪われていた私の醜い心の闇に触れたような気がして、私はじっとりと脂汗に塗れた。                                                                        


どんびき岩

2011年02月04日 | 越し方を思う

高校生の頃、クラブ活動の一つ、方言研究会の一員であった。
その頃に読んだ「遠野物語」を、今、また読んでいる。懐かしく、面白い。

「遠野物語」は柳田国男が明治43(1910)年に発表し、わが国の民俗学の原点になった著作である。
丁度、百年前に書かれたものだ。
岩手県遠野町(現遠野市)の遠野盆地から遠野街道にまつわるいろいろな民話を収録し、編集したものである。
神・天狗・河童・座敷童子などの話やマヨイガ(迷い家)・山人・神隠しの話が、次々と出て来る。
例えば
「四五 猿の経立はよく人に似て、女色を好み里の婦人を盗み去ること多し。松脂を毛に塗り砂をその上につけておるゆゑ、毛皮は鎧のごとく鉄砲の弾も通らず」
「一一三 和野にジョウヅカ森という所あり。象を埋めし場所なりといえり。ここだけには地震なしとて、近辺にては地震の折はジョウヅカ森へ逃げよと昔より言い伝えたり。これは確かに人を埋めたる墓なり。塚のめぐりには堀あり。塚の上には石あり。これを掘れば祟りありといふ」
など。
「遠野物語」に119話、「遠野物語拾遺」に229話収録されている。
長閑な、しかし普段の気候・食料など生活環境に恵まれたとは言えないであろう山村に住む人たちの素朴で、暖かな心根がほんわりと伝わって来るような話が続く。

テレビを点けながら読んでいると、丁度、植村花菜の歌う、今ブレイク中の「トイレの神様」の歌が流れて来た。
一緒に住んだおばあちゃんとの思い出を切なく歌い上げている。

もう60~70年前、よく一人で、また妹を連れて、遊びに行った祖父・祖母のことを思い出した。
私は、岐阜の山奥の小さな町に住み、母方のおじいちゃん・おばあちゃんは、その一里半か二里離れた田舎に住んでいた。
春休み、夏休みなど、いつも舗装のしてない、埃の立つ田舎道を歩いて、一泊か二泊で遊びに行ったものだ。
家の裏手に、川が流れている。長良川の支流の吉田川だ。川幅はそんなに広くない。小さな淵があった。
おじいちゃんは、行くと、小さな竹竿に糸と釣り針を付け、近くの畔川で餌にする虫を取ってくれた。
さっそく釣りに行くと、畑仕事の隙をぬって、「釣れたか?」と見に来てくれたものだ。
おばあちゃんが、おにぎりなどを持って来てくれたことも、しばしばであった。


おじいちゃん・おばあちゃんの家へ行くのは、細く長い一本道だ。
時に、トラックが土ぼこりを上げて走った。その時は、車に巻き込まれないように注意しながら、じっと道の隅に立ってやり過ごした。
歩いて行くと、途中に大きな岩が張り出しており、道はその岩を避けて、ぐるりと周りを一回りして続いていた。
「どんびき岩」だ。「どんびき」とは、この地方でガマガエルのことを言う。
この岩を回り切ると、もう向こうにおじいちゃん・おばあちゃんの家が見える。
ところが、日が暮れかかると、この岩の裏から、天狗が出て来て、子供をさらうことがあると言う。
この岩の前を通るのが、恐ろしかった。
回り切ると、いつも一目散に、おじいちゃん・おばあちゃんの家へ突っ走った。
懐かしい思い出である。

祖父・祖母に会うことができなくなって、もう久しい。母や父も、今はもうこの世にいない。
気がつくと、私も、もう70幾つになった。
この道も、今では拡幅され、舗装され、「せせらぎ街道」という優雅な名前も付けられて、観光道路化している。
名古屋・岐阜の方から「せせらぎ街道」を通って、高山へ行く人たちで賑やかである。
「どんびき岩」も打ち壊され、道も真っすぐ通って、どの辺だったかすら、はっきりしない。

心より金が大事になってしまった現代、日本中どこもここも同じように画一化されてしまいつつある現代。
古くから伝わる素朴な、日本人の原点とも言える民話の世界をもっと大切に後世に伝えて行きたい、いかねばならないと思う。
そう思って、手元にある「美並村史」(現岐阜県郡上市美並町)と「和良村史」(現岐阜県郡上市和良町)を持ち出してみた。
その両方に、精粗の差はあるが、その地に伝わる民謡や伝説、そして民話が収録されていた。少し嬉しく思った。
それぞれの地域で、伝承を伝える古老がおられる間に、もっと大切に保存して欲しいと思う。
ところで、「どんびき岩」の話は、どこかに保存されているのだろうか?


伊吹おろし

2011年01月17日 | 越し方を思う

今日は阪神・淡路大震災のあった日。
昨日(1月16日)来の雪で、名古屋は一面の雪景色に包まれている。道路にも7~8センチの雪が積もっている。
近来まれな大雪である。
最近の気象は、なんだか激しいなと思う。
朝、通勤で道行く人たちも、慣れない積雪に足を取られ、すべりながら歩いている。

もし転んで骨折でもしたら、自分だけでなく、家族にも迷惑をかけるからと、私は昨日来、わが家で禁足令が出され、一日中家にくすぶっている。
仕方なく、本を読んだり、パソコンをなぶったり、時に家事の手伝いをして過ごす。
もっとも家事の手伝いについては、かえって手足まといだと敬遠されている面も大きいが・・・。
今日はもう雪も消え、自転車にも乗れるだろうと思っていたが、朝起きて見ると、今日も一日動けそうもない。

伊吹下ろしの寒風が雪を運んで来たのであろう。

伊吹おろしは厳しいが、伊吹山は周辺の誰からも親しまれている名山である。
滋賀県と岐阜県の県境に独立峰として1377mのゆったりとした姿を見せている。
頂上まで自動車で登る道が通じているので、誰でも気楽に登ることができる。
そして、頂上を巡る遊歩道が気持よい。珍しい高山植物の花も可憐である。
冬はスキー場として賑わう。

伊吹山は古来からの霊峰でもある。
日本武尊が東征の帰りに、儚くなった地であるし、「伊吹百草」という薬草が育つ山としても知られている。
その麓には、古来三関の一つである不破関が置かれ、壬申の乱や関ヶ原の戦など、幾度となく天下分け目の戦が繰り広げられた地でもある。

伊吹おろしの風は強く、寒さは厳しい。
しかしその厳しさを少し耐えれば、すぐに暖かな春がやって来ると、多くの人たちは伊吹おろしを毛嫌いしてはいないと思う。。
冬来りなば春遠からじと、そんな目で伊吹おろしを見ていると言っていいかも知れない。

私の母校の前身の一つは「旧制第八高等学校」である。
その寮歌に「伊吹おろし」がある。
私たちの時代には「新制名古屋大学」となり、第八高等学校はその教養部となっていたが、寮生たちの間では、よく「伊吹おろし」が歌われていた。
私もよく歌ったものである。

窓越しにまだ降り続ける雪を見ながら、思わず久し振りに寮歌「伊吹おろし」を口ずさんでいた。


伊吹おろしの  雪消えて
木曽の流れに  囁(ささや)けば
光に満てる  国原(くにはら)の
春永劫(えいごう)に  薫(かおる)かな

この1月27日には、大学同期の有志による新年昼食会を行うことになっている。 

 


二心三則

2010年12月31日 | 越し方を思う

前々稿「創造力と集中力」を書いていて、「二心三則」のことを思い出した。30年前の話である。
昭和56(1981)年、私は、新設されたが業績が上がらず苦戦していた婦人服部の部長を拝命した。
最年少の部長だった。
スタッフと一緒になって、この部門の建て直しに成功したことが、以後の会社人生で、ずっと新規事業の開発や不振事業の建て直しの仕事を中心に受け持つことになり、「建て直し屋」と評価されることになった出発点であった。
その結果、苦しいけれど、やり甲斐がある会社人生を送ることができた。
長い会社人生の中で、最も思い出深い仕事の一つである。

当時、会社はユニフォーム・学生服、それに紳士スーツの生地や原糸の生産販売が中心で、好業績を上げていた。
いずれも流行に流されることが少なく、品質本位の商品である。伝統がものを言う。
しかし、婦人服は流行の最先端を行く商品。商品の質が違う。苦戦するのも当然であったかも知れない。
私はこの辺りに再建の糸口があるように考えた。

当時、月に一回、部長・工場長会議という会合があった。各部門の方針と結果を発表・報告する会である。
私は、その最初に出席した会議で、次のように発言した。
「人の意識に訴える商品・仕事ほど、意識の変化=流行に敏感です。その最たるものがタレント稼業です。
 どんなに実力があっても人気がなければ、場末の安ステージで、安い出演料しか貰えません。
 人気がでても、実力がなければ、一曲だけで埋もれてしまいます。
 人気があってこそ、つくる商品は値が取れます。実力があってこそ、何年間もコンスタントにヒットを続けられます。
 婦人服の仕事は、タレント稼業に類似していると思います。
 かっての百恵ちゃんや聖子ちゃんのような息の長いタレントになりたい、これが婦人服部の目標です。」

そして、部内では、次のようなことを話し合った。
「われわれの会社は、規模が大きいだけに、企画についても、生産についても、小回りが利かないと言われ、私たちもそれを当然のことと
 受け止めてはいないだろうか。これは間違っている。大きな規模であるだけに、
 *企画については、常にファッション・リーダーであらねばならぬ。
    なぜなら、設備の幅と奥行きの大きさ、恵まれた環境、人材の豊富さ。この強みを充分活かせる。
    できないのは、自分の研究不足と知ろう。
 *生産については、どこよりも多品種合理的生産のできるメーカーであらねばならぬ。
    なぜなら、設備の幅と奥行きの深さ、協力メーカーの多さ。迅速・小回り・ダイナミックな動きができて当然ではないか。
    できないのは、自分の努力不足と知ろう。
 そして、『企画の迅速性』・『生産の小回り性』を重視し、『変化に対する適応力』を高めよう」。

その実践のために作ったのが「二心三則」であった。次のとおりである。
        二心  好奇心
         冒険心
    三則  失敗を支持する
 (挑戦=チャレンジの精神)         
         足で稼ぐ
 (行動の重視)
         約束を守る (顧客の信頼)

好奇心は、何にでも注目し、常に目を光らせる姿勢。冒険心は、とにかくやって見るチャレンジの姿勢。
そして、失敗を支持するは、新しいことを試みて失敗しても、問題にはしない、向う傷は問わないということ。むしろ、その勇気を互いに称えるということ。足で稼ぐは言うまでもなく、とにかく現場を大切にするということ。約束を守るは、お客様第一主義を貫くこと。

6年間の婦人服部での成果は、いささか自慢めいて恐縮であるが、景気の変動に関わらず、6年間ずっと右肩上がり、完全黒字部門になった。
こんなことがあった。
韓国のサムスン(三星)グループの基幹企業で、現在でも元気がいい「第一毛織」という会社がある。
そこの幹部が、業界紙に載った「二心三則」の記事に興味を持ち、是非、話を聞かせて欲しいと、繊維関係のある国際機関を通じて、要請があった。
韓国で開催される国際展示会への出展視察を兼ねて、韓国を訪れたおり、幹部5~6名と話し合った。「二心三則」も含めて、仕事の仕方・あり方についてである。
その時、韓国のビジネスマンの勉強と仕事に対する真剣さに恐怖に似た驚きを感じたことを、今でも鮮やかに思い出す。
現代の韓国の眼を見張る発展ぶりもむべなるかなと思った次第である。

今日は、大晦日。そのあわただしさの中で、暇を見つけて、これを書きました。
皆様、良いお年を迎えられますように!   

 

 

 

 

 


一日町長

2010年04月10日 | 越し方を思う
  「春の全国交通安全運動」が実施されている。その一環として、オリンピック参加者、タレントや可愛いペンギンなどが一日署長に任命され、タスキをかけて交通安全運動に協力している姿が、テレビで報道されている。

  それを見て、思い出した。おそらく、それが「一日○○」のはしりだったのであろう。敗戦後まだ数年、私が「中学三年生」の頃だったと思う。今、75歳だから60年ほど昔の話だ。任命されて「一日町長」を勤めたことがあった。
  その日、町の中のいろいろな事業所の多くに同じ学年の友人たちが「一日署長」や「一日所長」に任命された。新しい役所の仕事をアピールする行事だったのであろうか。
  どんなことをしたのか、ほとんど覚えてはいないが、一つだけ、今でも強烈に印象に残っている事がある。それは、確か「一日地方事務所長」になったY・S君から電話がかかり、その受け答えにしどろもどろになったことだ。
  今では想像もつかないことであるが、当時は、電話などというものは一般家庭には無縁のものであった。個人の家に電話がある家など、ほんの数えるほどだった。わが家には、父親が電力会社の所長をしていた関係で、緊急用の業務電話があった。しかし、事業所とつながるだけで、一般電話ではない。電話機を見たことはあるものの使ったことはなかった。
  それでも、番号をダイヤルし、耳と口に合わせて受話器をとり、話ができることは知っていた。そんな程度でも、友達の中では、まだ電話を知っている方だったと思う。使い方を全く知らないものも多かった筈だ。そんな程度の普及率だった。
  Y・S君は、今ではその町の総合病院の、確か現役は引退し、名誉理事長になっていると思う。当時は、お父さんが大きな内科病院を経営しておられたので、自宅にも電話があった。本物の所長に進められて、「一日町長」へ仕事の電話をしてきたのだ。私は、本物の町長に教えられて、受話器を取り上げ耳と口に合わせたものの、聞き取りにくく、雑音も多く、話が相手に伝わっているかどうかもよく分からず、顔を合わせないで話す難しさに、どっと冷や汗をかいた。
  今でも、時にその夢をみて、ハッとすることがある。

  昨今は、小さな子供まで一人ずつ携帯電話を持ち、何処からでも誰とでも、何時でも話ができる世の中になった。正に隔世の感がある。情報過多とさえ言われる時代である。
  しかし、あの頃に比べて一人一人は何か孤立化し、家庭、近隣、地域、職場、どれをとっても連帯感に乏しい、味気ない世の中になってしまった。
  あれこれ思うことも多いが、一言で言ってしまえば、これも現代の大きな危機の一つであると思う。

幸せに満たされた日

2010年02月11日 | 越し方を思う

 昨日、K・Sさんがわが家を訪ねてくれた。年賀状を整理しながら、無性に合いたくなったとのこと。電話があり「合いたいね。何時でも良いよ」と言うと、翌日、直ぐに訪ねてくれたのである。K・Sさんは、会社の取引業者さん。中小企業ではあるが、立派な社長さんである。確か、前にも一度、別の人と二人連れで訪ねてくれたことがある筈。そう思って日記を見ると三年半前。会社を引退して、もう7~8年経つ。今では、会社や仕事に対して、何の力もないし、何の影響力も無い。今や、完全な「横丁の隠居」。そんな私を懐かしがって訪ねてくれる。嬉しかった。お土産を持参し、馴染みの料理屋さんでご馳走してくれながら、「あの頃は、一番楽しく、その上効率の良い仕事ができました。今は、世の中も、仕事も、酷いですよ」と話してくれる。私が初聞きのこともある。「え、そうだったの。なるほど・・・」。色々な懐かしく、楽しい話を聞きながら、心の中で、当時の私の仕事振りを振り返って見た。厳しい上司だったろうな。取引先に対しても、きつかっただろうな。でも、真剣に、一生懸命、仕事をする人たちへは、暖かい目を持っていたと思う。全体的には、厳しい仕事振りだったろうな。でも、こうして懐かしがって訪ねてくれる。私は幸せ者だな。 
  寒い夜空、楽しく暖かな雰囲気に包まれ、肩を並べて歩いて、わが家まで送って貰って、別れた。
 
 家内に、少しばかり自慢げに、そんなこんなを話していると、突然、電話がなった。もう、十時である。何だろう、何か悪い知らせでもと心配しながら、受話器を取ると、少し酒の入った男性の声が聞える。声が大きいので、よく聞き取れない。「もしもし、だれ?」「僕ですよ。H・Oですよ」「ああ、H・O君!」先日、部長に昇格し、電話をくれたH・O君である。「今日、東京へ赴任しました。今、新しい部で歓迎会をして貰っているんです。実は、あなたの名前を出したんです。そうしたら、同席しているIさん、Sさんが『私たちも良く知っています。随分、お世話になったんですよ』って言うんです。そして、皆で電話をしようと言うことになったんです。夜、遅くなって済みません」さあ、それからはIさん、Sさんと次々と交代しながら電話が続いた。皆な元気でやっているんだな。嬉しくなった。電話は何時までも続く。  
 
 老いるということは、淋しいことである。友達は、少しずつ、確実に減って行く。新しくできることは、滅多に無い。色々な知らせは、何か淋しいことの方が多い。必然、気持は暗く、衰えてくる。そんな日が多くなる。 ところが、今日という日は何と幸せな、ハッピーな日だったろう。嬉しかった。真剣に、正直に、一生懸命、仕事をしてきたことが、本当に良かったな、と心底思えた日であった。明るく、楽しく、前向きに歩もう、という勇気を与えられた日であった。