下北沢ムジナ通信社

「アート&文学」よもやま話。シモキタの路地裏系ネタ話、知られざるアーティスト発掘、再開発計画阻止とか。

■下北沢再開発。開かれていなかったシンポジュウム

2011年08月29日 | 日記


下北沢再開発についてのシンポジュウム

■8月28日(日曜日)、下北沢再開発についてのシンポジュウムに行ってきました。
「区長とともに考える シモキタらしい駅前広場と街づくり」
住民参加型の行政を掲げて当選した保坂展人区長も登場という、ある意味では画期的なタウンミーティングです。
アレイホールという北口の横浜銀行向かいのスペースに、ぎっしりと参加者が集まり、立ち見も出るという盛況ぶり。いかに「下北沢再開発」問題が、内外の関心を集めているのかが伺えます。

●参加者は、保坂展人(世田谷区長)、柏雅康(しもきた商店街振興組合理事長)、服部圭郎(明治学院大学経済学部教授)、大友良英(ミュージシャン)
●下北沢再開発問題とは
<http://www.stsk.net/situation/index.html
/a>
●保坂展人のどこどこ日記
http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/

いささか失望の内容。閉じられたディスカッション

■北口勢力と南口勢力との微妙な対立などがあって、これ自体はよくある町の勢力図的な問題として面白かったのですが、パネラーたちの意見を聞いていくにつれ、次第に何かストレスのようなものがたまってきました。

■司会者、パネラーの口からは、「開かれたラウンドテーブル」的なディスカッション、ミーティングなどという言葉が飛び交うものの、結局、最後の最後まで、この集会には当日会場参加者の「質疑応答」時間が設けられてなかったのです。これはかなり意外な構成でした。


マイクを持って話す保坂展人世田谷区長

何か月か前に行った、「新区長に区民の意見を届けるための『下北沢の道路計画と駅前広場計画についてのアンケート』の結果報告――はいいのですが、その結果を会場で報告するだけで、会場参加者からの生の「意見」「質疑応答」の時間はまるで設定しないというのは、じつに不思議な構成です。
参加者は、皆、それなりに下北沢の今後に関心があり、現状がどうなっているか、すでに変えられてしまった部分、とりかえしのつかない部分とは何なのか、いまだ(再開発計画で)可変的ではない部分はどこか、どのように計画を変更していけるのか、その辺のアウトラインを、聞きたいのです。質疑することで、ライブで再確認したいのです。

■世田谷区から「市民=行政」という、何か革新的な行政のスタイルがモデルケースとして生み出されるのではないかという機運がある中、その盛り上がりに鈍感なまま、「雛壇に並ぶパネラー+大人しい観客」という、あいかわらず変わり映えのしない、ありふれた日本のタウンミーティング風景がひろがっているだけ……というのは、あまりにも虚しすぎます。

聞けば聞くほど「まったくやらない方がいい再開発」。
しかし結論はいつのまにか、「どのような再開発をやるべきか」??


■前半で服部圭郎氏により詳細に説明されたのは、「下北沢の魅力とは何か」。「下北沢で残すべきもの」。路地の魅力、小さな店舗の町並み、雑多な文化……よくいわれていることであり、これには異論はありません。
しかし聞けば聞くほど「まったく再開発しない方がよいのではないか」と思わざるをえないのです。ただし、シモキタボイスによる市民アンケート調査用紙からは、いつのまにか「白紙撤回」という選択肢は消去されていて、補助54号線の開発工事は「いますぐには必要がない」という項目から始まっています。「工事は中止」の項目はあらかじめ消されていて、「いますぐには必要がない」から始まっている奇妙な項目群。
これは、巧妙な「仕掛け」ではないでしょうか。論理のすり替えではないでしょうか。一体、何に気を使っているのでしょう。

司会進行にも問題あり。そつなくまとめるだけでは時代遅れ

■司会進行者(弁護士らしい)は、区長を呼び出すのが精一杯で、何とかそつなくまとめようとしているところだけが目立ち、パネラーと参加した市民相互の双方向のコミュニケーションという可能性を、まったく考慮していないようでした。

自民党の密室政治、そして民主党の菅直人政権の脆弱ぶりへの苛立ちから、国民、市民は、自分たちで何とかしなければ、この生活圏そのものが崩壊するという危機感の中で生きています。そのような時代において、いままでとまったく同じような「雛壇に並ぶパネラー+大人しい観客」をそつなく演技的に、優等生的にまとめるだけでは、市民の意志を反映させているとはいえないと考えます。

■好意的に考えれば、今回の「区長とともに考える シモキタらしい駅前広場と街づくり」は、以前のような行政主宰のミーティングではないのであり、世田谷区長をこの場に呼び出すのことだけでも精一杯なので、そこを評価しろ、ということかも知れません。

むろん、私もそれは、大いに評価されるべきだと思います。
また、参加した保坂区長も、先代のいかにも官僚的な熊本区長に比べれば、はるかに市民・区民の側に立った首長だといえるでしょう。それだけに、一般からの期待も大きいのです。

それはしかし、区民や都民に限りません。地方の知人友人などからも、下北沢再開発、および世田谷行政の改革に対する関心の強さを、ひしひしと今感じるのです。おそらくは、それだけいまの菅直人政権への嫌悪感と、閉塞感が強いのでしょう。
保坂世田谷行政への注目は、その反動だと思います。これは一種の「国政」なのです。

■しかしながら、保坂区長は、この会の直前に、ある新聞の取材を受け「(再開発計画を)白紙撤回するとはいっていない」と答えたといいます。これも問題です。彼は4月の選挙のときは、まるで白紙撤回もありうるかのような演説をしていなかったでしょうか。それとも「白紙撤回」のことをいっているのだと深読みし、勘違いした区民こそが、ナイーブすぎる馬鹿だということでしょうか。
確かに、われわれはいつも「自業自得」なのです。

……またか。
という失望感に襲われます。
この何ともいえない、何ともいえない、嫌ァ~な、無力感。
選挙のときだけ疑似餌が釣り下げられるマニフェスト詐欺は、さらに微妙に、巧妙になり、より洗練を加えた一種の「文化」にまで高められつつつあるのかも知れません。

原発問題と、かな~り、イメージがオーバーラップしてきます。
これは、ブラックジョークでしょうか。

かつては菅直人もまた、市民運動家ふうの演技をしていました。
薬害エイズ事件の頃は、それが何とか様になっていました。
しかし、保坂展人氏は、保坂直人氏になって欲しくないのです。

■「下北沢再開発問題」とは、日本人がどのような「町」つまり生存権、生存空間を確保していくかという問題です。これまでのような大企業による大量生産・大量消費・巨大道路・高層ビルに圧倒され、都市に疎外されながら、干涸らびた内面を抱えながら、毎年3万人の自殺者を出すような風潮を維持し続けるのか、もっと呼吸困難に陥らない自由な生活環境を創造しうるのか、という問題です。

■今後のモデルケースになるかも知れない世田谷行政だからこそ、やはりこれまでとは違った新たなシンポジュウム、タウン・ミーティングのスタイルの創造が、掛け声だけではなく、切実に必要なのではないかと思います。
「再開発」されるべきは、行政と市民の関係構造です。

<http://www.stsk.net//a>