~under the pretense of patriotism~
「愛国心」とはいったい誰の為にある言葉なんだろう。
その言葉を用いる事によっていったい誰の為になるのだろうか。
その国を指揮している大統領や総理大臣、政治家、権力者、
国の代表として選ばれている人達に
国を愛するという心が本当にあるのだろうか。
我々一国民が国の為と思って行う事は、
その「国」に返ってくる事だが、
彼等が国の為と言い張って行う行為には、
ごく一部の人達のためでしかないのである。
その一部の人というのが、身体障害者であったり、
自業自得以外のなんらかの理由で困っている一部の人なら
納得は出来るだろうが、
彼等の中の大半が、彼等自身のみを「国」だと思っているようでならない。
結局のところ「金」である。
全ての政治家達を批判するつもりはない。
確かに政治家はなくてはならないものだと思う。
だからこそ我々一人一人が選ぶ必要があり、
選ぶ権利を持っているのである。
しかし、彼等にとって都合の悪い事に関しては、
彼等にしか決める権利がないのが現実なのだ。
彼等がその地位を守るためには、
この国の事、国民の事などどうでも良いのである。
結局のところ「愛国心」とはただの都合のいい言葉なのではないか。
彼等にとって都合のいい、
国民を動かすための台詞なのではないか。
国にとって重要な事を決める「国会」という場で、
居眠りをしている人がいる。
それを平気で見ている人がいる。
ならなぜその人はその場に存在しているのか。
なにもする事がないのなら
その大切な場にはいる必要もないのだ。
「選ぶ権利」を持っているはずの我々も、見るからな悪を不必要だ
と選ぶ権利は、持っているように思えても
その決定権は彼等にあるのである。
その決定権を持っている彼等には、我々の一万人分の意見も通らない。
そうゆう仕組みがいつまでまかり通るんだろう。
せめて、選挙演説で国民に約束した事には誓約書でも書いてもらいたい。
その言葉を信じて投票する国民に対して、
せめてもの覚悟を示して欲しいと思う。
確実な証拠があって有罪判決をうけた政治家にも
「懲戒解雇」という当たり前の制裁が中々出来ない彼等にも、
自らの誓約書に基づいて、国民が判決を下せるようになれば、
いったい今の彼等の何割が国会からいなくなるだろう。
そんな事は、彼等も我々も含めて誰もが分かっている事のように思えるのだが。
そんな彼等に「愛国心」を問われ、国の為にと戦争を強いられるのだ。
そして「国」の為にと死んでいく。
そんな人達の事を本当のところ彼等はどう思っているのだろうか。
「誠に遺憾である」と平然な顔で言うのだろうか。